涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

物語の力を信じるということと「アンダーグラウンド」。

2008年06月16日 | 文学
 アキバの無差別殺傷事件から1週間が過ぎて、テレビのニュース(「News23」ですが)が特集を組んでいるのを眺めながら、ふと去来した違和感とともに、村上春樹が「アンダーグラウンド」を記した理由について、漠然と考えていました。
 我々はどうしても、このような事件があると、犯人の側の「心の闇の深さ」に目を奪われ、「彼は何故このような犯罪を犯したのか?」に思いを馳せます。
 ところが、実はそれこそが、もっとも根本的で本質的な問題であるように思えてきました。

 今日の「News23」がそうであったように、今回の事件の犯人が、犯行直前まで掲示板サイトに書き込みをしていたことは広く報道され、注目されています。
 そしてこれらの書き込みの内容から、犯人の男が日々感じていた疎外感や孤独を指摘するのは素人にも容易ですし、不安定な雇用の問題と絡めて語るのもまた、解りやすく、もっともらしい説明となることから、随所で聞かれる議論です。
 私が懸念するのは、こうした「第三者が、犯人に寄り添う思考法」が、致命的な欠落を孕んでいるのではないかということなのです。具体的には、このような「犯人寄りの思考」が、本質的に被害者の存在に思いを至らせ得ない点にこそ、注意を払わなければならないように思えるのです。

 この点は、既に地下鉄サリン事件を受けて、村上春樹が「アンダーグラウンド」で指摘していたところです。
 地下鉄サリン事件においては、加害者であるオウム真理教の特異性ばかりが強調され、巷間を席巻したために、個々の被害者にそれぞれ固有の生活があり、固有の物語があり、どれ一つとしてかけがえのない生命であるという、ある意味当たり前の事実が、思考の外に置かれています。このことを、見過ごしてはならないように思うのです。
 というのは、今回の事件の加害者において指摘されるような「疎外感」だの「孤独」だのというものは、まさに「他者への眼差しを欠く」これらの思考法と、親和的であるように思えてならないからなのです。誤解を恐れずに言えば、犯人の心の闇がどのようなものであるかについて考え、他方で、被害者がどのような物語を抱いていたかに思いを致さないのであれば、そのような考え方こそが、疎外感と孤独を惹起し、犯人を追い詰めている「真の犯人」なのではないでしょうか。

 このような「地下鉄サリン以後の世界」を支配する、普遍的な疎外感と孤独に抗するためには、他者への眼差しに満ちたテクスト、誰しもが圧倒的な物語を有しており、唯一絶対の物語の力に慄然とさせられるテクストを、発信していかなければならないのかな、と思います。今日文学者が手掛けるべき最大の仕事は、こうした「小さな物語に慄然とさせられる」テクストなのではないでしょうか。

 ……という、今回のエントリは、試みにケータイで書いてみました。これもまた文学的実験のひとつなのです。決して、部屋中を這い回る娘の被害を避けるため片付けてしまったパソコンを、立ち上げるのが面倒だからではないんです。ないんですってば。

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2 コメント

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ストックホルム症候群 (Bun)
2008-06-18 01:24:49
今回の事件に共感を覚えるという事は
正直、10年前の酒鬼薔薇事件やバスジャック事件で
少なからず同年代(というか僕の世代)でもあった事象です。


今回の事件では、その点が多く報道され共感を覚える意見を随所で見かけます。
物凄くこじつけな言い方かもしれませんし
それが真意であるかは僕自身も懐疑的ではありますが

これは、「日本」という広い領土の中で
国民がストックホルム症候群に陥ってる様な
そんな感覚がよぎります。



余談ですが
事件の起きた日曜は秋葉原に行く予定でしたが
前日友人にオールを敢行され行けませんでした。

極端な話かもしれませんが
いつどこで、我々は死と直面するかわからない。
というのを身をもって感じました。

娘さんを配線の恐怖から守ってあげて下さい(笑
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なるほど! (涼風。)
2008-06-19 01:35:15
今日は娘が熟睡してることを確認してパソコン起動してみました(笑)。

「日本全国ストックホルムシンドローム」……いやいや、何時間か考え込んでしまいましたが、なるほど、深い指摘ですね。ストックホルム症候群というからには、何らかの形で、外界から断絶されているわけですが、この場合の「外界」とは何なのか?「断絶」はいかなる契機でやってきたのか?分析する価値がありそうです。
確かに、加害者の側に「寄り添わざるをえない」ある種の空気が全国的に流れていて、それは裏返して言えば、加害者以外の何かから「断絶されている」ことによって、「わたし」と「加害者」の二者に関係性が限定された、ストックホルム症候群的シチュエーションが生まれているということなのだ、と言えそうな気がしてきました。
さらにつきつめて言えば、加害者のある側面ばかりがクローズアップされて(今回の事件で言えば「格差社会」「派遣の現実」「オタク的ディスコミュニケーション」みたいなところ)、報道の電波に乗り全国を駆け巡ったときに、これに対する対立軸を、メディアの受容者であるわれわれ一人一人が持ちえていないこと、言い換えれば、われわれ一人一人が日常的に、ある種の孤独に晒されていることが、問題であるような気もします。

宮崎勤死刑囚の死刑が執行されました。もう二十年も昔の事件ですから、Bunちゃんの世代にとっては、あまり実感の沸かない話題かもしれません。
当時と今とで隔世の感があるのは、宮崎事件は当時「異様な青年の異様な事件」として捉えられ、「オタク的なもの」それ自体が犯罪の温床であるかのように結び付けられて偏見の視線に晒されていたのに対し、今回は「秋葉原」という、もはや「オタク的なるもの」の聖地としてのアウラをまとった土地柄と、犯人の「ゲームやアニメは自分を傷つけない」といった発言が結び付けられながらも、それらが、どちらかといえば共感をもって迎え入れられているところです。
この二十年の間に、いったい何が普遍化し、進展したのか、もう少し分析を進めてみたいと思います。

ところで、われわれの日常生活のほんの何げないところに、そこらじゅうに、死がぽっかりと口を開けて待ち構えていることは、これはもう紛れもない事実で、その事実をわれわれは、ふとした拍子に思い知らされることになります。ちなみに私の場合は、地下鉄サリン事件でした。
あ、あと、札幌で自動車教習所に通っていた頃、高速教習に出た日が大雪で、どうにか札樽道行って帰ってきたところ、その数時間後に大規模な玉突き事故が発生した、なんてこともあったりします。
ほんとに、よく無事に生きてるよな俺、って思うことありますよ。だからまあ、お互い無事に生きてることに感謝しつつ、また酒を一緒に飲める幸運を味わいましょう(笑)。
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