吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

李朝実録一

2005年05月21日 14時36分58秒 | Weblog
 李朝、太祖の李成桂(一三三五~一四〇八)より二十六世の高宗まで風俗関係の資料を記録したものである。
 酒をたしなむ私にとって飲酒についての政令に興味があり、調べてみた。
 すると意外にも禁酒令がしばしば発令されいるのに注目した。
 …太祖三年、正月、禁酒ノ令ヲ行フ
 …六月、豊年ヲ限リ禁酒ノ令ヲ弛メシメ更ニ申禁ス
 …四年四月、太司憲ハ宮中ノ女楽及ビ駕前ノ女楽ヲ罷メンコトヲ  言ス
 …五年四月、旱ニヨリ禁酒ヲ令ス
 …七年四月。僧ノ飲酒ヲ禁ジ犯ス者ハ長髪セシム
  僧は日本では般若湯と名前を変えて飲んでいた。今も高谷山の宿坊では般若湯に制限はない。
 ほんの数例をあげても禁酒令は穀物の豊作、不作に影響されていた。
 私の実家のある土佐長岡郡でも江戸末、郡代の定で祭礼のほかは酒造を禁じられていたが理由をつけてはドブロクを飲んでいたと曽祖父から聞いている。七年五月、禁酒ヲ令シ、薬酒ヲススム
 高麗王朝時代は茶樹栽培が盛んだったが、李朝になって儒教の精神から老人をたいせつする意味で薬酒をおおいに奨めたのである。 太祖時代の禁酒の年は旱魃だった。禁酒令と平行するように各道で祈雨が山堂や寺で度々行われた記録も残っている。
 祈雨にたいして祈晴も各地で行われ、四月、五月から八月にいたる間が多いのは農作物と天候の関係が密接だからだ。
 しかし十五年正月には…公私飲屋宴ヲ禁ズ。小民ノ濁酒オヨビ売酒、ノ者ヲ此限外ニ置ク。とあり、小民にはやや緩和された。
 禁酒も二十七日に限定された場合もあった。
 李成柱はもとは仏教を信じていたが、儒教に転じたのは明を宗主国とし、中国のような広大な地域を治めるには、人心をコントロールするために思想的統一、仁、義、礼、智、信をもって支配するのがもっとも適した法に違いなく、成柱もこれにならったのであろう。 友人の酒豪A氏に禁酒法が今施行されたらどうするの?と意地悪な質問をしたら、
「ワタシを殺す気か!ハハハハ…」と肩を揺すって笑いこけてしまった。
李朝実録(風俗)一

 李朝、太祖の李成桂(一三三五~一四〇八)より二十六世の高宗まで風俗関係の資料を記録したものである。
 酒をたしなむ私にとって飲酒についての政令に興味があり、調べてみた。
 すると意外にも禁酒令がしばしば発令されいるのに注目した。
 …太祖三年、正月、禁酒ノ令ヲ行フ
 …六月、豊年ヲ限リ禁酒ノ令ヲ弛メシメ更ニ申禁ス
 …四年四月、太司憲ハ宮中ノ女楽及ビ駕前ノ女楽ヲ罷メンコトヲ  言ス
 …五年四月、旱ニヨリ禁酒ヲ令ス
 …七年四月。僧ノ飲酒ヲ禁ジ犯ス者ハ長髪セシム
  僧は日本では般若湯と名前を変えて飲んでいた。今も高谷山の宿坊では般若湯に制限はない。
 ほんの数例をあげても禁酒令は穀物の豊作、不作に影響されていた。
 私の実家のある土佐長岡郡でも江戸末、郡代の定で祭礼のほかは酒造を禁じられていたが理由をつけてはドブロクを飲んでいたと曽祖父から聞いている。七年五月、禁酒ヲ令シ、薬酒ヲススム
 高麗王朝時代は茶樹栽培が盛んだったが、李朝になって儒教の精神から老人をたいせつする意味で薬酒をおおいに奨めたのである。 太祖時代の禁酒の年は旱魃だった。禁酒令と平行するように各道で祈雨が山堂や寺で度々行われた記録も残っている。
 祈雨にたいして祈晴も各地で行われ、四月、五月から八月にいたる間が多いのは農作物と天候の関係が密接だからだ。
 しかし十五年正月には…公私飲屋宴ヲ禁ズ。小民ノ濁酒オヨビ売酒、ノ者ヲ此限外ニ置ク。とあり、小民にはやや緩和された。
 禁酒も二十七日に限定された場合もあった。
 李成柱はもとは仏教を信じていたが、儒教に転じたのは明を宗主国とし、中国のような広大な地域を治めるには、人心をコントロールするために思想的統一、仁、義、礼、智、信をもって支配するのがもっとも適した法に違いなく、成柱もこれにならったのであろう。 友人の酒豪A氏に禁酒法が今施行されたらどうするの?と意地悪な質問をしたら、
「ワタシを殺す気か!ハハハハ…」と肩を揺すって笑いこけてしまった。
李朝実録(風俗)一

 李朝、太祖の李成桂(一三三五~一四〇八)より二十六世の高宗まで風俗関係の資料を記録したものである。
 酒をたしなむ私にとって飲酒についての政令に興味があり、調べてみた。
 すると意外にも禁酒令がしばしば発令されいるのに注目した。
 …太祖三年、正月、禁酒ノ令ヲ行フ
 …六月、豊年ヲ限リ禁酒ノ令ヲ弛メシメ更ニ申禁ス
 …四年四月、太司憲ハ宮中ノ女楽及ビ駕前ノ女楽ヲ罷メンコトヲ  言ス
 …五年四月、旱ニヨリ禁酒ヲ令ス
 …七年四月。僧ノ飲酒ヲ禁ジ犯ス者ハ長髪セシム
  僧は日本では般若湯と名前を変えて飲んでいた。今も高谷山の宿坊では般若湯に制限はない。
 ほんの数例をあげても禁酒令は穀物の豊作、不作に影響されていた。
 私の実家のある土佐長岡郡でも江戸末、郡代の定で祭礼のほかは酒造を禁じられていたが理由をつけてはドブロクを飲んでいたと曽祖父から聞いている。七年五月、禁酒ヲ令シ、薬酒ヲススム
 高麗王朝時代は茶樹栽培が盛んだったが、李朝になって儒教の精神から老人をたいせつする意味で薬酒をおおいに奨めたのである。 太祖時代の禁酒の年は旱魃だった。禁酒令と平行するように各道で祈雨が山堂や寺で度々行われた記録も残っている。
 祈雨にたいして祈晴も各地で行われ、四月、五月から八月にいたる間が多いのは農作物と天候の関係が密接だからだ。
 しかし十五年正月には…公私飲屋宴ヲ禁ズ。小民ノ濁酒オヨビ売酒、ノ者ヲ此限外ニ置ク。とあり、小民にはやや緩和された。
 禁酒も二十七日に限定された場合もあった。
 李成柱はもとは仏教を信じていたが、儒教に転じたのは明を宗主国とし、中国のような広大な地域を治めるには、人心をコントロールするために思想的統一、仁、義、礼、智、信をもって支配するのがもっとも適した法に違いなく、成柱もこれにならったのであろう。 友人の酒豪A氏に禁酒法が今施行されたらどうするの?と意地悪な質問をしたら、
「ワタシを殺す気か!ハハハハ…」と肩を揺すって笑いこけてしまった。
李朝実録(風俗)一

 李朝、太祖の李成桂(一三三五~一四〇八)より二十六世の高宗まで風俗関係の資料を記録したものである。
 酒をたしなむ私にとって飲酒についての政令に興味があり、調べてみた。
 すると意外にも禁酒令がしばしば発令されいるのに注目した。
 …太祖三年、正月、禁酒ノ令ヲ行フ
 …六月、豊年ヲ限リ禁酒ノ令ヲ弛メシメ更ニ申禁ス
 …四年四月、太司憲ハ宮中ノ女楽及ビ駕前ノ女楽ヲ罷メンコトヲ  言ス
 …五年四月、旱ニヨリ禁酒ヲ令ス
 …七年四月。僧ノ飲酒ヲ禁ジ犯ス者ハ長髪セシム
  僧は日本では般若湯と名前を変えて飲んでいた。今も高谷山の宿坊では般若湯に制限はない。
 ほんの数例をあげても禁酒令は穀物の豊作、不作に影響されていた。
 私の実家のある土佐長岡郡でも江戸末、郡代の定で祭礼のほかは酒造を禁じられていたが理由をつけてはドブロクを飲んでいたと曽祖父から聞いている。七年五月、禁酒ヲ令シ、薬酒ヲススム
 高麗王朝時代は茶樹栽培が盛んだったが、李朝になって儒教の精神から老人をたいせつする意味で薬酒をおおいに奨めたのである。 太祖時代の禁酒の年は旱魃だった。禁酒令と平行するように各道で祈雨が山堂や寺で度々行われた記録も残っている。
 祈雨にたいして祈晴も各地で行われ、四月、五月から八月にいたる間が多いのは農作物と天候の関係が密接だからだ。
 しかし十五年正月には…公私飲屋宴ヲ禁ズ。小民ノ濁酒オヨビ売酒、ノ者ヲ此限外ニ置ク。とあり、小民にはやや緩和された。
 禁酒も二十七日に限定された場合もあった。
 李成柱はもとは仏教を信じていたが、儒教に転じたのは明を宗主国とし、中国のような広大な地域を治めるには、人心をコントロールするために思想的統一、仁、義、礼、智、信をもって支配するのがもっとも適した法に違いなく、成柱もこれにならったのであろう。 友人の酒豪A氏に禁酒法が今施行されたらどうするの?と意地悪な質問をしたら、
「ワタシを殺す気か!ハハハハ…」と肩を揺すって笑いこけてしまった。

石窟庵

2005年05月21日 12時43分02秒 | Weblog
 朝一番の特急に乗って慶洲駅につくと歩いて仏国寺へ(プルククサ)寄った。この寺は新羅文化の華とされる名刹であり依經は法華経である。任辰倭乱に際して加藤清正は第一軍の指揮官として四月十二日に釜山に上陸して以来、一気に都を目指して進軍したが、寺や仏像の破壊はしなかった。
 しかし戦禍で今の仏国寺の十倍も広い堂、伽藍など石造部分を除いて消失したがその後再建された。正門前の石の橋は、青雲橋、白雲橋と言うが歴史を秘めた落ち着いて見事な美観である。極楽殿には金堂廬舎那仏、阿弥陀如来仏など新羅を代表する仏像が安置されている。
 儒教を背景にした李氏朝鮮王朝は仏教と僧をないがしろにして、僧を賎民階級におとしてしまったがこの名刹は残った。
 石窟庵(ソクラム)への曲がりくねった坂道をのぼった。
 なぜ標高七百米もある山中の石窟に直径、六米ほどの釈迦座像石仏が彫られたのか、像は日本の方角を向いている。
 堂内で二人の学生らしい娘が時々イルボン(日本)を口にしたので話しかけた。
「どちらの大学ですか?」
「梨花大学の日本語科で比較文化を学んでいます…ウリナラの仏像が日本の仏像と違うのはなぜだろうと話していたの…」
「日本の?例えば広隆寺の金銅半迦像?でも飛鳥の百濟寺の顔は古 代百濟仏像の顔と同じですヨ」
「百濟寺の像はウリナラの仏師が彫ったんですよ…だから」
「百濟仏像の不思議な笑みはなぜかなと思っていたんです…多分、 有り難い仏の顔は民族性格が反映して、仏師の鑿がそんな造形を 自然に作ったと思います…」二人の学生はかすかに頷いて石仏を凝視した。石窟庵の釈迦石像の微かな微笑と扶余博物館で見た石像の微笑みが脳裏に重なった。