吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

カウライの随想 二十二

2005年10月31日 12時14分44秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十二  
 
 十二月の足音を耳にするころ、西峰のどのの炭焼き窯も黄色い煙をもくもくと空に向かって舞い上がらせていた。
 高等科の子供逹は学校から戻ると材木運搬か、炭俵背負い仕事にかりだされる。
 要領を知ってる子供逹高学年はひとりで三俵から四表も背負い、土居のてっぺんから西峰の中心地、河野の貯炭場所まで軽々と運んでくる。荷造り時間もいれて往復約一時間ほどかかるが薄暗い時間になるまで何度も往復する子供逹はまったくタフである。さすがのO君もお手あげになった。
 所によっては三十五、六度もある急勾配の小道を崖沿いに猿のように見事に歩く子供逹にはかなわない。
 O君は人に頼んで収穫した柚を高知の母に送る時、柚箱の底に、郵便局で両替した十銭貨と五十銭銀貨で十数円もしのばせていた。 高等専門学校の入試問題集の一高と五高、神戸商大予科の試験問題に挑戦したO君は九十三点で私は五十点もとれなかった。
…わしは二年も三年も先のことは考えんことにしちょる…とO君はけろっとした顔で言う。
『武士道トハ死ヌコトトミツケタリ…』この葉隠れの一節は若者達を軍隊へ送るための官製標語として全国に浸透していた。
 花と散るのが男子の本懐との意識は次第に高まって行く。
 この月N先生は失恋の痛手を胸に満州の国民学校へ転任していった。
 O君はいつもパスカル『パンセ』の…人間は自然のうちで最も弱い、考える葦である…を口癖にしていた。
 宇宙は人間をおしつぶすことができるが宇宙は人間のなにも知らない、人間は自分が死ぬことを知ってる、考える葦である…。
 彼はカントの言った内なる道徳律と夜空に輝く星に感嘆と畏敬の念を禁じえない…を暗記してそれも口にだした。

カウライ男の随想 二十一

2005年10月31日 09時17分11秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十一  
 
 その頃、私と違って下宿する農家はなくO君は学校近くの三谷五兵衛の離れ座敷を借りて自炊することになった。
 私は器用なので釜炊きも、みそ汁造りもこなせるが、O君は自炊経験がないので、飯炊き係を長森俊助、おかず造りを女子生徒の交替制でやらせ、そのための予算として十五円をあてていた。私の下宿料は十五円で、給料の残り三十円はそっくり校長に預けていた。 食事の心配もなく、本は学校職員室に全集類があり、衣類もとくべつに下着類をのぞいて不必要なので金はたまる一方だ。
 O君は父親の県庁の技師長してる京城帝国大学出身の秀才の血と、その妾だった神戸の女学院出の才女の両方の長所が流れる文武の秀才だった。
 私は一度、高知、万々の彼の母の家を訪ねたことがあり、気品のある静かな女性で皿鉢の豪華なご馳走をうけた。
 私は時々、彼の部屋を訪ねて雑論に興じた。
 彼の進路はほほ決まっていて、やはり神戸商大予科を受験することになっていたが、二.二六のいわゆる皇道派青年将校の決起事件の影響もあって、右翼の研究もひそかにやっていた。
 私の伯父が中野正剛に傾注していてその話に興味をしめしたりした。
 彼の父が京城帝国大学を出たのは祖父が朝鮮総督府の高級官僚で京城生れの京城育ちのせいである
 私は彼の語りから朝鮮は陶磁器が日本の大先進技術国となっているばかりか江戸時代までは文化の影響を多くうけていた話に興味がわいた。もともと美術に関心がたかかった私にとって彼の朝鮮文化についての話は夢をみるような話だった。
 彼の厨房道具のひとつに高麗の青磁茶器セットがあった。
 母が行李にしのばせてくれたと言う。
 私は生まれて始めて高麗美術道具に接したのであった。

カウライ男の随想 二十

2005年10月31日 08時24分02秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十   
 
 わしの操行は丙じゃき、官立高等学校は学科は別として全校受験できんけん…私立の甲南高校か、大学予科でも神戸商大は大丈夫らしいと数学の池辺先生から手紙が届いちゅうけに…。
 ある日の放課後、私の教室にO君が訪ねてきて言った。
…なるほど商大でて貿易商でもして竜馬の志をつぐのもええきのう!…私は…家庭が貧しい母子暮しだから進学はだめじゃ、それにあと一、二年で軍隊やろ…。と告げた。
…ところで間もなく視学の視察があるろうが、お前はなにを教科にえらぶんや?…。O君が訊ねた。
…なんでもかまへん!あるがままよ!…。と私は答えて長瀬渓谷をはさんだむこうの柚ノ木に視線をなげた。
 O君は三高をのぞんでいたが操行問題であきらめていたのだ。
 職員室では他の女先生逹が悲鳴に近い声で視学の視察にともなうカリキュラムについて話しあっていた。
…視学がくるけん、O君のクラス歌は絶対禁止じゃ!M校長がヒステリックに告げた。
 結局O君は得意の算数時間を視察授業にきめた。
 私は国史にした。
 師範出のNは師範で学んだのだろう『ペスタロッチの隠者の夕暮れ』からさかんに教育用語をふりまわし、意味が怪しいと思える言葉の繰り返しをして女先生逹を揶揄することがあった。
…算数の基本を徹底したO先生の授業は分かりやすい上に子供逹に算数する、あいは科学する心を植え付けて素晴らしいと思います…と視学はO君を激賞した反面、N先生の講評は…子供逹の規制、躾、などにひとりよがりの面がおおいのが気になる…と厳しい批判言葉がでた。
 M校長は浮かぬ表情で視学の眼を見つめている。

カウライ男の随想 十九

2005年10月31日 06時18分17秒 | Weblog
カウライ男の随想 十九   
 
 彼の教室からハーモニカの伴奏で生徒逹の斉唱する歌声が校庭から渓谷にむかって消えて行く。
 六十三年前の記憶の歌詞。
 この世の春の花園に
 愛の光がなかったら
 暗い闇夜とおなじこと
 ああ青春はただ一度
 ………
 まさに彼は自分の想いを四才年下の弟や妹逹にきかせるつもりで作詞したのであろう。
 海兵不採用のショック…同じ人間なのにひとつの差別を国家から受けた傷心を胸に西峰に赴任してきた心境を思うと涙がこみあげた。 反響があった。職員室で苦虫かみつぶした顔したのはM校長と師範出を鼻にかけ二十二才で四年担任のK女にしつこくつきまとい、拒絶されて荒気味のN先生の二人である。
 戦時中に…愛とはなにごとか!と頭が自己保身にきゅうきゅうとしているM校長は禿頭から湯気がたつほどかっかとしていた。
 O君はそんなことを無視して毎日、ソングを繰り返した。
 生徒逹が覚えると、月曜日をクラスソングの日にした。
…先生!僕らにも六年生の歌教えてくれんかのぅ…甘えん坊の蔭から来てる雄一郎が私を見上げて口ふくらませた。
…お前らが高等科へ進級するまで待つとれや!…。
…先生は唱歌が下手じやけん無理よ!…
 土居のきかん坊の広吉が大人みたいな口調で言った。
 毎朝の朝礼でM校長は皮肉を込めてO君の教育ぶりを意地悪にも指摘した。
…田舎の阿呆どもに俺の哲学が分かってたまるか!O君はつぶやいた。

カウライ男の随想 十八

2005年10月30日 12時32分33秒 | Weblog
カウライ男の随想 十八   
 
 O君は四年生の二学期終了で海軍兵学校を受験し、三日間の試験も突破、制服の寸法とりもしたが、身上調査で落ちた。
 当時は陸士、海兵は全国軍人志望の中学生逹の志望校で、とりわけ海兵はその将校制服と腰に吊す短剣姿が青少年の魅力だった。
 陸士は三日間の試験を受験者全員が受けることが出来たが、海兵はその日ごとに採点して合格点に達しない場合は翌日の試験は受けられない制度である。
 O君は学科が合格したので九十%採用である。ところが不合格になった。…貴君は成績抜群だが私生子なので…その才能は陸士で…と担当少佐に告げられたと言う。
 もし彼が海兵に合格しておればその期の戦死確率は高いので私とは永遠に縁がなかったのに運命は不思議なもので戦後彼は東大法学部在学中に司法試験を突破し、のち高松検事局の検事正部長を経て推薦による参議院選挙で僅差で落選、弁護士として活躍、東南アジア国際弁護士会長、日本弁護士会副会長の要職ののち、昨年、癌を患って七十九才の人生を終えた。
 彼は豪快な男で母校の中学で三階建ての屋上の手摺の上で逆立ちをして全校生徒の度肝をぬいたことがある。
 私と彼が担当した教え子もかわった所があって、そのクラスの同窓会は戦後、十七回も実施、戦死一名のほか病死が九名、病気中五名、老化で外出不能が六名のほか十八名は今年も十一月に西峰に集まることになっているが変わった教え子と言う理由は、高等科卒業まで習った先生は九名もいるのに同窓会によばれるのは私とO君だけだからだ。O君は秀才で日本の司法界で著名な人物になったが私は無名の野人…なぜそうなったのか…要するに私は彼等に肉親の兄以上にせっしたのが理由らしい。
 さて彼の授業は異色だった。
 クラスソングも奇抜だった。

カウライ男の随想 十七

2005年10月30日 10時48分50秒 | Weblog
カウライ男の随想 十七   
 
 高等科一年の三学期をわずか三か月教えて、一人一人の個性や出来事が心に深く刻まれて、その思い出は六十三年たった今も鮮明に脳裏に浮かんでくる。彼等を高等科二年に送り出すと担任は師範出の教頭、O先生に決まり、私は初等科最終学年の六年生担任となった。
 下宿へは相変わらず二年に進級した教え子がかわるがわるドブ持参でやってきた。
 夕食をすませて自分の部屋の机に座る頃、月夜をのぞいて提灯の灯が渓谷の小道を上ってくる。
 それぞれ教科書を持参するが予習、復習をしたことはない。
 父兄に夜学と言う理由をつけて家をでてくるのである。
 私は時にはトランプ遊をしたり、自分の中学時代、とくに雪国小樽の冬の遊びや暮らしについて語った。
 そして子供逹のこない夜はあいかわらず歴史の本や哲学書をよんで過ごした。
 太平洋南方海域の戦闘の厳しい情勢も伝わり、ガダルカナル島には米軍上陸の報道もとびこんできたが相変わらず、西峰の風土はしずかであった。
 二学期が始まって教頭は重い病気になって退職、しばらく私は複式授業をしたがすぐに補充担任が決まった。
 高知から赴任したのは私とおなじ助教で一つ年上で十八才のO君。 当時、高知県で一番の進学校のJ中学五年一学期に事件を起こして退学させられた。彼は全校でも評判の秀才だったが女学生との恋愛事件をひきおこしたのだ。
 私の青春時代にこのO君は大きな影響を与えてくれた。
 彼は赴任そうそうクラスソングを担任の二年生に発表した。
 二階の職員室のすぐ隣にある二年生の教室からその歌声は私の教室に響き渡る。

コウライ男の随想 十六

2005年10月29日 12時27分52秒 | Weblog
カウライ男の随想 十六
 
 戦時中に国民の誰しもが望んだものの第一は食料の確保であった。 すべてが配給制度になって物資の不足は日常のすべてにかかわることだった。都市部では外米(主としてタイ米)とあらゆる代用食が食卓にのぼる。
 赴任するまでは薩摩芋で飢えをしのいだ私はまさに西峰に来て食べ物天国の暮らしを得たのだ。
 放課後、教室にひとり残って読書で過ごす。
 哲学全集に疲れると啄木、宮沢賢治、嗽石や藤村などを読みふけって自己の運命をみつめたりした。
 すくなくとも数年以内にどこかの戦場に出陣してるはずの己の運命を見つめ『死』を思索する時間も多くなった。
 そんな日々にあって大自然に囲まれた山村暮らしは勿体ないほどの幸せを実感した。
 なにより子供逹と過ごす時間は最高の宝だった。
 この一瞬、中国で、あるいはソロモン海域で生死をわけた激戦が展開してると言う意識は常に心をよぎったが、森閑とした西峰の自然はそれをわすれさすのだった。
 トルストイの生命エッセイに…人間の生命は大河の泡のひとつに過ぎない…発生と同時にぱちんと消える…そんな命のはかなさをしめす文章に感動したり、いったい自己の幸せは、子供逹の存在ぬきではかんがえられない…と自覚したり、夜、炉端で生徒の親からさずかったドブを飲みながら、もし、県庁で視学に…魚が食いたければ奈半利漁港の学校でも高等科の教師がひつようじゃけに…と言われた時、小樽時代を思い出して魚の魅力に負けてそこに赴任したら、今、担任した生徒逹とは永遠に逢うこともなかったし、人よしのイネおばさんにも縁することもなかったと人生の出会いの不思議さを思ったりした。

カウライ男の随想 十五

2005年10月29日 09時15分39秒 | Weblog
カウライ男の随想 十五
 
 …農村ではよく虫送り行事をするだろう!西峰はどうじゃ?…私は子供逹に質問した。
 チチクリンコカイカイカイ、サイトウベットウサネモリ、稲の虫やぁ西え行け!と甲高い声で叫んだのはチビで悪戯っ子の蔭から通う永森勇次郎である。
…何じゃそのサネモリは斉藤実盛か?。
…昔から西峰では六月の神祭に、太鼓をたたいて川まで虫送りするんじゃき…。
 昔の農家は害虫がついたらお祈りしてあきらめるほかはなかった。 そして日照りの夏の雨乞いもしばしば行われた。それも大蛇のすむあやしい渕にの太夫を先導させてお祈りをささげるのであるがこれも霊験あらたかな観音様とは行かず、ひたすら天に祈雨するほかはない。
 高等科の子供逹は夜なべ仕事に草履つくりや、筵おりも手伝う。 とくに踵のところの藁縄に布のきれはしを織り込んで結構長持ちする草履を作るが小石まじりの山道ですれて十日もしないうちに履けなくなってしまう。
 私は中学で使っていた運動靴の踵のすりきれたのをずっと履いて上着も袖がほつれたのをそのまま着て、ズボンは白い体操ズボンのバンカラ服装で通した。十七才のニキビ少年(生徒がつけた渾名)の私には洒落れ気分に程遠い感覚だった。
 赴任したての二月の大雪の日、私は裸足で三十センチも積もった雪道を学校まで約、十数分歩いたことがあり、その元気さは中に知れ渡っていた。
 生徒達のちよっと寒いと背を丸め、ポケットに手をつっこむのを厳しく注意したので自ら寒さにうちかつ模範を示したつもりだった。 そんなことがあって私の視線がポケットにむくと一年生まで慌ててポケットの手をはずすのだった。

カウライ男の随想 十四

2005年10月28日 17時02分25秒 | Weblog
カウライ男の随想 十四
 
 その夜。天下の美味の饗宴がイネさんの囲炉裏で開かれた。
 アマゴはアメゴとも呼ばれる淡水魚で鮭の一種であり、成長すると三十センチほどの大きさになり、体側に赤い小判模様の斑点があり、その味は魔味と言ってよい。四国、九州の川の上流、水温のひくい清流にすむ魚である。
 土地っ子は潜って鉄砲槍でさして獲るが利口な魚で岩塊のえぐられた奥にじっと身を隠している。
 菊之助は手際よく、とっておきのドブを持参していた。
 囲炉裏の煙で眼を細くしながら塩をふった串刺しのアマゴの香ばしい薫りが部屋に充満している。
…たかで今夜はでっしら獲れよった!先生も若いけんど猿じゃのう!…学校の職員室にあった縄文の郷土読本の昔も渓流で獲ったんかのう?…そうはゆくまい、だいいち、投網はなかっつろう…。
 私はアマゴ三匹とドブを茶碗で五杯も飲んだ。
…先生には負けたぞね…菊之助は籠にアマゴを十数匹いれたのを腰に席を立った。
 その頃、一般の農家では日に四度も食事をした。・
 早い朝の食事をすませて四時間もすると小茶となり、二番茶は午後二時頃すませ…そして夜の食事となる。茶は食事を意味する言葉で…もう茶はすんだかのうし…はもう食事は終わったのかい…となる。食事が多いのはすき腹の要求もあるが茶の時間は激しい労働から休める唯一の休息になるのだ。
 食事はひきわり麦飯を、囲炉裏に串刺しのふかしカライモ(サツマ芋)を二本ほど口にしてからたべるのは昔からのならわしだった。 どの農家にも芋蔵が家屋のわきに掘ってあり、筵のしたに収穫したカライモが眠って出番を待って居る。
 副食は季節ごとにとれたぜんまい、タケノコ、蕨、じゃがいもの煮付け、手製のコンニャクや豆腐は祭りの日に用意され、ほとんどが人参、牛蒡のみそ漬けをおかずにする。

カウライ男の随想 十三

2005年10月28日 14時56分40秒 | Weblog
カウライ男の随想 十三
 
 ある日の夕方、教え子の三谷清馬が…先生!今夜棒高飛びじゃ…と言って肩で息しながら知らせに来た。
…なんじゃ!急に棒高飛びって…お父が先生の都合聞いてこいと言うたけん…なるほど私は了解した。いつか校庭の砂場で手作りの竹竿で二米七十センチのバーを越えたことがあり…先生は棒高飛びをしちょったけん…と感心した顔の生徒逹に言ったことをおもいだした。…お父も渓流を鳥のように飛ぶけん…と言ったのが清馬である。 西峰では珍しい馬が清馬の家に飼われていた。兄の俊馬は名のとおり裸馬をあやつる名手である。一度、話に乗せられて裸馬に乗ったことがあり、その時はまさに命からがらだった。乗った途端に俊馬が尻をたたいたのでいきなり馬が駆け出したのだ。村道の曲がり道は土手ぎりぎりに曲がって走るので私は突き出た樹の枝を避けて必死になってくらいついた。
 馬は農耕馬ではない。正式の競争馬だった。手綱をいくらひっぱっても言うことをきかない馬は沖の入り口で止まるとそのまま大畑井に引き返してくれた。私はそのおどおどした態度を馬に見破られすっかりなめられてしまったのだ。
 間もなく、父親の三谷菊之助が長い竹竿二本抱えてやってきた。 ガンさんが今夜は奥の渕かヨ!わしはよう飛べんぞね…と菊之助を見て言った。
 満月の光で轟々と音を奏でる渓谷の大きな岩が奥の渕に向かって威圧するような奇岩が見える。
…先生!わしの後についてきとうせ!落ちたら泳いだらええけん…。 と菊之助は竹竿を渓流に固定させると猿のように向こう岩へ飛んだ。私もそのとおり飛びついた。
 岩の上に三坪ほどのひらたい所があった。菊之助は肩から投網を下ろし、拍子をとって高さ二米ほどしたの渕に投げ入れた。
 引き上げた網に十数匹のアマゴが月光に銀鱗を躍らせている。