吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

胡椒

2005年05月22日 11時43分03秒 | Weblog
 胡椒は桃山時代に南蛮貿易によって東南アジア各地から日本にもたらされ、やがて対馬を通じて朝鮮に入り、人々は唐辛子と同じく、その刺激におどろいたが次第に民衆に広まっていった。朝鮮王朝の第十一祖、中宗の代に三浦の乱が起こり、そのため倭人と絶和して胡椒と染料(丹木)の輸入が途絶えた。
 中宗五年(一五一〇)に次の布告がだされた。
 …倭人と絶和ニヨリ胡椒丹木ノ入ル途絶ユ。胡椒ノ食用ハ山椒ニ代ヘ丹木ニツイテハ宗廟ノ紅肖(きぎぬ)ハ明ヨリ貿ヒ、紅袱(風呂敷)ハ鴉青色ニ代ユ。
 とあり、当面、代用せざるを得なかった。ちなみに王の命令で草緑ヲ深ク染メルのを禁じている。中宗十四年には、黄袱を禁じ、紅袱を使用すべしの通達もでた。
 さて私は無類の香辛料好きであり、ある時、仁寺洞のとある食堂へ入ってモリ蕎麦を注文した。テーブルの上には芥子、唐辛子の入った大瓶が置いてある。例によってタクアン(そのまま韓国語)の山盛りがきて、蕎麦がきた。
 早速、スプーンで山盛りの唐辛子粉を三杯、汁にいれた時、小さな声でアイグーと聞こえたので視線を声のしたほうに投げると、二人の老人が驚き顔で私の仕草をみていた。
 最初からすぐそれと分かる発音で在日の僑朋か日本人と注目していたらしく、唐辛子をスプーンで山盛り三杯もやったので驚いたのだ。私は唐辛子で韓国人以上の好みぶりを認められてなぜか嬉しくなった。
 南大門の食堂でも同じ体験をして、店のアガシに悲鳴を浴びた事もある。
 韓国人は香辛料好み…と言うけどそれは真っ赤なキムチ漬のイメージが日本人にあるからだろう。
 私がふりかけた食堂の唐辛子はいわゆる激辛でなかった。

李朝実録二

2005年05月22日 08時45分35秒 | Weblog
 一に続いて祈雨について調べて見た。稲作農業民族にとって田植えの時期、降雨は絶対条件である。 実録には祈雨に関する記録は結構多いのである。
 日本と異なり、祈雨行事は古い時代の朝鮮では洞祭の繁雑な祈祷と同じく、儒教礼にもとずいて厳粛に行われる。
 太宗の十六年、蜥蜴(とかげ)ノ祈雨ヲ行ヒ、虎頭ヲ漢江ニ沈ム とある。虎は加藤清正が退治したので朝鮮にはいない…これは韓国人がよく言う比喩であるが、李朝時代には山林に棲んでいたようで李朝民画にもよく描かれている。
 しかし虎頭とは大変なことである。
 とかげを用いたのは竜が中国皇帝のシンボルだし遠慮してとかげで済ませたのかもしれない。王は古典を弁エ、旱魃ノ因ハ春ニ白骨ヲ収メザルニヨルトシ、牧場内ノ牛馬ノ骨ヲモ拾置セシムとある。 白骨ヲ収メザルは儒教礼式に背くことになる。巫ヲ集メ祈祷ヲ行ウ…。逆に各所ニ祈雨ヲ止ム…とあり、豪雨被害もあった。
 降りすぎてもまた災難、また祈晴ヲ葬ノタメ祈ルとあるがいずこも同じ葬祭には晴れがいいに決まっている。雨ヲ南方、土竜ニ祈ルは風水による竜脈にも祈ったと言うことである。
 祈りに関連して堂祭にふれてみたい。堂祭は日本の村祭りにあたるが、祭りの司祭者には条件がつく。喪主でない者、負傷。怪我のない者、家族に妊婦がいない。祭りを終えるまで婦女の不浄は避ける。生活が清潔、祭日に福のある者、などの成人男子から選ぶ。昔は牛一頭を犠牲にしたが今は肉類で代用する。一月十四日と十五日の祭りは巫女、五、六名で行い夕方には農楽隊が銅鑼、のぼり旗、長鼓で賑やかに登場する。明け方に、参加した人々は朝飯をとり、村の祭場所の広場で老若男女逹が綱渡りなどの遊戯を楽しみ飲食をする。
 日本の祭りと異なるのは、堂主に選ばれた男の禁忌の厳しさである。すなわち、夫婦は別部屋、性行為は禁止、殺生は禁じ、冷水浴、魚肉類も禁止、これが次の年に新堂主がきまるまで守られたとある。 利川の農村の堂祭で見た巫女はチマに鶴の刺繍を施し、白い鉢巻き姿で顔つきはすでに魂魄を呼び寄せる巫女特有の顔、神社のオハライと同じ意味の神木があり、堂主が使う井戸に禁縄がはられる。 実録には、婦女の婬行、女楽廃止、男楽の奨励、士族婦女の観光禁止、など厳しい反面、処女貧ナル者ニ給資助婚ス令もだされた。