涼風野外文学堂

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トリアージ「という」選択。

2007年04月23日 | 時事・社会情勢
 どうもご無沙汰しております。先週(4/21)放送の「出没!アド街ック天国」で紹介された某ラーメン屋で週に一度はつけ麺食ってる涼風でございます。牛すじ辛味つけ麺も美味だが肉つけ麺(辛味噌)もお勧めです。ってどの辺が生活圏かこれでバレバレっすね。

 さておき、今日放送のNHKスペシャルは「トリアージ 救命の優先順位」と題して、一昨年のJR福知山線事故現場におけるトリアージの模様を紹介し、また検証を行っていました。
 トリアージというのは、多数の傷病者が同時発生する場面(多くは災害やマストランジットの事故)において、傷病者の症状や程度により、搬送・治療の優先順位を定め、より緊急度の高い患者を優先的に治療することで、なるべく多くの人命を救助しようという手法です。
 福知山線事故の現場において実際に負傷者の判定作業を行った医師や看護師、実際にその場で判定を受けた負傷者、「助かる見込みがない」と判定され亡くなった方の遺族等、多くの関係者の証言を集めた番組で、その意味では非常に見ごたえがあり、また考えさせられる番組でした。
 しかし、番組を見ている間、私は何か妙な違和感を感じていました。NHKの番組編成が、何か重大な問題を見落としているような、トリアージという選択が内包する根本的な問題に気づいていないような、そんな気がしていました。そんな予感が確信に変わったのはこの番組の最後、事故の遺族がトリアージを行った医師に面会し、事故当時の話を聞く、という場面が放映されたときです。

 災害や大事故時の救急救命活動にトリアージを導入するということは、それ自体が、苦渋に満ちた選択です。目の前には、一刻も早く治療を開始しないとどんどん死に近づいていく多数の傷病者。現地で判定をする医師の数も、救急車の台数や搬送経路も、受け入れ先の医療機関も足りない。すべての人命がかけがえのない、いずれも分け隔てなく尊いものであるとどれだけ理解していても、そのすべてに満足な治療を施すだけのリソース(医師の数、救急車の台数等々)はない。そのような前提のもとで、あくまで冷徹にこれらのリソースの「効率的な割り当て」を判断するという、これはまさに「戦時下の決断」を求められる場面なのです。
 したがって、災害や事故の現場で一次的な救命活動に当たるスタッフにトリアージを行うよう強いることそれ自体が、(倫理的に)妥当であるのかどうかという点も、実は主要な論点たりえるのです。例えば現場に駆けつけた医師はこのような発言をするかもしれません。「私は、すべての人命に優劣はなく、貴賤もないものと考える。いかなる緊急事態においても、誰を助け、誰を助けないかを選択することは、人命を差別することであり、人間の尊厳を破壊する決定的な行為である。ゆえに私はトリアージを行わず、今、この目の前の患者の救命に全力を尽くす」
 このような発言を完全に否定することができるでしょうか?「人を効率的に殺すために人間がその感情を押し殺して機械的な判断を下す」所作が、いかに人間の尊厳に打撃を与えてきたかを思い起こすとき(このような記述をしながら私は、もちろんアウシュヴィッツを想起している)その対偶ともいうべき、この「人を効率的に生かすために人間がその感情を押し殺して機械的な判断を下す」トリアージという所作は、必ずしも容易に肯定されることではないのです。
 しかし、その部分の価値判断の是非にはあえて深入りしないこととして、差し当たり、この国は国家的な戦略として、災害や大事故の現場でトリアージを行うことを選んだのです。そうであるならば、トリアージを行った医師と、遺族を絶対に会わせてはならない。これはトリアージを行うという選択を行ったことの価値判断と決定的に矛盾し、その根幹を揺るがす出来事なのです。

 福知山線の事故現場で行われたトリアージでは、救命の見込みのない致命的な重傷者には「黒タッグ」が付けられ、その時点で医療機関への搬送も、心配蘇生法等の救急救命も行わないこととされます。
 今回のNHKスペシャルの番組の終盤では、この「黒タッグ」を付けられ、何ら治療を受けずに亡くなった方のご遺族が、その当時現場でトリアージを行っていた医師に面会し、事故当時の状況について話を聞こうとします。それから番組は、この「黒タッグ」に何ら当時を窺い知る情報が記述されていなかったことに触れ、遺族のケアのためにも、黒タッグに何を記述すべきか検討する必要がある、という方向に誘導されます。
 番組の作成スタッフは、この誘導がいかに危険なものであるか、承知していなかったのではないでしょうか?確かに、大規模な災害や事故における遺族の心のケアは重大な問題であり、トリアージを行ったことがこのケアをなおいっそう難しくしていることは、看過できない問題です。しかし、トリアージというのはそもそも、そのように「人の命は誰しも等しく尊い」という中であえて、効率的に人を生かすという決断なのです。黒タッグに簡単なサインを記入するのに1枚につき2秒で済んだとしても、15人の判定をすると単純計算で30秒余計にかかります。30秒あれば、もう1人の判定を行うことができます。このタイムロスを無視することは、トリアージという緊急事態の危機管理の性質上、絶対に許されないのです。
 より明確にいえば、われわれは、「トリアージを行う」という選択を行った時点で、「助からない命」に関わる人権を、切り捨てていかざるをえない。遺族のメンタルケアを行うことができるのは、すべての「助かりうる命」への可能な限りの治療を尽くした後でしかない。助かりうる命をすべて助けた上で、助からない命に関わるケアを行うことができるのは、それだけ医療のリソースが潤沢な場合に限られる(つまりは、現実的にありえない)。トリアージというのは、そのような過酷な覚悟のもとでしか成立しえないのではないでしょうか。

 番組が終わったところで、番組全体を通じて感じていた違和感は、現場でトリアージの判定作業に当たった医師や看護師に対するメンタルケアにほとんど言及がされていない、ということだと気づきました。トリアージを成功させようとするなら、それこそ、遺族のメンタルケア以上に、医師や看護師のメンタルケアを重視しなければならないのです。現場での判断の結果誰かが生き、誰かが死んだことについて、その判断をした医師や看護師が個人的に責めを負うようなことは、絶対にあってはならない。そのことは、遺族のケアよりも重要視されなければならないのです。
 もしそのような判断が許されないというのであれば――われわれは、トリアージなどやってはいけないのではないでしょうか。


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