5年ぶりに九州大学で集中講義を持った。
教育学部の岡先生(社会教育学)のおはからいである。
岡先生との出会いはもう10年前。
なんと北ドイツである。
ドイツでの出会いだなんて、すこぶる自分らしくないが、そこで出会ったのだからしょうがない。
まあ、正確に言うと、ドイツへのスタディツアーで同行したのだが。
以来、彼女が当時勤務していた埼玉大学にも何度か呼ばれて授業で話をした。
6年ほど前に、故郷である福岡に戻り、九州大学に赴任したところから、さらに縁が深まった。
5年前にも一度集中講義を持つ。
東日本大震災の前である。
その時も、私自身に大きな学びがあったと記憶している。
しかし、今回の学びは、5年前のそれとはまた質の違うと感じる。
それはそのまま、今回の授業においての私の充実度を表しているのだろう。
▼学生主催で打ち上げを開催してくれた。感謝
今回の集中講義(4日間)は「社会教育編成論演習」。
希望の社会・こうなったらいいなという未来を描き、その未来を実現するための教育アプローチを考えるという、「学びをデザインする」演習である。
せっかくなので、20人の学生と一緒に創り上げる運営を重視した。
だから、その時その場の状況を読み取りながらの手探りの進め方だった。
でも、なんというのか、これまでの私の講義の中でも会心の講座となった手応えがある。
ところが学生を見ていると、様々なモノが彼らの学びを阻害しているんだなこれが。
九大に行ったんだから・・・という親の期待。
無難に冒険せずに生きていこうというコトナカレ安定志向。
自らのココロの底を見せまいとする防衛心と恐怖心。
相手のココロを見ようとしないメンドクサイ症候群。
とどのつまりはくだらないプライド。
どれもが彼らの学びを多方面から阻害しているのだ。
そのひとつひとつを、丁寧に溶かしていくのに、前半の6コマほど時間を費やした。
場があたたまり、「ここでは自分の本音を語っていいんだ」「ここでは自分のココロの言葉をみんなが聞いてくれるんだ」という安心感が漂うようになる。
そうして初めて、ポツリポツリと学生が語り出した。
皆、自分の小さな想いや、小さな勇気が、社会に何の変容ももたらすはずがない、と、なかば自虐的に想っている。
ところが、たどたどしい「自分のひとこと」が、目の前のひとの学びに貢献したり、そのひとのココロを救うチカラがある。
そのことを、自らの物語や未来の物語を語り合う中で、学生たちは実感した。
目の前のひとの「かすかな学び」を全力で聴くことで、自分の学びが湧き出るように増幅されていく。
そんな震えるような感覚もまた、学生たちは実感した。
「どうせ…」と斜に構えたり、一種のあきらめ感を纏っていた学生たち。
彼らが、わずかなきっかけから産み出される「学びの可能性」を、今まさに手にし始めている。
学生の顔の変化、ココロの変化、そして場の空気感の変容は、その場にいて感じると本当に気持ちの良いものだった。
彼らの学びを側面からサポートしたのが、ゲストの存在だろう。
2日目には、鹿児島県の離島・与論島から池田龍介(バン)を迎えた。
3日目には、長崎市から片山健太(けんちき)・薫子(かおるこ)夫妻を迎えた。
彼らの事例(実現したい未来と、その実現のための教育アプローチ)は、学生たちに十分な刺激を与えた。
実は彼らは、NPOグリーンウッドの元職員である。
泰阜村の学びの場から輩出した「ひと」が、九州での活動を通して、今、学生に語り掛ける。
その「学びの循環」が、学生の学びを深めていった。
▼鹿児島与論島のバン
▼長崎のケンチキ
もちろん私の実践、泰阜村で展開される学びについても、渾身の力を込めて伝えた。
きっとそれは、学生たちの学びに少しは貢献していると信じたい。
学生諸君は今後、社会に出ていく。
その際、「学びの可能性」を小さく見積もって出ていってほしくない。
ひとりひとりの小さな学びは、共鳴し、響き合って、大きなうねりとなって、学びの可能性を拓いていく。
学びの可能性は、かくも大きく深いものなのだ。
そのことを、少し実感できる授業だったのではないかと想う。
そして、それを一番実感したのは、私だったのだろう。
▼2年後には移転する九州大学。この廊下も見納めかもしれない。
さらば九州大学の学生たち。
素敵な授業を一緒に創ってくれてありがとう。
そしてこの場を創っていただいた岡先生にも、感謝申し上げたい。
教育学部の岡先生(社会教育学)のおはからいである。
岡先生との出会いはもう10年前。
なんと北ドイツである。
ドイツでの出会いだなんて、すこぶる自分らしくないが、そこで出会ったのだからしょうがない。
まあ、正確に言うと、ドイツへのスタディツアーで同行したのだが。
以来、彼女が当時勤務していた埼玉大学にも何度か呼ばれて授業で話をした。
6年ほど前に、故郷である福岡に戻り、九州大学に赴任したところから、さらに縁が深まった。
5年前にも一度集中講義を持つ。
東日本大震災の前である。
その時も、私自身に大きな学びがあったと記憶している。
しかし、今回の学びは、5年前のそれとはまた質の違うと感じる。
それはそのまま、今回の授業においての私の充実度を表しているのだろう。
▼学生主催で打ち上げを開催してくれた。感謝
今回の集中講義(4日間)は「社会教育編成論演習」。
希望の社会・こうなったらいいなという未来を描き、その未来を実現するための教育アプローチを考えるという、「学びをデザインする」演習である。
せっかくなので、20人の学生と一緒に創り上げる運営を重視した。
だから、その時その場の状況を読み取りながらの手探りの進め方だった。
でも、なんというのか、これまでの私の講義の中でも会心の講座となった手応えがある。
ところが学生を見ていると、様々なモノが彼らの学びを阻害しているんだなこれが。
九大に行ったんだから・・・という親の期待。
無難に冒険せずに生きていこうというコトナカレ安定志向。
自らのココロの底を見せまいとする防衛心と恐怖心。
相手のココロを見ようとしないメンドクサイ症候群。
とどのつまりはくだらないプライド。
どれもが彼らの学びを多方面から阻害しているのだ。
そのひとつひとつを、丁寧に溶かしていくのに、前半の6コマほど時間を費やした。
場があたたまり、「ここでは自分の本音を語っていいんだ」「ここでは自分のココロの言葉をみんなが聞いてくれるんだ」という安心感が漂うようになる。
そうして初めて、ポツリポツリと学生が語り出した。
皆、自分の小さな想いや、小さな勇気が、社会に何の変容ももたらすはずがない、と、なかば自虐的に想っている。
ところが、たどたどしい「自分のひとこと」が、目の前のひとの学びに貢献したり、そのひとのココロを救うチカラがある。
そのことを、自らの物語や未来の物語を語り合う中で、学生たちは実感した。
目の前のひとの「かすかな学び」を全力で聴くことで、自分の学びが湧き出るように増幅されていく。
そんな震えるような感覚もまた、学生たちは実感した。
「どうせ…」と斜に構えたり、一種のあきらめ感を纏っていた学生たち。
彼らが、わずかなきっかけから産み出される「学びの可能性」を、今まさに手にし始めている。
学生の顔の変化、ココロの変化、そして場の空気感の変容は、その場にいて感じると本当に気持ちの良いものだった。
彼らの学びを側面からサポートしたのが、ゲストの存在だろう。
2日目には、鹿児島県の離島・与論島から池田龍介(バン)を迎えた。
3日目には、長崎市から片山健太(けんちき)・薫子(かおるこ)夫妻を迎えた。
彼らの事例(実現したい未来と、その実現のための教育アプローチ)は、学生たちに十分な刺激を与えた。
実は彼らは、NPOグリーンウッドの元職員である。
泰阜村の学びの場から輩出した「ひと」が、九州での活動を通して、今、学生に語り掛ける。
その「学びの循環」が、学生の学びを深めていった。
▼鹿児島与論島のバン
▼長崎のケンチキ
もちろん私の実践、泰阜村で展開される学びについても、渾身の力を込めて伝えた。
きっとそれは、学生たちの学びに少しは貢献していると信じたい。
学生諸君は今後、社会に出ていく。
その際、「学びの可能性」を小さく見積もって出ていってほしくない。
ひとりひとりの小さな学びは、共鳴し、響き合って、大きなうねりとなって、学びの可能性を拓いていく。
学びの可能性は、かくも大きく深いものなのだ。
そのことを、少し実感できる授業だったのではないかと想う。
そして、それを一番実感したのは、私だったのだろう。
▼2年後には移転する九州大学。この廊下も見納めかもしれない。
さらば九州大学の学生たち。
素敵な授業を一緒に創ってくれてありがとう。
そしてこの場を創っていただいた岡先生にも、感謝申し上げたい。
代表 辻だいち