吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

窯場のスンニヨン

2005年05月26日 12時41分24秒 | Weblog
 いつ頃からスンニョン(米の焦げ汁)が日常の飲み物になったのか、多分、李朝の前の米飯(麦飯)の習慣以来の事と思う。
 現代はほとんど白米になったが、日本でも農村地帯ではひきわり麦が半分かまたは四分くらいの混合がつい戦前の食習慣だった。
 私の郷里、土佐の山間農村では、昭和の初め頃、麦だけでなく粟も食べていた。韓国でも電気釜を使わずに釜で米を炊いてお焦げをスンニョンにする所もある。
 ハングル世代は別としてソウルに住む老人逹はスンニョンが出ないと食事した気がしないと言う。
 今は、ホテル、街の食堂、いずれもスンニョンと同じ色の麦茶が大半で、果たして麦茶になったのが食生活の進歩なのか疑問に思う。 よきにつけ、悪しきにつけ、練炭か薪のオンドル部屋で食事にスンニョン飲みながら家族が団欒するのはとてもいい事だと私は思う。 友人のマンションでの食事に、子供達はてんでに食事はしない。 きちっと父親がいただきますと箸とスプーンを手にしない限り子供達は待っている。儒教五百年の躾ぶりは今もまもられている。
 一時流行ったヒッピー族がズボンの裾を地面につけて闊歩する姿を見て、ソウルの大人逹は眉をひそめるかわり…街の掃除人!…と言って笑ってすましていた。なるほどズボンの裾が箒代りになるわけだ。
 韓国人の食事はスプーンと箸(金属製)と共用するので、一緒に食事をすると箸とスプーンをかわるがわるテーブルに置く音が賑やかである。
 日本も平安時代、貴族の間で食事をスプーンが伝来して使った時もあったが、やがて廃れてしまった。
 日本は梅雨があるので、その季節、湿気でスプーンが錆びたのが原因ではないだろうかと思う。
 T窯場の賄い婦は、ほんもののスンニョンをだしてくれる。
 麦茶代用と違ってやはり、米の香りがするし、味も濃いので私の口に合う。
 同じ窯場でも若い世代の窯での食事は麦茶が多かったが、年配の作家のおひるにはかならずスンニョンがでた。
 スンニョン テダニ マッスムニダ!私の褒め言葉に恥ずかしそうににこっとしたハルモニーの笑顔が今も忘れられない。

初訪問

2005年05月26日 09時42分05秒 | Weblog
 一九八〇年、厳冬の二月、韓国の冬こそ魅力のある旅、と心にきめていた私はソウルに飛んだ。 
 金浦空港建物を見た瞬間、まさしく李朝だ!と心で叫んだ。 空港の屋根が李朝建築の屋根の勾配と同じで白く清楚な建築だった。 戦前にある建築家が修理した朝鮮の建物を見た在日朝鮮人の一人は…これは朝鮮の屋根ではない…と指摘した。
 勾配が微妙に違っていたからだ。
 この感覚は民俗性からきたもので、たとえば陶工のロクロ捌き一つ見ても、明らかに日本と違っている。
 どこが違うのか…肩から胴にかけての曲線が微妙に違うのである。 贋作で重文指定を取り消された永仁銘(加藤唐九郎作)瓶子のそれと韓国国宝の梅瓶(メイビン)のそれでは曲線は微妙に違う。  街並もやや暗い感じだったのは、電力制限で日本のように派手なネオンもなく、看板もすくなかったせいかもしれない。友人は丘陵のサムソン電子工業の看板を指差し…看板の裏は高射砲陣地ヨ!…と教えてくれた。
 ソウルから広州以南の四キロほどの高速直線道路は戦闘機が離着陸できるようにコンクリートも厚く特別舗装されている。
 ホテルの窓から市庁前の広場を眺めていたら、突然、車両の通行が止まり、人影もなくなった。どこから現れたのか、警官が十数人、バリケードをはっている。夜間通行禁止の時間だったのだ。
「初めての韓国はいかがですか?」
 戦前、日本の商社勤務の経験のある、G氏が訊いた。
「少し街が暗い感じ、でも落ち着いてますよ」率直に答えた。
 国内便でソウルから釜山へ飛んだ。カメラは出発地の空港でとりあげられ、窓は遮蔽されている。
 秘苑、景福宮、徳寿宮、宗廟など李朝の建物などをのぞいて、すべてが北との緊張に包まれたソウルだった。
 ソウル駅前広場を韓国語会話の本を片手に歩いていたら、突然、若者に尋問され、パスポートの提示を命令されたので身分を訊ねると…官邸警護室の要員だった。三十八度線近く、閔山街道へ行く途中、銃を肩にした兵士の検問をうけ…陶磁器の研究で訪問…と答え、OKとなった。
 二十数年後のソウルは全く東京と同じ大都市で、郊外に林立する高層マンションのおびただしい団地を見ると今昔の感にたえない。