Google日本語入力をインストールしてみました。予測変換が鬼過ぎると方々で噂になっていますが、早速試してみます。有名どころでは
ぱんつじ → パンツじゃないから恥ずかしくないもん
ひとがご → 人がゴミのようだ
なんてのが世のヲタどもの感涙を誘っていますが、
むだむ → 無駄無駄無駄無駄無駄無駄
くりり → クリリンのことか
のびたの → のび太のくせに
おやじに → 親父にもぶたれたことないのに
のようなクラシックなところにも対応していますし、
よーし → よーしパパ特盛頼んじゃうぞー
とか、
あなたと → あなたとは違うんです
それなん → ソレナンテ・エ・ロゲ
辺りはさすがに吹きそうになりました。
さて、このままでは単なる2ちゃん支援ツールになってしまうので、仕事で使えるものかどうか、一例として法律用語の予測変換度合いをうかがってみますが、
ごうけんげ → 合憲限定解釈
きょうどうふ → 共同不法行為
ひさいべ → 非債弁済
だいしゅ → 代襲相続
こうせいよ → 構成要件
みひつ → 未必の故意
きょうどうせい → 共同正犯
じじょうは → 事情判決
げんこくて → 原告適格
さすがにヲタ語に比べるとそんなに凄くはない。
とはいえ、
そんぞくさ → 尊属殺法定刑違憲事件
やくじほう → 薬事法薬局距離制限規定違憲事件
辺りは大変なことになっています。
現代思想のテクニカルタームを試してみますと、
じつぞ → 実存主義
こうぞうし → 構造主義
ぽすとこ → ポストコロニアル
ぽすとこ → ポスト構造主義
ぽすとも → ポストモダン
ふらんくふ → フランクフルト学派
とか、
じょうぶこ → 上部構造
せかいな → 世界内存在
るさん → ルサンチマン
あんがー → アンガージュマン
だつこ → 脱構築
とかいった感じで、まあまあじゃないでしょうか。
さて、これで「感動した。おわり」として今日の記事を終了してもいいのかもしれませんが、今回Google日本語入力を試してみた最大の目的は、この操作感覚が自分の文章にどのような影響を及ぼすものか、確認してみたかったことにあります。
というのも、インターフェースの進化は世間で流通するテクストの文体に、確実に影響を及ぼします。このように、予測変換が常に文書作成をサポートしてくれるようになると、予測結果をまったく見ずに文章を書くわけにはいかなくなるでしょう。インターネットという巨大なデータベースから引き出されたボキャブラリーと、その人独自の傾向とが混在しながら、その人に「最適な」文書作成環境が整備されていきます。それは果たしてその人が「自分で書いた」文章といえるのでしょうか。ここにも、ウェブ時代のアイデンティティの拡散が見て取れます。
音楽の世界では、既に小室哲哉がこのような経験をしてきています。機械のサポートを受けながら定型パターンの組み合わせ方をただ延々と組み替えていくことによって作成される音楽。私は、文学も今後そのようになっていかざるをえないのではないか、という気がしていて、Google日本語入力の登場は、もしかしたらそのような「文学の新時代」を暗示させる、象徴的な出来事なのかもしれない、と思い始めているのです。
長らく、近代文学とは個人の内面を描くものである、というような幻想が支配的であったのですが、しかしこの幻想は実はもうとっくに崩壊を始めているのであって、われわれはそれに気付いていないだけなのではないか。Google日本語入力は、そのような「近代文学の崩壊」を目に見えるものとして進める、その第一歩なのではないか。そんな気がしてならないのです。
……とか偉そうなこと言いつつ、まだ大森兄弟の文藝賞受賞作も読んでいないワタクシですが。
ぱんつじ → パンツじゃないから恥ずかしくないもん
ひとがご → 人がゴミのようだ
なんてのが世のヲタどもの感涙を誘っていますが、
むだむ → 無駄無駄無駄無駄無駄無駄
くりり → クリリンのことか
のびたの → のび太のくせに
おやじに → 親父にもぶたれたことないのに
のようなクラシックなところにも対応していますし、
よーし → よーしパパ特盛頼んじゃうぞー
とか、
あなたと → あなたとは違うんです
それなん → ソレナンテ・エ・ロゲ
辺りはさすがに吹きそうになりました。
さて、このままでは単なる2ちゃん支援ツールになってしまうので、仕事で使えるものかどうか、一例として法律用語の予測変換度合いをうかがってみますが、
ごうけんげ → 合憲限定解釈
きょうどうふ → 共同不法行為
ひさいべ → 非債弁済
だいしゅ → 代襲相続
こうせいよ → 構成要件
みひつ → 未必の故意
きょうどうせい → 共同正犯
じじょうは → 事情判決
げんこくて → 原告適格
さすがにヲタ語に比べるとそんなに凄くはない。
とはいえ、
そんぞくさ → 尊属殺法定刑違憲事件
やくじほう → 薬事法薬局距離制限規定違憲事件
辺りは大変なことになっています。
現代思想のテクニカルタームを試してみますと、
じつぞ → 実存主義
こうぞうし → 構造主義
ぽすとこ → ポストコロニアル
ぽすとこ → ポスト構造主義
ぽすとも → ポストモダン
ふらんくふ → フランクフルト学派
とか、
じょうぶこ → 上部構造
せかいな → 世界内存在
るさん → ルサンチマン
あんがー → アンガージュマン
だつこ → 脱構築
とかいった感じで、まあまあじゃないでしょうか。
さて、これで「感動した。おわり」として今日の記事を終了してもいいのかもしれませんが、今回Google日本語入力を試してみた最大の目的は、この操作感覚が自分の文章にどのような影響を及ぼすものか、確認してみたかったことにあります。
というのも、インターフェースの進化は世間で流通するテクストの文体に、確実に影響を及ぼします。このように、予測変換が常に文書作成をサポートしてくれるようになると、予測結果をまったく見ずに文章を書くわけにはいかなくなるでしょう。インターネットという巨大なデータベースから引き出されたボキャブラリーと、その人独自の傾向とが混在しながら、その人に「最適な」文書作成環境が整備されていきます。それは果たしてその人が「自分で書いた」文章といえるのでしょうか。ここにも、ウェブ時代のアイデンティティの拡散が見て取れます。
音楽の世界では、既に小室哲哉がこのような経験をしてきています。機械のサポートを受けながら定型パターンの組み合わせ方をただ延々と組み替えていくことによって作成される音楽。私は、文学も今後そのようになっていかざるをえないのではないか、という気がしていて、Google日本語入力の登場は、もしかしたらそのような「文学の新時代」を暗示させる、象徴的な出来事なのかもしれない、と思い始めているのです。
長らく、近代文学とは個人の内面を描くものである、というような幻想が支配的であったのですが、しかしこの幻想は実はもうとっくに崩壊を始めているのであって、われわれはそれに気付いていないだけなのではないか。Google日本語入力は、そのような「近代文学の崩壊」を目に見えるものとして進める、その第一歩なのではないか。そんな気がしてならないのです。
……とか偉そうなこと言いつつ、まだ大森兄弟の文藝賞受賞作も読んでいないワタクシですが。