戸石城(写真右)と尾根続きにある米山城(写真左)は、通称「砥石・米山城」と呼ば
れ、2つで一つの城として扱われています。どちらも村上義清が築いた城で、武田晴信
の軍勢を破った名城ですが、水の手を絶つことにより相手が降参するのを待っていた武
田方にこの米山城の山頂で白米を馬の上から流し、水が豊富にあると見せかけ、武田方
の戦意を喪失させたという逸話が残っています。村上義清は知略にも優れていたという
話ですが、その1年後、諜略によって真田幸隆に簡単に乗っ取られたところ見ると、
確かに戦はめっぽう強い武将ではありましたが、無骨な人の良い武人であったようです。
真田幸隆は入城して、一時は真田の居城であった時期もありましたが、時代が下り、
近年には、村上の武勇を称え、山頂に村上義清の石碑が建てられています。
真田方が入り城が焼かれた時、水のように流した米も焼けましたが、今でも山頂を掘
ると、黒っぽい生焼けの米が出てきます。
右下の窪みは米が出てくるところです。
私が小学生の頃、低学年は今は廃線となった電車で2駅位乗り、この米山城へ遠足に行
きました。先生は事前に白米伝説や村上義清の話、戦の話などをしてくださり、山頂では
確かに、焦げた米を拾いました。
先日数十年振りで登って見ると、山頂の窪みは物を燃やした跡があり、懐かしかった
のですが、これは今も誰かが、多分地元のイベントか何かで、この白米伝説を実地で行っ
ているようで、小学生の頃から今まで、本当に掘ると出ると思っていたのですが、当時
も先生方は事前に米を燃やして埋めておいてくれたのかなと、ふと思いました。当時の恩
師はいませんので、確かめようもないですし、その頃はこのような燃やした跡もなく、た
だ普通に木の枝か手で掘ってみただけのような気もするのでどうかなと今でも疑問です。
私の年代やちょっと上の方も米山城遠足をしているので、こんど聞いてみようと思いました。
山頂からは上田盆地が一望できます。右端の中程に光るのが千曲川です。
また薄っすらと高いビルが見える右側が上田城です。
真下に並ぶ家並みは金剛寺集落で、この集落の先には、かつての松代街道であった
金剛寺峠があり、ここを越えて、移封時真田信之は松代に向って行きました。また江戸
末期には佐久間象山が、松代から馬に乗り地蔵峠を越え、傍陽(そえひ)からこの金剛
寺峠を越え、上田にて活文禅師より教えを受けました。
東側には烏帽子岳が聳えています。
れ、2つで一つの城として扱われています。どちらも村上義清が築いた城で、武田晴信
の軍勢を破った名城ですが、水の手を絶つことにより相手が降参するのを待っていた武
田方にこの米山城の山頂で白米を馬の上から流し、水が豊富にあると見せかけ、武田方
の戦意を喪失させたという逸話が残っています。村上義清は知略にも優れていたという
話ですが、その1年後、諜略によって真田幸隆に簡単に乗っ取られたところ見ると、
確かに戦はめっぽう強い武将ではありましたが、無骨な人の良い武人であったようです。
真田幸隆は入城して、一時は真田の居城であった時期もありましたが、時代が下り、
近年には、村上の武勇を称え、山頂に村上義清の石碑が建てられています。
真田方が入り城が焼かれた時、水のように流した米も焼けましたが、今でも山頂を掘
ると、黒っぽい生焼けの米が出てきます。
右下の窪みは米が出てくるところです。
私が小学生の頃、低学年は今は廃線となった電車で2駅位乗り、この米山城へ遠足に行
きました。先生は事前に白米伝説や村上義清の話、戦の話などをしてくださり、山頂では
確かに、焦げた米を拾いました。
先日数十年振りで登って見ると、山頂の窪みは物を燃やした跡があり、懐かしかった
のですが、これは今も誰かが、多分地元のイベントか何かで、この白米伝説を実地で行っ
ているようで、小学生の頃から今まで、本当に掘ると出ると思っていたのですが、当時
も先生方は事前に米を燃やして埋めておいてくれたのかなと、ふと思いました。当時の恩
師はいませんので、確かめようもないですし、その頃はこのような燃やした跡もなく、た
だ普通に木の枝か手で掘ってみただけのような気もするのでどうかなと今でも疑問です。
私の年代やちょっと上の方も米山城遠足をしているので、こんど聞いてみようと思いました。
山頂からは上田盆地が一望できます。右端の中程に光るのが千曲川です。
また薄っすらと高いビルが見える右側が上田城です。
真下に並ぶ家並みは金剛寺集落で、この集落の先には、かつての松代街道であった
金剛寺峠があり、ここを越えて、移封時真田信之は松代に向って行きました。また江戸
末期には佐久間象山が、松代から馬に乗り地蔵峠を越え、傍陽(そえひ)からこの金剛
寺峠を越え、上田にて活文禅師より教えを受けました。
東側には烏帽子岳が聳えています。