感想

バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

徒然草8   歴史を知るということ

2009年01月21日 | 徒然草
歴史を知るということは、小林秀雄によると、自然を見る眼差しが必要で、起こった事項を整理、記憶するのは容易いことだが、それだけではなく、心を虚しくし、ありのままのものを受け入れ、自分の直感で当時のありさまを思い出すような態度で臨まなくてはならないという。私は、「無常という事」に出てくるキーワードの一つ、「上手に思い出す」ということの意味が何年も解らなかったが、最近になってこれは我が事の如くに歴史を思い出すことだと思うようになった。歴史に現われる様々の事項を心のスクリーンに映し出すには、ある意味訓練が必要で、下手な解釈だらけの有り余る情報というのは手助けにはなるかもしれないがどんなに名訳であろうと決して原文以上ではなく、また今後何百年経っても、兼好の「徒然草」は残るが、通訳はその折々の人々の手になるもののみがあるだけで、過去のものは必要とされない。動かしがたい古典という真実の姿は誰の解釈も必要とはしないのである。徒然草を読み考えることは出来るが、そこから受ける印象は千差万別であり、いみじくも「よき細工は少し鈍き刀を使う」という兼好自身が述べ、小林が引用している通りの名文である。


もちろん私はここで、徒然草についての感想及び自分の言葉による通訳文を書き始めているのだが、動機は単純で、一つの短文も読者により様々な観点、解釈がありいづれも読み物としては面白いのだが、何か違うような感じがしていた。もちろん自分が上手に思い出すことなど出きるはずもないのだが、最初に持ちえた直感に従い感じたことを述べてゆきたい。
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