吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

会賢洞の銀杏

2005年05月07日 20時22分16秒 | Weblog
世宋ホテルを出た道路の反対側にプラタナスの街路樹が続いて。道路には飲み物、たばこ
雑貨類を扱う屋台店が並び、人々の往来が絶えない。
南大門近くの手前の坂道を上ると東国大学のキャンパスに至る。
その坂道前に広場があった。そこに樹齢、数百年はあろう銀杏の大木が立っている。
パジ、チョゴリ姿の老人がぎらぎらする陽光を避け、木陰に座って悠然と煙をふかしている。そこだけがタイムトンネルとなって李朝の昔を目のあたりにすることができた。
目をつむり、喧騒をさけて手で耳を塞ぐと私の脳裏に身で押し軍の先鋒、小西行長軍が迫るざわめきが聞こえるようだった。
壬辰倭乱の伝承話である。
小西は家来に命じてその辺りの様子を探らせたが、李朝軍の気配がなく、大銀杏の下に一人の兵士が立っているだけだった。
しかしうっかり攻撃をかけると、大軍が押し寄せるだろうと思案した偵察兵士は小西への報告が遅れ、その間に加藤清正軍に一番乗りの功を取られてしまう。
立腹した小西は入場するとその銀杏の大木を切り倒せと命じ、兵士が斧を振るって樹に切りつけたところ、真っ赤な血が噴き出した。同じ時刻、小西は首を切られるような痛みを感じて慌てて伝令を飛ばし、銀杏の樹を切るのを止めさせた。
そんな伝承話を脳裏に浮かべ、私は広場の屋台店に群がる老若の現代韓国人の顔を眺め、
いったい歴史とはなんだろうと感慨無量の気持ちになった。

キムチと白菜

2005年05月07日 16時36分18秒 | Weblog
今は何処のスーパーでもキムチ漬物のコーナーは定番になってる。キムチ暮らし70年の韓国の友人K氏夫妻をF市のI温泉に招待した時の話である。始めて日本を訪問したK氏夫人はホテルの夕食には一切手を付けなかった。別に日本嫌いな訳ではない。
そこで私はK氏ととあるスーパーで漬物売り場のキムチを求めた。K氏は韓国産のキムチを買わずにキムチのたれを混ぜたまだ白っぽい即成キムチを求め、とても美味しかったと褒めてくれた。
夫妻は夜食をわあ氏が持ち込んだ富士リンゴとそのキムチに海苔巻き寿司だけですませた。
キムチは白菜が主原料である。トウガラシは日本から輸入した事をこのブログで述べているが
さて、白菜となると曖昧で、それが中国から朝鮮半島を経てわずか百年前にの日本へやってきたことを知る人は少ない。
中国白菜の種を日本で試験栽培したのは明治の始めの頃である。
25年前、私は仁川のT窯場の賄い婦からビニールに6かぶのキムチを土産にして成田空港でひどい目に遭った。
検査官はボストンのキムチ入りのビニール袋を開けろと言う。
「匂いで大変ですよ」と私は答えたが「とにかく開けてください」と向こうは応じない。
私は行列の大勢の視線を眩しく感じながら袋を開けた。
人々の驚いたり大袈裟に鼻を手で覆った顔、顔、顔。
金の密輸事件の後で検査が激しかったせいだ。
それを思い出すと今、食料品店に大量に並ぶキムチの山を見て、今昔の感にたえない。
キムチの匂いは体に染み込むらしい。
わずか4,5日の韓国滞在の朝、昼、夜とキムチ暮らしから戻ると、京都の定宿の主人は
フロントの内側から・・・行ってきましたね・・・と韓国帰りを見破るのである。