吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

韓国旅の風景 三十九

2006年05月30日 14時03分48秒 | Weblog
韓国旅の風景 三十九

 呑気な両班  その四
 李氏朝鮮王朝の科擧試験の文字は勿論、一四四六年に訓民正音として制定されたハングル文字ではない。当時もっとも難しいとされた漢字である。
 金両基(キムヤンギ)の『ハングルの世界』によれば…十年勉強、南無阿弥陀仏…とあるが、十年勉強してもなにも得られず、ナムアミタプルと言うわけである。
 科挙試験に合格することが官吏、役人として出世の道であった。
 しかも科擧試験を受験できる資格というものがあり、常民や勿論、賎民は生涯、科擧試験を受ける事がない。つまり出世はおぼつかないのである。
 すでに朝鮮半島では新羅時代から李朝の階級制度の繿觴(らんしょう=物事の始まり)として、第一骨、第二骨、第三骨と呼ばれ、出身の氏族によって詳しく五階級に分をわけられた。それは高麗仏教文化時代にも継承されて、李朝になって両班、中人、常民、賎民の四階級制度になった。
 人間というものは釈迦時代もそうだが身分が高いとつい尊大になる。
 それは現代でも同じで、あの家は代々身分のある武士の家柄だ!とか、公家さんの出とか…二十一世紀の今日もそんな話が通用する。まして今から五百年もの昔のことだ。身分に執着する人間の欲望はとどまるところを知らない。
 希少価値というものがある。希少であるから値打ちがあるのである。
 ところが両班は時代とともに当然、増えてくる。つまりインフレになってくると、難関の科擧を突破してもなかなか任官できない両班浪人もでてくる。
 そこから生まれた党派の争いは延々と李朝の末期までくりひろげられた。
 勢力のある党派に属する事がいいにきまっているのだ。
 現在の日本の政治家を皮肉れば結局似た要素があるではないか。
 こんなインフレ両班でも対面だけは守らねばそれこそ先祖様の沽券にかかわる。
 沽券なんて若い人には必要ない言葉かも知れない。
 もとは土地の売り主から買い主に与える証文だが、それから、人の値打ゃ体面をたもつ意味に転じた。
 私はそんな両班を揶揄した諺で、
    両班は溺れても犬かきはしない。
    両班は溺れても藁はつかまない。
 この二つにはいつも感心し、笑いがこみ上げてくる。

韓国旅の風景 三十八

2006年05月30日 11時45分05秒 | Weblog
韓国旅の風景 三十八

 呑気な両班  その三
 李氏朝鮮王朝を支配したのは両班(東、西、文、武)階級であり、一三九二年から李成桂による儒教を背景にした政権から一九一〇年の日本の併合まで、五百十八年間も続いた儒教体制国家である。これを日本の歴史に対比してみると、たまさか貴族社会から新たに武家政権に移譲したのが一一八五年の平家滅亡による守護地頭の設置、武家政権樹立とすれば、以来、一八六七年の大政奉還まで六百八十二年間の武家政治が続いたことになるが、朝鮮の文優先政治に対し、日本は武家政治が主流となった。
 文武両道は中世から近世にいたる国家支配に欠かすことのできない条件のひとつであったが、日本も徳川幕府政治でおよそ二百六十年間もの間、武優先政治だったが、朝鮮との友好再会によって朝鮮儒教の朱子思想を招来して各藩校による儒学の振興も熱心に行われたが本場の儒教レベルには追いつけなかった。
 朝鮮儒教の担い手は勿論、難関の科擧試験に合格した両班師弟のエリート逹である。
 科擧制度(随時代の五八九年に始まり千三百年間続く)は李朝では取り入れたが徳川幕府はこれを受容しなかった。
 科擧試験をかっての日本の司法試験とくらべればその難易度ははるかに上であろう。
 なにしろ四書(論語、中庸、孟子、大学)五経(易、書、詩、春秋、礼記)について各一題が出題されるがなにしろ六法全書の数百倍もの量の学の羅列だから凡才では一生かかても合格不能である。
 李朝の話にこんなのがある。ある王様がおしのびで庶民の暮らす街に出た。するとある家の中で釣糸を垂れている若き浪人の話を耳にして、その家を訪ね、なぜかと理由を問うと…ハイっ!わたしめはいくら科擧試験を受けても、賄賂の力ある師弟には適いません…そこで、こうして家の中で釣りをするくらい科挙試験の不可能を皆に訴えているのでございます!と返事した。王はそれを聞いて、科擧試験のつてや賄賂を厳しくしたと言う。

韓国旅の風景 三十七

2006年05月29日 12時53分27秒 | Weblog
韓国旅の風景 三十七

 呑気な両班  その二
 A氏は両班では名門中の名門、慶州の安東(アンドン)が本貫のA氏であるから、こと両班話となると鼻息が荒い。同じ文化財委員のなかでも両班の毛並みは一番で、文公部のK氏りもずっと上、身分はK氏は文化財研究所長の高級官吏だが、A氏は失脚して浪人の身だが、伝承展で陶芸家のB氏のお役に相当立っていたので、なんとか食べて行ける状態である。彼は私が訪韓すると必ず空港に、出迎えて嬉しそうに手をあげる。B氏は前に述べたように全くの下戸で宴会などで時々、無理に杯をつかまらせられて、ウーンと卒倒してしまう。するといち早くなぜか柿をママが剥いて持ってきてB氏の口にねじこむと元に戻ると言う不思議な癖を持っていて、柿のない真夏には、水をかけるほかはない。
 私がやってくると待ってましたとばかりA氏は側を離れない。B氏は飲めないから食事の時も麦茶ですませるが、A氏は世話になってる浪人の身分なので、アルコールは望めない。普段は文化財や旧文公部の連中にたかり飲みをしている。
 私はお昼でも遠慮なく自分で自由にアルコール類といっても麦酒(メッチュ)専門だがA氏は日本酒専門だから、普通の食堂には贅沢になるので置いてない。そんな時は真露で我慢する他はない。
 いつか国立博物館前でラッシュにかかり、タクシーガなかなか拾えずに業をにやして…Y先生!歩こう!そのほうが早い!と太平路に向かって歩き始めた。
 彼はなぜ急ぐのか、たまさかその日、ソウル市内はマイナス十度、アルコールに一刻も早くありつきたい一心で、しかも行きなれた明洞(ミョンドン)の松屋という日式料理屋にはヒレ酒があるのだ。たしかに旨い!正真正銘の焦げの香ばしい熱燗はたまらない。先月一月に来た時、彼は経験済みである。
 いつも悠々と両班気取りで歩く癖に、その日はまるで人が振り返ってみるほどの早足で、二十分たらずで店に着いた時の嬉しそうな顔はほんとに無邪気である。

韓国旅の風景 三十六

2006年05月29日 05時54分54秒 | Weblog
韓国旅の風景 三十六

 呑気な両班
 A氏はそののんびりした態度、事に動じない器量、歩き方まで現代人とはかけ離れている。前にもふれた金浦空港文化財審査室長のT氏もよく似たタイプの両班気取り屋である。 両班気取りと言えば韓国人はどうしてこれだけ肩書きを名刺に刷り込むのだろう。曰くなんとか会長、なになにの理事長、どこそかの専務、何とか会の会長…などなどあらゆる肩書きをならべてすってある。(中身に怪しいものがある)
 ちょっとした会社の事務室の課長の机上には来客にみえるように螺鈿を施した横五十センチ、幅七センチほどの板になんとか課長とかなになに部長と、華麗というかとても派手な看板?と言うと叱られそうだがどっしりと構えている。
 A氏は八八オリンロックを目前にして、鐘路二街の小さなビルの二階に陶磁器販売の店を開いた。資金はゼロ…友人の陶芸家、B氏の応援で青磁、白磁の作品をぎっしり棚に並べ、応接室の(いったい誰がくるのか?)皮張りソファも立派である。
 開店の日、入り口に、なになに後援会長、なんとか文化教室長など見るからに偉そうな花輪がぎょうぎょうしく飾られている。
 文公部(文部省)文化財研究所長のK氏、民俗村長のM氏など立派な客も招待した。
 A氏の後輩らしい青年がいてA氏はどっかとソファに腰おろしてしきりに…U専務(チョンム)Uチョンム!と呼んで威張っている(両班みたいに胸張って…)
 応接室のテーブルの上にスルメを山盛りした大皿をしつらえ、真露の瓶が二十本ほどにぎやかに林立して、いかにものんべぇのA氏らしい。応援した陶芸家のB氏は苦虫を噛んだ顔して、文化財の面々には頭が上がらず、隅の椅子に腰掛けて青い顔だ。
 呑気なA氏にせがまれて、伝承工芸展にいろいろ配慮をしてもらっている関係で貸した作品代の回収が心配に違いない。
 A氏始め文化財の面々は超の字がつく酒豪ぞろい、B氏は一滴も飲めない。
 いったいA氏はこんなビルの一室で誰に陶磁器を売るんだろう…私は外商なしでは殆ど売れないのでは…と思っていた。A氏はオリンピックで外国の観光客が民宿して、その時に大量にウリナラ(わが国)の陶磁器皿や碗を使うから…とあてこんでいるのである。
 私が言う呑気な両班とはこのことである。格好だけはいい。中身が?である。
 案の定、それから三ケ月後、店はつぶれてしまった。

 韓国旅の風景 三十五

2006年05月28日 12時11分54秒 | Weblog
韓国旅の風景 三十五

 結婚式の運び屋
 ホテルへ迎えに来た文化財専門委員のA氏は朝からにこにこ顔で…今日は日もええし、ええことあるヨ!と回転ドアからでた途端近寄って握手しながら言った。
 …あれれ!Aさん結婚でも…にしては相当のジジイだが…とからかった。
 …とにかく窯へ行けば分るヨ!…とA氏。
 快晴だったので国道周囲の新緑が眼にしみた。
 国道は空いていていつもより十分も早く窯場へついた。
 窯場の裏手が賑やかで、賄いのRアジェモニーが出たり入ったりしている。
 …姪の結婚式に水屯面、水下里まで出かける準備で、親戚の会場で新郎が送るチマ布地を入れた函を背負う、ハムジンアビもやっくると言う。
 ハムジンアビ役をおおせつかった男が風呂敷に包んた函を白い布で作った負子に乗せ、灯係の別男が先頭に立つて新婦の家に向かうのである。
 新婦の家では、小膳の上に粉餅(ペクソルギ)を供え、甑(サン…瓦製のこしき)の上にはこんできた函を下ろすと、五福を備えた人(どのにも一人や二人はいた)が蓋をとって皆にみせるのが普通であるが、なかには、ハムジンアビが家の入り口で立ち止まって大声で…函買いなされ!函買いなされ!と叫び始める場合もある。
 新婦側の家族、知人逹は準備しておいた酒、肴をもてなそうとするが、ハムジンアビは歩き疲れた…とか路銀がからになったとか暗に金銭を要求するのだがどの家庭でも先刻承知していて、望みをかなえてやるのである。
 とA氏は説明した。
 お昼になって賄いのRアジェモニーが色々の料理を乗せたお盆に真露瓶をツけて窯事務所のテーブルにはこびこんだ。A氏が朝から嬉しそうにしていたのはこの為だった。

韓国旅の風景 三十四

2006年05月26日 11時05分52秒 | Weblog
韓国旅の風景  三十四

 泥棒と脱糞
 子供の頃、大人逹が…泥棒がまた入ったが、大きな糞をたれていったガァ、きっと大泥棒や…と話してるのをよく聞いた。
 子供心に泥棒でもコソ泥と大泥棒の二つがあるらしいと思った。
 大泥棒とコソ泥の違いは盗むものが大金とか価値の高い宝石とかを盗むのが大で、コソのほうは小金とか、衣類の小物とかケチなものを盗むのがコソと理解していた。
 韓国の諺に、
  泥棒が物を盗んで、その家に大便してゆくと見つからない。
 というのがある。
 日本と同じ意味合いがあるが、日本のは結果として糞を残してゆくが、韓国のは見つからぬためのまじないに大便を残してゆくのである。
 そもそも人様の家に侵入して、物を盗るのは図々しいにもほどがあるが、泥棒した揚句に糞をしてゆく余裕があるくらい肝っ玉のある泥君だからなかなかつかまらないプロなんだろう。
 韓国流で言えば、この泥棒君は夢で…雀がでてきたから金持ちになる…夢で自分の家が火事にあった…清い水を飲んだ…そんなこの国の言い伝えを盗みを働く前にみたのかも知れない。あるいは…太陽と月に向かって礼をすると大運がくる…(韓国全土の諺)を実行して盗みにはいったのだろう。

韓国旅の風景 三十三

2006年05月26日 07時55分56秒 | Weblog
韓国旅の風景  三十三

 白磁の歌
 と言っても李朝白磁を歌いあげるわけではない。
 李朝白磁のなかでも月白白磁の上品になるとなんとも美しい肌がつい乙女の美肌を思わせるそんな歌である。
 韓国の田植え風景。今では殆ど耕耘機ほか、機械作業の田植えに変わったが、それでも山裾の棚田辺りは農楽の太鼓の響きがして喉かな田植え風景がひろがるのである。
    からむしのチョゴリのした
    まっしろな水差しのような乳房をごらんなさい
    たんと見りゃ病みつくよ
    そっとごらんなさい
    オルノルノル サンサデヨ

    水清きところ
    あずまやのそばに
    一間草堂 家をたてよう
    家をたてるのはたやすいけれど
    恋人こいしや
    オルノルノル サンサデヨ

 声をそろえて素足が眩しい娘逹の田植え風景も、この国のセマウル運動による農村の近代化が進み、藁屋根農家は煉瓦作りの西欧風の建物になり、赤牛小屋も真新しく、田畑に耕耘機がエンジン音を響かせる。
 変わらぬのは蛙の大合唱である。

韓国旅の風景 三十二

2006年05月25日 12時49分20秒 | Weblog
韓国旅の風景  三十二

 国宝と重文
 ソウルの国立博物館(景福宮…キョンブククン)はほかの慶州、光州、公州、扶余など四都市に分室があって、それぞれ国宝(クッポウ)宝物(ホンムル)などの管理をしている。
 宝物は日本での重文に該当する呼称である。
 景福宮には建物に国宝が三ケ所ある。なかでも五層塔は日本のと異なって下部層から上層に向かって屋根が小さくなっている。博物館としての歴史は扶余のほうがわずかであるが一年早い開館となった。
 それぞれの博物館には所蔵品の特徴もあって、光州博物館では李氏朝鮮王朝時代の絵画の蒐集品が豊富である。扶余では仏像の所蔵が多く、百濟仏の特徴をしらべるにはもってこいの博物館である。
 かって中国との貿易船が台風などで沈没した海域の新安沖(韓国南西部)での引上げ作業が始まって、日本の早稲田大学も協力している。
 私設美術館としてソウル城北洞の澗松美術館には高麗象嵌青磁雲鶴文梅瓶(国宝)があって国宝中の一級として有名である。
 ソウル支庁前広場の西側にある徳寿宮(トクスクン)美術館には三百点もの朝鮮絵画を所蔵していて、常時、作品展示を行っている。
 私がはじめてハングル文字の墨書に感動したのもこの美術館だった。
 ハングル文字はその特殊な幾何的線からして毛筆はしないと思っていたのでその時の感動はひとしおであった。
 韓国全土の国宝指定は、二百余点に達し、宝物は六百六十点の指定になっている。

韓国旅の風景 三十一

2006年05月24日 15時55分41秒 | Weblog
韓国旅の風景  三十一

 蔘鶏湯…真夏に熱湯を
 ラーメン屋は一軒もないソウルの真夏、その日は大陸性気候とは裏腹に湿度が相当高く、まるで蒸し風呂に入ったような暑さだった。
 南大門のH氏の事務所を出た途端、滝のような汗が全身に流れてくる。
 …暑気払いにケー(犬)を食べるか、でもYさんの口に合わないから、蔘鶏湯(サンゲタン)にしましょう…と言った彼の後をついて、間口の狭い、庶民が利用する市場近くの食堂に入った。
 テーブルが四つほどあって先客が八人、しきりにふうふうやりながら、蔘鶏湯のスープや鶏の腹に入った柔らかな糯米をチョッカラやソッカラを使って口に運んでいる。
 運ばれた蔘鶏湯は冷房のない部屋の熱気をいっそう強くして、気が遠くなりそうだった。…夏はこいつで汗かくのが一番ヨ!…。H氏はそう言って額からしたたる汗を拭いもせず、スープを飲んでいる。
 室温は四十度近く、予報ではその夏一番の暑さになると報じていた。
 日本なら冷房のよくきいたラーメン屋で冷やしそばを食べているはずだ。
 しかし気温とは関係なく不思議に暑いスープや、鶏肉や、鶏腹に入った人蔘や糯米が暑く感じないのである。
 食べ終わった後に何とも言えぬ爽快な感じがしてきた。
 ひな鶏の内蔵を尻からぬいた腹腔に、高麗人蔘、ナツメ、松実、糯米、栗、ニンニクなどをつめ。塩味で数時間も煮込んだものでその栄養は満点であり傍らの塩瓶をふって自分で塩加減を調節するのである。
 唐辛子好きな私はそれに山程の芥子を降り注いで食べたので顔はまさに赤鬼になってしまったが外にでると先程の暑さが嘘みたいに感じた。

韓国旅の風景 三十

2006年05月24日 09時20分01秒 | Weblog
韓国旅の風景  三十

 温泉マーク
 昔から馴染みの温泉マークは大都市のソウルのいたる所でみかける。煉瓦煙突にそのマークが大抵、白ペンキで描かれている。理髪店の密度と同じくらいに、街中のかしこにそのマークを見る事ができ、風呂好きのサラリーマンや、飲み疲れを癒すべく早朝からの入浴客のため早い時間から開いている。
 つまり日本の銭湯にサウナをたしたような庶民にとって便利な設備である。
 友人のK氏は毎朝のようにそんな温泉を利用する。急用で日本から電話すると携帯の電源は切ってあり、R夫人に電話すると…今、サウナヨ!…と返事がある。サウナだから自宅の浴室ではない。銅雀区の十七室もある豪邸には広い浴室はあるがサウナ設備はない。 長風呂なので一時間はそこでゆっくりするのだ。
 そんな温泉マークにも大小があって、大となると、浴場も広く、フインランド式やトルコ式のサウナに加えて、韓国独特のヨモギ草を壁にぴっしりとぶら下げた蒸し風呂もあり、その匂の立ち込める蒸気でたちまち汗が流れ出す。理髪室や喫茶室、仮眠室、読書室などの設備が整っている。
 そして広い浴場でタオルも使わず素裸で寝そべる男逹は皆韓国人である。日本人はなぜかいちもつをタオルで隠している。
 そんな大の設備でも入浴料は日本に比べてはるかに安い。
 理髪室(イパルシル)でうとうとすると天国の心地になる。なにしろ若いアガシ(娘)が手足の爪を丁寧につみとってくれて、耳垢も心地好く掃除してくれるのだ。
 窓口で払った入浴料金と理髪料は別会計だが勿論、日本よりは安い。
 ソウル市内で大のつく高級温泉マークのひとつに国会議員や著名人もよく来る温泉マークが京福宮前のプラタナス並木の反対側道路の奥にある。
 窓口で料金を支払うとフロント横に待機していた七、八人の娘の一人が六畳ほどのひろさのオンドル個室へ案内してくれる。
 真冬、下手なホテルに泊まるのだったら、一晩中、オンドル個室ですごしたほうがよほどラクチンであり、簡単な食事やビールもとれる。
 ただし、その頃はオンドル用の練炭中毒で死亡する事故が新聞で報じられていたので、窓を二、三センチ明けて寝なければ……と思った。