吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

左道

2005年05月25日 19時15分28秒 | Weblog
 李朝時代は排仏、儒教を国教としたので仏教を左道と称した。
 囘座という言葉がある。囘は回の古字、ものを動かす意味があって、排斥され、扱いされた僧逹が仏の功徳を演出するために、囘座すなはち仏をこっそり動かして、仏が人の願いを聞いて動いて返事をしたと偽ったのだ。
 これが各地に流行ったらしく、政令で囘座ヲ禁ズとした。
 また舎利分身の言葉もあった。
 これも前記同様、僧逹が仏骨(舎利)が自然に増えている…と仏教をたかめる流言をしたのだった。
 しかし、上寺と言って、儒学生や、婦女が寺刹に宿留するならいがあり、風俗上の問題がおおかった。
 現代韓国の仏教はほとんど曹渓宗で、日本で言えば禅宗にあたる。 ソウルには韓国最大の本山が仁寺洞近くにあり、周囲には仏具を扱う店も多い。
 僧軍と言う言葉もある。日本では比叡山の武装僧侶集団を思い出すが、これは僧徒で編成した軍隊といっても、じっさいは人夫集団で主として官の工事に使役されたのでここにも仏教迫害の風習があった。造泡寺、は文字通り、祭り専用の豆腐を作る寺刹のこと。寺刹の精進料理が文録慶長の役で日本に拉致した豆腐職人をいち早く取り入れ、厚くもてなし保護して豆腐作りを奨励したのは土佐藩で、いまもそれらの人々が住んでいた町を唐人町として残っている。
 土佐の豆腐は堅くて美味しい。
 私の郷里、土佐の山村でも豆腐は皆、自家製でその美味しさは忘れられない。
 高麗王朝時代の仏教の基本は弥勒信仰にあり、弥勒は慈氏とも言い、仏滅後、五六億七千万年ののち弥勒がこの世に再現して衆生を救うと言う教えであり、李朝でも力の弱まった僧侶逹に世の不幸をふせがせようとの王の命令で読経ヲセシメル…とあり、一口に排仏といっても、頭が廃棄された仏像も無傷の仏像もあり、このへんの区別は私に分からないが完全に仏教を廃棄したとはいえないだろう。 壬辰倭乱の時、小西、加藤軍は寺院の焼却は避けたとある。
 また妖僧悪行シ自ラ神僧ト称シ、女居士ノ年少者ヲ誘イ奸婬スとあり、左道の堕落が多かったことも李朝実録にしばしば見える。

煙草

2005年05月25日 06時48分02秒 | Weblog
十五年ほど前、アメリカへ飛んだジャンボ機の喫煙席は最後部の二席だけで、十七時間に及ぶフライト中、待時間の人はいなかった。 当時の日本では窓口で煙草を吸いますか?と聞かれ、それぞれ禁煙席、喫煙席と分かれていた。友人のロサンゼルス郊外の家でも屋内は禁煙となっていた。
 今や喫煙者は肩身の狭い思いで我慢する事が多い。
 韓国でも日本と同じ事情だが、さすがは儒教の国、初めて知人の会社社長と韓国へ旅した一九八〇年、戦前に日本のC大学をでて、長年、銀行に勤め、退職したH氏とソウルの事務所で会談した時、奇妙な体験をした。知人は私より十才若く、H氏は私より五、六才年上だった。
 知人はヘビースモーカーで一日、四箱も吸う男、事務所に入った途端、知人は煙草を取り出して火をつけるとたちまち吸い終わり、一分もしないうちに次の煙草を取り出した。
 その時だった。
「私も一本…」とH氏が社長のたばこをだまってつまみ、すぐ火をつけた。韓国では外国煙草を吸ってるのが見つかると、その場で罰金、六万ウオン(日本円で二万円)が秘密監視員によって通達される。
 日本のタバコが吸いたくてそうしたのかな、と私は思っていた。 ところがなんと、知人が煙草をつまむたび…私も…と言って手をだすのだ。
 はっと思った。H氏は自分の眼の前で年下の社長が断りもせず、身勝手に煙草を吸う無礼な日本人を心の中で怒っていたのだ。
 儒教の伝統を今に残す韓国では、年配者の前で若者がもし喫煙しようものなら(ありえない)烈火のごとく叱られる。
 H氏にしてみれば相手が外国人なのでじっと我慢しょうとしたが、目の前の非礼に対抗して同時に煙草を吸う結果となったのだ。
 李朝時代、煙草は煙酒(ウォンチュ)と書いた。なるほど喫煙による陶酔は飲酒と同じ作用だろう。ちなみに煙管は横竹と書いた。 長さ七、八十センチもある竹のキセルを使う李朝人の有様はまさに横竹の図である。

2005年05月24日 06時54分22秒 | Weblog
 『カッコウ鳥の鳴く夜』。これは韓国映画の二十数年前の作品だった。乙支路の映画館だったかあるいは鐘路だったかもしれない。
 国歌を斉唱して映画がはじまる。江原道の山村での貧しい娘と正義に燃える青年との恋や、日帝時代の不当な警察官も登場した。
 わたしはこの映画の中にでてくる、窓の美しさにうたれた。
 あるシーンの灯りに浮かぶ二人の影を見て感動した。
 窓の美しさは現代建築の窓に比ぶべくもない。貧しくても人間を真摯に生きる主人公の姿は感動的だった。
 一九八〇年以前に始まったセマウル運動(農村改革)が全国に広まって家屋や農村の近代化がすすみ、煉瓦建築が増えて、美しい朝鮮王朝時代の伝統的な窓を見る事は今では少なくなった。がオンドル部屋の窓はその伝統をまもっている。ホテルでも美しい窓を演出してる所もあり、家具調度品も李朝風で、旅の情緒が楽しめる。朝鮮ホテル(チョソン)はすべての部屋の窓は格子窓、用字窓、亜字窓、あるいは円窓、韓式旅館では、花窓をあしらった所もある。
 窓にこれだけ美意識をもたらせたものは、李氏朝鮮王朝時代の士(ソンビ)逹が儒堂で朱子学を思索し、漢詩を推敲するための落ち着いた雰囲気をかもしだすにもっとも適した様式から生まれたものと思う。窓に貼る朝鮮紙も日本とは逆である。
 日本のように外側から貼って部屋の中から格子桟がはっきり見えるのと異なって韓国の場合、内側から貼るので、外から桟がはっきり見えて美しく、部屋のなかは白一色となる。
 白を好む民俗性からそうなったのか分からないが、白のチョゴリパジ姿、日本と異なって厳しい山と川の少ない韓国では朝鮮と国名をきめたように、朝、靄がゆったり流れる小川にかかり、陽が鮮やかに立ち上ぼる彼方の小山は絵を見るようだった。
 そして李朝白磁も、清楚な儒堂に使うにふさわしい白になった。 明を宗主国と仰ぐ李王朝でも明の赤絵手法はとりいれることがなかった。
 かって日本民芸の創始者で宗教哲学者の柳宗悦は朝鮮の『白の悲哀』のエッセイで…朝鮮は喪に服している…と言ったが、これは間違った認識とわたしは思うのである。
 白はむしろこの国の開放的、民俗色ではないだろうか。

金浦空港

2005年05月23日 15時18分57秒 | Weblog
 今は世界的規模を誇る仁川国際空港ができて国際便の主力は移転したが昨年の秋、初めて私は新空港へ飛んだ。
 しかし二十数年間、毎月訪れた金浦空港はいまも懐かしい。
 ソウルまで五十分ほどで到着する便利さや、漢江沿いに走る車の洪水とまわりの景色はいつ見ても新しい感動がわき、好きな韓国の民俗、建物が心を慰めてくれる。
 もし私が韓国人でここに暮らしたとしたらと想像しただけで胸が熱くなった。
 空港内に文化財審査室がある。
 いかめしい名の通り、密輸される文化財をなくするために設けられた部門で、審査室長のU氏は諧謔性の豊富な好人物で、委員のA氏の紹介でなにかがあった時、訪ねたらと言われていた。
 現代粉青Noワンの作家、Y氏の作品をボストンに忍ばせて帰国の手続きしてると、税関の係に、審査室で証明書をもらってください、といわれ、挨拶すると、書類に判を押して…適当に書いてください…文化財専門委員のA氏の紹介ではコーヒーでもどうぞ…とのんびりした口調で部屋に案内された。
「私の趣味はこれヨ…」
 彼は得意満面の表情で横軸をテーブルに広げて言った。
 山水の水墨画で、よく見ると、苫屋のわきに仙人のような人物が酒徳利を腰にしている。
 更に縦軸を広げると、そこにも仙人らしき人物が徳利を下げている…この士(ソンビ…両班)はわしヨ!と悪戯っぽい顔をした。
 A氏同様の無類の酒豪らしい。
「この仙人は悟りより凡俗の顔ですね…」と答えたらワッハハハと笑いこけた。
 まさに現代に生きる李朝人である。
 山水の自然に自己を描いて陶酔してるのだ。
『橋上観水図』『渓流仰山水図』にも頬を朱に染めた仙人と腰に酒徳利が描いてある。
「これは儒人散策図ですよ」と私が批評すると、
「カムサニダ!」と答えにっこりした。
 ボボワールが中国人は演技者だ…と言ったがそれ以上に韓国人は諧謔的演技の名人と思った。

田舎家

2005年05月23日 09時52分24秒 | Weblog
 ある日、友人のK氏と一緒に南大門近くの田舎家と書かれた料理店へ入った。
 最近まであった韓国南部地方の中流農家の雰囲気を持った店で鉋で削った燻んだ柱がどっしりした落ち着きをみせている。入り口に大きい水車がまわり、入るとすぐプルトェチ(豚の丸焼)の香ばしい匂いがした。でてきた料理の品数に驚いた。
 小皿、中皿、併せて、二十七種類もある。色とりどりと言うが、まさに赤、黒、白、黄、青、いわゆる五葷彩のすべてがそろっている。
 宮廷料理のニッキ菓子などもそえられている。これが数人のアガシで運ばれ…大きい膳の足がおれそうだ…と昔から言われる譬えの通り、見ただけで腹がふくれそうだ。モチ米御飯(チァルパップ)小豆飯(パッバップ)キムチ、きゅうりキムチ(オイソパギ)白菜の葉でくるんだポッサンキムチ、野菜の味付(ナムル)蕨、ほうれんそう(コサリシグム)肉、白身魚、貝、かぼちゃ、えびなどをお好み焼にした(チョニュファ)鶏の味付(タックチム)照焼魚(クイ)酢大根(チェナムル)味噌ニンニクやトラジや干し鱈の佃煮風、アワビに銀杏添え、冷麺、唐辛子味噌(コチュジャン)の入れ物は象嵌青磁忍冬文皿で唐辛子好きな私はそれを見ただけで超食欲となる。そのほか牛肝臓の野菜を味噌で煮込んだ(ヘジャンクック)やきもの鍋、茎と蕨の炒め物、蟹の唐辛子味噌漬(ケジャン)ワカメの酢の物、トラジキムチ、えびとウニの炒め物、などなど、野菜や小魚、えび、蟹、牛肉などのすべてを料理した数々が皿の置き場もないくらい膳にならんでいるのだ。
 朝鮮王朝時代に平行して江戸の農村の食事は粗末そのものだった。 儒教の始祖、孔子はあらゆる食を楽しんだと、本で読んだが儒教祭祀に欠かせぬ供物として食文化が発達したのか、韓国は食文化の伝統が今も生きずいている。
 利川の窯場の裏の藁葺き農家に賄い老夫婦が住んでいて、訪問するたびの昼食は、八品から十品はいつでもそろえてくれるし、キムチは辛味が強いが具を多く使うので素晴らしい味覚となるし、二十本ほどならんだキムチ大甕はなんと染付草花文や青磁の壷で、これは窯主から失敗作をもらい受けたもの、その贅沢さはほかではみられないだろう。

胡椒

2005年05月22日 11時43分03秒 | Weblog
 胡椒は桃山時代に南蛮貿易によって東南アジア各地から日本にもたらされ、やがて対馬を通じて朝鮮に入り、人々は唐辛子と同じく、その刺激におどろいたが次第に民衆に広まっていった。朝鮮王朝の第十一祖、中宗の代に三浦の乱が起こり、そのため倭人と絶和して胡椒と染料(丹木)の輸入が途絶えた。
 中宗五年(一五一〇)に次の布告がだされた。
 …倭人と絶和ニヨリ胡椒丹木ノ入ル途絶ユ。胡椒ノ食用ハ山椒ニ代ヘ丹木ニツイテハ宗廟ノ紅肖(きぎぬ)ハ明ヨリ貿ヒ、紅袱(風呂敷)ハ鴉青色ニ代ユ。
 とあり、当面、代用せざるを得なかった。ちなみに王の命令で草緑ヲ深ク染メルのを禁じている。中宗十四年には、黄袱を禁じ、紅袱を使用すべしの通達もでた。
 さて私は無類の香辛料好きであり、ある時、仁寺洞のとある食堂へ入ってモリ蕎麦を注文した。テーブルの上には芥子、唐辛子の入った大瓶が置いてある。例によってタクアン(そのまま韓国語)の山盛りがきて、蕎麦がきた。
 早速、スプーンで山盛りの唐辛子粉を三杯、汁にいれた時、小さな声でアイグーと聞こえたので視線を声のしたほうに投げると、二人の老人が驚き顔で私の仕草をみていた。
 最初からすぐそれと分かる発音で在日の僑朋か日本人と注目していたらしく、唐辛子をスプーンで山盛り三杯もやったので驚いたのだ。私は唐辛子で韓国人以上の好みぶりを認められてなぜか嬉しくなった。
 南大門の食堂でも同じ体験をして、店のアガシに悲鳴を浴びた事もある。
 韓国人は香辛料好み…と言うけどそれは真っ赤なキムチ漬のイメージが日本人にあるからだろう。
 私がふりかけた食堂の唐辛子はいわゆる激辛でなかった。

李朝実録二

2005年05月22日 08時45分35秒 | Weblog
 一に続いて祈雨について調べて見た。稲作農業民族にとって田植えの時期、降雨は絶対条件である。 実録には祈雨に関する記録は結構多いのである。
 日本と異なり、祈雨行事は古い時代の朝鮮では洞祭の繁雑な祈祷と同じく、儒教礼にもとずいて厳粛に行われる。
 太宗の十六年、蜥蜴(とかげ)ノ祈雨ヲ行ヒ、虎頭ヲ漢江ニ沈ム とある。虎は加藤清正が退治したので朝鮮にはいない…これは韓国人がよく言う比喩であるが、李朝時代には山林に棲んでいたようで李朝民画にもよく描かれている。
 しかし虎頭とは大変なことである。
 とかげを用いたのは竜が中国皇帝のシンボルだし遠慮してとかげで済ませたのかもしれない。王は古典を弁エ、旱魃ノ因ハ春ニ白骨ヲ収メザルニヨルトシ、牧場内ノ牛馬ノ骨ヲモ拾置セシムとある。 白骨ヲ収メザルは儒教礼式に背くことになる。巫ヲ集メ祈祷ヲ行ウ…。逆に各所ニ祈雨ヲ止ム…とあり、豪雨被害もあった。
 降りすぎてもまた災難、また祈晴ヲ葬ノタメ祈ルとあるがいずこも同じ葬祭には晴れがいいに決まっている。雨ヲ南方、土竜ニ祈ルは風水による竜脈にも祈ったと言うことである。
 祈りに関連して堂祭にふれてみたい。堂祭は日本の村祭りにあたるが、祭りの司祭者には条件がつく。喪主でない者、負傷。怪我のない者、家族に妊婦がいない。祭りを終えるまで婦女の不浄は避ける。生活が清潔、祭日に福のある者、などの成人男子から選ぶ。昔は牛一頭を犠牲にしたが今は肉類で代用する。一月十四日と十五日の祭りは巫女、五、六名で行い夕方には農楽隊が銅鑼、のぼり旗、長鼓で賑やかに登場する。明け方に、参加した人々は朝飯をとり、村の祭場所の広場で老若男女逹が綱渡りなどの遊戯を楽しみ飲食をする。
 日本の祭りと異なるのは、堂主に選ばれた男の禁忌の厳しさである。すなわち、夫婦は別部屋、性行為は禁止、殺生は禁じ、冷水浴、魚肉類も禁止、これが次の年に新堂主がきまるまで守られたとある。 利川の農村の堂祭で見た巫女はチマに鶴の刺繍を施し、白い鉢巻き姿で顔つきはすでに魂魄を呼び寄せる巫女特有の顔、神社のオハライと同じ意味の神木があり、堂主が使う井戸に禁縄がはられる。 実録には、婦女の婬行、女楽廃止、男楽の奨励、士族婦女の観光禁止、など厳しい反面、処女貧ナル者ニ給資助婚ス令もだされた。

李朝実録一

2005年05月21日 14時36分58秒 | Weblog
 李朝、太祖の李成桂(一三三五~一四〇八)より二十六世の高宗まで風俗関係の資料を記録したものである。
 酒をたしなむ私にとって飲酒についての政令に興味があり、調べてみた。
 すると意外にも禁酒令がしばしば発令されいるのに注目した。
 …太祖三年、正月、禁酒ノ令ヲ行フ
 …六月、豊年ヲ限リ禁酒ノ令ヲ弛メシメ更ニ申禁ス
 …四年四月、太司憲ハ宮中ノ女楽及ビ駕前ノ女楽ヲ罷メンコトヲ  言ス
 …五年四月、旱ニヨリ禁酒ヲ令ス
 …七年四月。僧ノ飲酒ヲ禁ジ犯ス者ハ長髪セシム
  僧は日本では般若湯と名前を変えて飲んでいた。今も高谷山の宿坊では般若湯に制限はない。
 ほんの数例をあげても禁酒令は穀物の豊作、不作に影響されていた。
 私の実家のある土佐長岡郡でも江戸末、郡代の定で祭礼のほかは酒造を禁じられていたが理由をつけてはドブロクを飲んでいたと曽祖父から聞いている。七年五月、禁酒ヲ令シ、薬酒ヲススム
 高麗王朝時代は茶樹栽培が盛んだったが、李朝になって儒教の精神から老人をたいせつする意味で薬酒をおおいに奨めたのである。 太祖時代の禁酒の年は旱魃だった。禁酒令と平行するように各道で祈雨が山堂や寺で度々行われた記録も残っている。
 祈雨にたいして祈晴も各地で行われ、四月、五月から八月にいたる間が多いのは農作物と天候の関係が密接だからだ。
 しかし十五年正月には…公私飲屋宴ヲ禁ズ。小民ノ濁酒オヨビ売酒、ノ者ヲ此限外ニ置ク。とあり、小民にはやや緩和された。
 禁酒も二十七日に限定された場合もあった。
 李成柱はもとは仏教を信じていたが、儒教に転じたのは明を宗主国とし、中国のような広大な地域を治めるには、人心をコントロールするために思想的統一、仁、義、礼、智、信をもって支配するのがもっとも適した法に違いなく、成柱もこれにならったのであろう。 友人の酒豪A氏に禁酒法が今施行されたらどうするの?と意地悪な質問をしたら、
「ワタシを殺す気か!ハハハハ…」と肩を揺すって笑いこけてしまった。
李朝実録(風俗)一

 李朝、太祖の李成桂(一三三五~一四〇八)より二十六世の高宗まで風俗関係の資料を記録したものである。
 酒をたしなむ私にとって飲酒についての政令に興味があり、調べてみた。
 すると意外にも禁酒令がしばしば発令されいるのに注目した。
 …太祖三年、正月、禁酒ノ令ヲ行フ
 …六月、豊年ヲ限リ禁酒ノ令ヲ弛メシメ更ニ申禁ス
 …四年四月、太司憲ハ宮中ノ女楽及ビ駕前ノ女楽ヲ罷メンコトヲ  言ス
 …五年四月、旱ニヨリ禁酒ヲ令ス
 …七年四月。僧ノ飲酒ヲ禁ジ犯ス者ハ長髪セシム
  僧は日本では般若湯と名前を変えて飲んでいた。今も高谷山の宿坊では般若湯に制限はない。
 ほんの数例をあげても禁酒令は穀物の豊作、不作に影響されていた。
 私の実家のある土佐長岡郡でも江戸末、郡代の定で祭礼のほかは酒造を禁じられていたが理由をつけてはドブロクを飲んでいたと曽祖父から聞いている。七年五月、禁酒ヲ令シ、薬酒ヲススム
 高麗王朝時代は茶樹栽培が盛んだったが、李朝になって儒教の精神から老人をたいせつする意味で薬酒をおおいに奨めたのである。 太祖時代の禁酒の年は旱魃だった。禁酒令と平行するように各道で祈雨が山堂や寺で度々行われた記録も残っている。
 祈雨にたいして祈晴も各地で行われ、四月、五月から八月にいたる間が多いのは農作物と天候の関係が密接だからだ。
 しかし十五年正月には…公私飲屋宴ヲ禁ズ。小民ノ濁酒オヨビ売酒、ノ者ヲ此限外ニ置ク。とあり、小民にはやや緩和された。
 禁酒も二十七日に限定された場合もあった。
 李成柱はもとは仏教を信じていたが、儒教に転じたのは明を宗主国とし、中国のような広大な地域を治めるには、人心をコントロールするために思想的統一、仁、義、礼、智、信をもって支配するのがもっとも適した法に違いなく、成柱もこれにならったのであろう。 友人の酒豪A氏に禁酒法が今施行されたらどうするの?と意地悪な質問をしたら、
「ワタシを殺す気か!ハハハハ…」と肩を揺すって笑いこけてしまった。
李朝実録(風俗)一

 李朝、太祖の李成桂(一三三五~一四〇八)より二十六世の高宗まで風俗関係の資料を記録したものである。
 酒をたしなむ私にとって飲酒についての政令に興味があり、調べてみた。
 すると意外にも禁酒令がしばしば発令されいるのに注目した。
 …太祖三年、正月、禁酒ノ令ヲ行フ
 …六月、豊年ヲ限リ禁酒ノ令ヲ弛メシメ更ニ申禁ス
 …四年四月、太司憲ハ宮中ノ女楽及ビ駕前ノ女楽ヲ罷メンコトヲ  言ス
 …五年四月、旱ニヨリ禁酒ヲ令ス
 …七年四月。僧ノ飲酒ヲ禁ジ犯ス者ハ長髪セシム
  僧は日本では般若湯と名前を変えて飲んでいた。今も高谷山の宿坊では般若湯に制限はない。
 ほんの数例をあげても禁酒令は穀物の豊作、不作に影響されていた。
 私の実家のある土佐長岡郡でも江戸末、郡代の定で祭礼のほかは酒造を禁じられていたが理由をつけてはドブロクを飲んでいたと曽祖父から聞いている。七年五月、禁酒ヲ令シ、薬酒ヲススム
 高麗王朝時代は茶樹栽培が盛んだったが、李朝になって儒教の精神から老人をたいせつする意味で薬酒をおおいに奨めたのである。 太祖時代の禁酒の年は旱魃だった。禁酒令と平行するように各道で祈雨が山堂や寺で度々行われた記録も残っている。
 祈雨にたいして祈晴も各地で行われ、四月、五月から八月にいたる間が多いのは農作物と天候の関係が密接だからだ。
 しかし十五年正月には…公私飲屋宴ヲ禁ズ。小民ノ濁酒オヨビ売酒、ノ者ヲ此限外ニ置ク。とあり、小民にはやや緩和された。
 禁酒も二十七日に限定された場合もあった。
 李成柱はもとは仏教を信じていたが、儒教に転じたのは明を宗主国とし、中国のような広大な地域を治めるには、人心をコントロールするために思想的統一、仁、義、礼、智、信をもって支配するのがもっとも適した法に違いなく、成柱もこれにならったのであろう。 友人の酒豪A氏に禁酒法が今施行されたらどうするの?と意地悪な質問をしたら、
「ワタシを殺す気か!ハハハハ…」と肩を揺すって笑いこけてしまった。
李朝実録(風俗)一

 李朝、太祖の李成桂(一三三五~一四〇八)より二十六世の高宗まで風俗関係の資料を記録したものである。
 酒をたしなむ私にとって飲酒についての政令に興味があり、調べてみた。
 すると意外にも禁酒令がしばしば発令されいるのに注目した。
 …太祖三年、正月、禁酒ノ令ヲ行フ
 …六月、豊年ヲ限リ禁酒ノ令ヲ弛メシメ更ニ申禁ス
 …四年四月、太司憲ハ宮中ノ女楽及ビ駕前ノ女楽ヲ罷メンコトヲ  言ス
 …五年四月、旱ニヨリ禁酒ヲ令ス
 …七年四月。僧ノ飲酒ヲ禁ジ犯ス者ハ長髪セシム
  僧は日本では般若湯と名前を変えて飲んでいた。今も高谷山の宿坊では般若湯に制限はない。
 ほんの数例をあげても禁酒令は穀物の豊作、不作に影響されていた。
 私の実家のある土佐長岡郡でも江戸末、郡代の定で祭礼のほかは酒造を禁じられていたが理由をつけてはドブロクを飲んでいたと曽祖父から聞いている。七年五月、禁酒ヲ令シ、薬酒ヲススム
 高麗王朝時代は茶樹栽培が盛んだったが、李朝になって儒教の精神から老人をたいせつする意味で薬酒をおおいに奨めたのである。 太祖時代の禁酒の年は旱魃だった。禁酒令と平行するように各道で祈雨が山堂や寺で度々行われた記録も残っている。
 祈雨にたいして祈晴も各地で行われ、四月、五月から八月にいたる間が多いのは農作物と天候の関係が密接だからだ。
 しかし十五年正月には…公私飲屋宴ヲ禁ズ。小民ノ濁酒オヨビ売酒、ノ者ヲ此限外ニ置ク。とあり、小民にはやや緩和された。
 禁酒も二十七日に限定された場合もあった。
 李成柱はもとは仏教を信じていたが、儒教に転じたのは明を宗主国とし、中国のような広大な地域を治めるには、人心をコントロールするために思想的統一、仁、義、礼、智、信をもって支配するのがもっとも適した法に違いなく、成柱もこれにならったのであろう。 友人の酒豪A氏に禁酒法が今施行されたらどうするの?と意地悪な質問をしたら、
「ワタシを殺す気か!ハハハハ…」と肩を揺すって笑いこけてしまった。

石窟庵

2005年05月21日 12時43分02秒 | Weblog
 朝一番の特急に乗って慶洲駅につくと歩いて仏国寺へ(プルククサ)寄った。この寺は新羅文化の華とされる名刹であり依經は法華経である。任辰倭乱に際して加藤清正は第一軍の指揮官として四月十二日に釜山に上陸して以来、一気に都を目指して進軍したが、寺や仏像の破壊はしなかった。
 しかし戦禍で今の仏国寺の十倍も広い堂、伽藍など石造部分を除いて消失したがその後再建された。正門前の石の橋は、青雲橋、白雲橋と言うが歴史を秘めた落ち着いて見事な美観である。極楽殿には金堂廬舎那仏、阿弥陀如来仏など新羅を代表する仏像が安置されている。
 儒教を背景にした李氏朝鮮王朝は仏教と僧をないがしろにして、僧を賎民階級におとしてしまったがこの名刹は残った。
 石窟庵(ソクラム)への曲がりくねった坂道をのぼった。
 なぜ標高七百米もある山中の石窟に直径、六米ほどの釈迦座像石仏が彫られたのか、像は日本の方角を向いている。
 堂内で二人の学生らしい娘が時々イルボン(日本)を口にしたので話しかけた。
「どちらの大学ですか?」
「梨花大学の日本語科で比較文化を学んでいます…ウリナラの仏像が日本の仏像と違うのはなぜだろうと話していたの…」
「日本の?例えば広隆寺の金銅半迦像?でも飛鳥の百濟寺の顔は古 代百濟仏像の顔と同じですヨ」
「百濟寺の像はウリナラの仏師が彫ったんですよ…だから」
「百濟仏像の不思議な笑みはなぜかなと思っていたんです…多分、 有り難い仏の顔は民族性格が反映して、仏師の鑿がそんな造形を 自然に作ったと思います…」二人の学生はかすかに頷いて石仏を凝視した。石窟庵の釈迦石像の微かな微笑と扶余博物館で見た石像の微笑みが脳裏に重なった。