涼風野外文学堂

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いきものがかりに見る変身願望。

2007年04月04日 | 日記・身辺雑記
 ファイアストンの超特価品にも関わらずタイヤ履き替えたらすっげぇ運転快適で今までどんだけ痛んだタイヤで走ってたんだよと凹んでおるorz最近の涼風でございます。

 さて、涼風の相棒フィット号の車内では、最近いきものがかりの『桜咲く街物語』がエンドレスでかかりっぱなしなのですが、この郷愁を駆り立てられる妙な懐かしさは何だろうと思いを巡らせた結果、私がいきものがかりに懐かしさを感じる理由のひとつは、自分が小中学生の頃によく聴いていた(ああ歳がバレる)レベッカやリンドバーグに雰囲気が似ているせいではなかろうか、というところに思い至りました。
 女性ボーカルに男性のバッキング、というバンドの体裁について、当時から現在に至るまで思いつくままに例を並べてみますと、先のレベッカ、リンドバーグ、ドリカムにジュディマリにELTにブリリアントグリーン(ヒスブルは諸般の事情でなかったことにされている)……うん、わりと際限なく挙げられます。そして、こうやって並べ立てて共通項を探していくと、「女性ボーカル1人+男性楽器1~数人」のユニットで成功するためには、中核をなす女性ボーカルに「ひとクセある」ことがポイントなのかな、という気もしてきます。
 ここでいう「ひとクセある」というのは、ある意味「女性的でない」ということにも繋がるのかな、という気もしてきました。女性ボーカルを中心に据えているのに女性的でない、とは逆説的かもしれませんが、先に挙げてきたグループのボーカリストたちについて言えば、フリル付きのワンピースやふわふわのフレアスカートより、カットソーとジーンズの方が似合いそうな傾向があるように思います。
 考えてみれば当たり前の部分もあり、サウンドプロデュースの中心となるのはバックで楽器を扱っている男性メンバーの側なのですから、彼が小室やつんくのような「プロデューサー」としてボーカリストの影に隠れようとするのならともかく、自ら「アーティスト」として、バンドの中心メンバーとしてステージに上ろうとするのであるなら、自らのサウンドを体現するボーカリストは、むしろ「男性的」でなければならないのではないでしょうか。
 そんな見方(聴き方?)に立っていきものがかりを聴いていると、この男性ギタリスト二人は、本当は自分が歌いたい歌を、女性ボーカルに歌わせているのかな、という気がしてきます。男性の音域で歌うには少しばかり高音の曲を作って(大体、ちょっと高めの音って気持ちいいですよね。ギターだって440hzより442hzでチューニングした方が聞こえがいい)、それで自分で歌えればいいのだけれどちと無理なので、その音で無理なく歌うことのできるボーカリストに歌わせている。そんな捉え方をすれば、これら「女性ボーカルユニット」は、実は男性の男性による男性のための音楽を提供しているのではないか、と思えてきました。そう考えれば「いきものがかり結構イイよ」と私が話を向けても「そう?すぐ消えそうじゃん」と妻の食いつきが悪いことにも、合点がいきます_| ̄|○


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