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バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

末後一句 正受老人

2007年03月20日 | 雑記
 真田幸隆の意思を継いだ昌幸は上田に城を築きますが、昌幸の長男信之は弟(真田幸村)や父と違い、時代の波に乗り、早くから徳川家の家臣となり、第二次上田合戦や直後の関が原の戦いでは徳川方として参戦します。そして、父の旧領を得て、上田、沼田9万5千石の上田領主となります。大阪夏の陣の後に松代に移封され13万石の領主となり、真田家の支配は明治維新まで続きます。真田氏の後に上田藩主となった仙石氏は6万石、その後の松平氏が5万石であったことに対し、松代藩真田氏は最後まで10万石の領主でした。

 幸隆のひ孫で松代藩主の信之の子供に正受老人と称された、禅僧道鏡恵端がいます。
正受老人は修行時代(19歳から35歳)を除く生涯を飯山の草庵で過ごし、座禅三昧の日々を送り、私利私欲、名利を離れた名僧で、その徳を慕い、多くの僧が修行しました。中でも、臨済宗の祖白隠禅師を修行が足りないと階段から蹴落とした話は有名ですが、正受老人は藩主の子でありながら生まれる前から母親と共に近隣の飯山藩に預けられ、16歳の時に仏門を志します。
子供の頃からある種の能力を持っていたようで、留守宅に来客が来ると、留守番の母親が指を噛んで来客を知らせたそうです。母親が指を噛むと、離れたところにいる正受老人の指も痛くなり、それが親子の合図となっていました。

「一大事と申すは、今日ただ今の心なり」

日々の暮らしを流すことなく、一日一日を最後の日と思い、精一杯大切に生きるということですが、正受老人の並々ならぬ禅への決意と衆生済度の思いを感じるとることができます。

正受老人は80歳の年、座禅を組み下記の遺偈を残し、入寂しました。

座死(ざし)

末後一句(まつごのいっく)
死 急難道(死 急にして道(いい)がたし)
言無言言(無言の言(葉)を言(葉)となし)
不道不道(いわじ いわじ)(ふどう ふどう)

これを訳すと

私はこれから座禅を組み入寂する。(座死)

私の最後の句は以下の如し。(末後一句)
死というものはすぐにやってくるが、悟りへの道を極めるのは大変難しいものである。(死 急難道)
言葉の無い言葉を言として(言無言言)
天道に逆らうことなく、又逆らえば、死はすぐにやってくる(不道不道)

のようになると思いますが、これではよく分かりません。特に言葉にしない言葉を言とし、の意味はどういうことなのでしょうか。禅問答特有の難しい言い回し、言葉です。また難道をいいがたし、不道不道をいわじいわじと読ませているところも不思議で、道をい又はいわとして使っています。

(末期の一句)とは、通常、究極な絶対的境地を示す句のことです。
また、(死 急難道)の死と急の間1文字分の間隔が空いていることも注意が必要です。
(言無言言)とは、仏陀の言葉(サンスクリット語)を初めて漢訳した仏説四十二章経に出てくる言葉で、行無行行、言無言言、修無修修と続いて使われています。
最後の(不道不道)は老子の言葉で、「物壯則老,是謂不道,不道早已」から来ていると推測されます。これは「万事勢いが強いということは、自然の摂理に抗しながらの結果であるので、衰えるもの早いものだ」という教えです。
又「いわじいわじ」と読むのでしたら不言不言あるいはそのまま言不言不と書くべき所でありましょうから、下の2句は、無言道道 言不言不とも置き換えることができることかと思います。本来臨済禅は庶民に眼目を置き、分かりやすいたとえをもって導く教えですので、難しく考えずに、読みそのままに訳すと次のようになろうかと思います。

私はこれから座禅を組み入寂する。死の前に遺偈を残し究極、絶対の境地について語らねばならぬが、人の死は急なことなので、その境地を文字で示すことは困難であり、又悟りの境地は言葉や文字で言い表すことは出来ないので言い残すことは何もない。(いわずいわず)

正受老人は呵々大笑しながらこの句を書いたそうです。

そこには「不立文字」「教外別伝」「見性成仏」といったの臨済禅の中心思想を見ることができます。
正受老人の草庵は正受庵として今も残っていますが、映画の「阿弥陀堂たより」にも登場しているそうです。


(流金花)

正受老人の老人とは単に年老いた人を指す言葉ではなく、尊敬すべき知恵をもった方の敬称でもあります。
正受老人のことを考えているうちに、飯山の本田のうなぎが食べたくなりました。
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