李朝、太祖の李成桂(一三三五~一四〇八)より二十六世の高宗まで風俗関係の資料を記録したものである。
酒をたしなむ私にとって飲酒についての政令に興味があり、調べてみた。
すると意外にも禁酒令がしばしば発令されいるのに注目した。
…太祖三年、正月、禁酒ノ令ヲ行フ
…六月、豊年ヲ限リ禁酒ノ令ヲ弛メシメ更ニ申禁ス
…四年四月、太司憲ハ宮中ノ女楽及ビ駕前ノ女楽ヲ罷メンコトヲ 言ス
…五年四月、旱ニヨリ禁酒ヲ令ス
…七年四月。僧ノ飲酒ヲ禁ジ犯ス者ハ長髪セシム
僧は日本では般若湯と名前を変えて飲んでいた。今も高谷山の宿坊では般若湯に制限はない。
ほんの数例をあげても禁酒令は穀物の豊作、不作に影響されていた。
私の実家のある土佐長岡郡でも江戸末、郡代の定で祭礼のほかは酒造を禁じられていたが理由をつけてはドブロクを飲んでいたと曽祖父から聞いている。七年五月、禁酒ヲ令シ、薬酒ヲススム
高麗王朝時代は茶樹栽培が盛んだったが、李朝になって儒教の精神から老人をたいせつする意味で薬酒をおおいに奨めたのである。 太祖時代の禁酒の年は旱魃だった。禁酒令と平行するように各道で祈雨が山堂や寺で度々行われた記録も残っている。
祈雨にたいして祈晴も各地で行われ、四月、五月から八月にいたる間が多いのは農作物と天候の関係が密接だからだ。
しかし十五年正月には…公私飲屋宴ヲ禁ズ。小民ノ濁酒オヨビ売酒、ノ者ヲ此限外ニ置ク。とあり、小民にはやや緩和された。
禁酒も二十七日に限定された場合もあった。
李成柱はもとは仏教を信じていたが、儒教に転じたのは明を宗主国とし、中国のような広大な地域を治めるには、人心をコントロールするために思想的統一、仁、義、礼、智、信をもって支配するのがもっとも適した法に違いなく、成柱もこれにならったのであろう。 友人の酒豪A氏に禁酒法が今施行されたらどうするの?と意地悪な質問をしたら、
「ワタシを殺す気か!ハハハハ…」と肩を揺すって笑いこけてしまった。
李朝実録(風俗)一
李朝、太祖の李成桂(一三三五~一四〇八)より二十六世の高宗まで風俗関係の資料を記録したものである。
酒をたしなむ私にとって飲酒についての政令に興味があり、調べてみた。
すると意外にも禁酒令がしばしば発令されいるのに注目した。
…太祖三年、正月、禁酒ノ令ヲ行フ
…六月、豊年ヲ限リ禁酒ノ令ヲ弛メシメ更ニ申禁ス
…四年四月、太司憲ハ宮中ノ女楽及ビ駕前ノ女楽ヲ罷メンコトヲ 言ス
…五年四月、旱ニヨリ禁酒ヲ令ス
…七年四月。僧ノ飲酒ヲ禁ジ犯ス者ハ長髪セシム
僧は日本では般若湯と名前を変えて飲んでいた。今も高谷山の宿坊では般若湯に制限はない。
ほんの数例をあげても禁酒令は穀物の豊作、不作に影響されていた。
私の実家のある土佐長岡郡でも江戸末、郡代の定で祭礼のほかは酒造を禁じられていたが理由をつけてはドブロクを飲んでいたと曽祖父から聞いている。七年五月、禁酒ヲ令シ、薬酒ヲススム
高麗王朝時代は茶樹栽培が盛んだったが、李朝になって儒教の精神から老人をたいせつする意味で薬酒をおおいに奨めたのである。 太祖時代の禁酒の年は旱魃だった。禁酒令と平行するように各道で祈雨が山堂や寺で度々行われた記録も残っている。
祈雨にたいして祈晴も各地で行われ、四月、五月から八月にいたる間が多いのは農作物と天候の関係が密接だからだ。
しかし十五年正月には…公私飲屋宴ヲ禁ズ。小民ノ濁酒オヨビ売酒、ノ者ヲ此限外ニ置ク。とあり、小民にはやや緩和された。
禁酒も二十七日に限定された場合もあった。
李成柱はもとは仏教を信じていたが、儒教に転じたのは明を宗主国とし、中国のような広大な地域を治めるには、人心をコントロールするために思想的統一、仁、義、礼、智、信をもって支配するのがもっとも適した法に違いなく、成柱もこれにならったのであろう。 友人の酒豪A氏に禁酒法が今施行されたらどうするの?と意地悪な質問をしたら、
「ワタシを殺す気か!ハハハハ…」と肩を揺すって笑いこけてしまった。
李朝実録(風俗)一
李朝、太祖の李成桂(一三三五~一四〇八)より二十六世の高宗まで風俗関係の資料を記録したものである。
酒をたしなむ私にとって飲酒についての政令に興味があり、調べてみた。
すると意外にも禁酒令がしばしば発令されいるのに注目した。
…太祖三年、正月、禁酒ノ令ヲ行フ
…六月、豊年ヲ限リ禁酒ノ令ヲ弛メシメ更ニ申禁ス
…四年四月、太司憲ハ宮中ノ女楽及ビ駕前ノ女楽ヲ罷メンコトヲ 言ス
…五年四月、旱ニヨリ禁酒ヲ令ス
…七年四月。僧ノ飲酒ヲ禁ジ犯ス者ハ長髪セシム
僧は日本では般若湯と名前を変えて飲んでいた。今も高谷山の宿坊では般若湯に制限はない。
ほんの数例をあげても禁酒令は穀物の豊作、不作に影響されていた。
私の実家のある土佐長岡郡でも江戸末、郡代の定で祭礼のほかは酒造を禁じられていたが理由をつけてはドブロクを飲んでいたと曽祖父から聞いている。七年五月、禁酒ヲ令シ、薬酒ヲススム
高麗王朝時代は茶樹栽培が盛んだったが、李朝になって儒教の精神から老人をたいせつする意味で薬酒をおおいに奨めたのである。 太祖時代の禁酒の年は旱魃だった。禁酒令と平行するように各道で祈雨が山堂や寺で度々行われた記録も残っている。
祈雨にたいして祈晴も各地で行われ、四月、五月から八月にいたる間が多いのは農作物と天候の関係が密接だからだ。
しかし十五年正月には…公私飲屋宴ヲ禁ズ。小民ノ濁酒オヨビ売酒、ノ者ヲ此限外ニ置ク。とあり、小民にはやや緩和された。
禁酒も二十七日に限定された場合もあった。
李成柱はもとは仏教を信じていたが、儒教に転じたのは明を宗主国とし、中国のような広大な地域を治めるには、人心をコントロールするために思想的統一、仁、義、礼、智、信をもって支配するのがもっとも適した法に違いなく、成柱もこれにならったのであろう。 友人の酒豪A氏に禁酒法が今施行されたらどうするの?と意地悪な質問をしたら、
「ワタシを殺す気か!ハハハハ…」と肩を揺すって笑いこけてしまった。
李朝実録(風俗)一
李朝、太祖の李成桂(一三三五~一四〇八)より二十六世の高宗まで風俗関係の資料を記録したものである。
酒をたしなむ私にとって飲酒についての政令に興味があり、調べてみた。
すると意外にも禁酒令がしばしば発令されいるのに注目した。
…太祖三年、正月、禁酒ノ令ヲ行フ
…六月、豊年ヲ限リ禁酒ノ令ヲ弛メシメ更ニ申禁ス
…四年四月、太司憲ハ宮中ノ女楽及ビ駕前ノ女楽ヲ罷メンコトヲ 言ス
…五年四月、旱ニヨリ禁酒ヲ令ス
…七年四月。僧ノ飲酒ヲ禁ジ犯ス者ハ長髪セシム
僧は日本では般若湯と名前を変えて飲んでいた。今も高谷山の宿坊では般若湯に制限はない。
ほんの数例をあげても禁酒令は穀物の豊作、不作に影響されていた。
私の実家のある土佐長岡郡でも江戸末、郡代の定で祭礼のほかは酒造を禁じられていたが理由をつけてはドブロクを飲んでいたと曽祖父から聞いている。七年五月、禁酒ヲ令シ、薬酒ヲススム
高麗王朝時代は茶樹栽培が盛んだったが、李朝になって儒教の精神から老人をたいせつする意味で薬酒をおおいに奨めたのである。 太祖時代の禁酒の年は旱魃だった。禁酒令と平行するように各道で祈雨が山堂や寺で度々行われた記録も残っている。
祈雨にたいして祈晴も各地で行われ、四月、五月から八月にいたる間が多いのは農作物と天候の関係が密接だからだ。
しかし十五年正月には…公私飲屋宴ヲ禁ズ。小民ノ濁酒オヨビ売酒、ノ者ヲ此限外ニ置ク。とあり、小民にはやや緩和された。
禁酒も二十七日に限定された場合もあった。
李成柱はもとは仏教を信じていたが、儒教に転じたのは明を宗主国とし、中国のような広大な地域を治めるには、人心をコントロールするために思想的統一、仁、義、礼、智、信をもって支配するのがもっとも適した法に違いなく、成柱もこれにならったのであろう。 友人の酒豪A氏に禁酒法が今施行されたらどうするの?と意地悪な質問をしたら、
「ワタシを殺す気か!ハハハハ…」と肩を揺すって笑いこけてしまった。
酒をたしなむ私にとって飲酒についての政令に興味があり、調べてみた。
すると意外にも禁酒令がしばしば発令されいるのに注目した。
…太祖三年、正月、禁酒ノ令ヲ行フ
…六月、豊年ヲ限リ禁酒ノ令ヲ弛メシメ更ニ申禁ス
…四年四月、太司憲ハ宮中ノ女楽及ビ駕前ノ女楽ヲ罷メンコトヲ 言ス
…五年四月、旱ニヨリ禁酒ヲ令ス
…七年四月。僧ノ飲酒ヲ禁ジ犯ス者ハ長髪セシム
僧は日本では般若湯と名前を変えて飲んでいた。今も高谷山の宿坊では般若湯に制限はない。
ほんの数例をあげても禁酒令は穀物の豊作、不作に影響されていた。
私の実家のある土佐長岡郡でも江戸末、郡代の定で祭礼のほかは酒造を禁じられていたが理由をつけてはドブロクを飲んでいたと曽祖父から聞いている。七年五月、禁酒ヲ令シ、薬酒ヲススム
高麗王朝時代は茶樹栽培が盛んだったが、李朝になって儒教の精神から老人をたいせつする意味で薬酒をおおいに奨めたのである。 太祖時代の禁酒の年は旱魃だった。禁酒令と平行するように各道で祈雨が山堂や寺で度々行われた記録も残っている。
祈雨にたいして祈晴も各地で行われ、四月、五月から八月にいたる間が多いのは農作物と天候の関係が密接だからだ。
しかし十五年正月には…公私飲屋宴ヲ禁ズ。小民ノ濁酒オヨビ売酒、ノ者ヲ此限外ニ置ク。とあり、小民にはやや緩和された。
禁酒も二十七日に限定された場合もあった。
李成柱はもとは仏教を信じていたが、儒教に転じたのは明を宗主国とし、中国のような広大な地域を治めるには、人心をコントロールするために思想的統一、仁、義、礼、智、信をもって支配するのがもっとも適した法に違いなく、成柱もこれにならったのであろう。 友人の酒豪A氏に禁酒法が今施行されたらどうするの?と意地悪な質問をしたら、
「ワタシを殺す気か!ハハハハ…」と肩を揺すって笑いこけてしまった。
李朝実録(風俗)一
李朝、太祖の李成桂(一三三五~一四〇八)より二十六世の高宗まで風俗関係の資料を記録したものである。
酒をたしなむ私にとって飲酒についての政令に興味があり、調べてみた。
すると意外にも禁酒令がしばしば発令されいるのに注目した。
…太祖三年、正月、禁酒ノ令ヲ行フ
…六月、豊年ヲ限リ禁酒ノ令ヲ弛メシメ更ニ申禁ス
…四年四月、太司憲ハ宮中ノ女楽及ビ駕前ノ女楽ヲ罷メンコトヲ 言ス
…五年四月、旱ニヨリ禁酒ヲ令ス
…七年四月。僧ノ飲酒ヲ禁ジ犯ス者ハ長髪セシム
僧は日本では般若湯と名前を変えて飲んでいた。今も高谷山の宿坊では般若湯に制限はない。
ほんの数例をあげても禁酒令は穀物の豊作、不作に影響されていた。
私の実家のある土佐長岡郡でも江戸末、郡代の定で祭礼のほかは酒造を禁じられていたが理由をつけてはドブロクを飲んでいたと曽祖父から聞いている。七年五月、禁酒ヲ令シ、薬酒ヲススム
高麗王朝時代は茶樹栽培が盛んだったが、李朝になって儒教の精神から老人をたいせつする意味で薬酒をおおいに奨めたのである。 太祖時代の禁酒の年は旱魃だった。禁酒令と平行するように各道で祈雨が山堂や寺で度々行われた記録も残っている。
祈雨にたいして祈晴も各地で行われ、四月、五月から八月にいたる間が多いのは農作物と天候の関係が密接だからだ。
しかし十五年正月には…公私飲屋宴ヲ禁ズ。小民ノ濁酒オヨビ売酒、ノ者ヲ此限外ニ置ク。とあり、小民にはやや緩和された。
禁酒も二十七日に限定された場合もあった。
李成柱はもとは仏教を信じていたが、儒教に転じたのは明を宗主国とし、中国のような広大な地域を治めるには、人心をコントロールするために思想的統一、仁、義、礼、智、信をもって支配するのがもっとも適した法に違いなく、成柱もこれにならったのであろう。 友人の酒豪A氏に禁酒法が今施行されたらどうするの?と意地悪な質問をしたら、
「ワタシを殺す気か!ハハハハ…」と肩を揺すって笑いこけてしまった。
李朝実録(風俗)一
李朝、太祖の李成桂(一三三五~一四〇八)より二十六世の高宗まで風俗関係の資料を記録したものである。
酒をたしなむ私にとって飲酒についての政令に興味があり、調べてみた。
すると意外にも禁酒令がしばしば発令されいるのに注目した。
…太祖三年、正月、禁酒ノ令ヲ行フ
…六月、豊年ヲ限リ禁酒ノ令ヲ弛メシメ更ニ申禁ス
…四年四月、太司憲ハ宮中ノ女楽及ビ駕前ノ女楽ヲ罷メンコトヲ 言ス
…五年四月、旱ニヨリ禁酒ヲ令ス
…七年四月。僧ノ飲酒ヲ禁ジ犯ス者ハ長髪セシム
僧は日本では般若湯と名前を変えて飲んでいた。今も高谷山の宿坊では般若湯に制限はない。
ほんの数例をあげても禁酒令は穀物の豊作、不作に影響されていた。
私の実家のある土佐長岡郡でも江戸末、郡代の定で祭礼のほかは酒造を禁じられていたが理由をつけてはドブロクを飲んでいたと曽祖父から聞いている。七年五月、禁酒ヲ令シ、薬酒ヲススム
高麗王朝時代は茶樹栽培が盛んだったが、李朝になって儒教の精神から老人をたいせつする意味で薬酒をおおいに奨めたのである。 太祖時代の禁酒の年は旱魃だった。禁酒令と平行するように各道で祈雨が山堂や寺で度々行われた記録も残っている。
祈雨にたいして祈晴も各地で行われ、四月、五月から八月にいたる間が多いのは農作物と天候の関係が密接だからだ。
しかし十五年正月には…公私飲屋宴ヲ禁ズ。小民ノ濁酒オヨビ売酒、ノ者ヲ此限外ニ置ク。とあり、小民にはやや緩和された。
禁酒も二十七日に限定された場合もあった。
李成柱はもとは仏教を信じていたが、儒教に転じたのは明を宗主国とし、中国のような広大な地域を治めるには、人心をコントロールするために思想的統一、仁、義、礼、智、信をもって支配するのがもっとも適した法に違いなく、成柱もこれにならったのであろう。 友人の酒豪A氏に禁酒法が今施行されたらどうするの?と意地悪な質問をしたら、
「ワタシを殺す気か!ハハハハ…」と肩を揺すって笑いこけてしまった。
李朝実録(風俗)一
李朝、太祖の李成桂(一三三五~一四〇八)より二十六世の高宗まで風俗関係の資料を記録したものである。
酒をたしなむ私にとって飲酒についての政令に興味があり、調べてみた。
すると意外にも禁酒令がしばしば発令されいるのに注目した。
…太祖三年、正月、禁酒ノ令ヲ行フ
…六月、豊年ヲ限リ禁酒ノ令ヲ弛メシメ更ニ申禁ス
…四年四月、太司憲ハ宮中ノ女楽及ビ駕前ノ女楽ヲ罷メンコトヲ 言ス
…五年四月、旱ニヨリ禁酒ヲ令ス
…七年四月。僧ノ飲酒ヲ禁ジ犯ス者ハ長髪セシム
僧は日本では般若湯と名前を変えて飲んでいた。今も高谷山の宿坊では般若湯に制限はない。
ほんの数例をあげても禁酒令は穀物の豊作、不作に影響されていた。
私の実家のある土佐長岡郡でも江戸末、郡代の定で祭礼のほかは酒造を禁じられていたが理由をつけてはドブロクを飲んでいたと曽祖父から聞いている。七年五月、禁酒ヲ令シ、薬酒ヲススム
高麗王朝時代は茶樹栽培が盛んだったが、李朝になって儒教の精神から老人をたいせつする意味で薬酒をおおいに奨めたのである。 太祖時代の禁酒の年は旱魃だった。禁酒令と平行するように各道で祈雨が山堂や寺で度々行われた記録も残っている。
祈雨にたいして祈晴も各地で行われ、四月、五月から八月にいたる間が多いのは農作物と天候の関係が密接だからだ。
しかし十五年正月には…公私飲屋宴ヲ禁ズ。小民ノ濁酒オヨビ売酒、ノ者ヲ此限外ニ置ク。とあり、小民にはやや緩和された。
禁酒も二十七日に限定された場合もあった。
李成柱はもとは仏教を信じていたが、儒教に転じたのは明を宗主国とし、中国のような広大な地域を治めるには、人心をコントロールするために思想的統一、仁、義、礼、智、信をもって支配するのがもっとも適した法に違いなく、成柱もこれにならったのであろう。 友人の酒豪A氏に禁酒法が今施行されたらどうするの?と意地悪な質問をしたら、
「ワタシを殺す気か!ハハハハ…」と肩を揺すって笑いこけてしまった。