吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

韓国旅の風景 八十七

2006年06月30日 15時31分16秒 | Weblog
韓国旅の風景 八十七                          

 日本で言えば飛鳥村の住民で定年退職をした数人の老人逹が飛鳥寺の仏像の前で過去の歴史を忍んでいる…そんな感じだった。三人の老人がおそろいの白いバジチョゴリに中折れ帽子をかぶりステッキを傍らに腰掛けて談笑していた。
 百花岩への道は緩い勾配の松林続きだった。その昔百濟の王城のあった扶蘇山の松林を上り詰めると西側に百花岩が風流な百花亭があって断崖を見下ろしていた。       見下ろす白馬江は黄泥色をしている。
 こんな泥の川ではなくせめて澄んだ色だったら身を投げた官女逹も気持ちが少しはととのったと思った。にしても百濟王の義慈王はその名に反してよりすぐりの美女、数千人を宮殿に…と言われているがはたしてそうなのか、単位が大袈裟すぎる話である。
 ふとこんどの太平洋戦争で沖縄本島南部に上陸した米軍に追い詰められた無辜(むこ…罪のない)の住民が断崖から次々に海に飛び込むシーンを思った。近代戦争と異なって火炎放射機や機関銃、爆弾、などの武器はないが新羅(シンラ)が百濟(ペッチェ)を攻めたのは弓と刀と人力だった。
 私のバッグには『官女三千人入水の図』や『扶蘇山風景』写真の絵葉書がはいっている。 ここへくる途中でたった一人絵葉書束をかかえて売るチマチョゴリ姿のアジェモニーから買ったものだ。
 亭から五十米ほどの急峻な坂をくだると、有名な皐蘭寺(フランサ)がある。この寺の裏に泉が湧いていて、百濟王がそれを愛飲して官女に毎日、水汲みを命じた所、急峻な坂道を嫌ってなかにはほかの水でごまかす女もでたので、王は水汲みの都度、そこにしか生えない皐蘭草を水の上に浮かばせさせたとのエピソードがある。
 以前はこの湧き水も柄杓で自由に飲めたらしいが、今はちゃっかり効能を説明する老人がいて、一杯二百ウオンと有料になっていた。
 遠くの拡声器からの韓国民謡が耳に入った。絶壁を降りた船着き場に観光屋形船がエンジンをかけたまま、壊れたような音をだす拡声器から民謡を流していた。 

韓国旅の風景 八十六

2006年06月29日 12時16分09秒 | Weblog
韓国旅の風景 八十六                          

 韓国の食べ物 その十二
 論山駅前
 駅前風景はそこが韓国であろうが日本であろうがその地方の人々が往来し、地方独自の土地の匂を感じるので好きだ。 
 駅前には路地がある。大都市と違って地方都市にはなおさら人々の息吹を感じる路地がある。
 上りソウル行き急行列車の到着までまだ四十分ほど時間があった。
 駅前広場から少し入った所に食堂があった。通りからガラス戸の中は見えない。コーヒーでもと思って中に入った。
 中途半端な時間で客は誰もいない。アニョセヨ!と湯気の立つ窓越しに声をかけた。
 オソゥセヨ!と返事がして痩せ型のアジェモニーが顔をだした。
 ふと壁に書かれた品々のハングル文字をみて、チャプチェと書いたメニューが目に入った。チャプチェは友人のH氏と広州に行った時、街の食堂で食べたことがある。
 春雨と牛肉の細切りにタマネギ、ピーマンなどの野菜を入れて炒めたものである。日本では焼きウドンと言った料理である。
 H氏の説明だと昔は野菜のあんかけ風だったが最近は中国料理風に変わったと言った。 チャブチェは漢字で雑菜と書くように野菜をふんだんに使った料理だったが、肉類や魚肉も混ぜて炒めるようになったという。
 傍らにあったコチュジャンをスプーンで掬った時、アイグー!とアジェモニーが叫んだ。 唐辛子には自信があった私はケンチャナョ!…心配ないよ!と答えてコチュジャンをスプーンやまもりに掬って出てきたチャプチェに入れてかき回し掬って口に入れた。
 物凄い激辛が口中に広がった。アジェモニーが悲鳴をあげた理由が分った。
 口がしびれてしばらくチャプチェの味がきえたままだった。

韓国旅の風景 八十五

2006年06月28日 14時12分33秒 | Weblog
韓国旅の風景 八十五                          

 韓国の食べ物 その十一
 松の実
 韓国では街でどこでも見かける茶房(ターバン)へ行くとコーヒでなく松の実茶の注文ができる。茶というが一種のスープと言って良い。
 やや渋い色の茶に白の松の実が浮いている飲み物だ。  
 松の実は新羅時代に盛んに採って食用にした。用途もいろいろで、酒の肴がわり、朝鮮菓子、飲み物などに使われた。
 正月十五日の薬飯(ヤクパップ)を祭祀に供える行事があるがその薬飯は炊き込んだ飯にナツメ、栗、胡麻、醤油、を混ぜ合わせ松の実を入れて再び蒸して作る。
 またその日は朝、クルミ、銀杏、生栗、松の実などをぽりぽり齧って…今年も無事で腫れ物ができませんように…と祈る習慣が農村にある。また宮廷料理にもでてくるが、九月九日の花菜(ファチェ)にも蜂蜜を解いた水に、ユズ、ザクロ、松の実などを入れてこれも祭祀の供えものにする。
 また風邪予防に十一月には、干し柿を煮た汁にショウガと松のミを入れたのを飲む。
 菓子やバンのおもてに松の実をまぶすことがよくあるが韓国はじつに松の実を使ったものが多い。
 松の実は滋養強壮、疲労回復、いまで言えば栄養ドリンクの効果がある食材でふるくから愛用され日本や中国にも伝わっていった。
 松の実は柏子(ペクチャ)と言いベクチャは百子とも書くから健康食もさる事ながら男の子の誕生を願う縁起のたべものでもある。

韓国旅の風景 八十四

2006年06月28日 09時24分06秒 | Weblog
韓国旅の風景 八十四                          

 韓国の食べ物 その十
 ヨモギ
 三十年前に初めて韓国のサウナに入って感心したのはふつうのサウナとは別に蒸気が吹き出すヨモギサウナがあった事だ。鼻をつくヨモギの香り自体が全身に染み込んで疲れが吹き飛んでしまった感じがした。壁にヨモギ束がぎっしりとつり下げている。
 韓国とヨモギはニンニクとともに古代神話から関係が深い。
 『檀君神話』である。天帝の庶子、桓雄(ファヌン)が洞窟に棲む熊と虎の二頭から人間になりたいと頼まれた。
 桓雄はヨモギ一束とニンニク二十ケを与え、これを食べて百日間日光をみなければ人間になれる…と告げた。熊は二十一日まで我慢をしてやっと女の人間になれたが虎は我慢できずにとびだした。
 熊女は子がほしいと必死に神樹のしたで祈った。そこで桓雄は熊女と結婚し、やがて子が生まれた。その子の名を檀君王倹とし朝鮮建国の祖となった。
 韓国人ならだれもが知ってる建国神話である。
 日本の別名は蓬莱というが(ヨモギの茂った草地)野草のなかでもっとも親しまれ食べられてきたものである。
 ヨモギと言えば子供の頃によく食べたヨモギ餅をすぐ頭に浮かべる。
 韓国でも古く三国時代から文献にヨモギが食べ物として登場してくる。古来からのヨモギ信仰に加え、毒気を払うのでヨモギで入り口を飾る習慣もある。
 ヨモギを使った餅と行事では、三月の環餅(五色餅)五月の車輪餅(丸い木型に押して作る)十月の艾湯(ウエタン)…艾はヨモギの事。艾団子…ヨモギ団子に蜂蜜をつけて黄粉をまぶす。
 日本のヨモギ餅の初見は十五世紀とされるから韓国はヨモギ餅では先輩国となる。

韓国旅の風景 八十三

2006年06月27日 15時18分03秒 | Weblog
韓国旅の風景 八十三                          

 韓国の食べ物 その九
 朝鮮柿
 市場の片隅にゴザを敷いて冬になると農村からやってきた老婆が干し柿の山盛りに千ウオンの張り紙をして売っている。
 日本でも私の田舎の土佐の山奥のでは堅いしなびた小さな干し柿しかとれないが東北の本場へ行くと、生菓子のように柔らかく粉をふいた大きな干し柿が藁にとおしたまま売っている。
 朝鮮半島の柿は、どちらかと言えば全羅道、慶尚道のように南部に偏って産出する。
 対馬の貿易記録には朝鮮から輸入の干し柿の通関記録がのこっている。束とか貼とかの単位で柿の品種別に分けて書かれている。『八域誌』。それらの柿は甘柿か渋柿か判然としないがしぶ柿の渋は乾燥過程で飛んで甘い干し柿になったものと思う。
 市場の老婆が持参したのは、皮を剥いて乾燥したものを藁とおしをしてそのまま自然乾燥をへたものである。
 小粒で堅そうである。
 そのほかにも、焼酎を吹き掛けて密閉して置く。
 四十度くらいの湯に十数時間漬けておく。
 干し柿について面白い体験話がある。旧制中学の同級生のN君とM君が偶然北海道に帰郷する東北線の列車で一緒になった。と言ってもM君が千葉の親戚から貰った握り飯包みをほどいていざ食べようとするといきなり手が伸びて包みの握り飯の一つを鷲掴みにした。 この野郎!と振り向くと、N君が将校服のままにっこり笑って持参のバッグから干し柿を掴んでN君の前に投げつけた。
 握り飯を無断で横取りした礼のつもりだ。
 N君は朝鮮の釜山の勤務地から復員の途中で、M君は千葉の海軍陸戦隊からの復員だった。
 同級同士と分ってあとは仲直りの談笑に入ったと言う。
 M君は後であの時の干し柿は堅くて食えんかったよ!とつぶやいた。

韓国旅の風景 八十二

2006年06月27日 05時31分43秒 | Weblog
韓国旅の風景 八十二                           

 韓国の食べ物 その八
 ビビンパブはキムチと冷麺と並んで三大料理と言って良い。しかし個人的な好みからすればキムチ以外はそれほど魅力を感じないのは私の体質がまだヤマト食文化に染付けられてこの不思議な食べ物…それは栄養的に満点の優れものなのに…に拒絶反応をしめしているにほかならない。
 そもそもビビンパブとは混ぜ御飯の事である。
 昔、日本でも米の炊飯は釜を使ったものである。当然、お焦げが釜の底にこびりつく。 子供の頃、ミシン工場をやっていたわが家では女子工員のために朝、五升炊きの大釜でご飯を炊いた。
 香ばしいご飯の湯気と香りに誘われて炊事場に行くと、竈の薪は燃え尽くして星空のように竈の煤がちらちら点滅している。母はお櫃に大箆でご飯を移している。待ちどうしいお焦の香りでおなかがぐっと鳴る。
 やっと狐色のお焦がそぎとられると小さくにぎって塩をまぶして…ほんとにこの子は、ホレ!…と母は言いながら私の手に乗せる。 
 石鍋のビビンパブも同じである。色とりどりの具をかき混ぜながら鍋底にこびりついた香ばしいお焦が堪らないのだ。
 そもそもこの料理は李氏朝鮮王朝の昔、農村で副食を小皿に分けて並べる手間を省く為に、ご飯の上にごちゃごちゃ副食を盛ったものだった。
 なんでもご飯の上にするところから骨董飯となった経緯があると聞いた。
 骨董屋にはなんでもごちゃごちゃ日常の品々がおいてあるのでそう名ずけたのである。 全羅道全州(チョルラドチョンジュ)はビビンパブのメッカの地である。全羅道の北部にある道庁所在地のこのあたり一帯は韓半島の米所で慶尚道の学問の盛んな地域に比べ農業条件に恵まれた肥沃の地、そして渓谷の水が全州境界に流れ込んで昔から気候も清涼の地だった。全州を始め全羅一帯は百濟の地であり、ほかの道に比べて昔から、その性格がずるがしこいと言われ差別されてきた。しかし全州から李尚真(イサンシン)と言う宰相(議政府…首相)も出ている。
 さてビビンパブは全州最大の名物料理で韓国政府お墨付きの会館まである。
 日本の混ぜご飯に使う味付けスーブとビビンパブとでは大きな違いがある。
 牛のあばら骨を徹底的に煮込んでとったスープで炊くご飯のおいしさの秘密がそこにある。

韓国旅の風景 八十一

2006年06月26日 14時17分22秒 | Weblog
韓国旅の風景 八十一                           

 韓国の食べ物 その七
 キムチは白菜漬けの水分が二、三日すると漬物容器に上がってきてその状態から沈菜 (チムチェ)と言われたが日本から十六世紀に唐辛子が招来されるとそれを白菜漬けに使ってキムチとなったとは私説である。           
 しかし今でこそ全国量販店や食料品店の定番となったキムチも一九七八年頃野日本にはどの店にもなかった。
 たまさか観光で韓国を訪れた日本人がその魔味のとりことなって、日本のどの町にもある韓国料理店で注文するようになったが、日本の例にならって一皿、なん百円も取られる。 すでに常識となった韓国のキムチやタクアンなどは全部ただのサービス品でそればかりか私の韓国の友人が日本の食堂で味噌汁のおかわりをした所、料金を取られたと首をひねっていた。
 そのとうり、私が行く市場食堂では味噌汁は何杯お代わりしてもただだった。
 しかし二〇〇六年の今日、日本と韓国と中国でキムチ戦争が起きてしまった。
 なにしろ漬物大国の日本でキムチ消費がとどまる所をしらない人気なので、日本産、本場の韓国産、委託製造を受けた中国キムチ…コスト的に当然ながら中国にはかなわないがしかしその味となると…と言いたい所だが工夫があってそれぞれ結構なキムチとなって韓国直輸入のラベルが張ってあってもその味に首をかしげたくなるものがある。
 しかし本場の家庭のキムチをしっかり食べてきた口からするとやはり今ひとつの感じは否めない。
 キムチは様々な具と白菜との熟成がものを言うのでどの国のキムチが勝利するかを見守りたいと思う。
 十数年前の話だが私は神戸の韓国人経営の大衆料理店でレバー刺身とキムチで焼酎を飲ったことがあったがその素晴らしい味は今も口に沸いてくるようでまさに神業キムチだった。

韓国旅の風景 八十

2006年06月25日 05時33分41秒 | Weblog
韓国旅の風景 八十                           

 韓国の食べ物 その六
 韓国の俗談に面白い表現があるが私はが気にいってるのは『虎がタバコをすった頃だがナ…』で始まる言い方だ。
 人間以外に吸うことも触る事もしないタバコを…猛獣たる虎を引用する感覚が楽しい。 だいいちタバコは日本同様にコロンブスがアメリカ大陸を発見してから後のこと、とすれば李朝時代で昔といってもたかが六百年前のことである。五千年の歴史を誇る韓国では六百年前なんて昨日のことにしかならない。
 李基文(イギムン)の俗談辞典には食べ物についての俗談も多いがなかでも面白い表現…韓国らしい…を見てみる。
 ご飯を借りてきて粥をわざわざ炊いて食べる者…間抜け者。
 粥にも飯にもならない…途中でやめてしまう。
 牛が鶏を見るように鶏が牛を見るように…無関心。
 アヒルが止まり木に止まったようだ…場違い。
 鯨の争いで海老の背中が剥ける…強い者の勢力争いで弱者が犠牲に。
 腐ってもヒラメ…ヒラメは鯛より上だ。
 キュウリの種のよう…足袋を穿いた女の足の美しさ。
 黒い子犬で豚をしたてる…嘘で固める。
 カボチャが転がる…棚からぼた餅。
 梨食べて歯を磨く…一挙両得。
 傑作は、

 味噌に青唐辛子がさしこまれたよう…ひとっ所にしがみつく。
 日本人の感覚からして想像もできないユーモラスな譬えに感心した次第。

韓国旅の風景 七十九

2006年06月24日 15時30分14秒 | Weblog
韓国旅の風景 七十九                             

 韓国の食べ物 その五
 大都市ソウル市内のちょっとした繁華街には必ずと言っていいほど湯気の立つ屋台風景をみることができる。そんな店の前の客足はとだえることがない。
 立ち食いする客の大半が若い娘逹であり、その食欲ぶりは日本では見られないが肥満娘は見たこともない。
 おでん鍋からそれらしいものをとると日本ではツミレに該当するもので娘逹が手にしてるのはスンデと言う肉の腸詰である。それは黒い色なので見ただけでグロテスクに感じられ、どうしても手にできなかった。子供達も学校帰りにたちよってトッポッキという餅の甘辛煮付けの串刺しを頬張っている。
 韓国の学校給食は一日のカロリーも結構多いが育ち盛りの身体ではそれだけで足りず、おやつとしての立ち食いとなる。日本で言う大判焼き屋台もあるがインオパンと言って魚の形のやや小さめのもので甘みは少なく小判焼きもありいずれも甘みはすくない。
 友人と一緒に用事があって勤務医師の息子のマンション(日本と違って部屋が広い)へ行くと学校から戻った三年生の男の子が人気のあるカッパエビセン(セウカン)の袋を空けた。香りが漂うとエビセンだった。
 母親に訊ねると…学校給食費は一日当たり、約千二百ウオン(百二十円)のほか牛乳代が二十三円と言う。主食の御飯は玄米や糯米、麦飯などで栄養を考えた献立である。日本ても人気のハンバーグやスパゲティも時には献立にはいると言う。
 ちなみに当家の夜の献立は海鮮を主にする鮃、アイナメの刺身、貝の味噌汁、青唐辛子の炒め物、エゴマの漬物、キムチ、豆腐と蟹のチゲに麦酒となる予定である。

韓国旅の風景七十八

2006年06月23日 12時55分42秒 | Weblog
韓国旅の風景 七十八                             

 韓国の食べ物 その四
 ソウルから南へ車で約一時間も走ると利川の窯場地帯にはいる。李朝朝鮮王朝の昔からやきものの盛んな所である。
 いまでこそ窯主は作家となっているが、雑器の窯があたりに五十数ケ所もあった。
 作家というのは七五年に始まった伝承工芸展(国展)に出品する工芸家などを言う。  雑器として大皿、梅瓶、碗、壺などの調度品をつくる窯場も多く、それぞれ青磁、白磁、染付け、三島、辰砂など得意なものを焼成している。
 知人の青磁作家B氏の窯場も利川の新屯面水下里にある。広大な窯場の展示館の裏側に今も藁葺き屋根にロープを這わせた農家があり、蔡老夫婦が窯場の賄いをやっていた。
 五人の息子と娘逹は皆ソウルで働いている。
 窯場へは色々な人がおとずれてくるがなかには日本で有名な代議士などの政治家もやってくる時もあった。
 その都度田舎のこととて周囲にレストランのような気のきいた食堂はなく食事は蔡さんが用意する。
 急ぎの用事で私が午前四時にソウルを出発する時は、事前にB氏が電話しておく。   朝靄のゆっくり流れる窯場は車がなければ李朝の昔風景と変わらぬ落ち着きがあった。 朝。膳の上にならんだ小皿には、小魚の飴煮、切り干し大根の煮物、干し海苔、キムチ、カクテギ、焼き太刀魚、ワカメの味噌汁、明太子となかなか豪華である。
 蔡夫婦も同じ物を食べていると言う。
 昼。酒が全く飲めないB氏は機転をきかせて蔡さんが仕込んだマッコリルを頼んでくれた。すこし酸味があったがアルコール度数もあって結構行ける。
 小皿に並んだのは、イカと大根の煮物、トウガラシムルム(青唐辛子に粉をまぶして揚げたもの)肉饅頭入りの汁、ホウレン草のナムル、焼きサバ、プルコギなどこれもその種類は多い。
 御飯は麦入り飯だが結構これにコチュジャンをまぶして食べると食欲もでる。