将人とともに together with Masato

For the parents in the world, whose children have autism.

重症結膜炎

2008年08月26日 | 体育
今回の夏期家庭学校では、是非クロールの練習をするよう先生から勧められ、頑張って先生ご指定のダイソーの水泳教本を何とか探し出し、週2~3回プールに通った。

(4軒目でやっと見つけた。それにしても、ダイソーの店員さんにもいろんな人がいるものだ。「そんな本はありません。」ときっぱり言い切った、自信満々の顔が忘れられない。また、そう言い切られてしまっても、彼女を信じる事もできず、仕方がないので自分1人で他のものを探しているかのようなふりをして店内中を探すことの何とバツの悪い事か。ご自分の知らない世界がある可能性というものを認めようとしないのだ・・・。世の中をそんなに簡単に割り切って考えられる若さが羨ましくさえ思えた。単に面倒くさかっただけだという事かも知れないが・・・。)

昨年まではできなかったクロールの息継ぎが既にできるようご指導戴いており、ばた足と手の動かし方にまだ多少改善の余地は残るものの、クロールで25メートルも泳げるようになっていたのには舌を巻いた。いったん泳げるようになれば本人も面白いと見え、積極的に泳いだ。ただ、手の入水の仕方を競泳選手並にさせようとしたら、あれこれ言われるのが嫌になったと見え、泳がなくなってしまったが・・・。こういう所は親がやると上手く行かない・・・。先生方は本当に教え方がお上手だと心から思う。

ただ、8月後半は水泳のせいか、いたずらで目をいじる癖のせいか、左目が結膜炎になり、抗生剤の点眼をしたもののなかなか治らず、だんだんまぶたと眼球全体も腫れてきて、あわてて眼科に行ったら左目の強膜炎という診断だった。

そのため、せっかく上達した水泳もみすみす後半2週間はできないこととなってしまった。

幸い良くなったが、水泳の練習はおろか、マラソン、逆立ち等もしばらくできないこととなり、9月からのトレーニング生活がおもいやられる事となった。

ただ、将人の脚力はもう本物のようで、ずいぶん目も良くなったので、昨日久しぶりに5㎞走らせてみたら、はじめの数周こそ多少きつそうにして時々歩いたりしていたが、5周目頃から調子が乗ってきて、8周目からはスピードも上がって10周走りきった。

30年前鍛えた腕力は小生のこの年になっても思いのほか落ちていないが、脚力は数日休んだだけですぐ落ちると聞く。

将人には、必ずしもそれは当てはまらないようだ。若いということはすばらしい。それよりも、せっかくつけた生活習慣が目のために崩れてしまったことの方が大きかった。やはり、今の将人にとって運動を中心とした生活は重要だというのがよく分かった。

ゆっくりゆっくり笑顔になりたい―知的発達障害のある人にスポーツの場を提供するスペシャルオリンピックスという活動
大宰 由紀子,スペシャルオリンピックス日本
スキージャーナル

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三峰駐車場に06:45集合できる宿

2008年07月22日 | 体育
朝も早いので登山道に近い宿がいいという人は、迷うことなく三峰神社の興雲閣です。

ですが、どうせ自家用車だから、三峰神社駐車場まで1時間以内の宿なら何処でもいいという向きには、大滝観光協会秩父旅館業組合、から選んでもいいでしょう。

特に洋室をお好みの方は、旧秩父市内のルートイン秩父、第一ホテル秩父、農園ホテル、と選択肢は多くありません。

上記サイトに掲載されていない民宿もあるようです。通りすがりに気にいったものがあった場合は、今後の為にメモしておかれる事をお勧めします。



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雲取山登山その2

2008年07月21日 | 体育
追伸1 : 

雲取山登山が終わった夜は、恒例の宴会です。みなさん遠くから来ているので、普段は話す機会も少なく、大変貴重なコミニュケーションの時間で、毎年とても楽しみです。午前2時、3時まで先生方も付き合って下さいます。

ですが、先生方もお若いとはいえ、普段どおりに午前5時50分に起床し、生徒と一緒に5㎞マラソンをされるのはどうでしょうか。親の半分くらいは起きられず、出て来られないにも関わらずです。

持病のない、本当の突然死は若い方々にこそ多いのです。生徒も登山明けの日です。日曜日課に準じて、みんな休養としたら軟弱でしょうか。誠に僣越ですが、これは小生の職業上の観点から、強く強くお勧めします。先生方に倒れられたら、非常に困る人が数え切れないほどいるのです。



追伸2 :

就学前や、小学校でもいろいろな先生方、福祉関係の方、ボランティアの方々に大変お世話になりました。「雲取山登山その1」を読んでお気を悪くされる部分もあるかも知れませんが、私はそんな先生方のご指導そのものを批判する気持ちは決してありません。それどころか、右も左もわからない新米の父親を温かくご指導して下さった事に心から感謝しています。少年の将人に温かく、受容的に優しく接して下さいました。本当に有り難かったです。

ただ、我々の敵は学校でも先生方でもなく、「自閉症」という、エベレストのように我々の前にそびえ立つ障害そのものですから、それに前進がなかった、思ったより少なかった、という意味です。焦りもこもっています。

自閉症を克服するという山頂ははっきりしていて、その山をどう登っていくかは人様ざまですし、どこでやめるか、どこから引き返すかも人それぞれでしょう。

ただ、道は一つではないし、今までいいと言われている事も最善ではない事は明らかです。残念ながら唯一無比の道はなく、相対的な道しか見つかっていません。それで、いろんなチャレンジがあっていいと思っています。時間はあまりないのですが・・・。


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雲取山登山その1

2008年07月19日 | 体育
もうすぐ東京都最高峰の雲取山登山です。

細かな事は親の会の世話役の方々から丁寧な手順表をいただきました。

しかし、登山のレベル、宿の件、など、まだ戸惑っていらっしゃる新入生の親御さんも少なくないようなので、わかる範囲で書いてみます。

比較的緩い傾斜で、倍の距離を歩く東京都の奥多摩湖側からではなく、あえて傾斜のきつい三峰側から生徒たちは日帰りで登ります。生徒たちは、最近の力量、精神状態に応じて先生方が適切にご指導下さいます。うちの将人は、3年目にして山頂に登るグループに入れていただき、いまだグループ変更のお知らせもないので、本当に山頂まで行けるようです。あの弱かった将人が・・・、まるで夢のようです。

小生も毎年レベルをあげてきましたが、それでもまだ山頂までは厳しいと思い、それなら1日前に奥多摩湖側から丸1日かけて山頂にたどり着き、雲取山荘に泊まり、翌日みんなが登ってくるころ三峰側に下山しようかと目論んでいました。

しかし、悲しいかな昨秋から体を壊し、今年は敢えて抑えた方がいいと決断しました。独りで登ると熊に出くわさないか、とても心細いという問題もあります。それでも、お清平までは行けると思います。そこから先は、小生を嘲るかのようにそそり立つ、ロッククライミングで行くような道の連続で、本来は昨年行き着いた場所から10メートルでも20メートルでも先まで行って引き返したかったのですが・・・。

成長盛りの生徒たちと競り合ってもしょうがないのは初めからわかっていますが、いつのまにかそういう気持ちになってしまうのは、この学校の伝統のなせる技でしょうか。「障害児の人生」という道なき道を、這いつくばってでも何とか少しでも進もうという雰囲気がそうさせるのでしょうか。

「お子さんは自閉症です。一生負わなければならない障害です。」

「以前と違い、今はさまざまな公的サポートがあり、各地に十分な予算を配した養護学校がありますので、みんなで頑張って行きましょう。」

小学校入学前にそう告知され、それなりに勉強し、頑張ってきた。それが結局何になったのだ。同じだ。問題は何にも変わって行かなかった。それから、世の中で言われている事に疑問を持った。

そして、チャレンジして行く学校に入れていただいた。チャレンジの内容、量、方向性にはまだ疑問もある。ただ、こんなに精根擦り減らして指導して下さる先生方を他に知らない。親よりも親のように生徒を叱り、生徒のために涙して下さる・・。

きつい山道をものともしない子供たちと先生方のその雄姿を見て、思わず襟を正す、というのがこの伝統なのだろうかとも思う。先生方もきついのだ。生徒たちもきついのだ。年をとったとはいえ、親も多少はきつい事をしないとメンツが立たない・・・・。




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3回目の光の村体育祭

2007年10月06日 | 体育
秋晴れの元、体育祭が盛大に開催された。将人の進学先を模索し、インターネットで巡り会えた本校が一体どんなものなのかと見学させて頂いた一昨年も合わせると、既にこれで3回目だ。

見学の年は、本校生徒の障害児離れした動きにひどく驚くと同時に、うちの将人に果たしてあれほどの事が本当にできるようになるのかと半信半疑で帰宅した。

幸いにも入学を許可され、生徒として臨んだ昨年は、まさに感動の嵐だった。将人も実はできる子だったんだと涙が頬を伝った。



それで満足しきってしまったせいか、今年は映画「光の村の1年間」の、平和な単なる1シーンとしてしか見えなかった。先生方にはやや失礼に聞こえて怒られそうだが、それくらい「当たり前の事」として将人が参加していた。

小学校の時のように、徒競走で逆方向に走る事もなく、出番を待つ時にも体育座りで「普通の子」として振る舞っていた。それどころか、精気に溢れた豹の様な目でゴールをしっかり見据え、一生懸命に颯爽と前に向かって邁進し、今年も一等賞に輝いた。



親は到底できない竹登りを今年も軽々こなした。自転車でも隊列を離れなかった。

むしろ、昨年の感動よ再びとばかりに、新入生の方にばかり関心を持って眺めていたくらいだ。そしてやはり、そっちの方にはことごとく感動した。あの子もこの子も、やっばりこんなに変わった、と。



ただ、どう考えてもあの子だけはほとんど変わらないだろうと内心思っていたお子さんが実はいた。あのタイプのお子さんには光の村方式はお門違いだとさえ思っていた。だが、ところがどうだ。その子でさえ大きく変わった。これが驚異と言わないで何であろう。



親御さんのお気持ちは如何ばかりか。入学の時とは目つきも姿勢も態度もまるで違っている。そして更に、そこに到るまでの辛くて厳しい練習があったに違いないのに、その子自身がうれしそうに誇り高く演技しているではないか。

改めて、この学校の先生方の昼夜を問わないご努力と、そのシステムを作り上げられた西谷理事長の類い希な才覚に頭が下がる。まるで奇跡だ。そして、その奇跡が毎年繰り返されている!!

「奥深い山奥でふと道端に落ちている石を拾い上げたら、ダイヤモンドの原石だった。」
光の村と将人との出会いはまさにそれだ。

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情緒の安定

2007年08月31日 | 体育
窓ガラスを割った事に関し、親馬鹿だと思われるだろうが、将人の名誉のために若干付け加えておく。

ガラスは必ずしも、割ろうとして割ったのではないようだ。

生活サポートの人がいつも訪問する時刻が近くなり、玄関近くのおばあちゃんの部屋の窓から外を眺めていたそうだが、なかなか訪問して来ないのと、家の者に「昨日脱走したから、今日の生活サポートはないよ。」と言われた事でいらいらをつのらせ、思わず、悔し紛れに窓ガラスを平手でばんばん叩いたというのが真相のようだ。

床でもベッドでもドアでも良かったのだが、たまたま窓ガラスが前にあったので、それを叩いたという感じだ。

本当に割ろうとして割るのなら、道具で叩くだろうし、窓ガラスを割る事によって外にも出られる、広縁の掃き出し窓を割るのが妥当というものだろう。将人はそういう事を企む頭はあるはずだ。

やはり、問題は情緒だ。

トレーニングも学校に順応して来たし、「トレーナーとしての親」を受け入れるようにもなった。その点では、親の負担も軽くなった。しかし、依然として情緒の不安定は同じだ。運動する事により、安定して来たとはまだまだ思えない・・・。

そういう意味で、冬の文化祭の時、ハーモニカを先生も驚かれるくらいに上手に演奏できた事を思い出す。いい笑顔で練習もできた。練習する事自体が楽しみのようでさえあった。

ノーベル文学賞の大江健三郎さんの息子、大江光さんの事をふと思い出す。将人にも光さんのような、音楽の道はないものだろうか。

運動する事により情緒の安定が得られるのではないかと光の村に入学させて頂き、進級させてもらったが、このまま高3のトライアスロンまで持って行く事が唯一の道だとはまだ思えない。



追伸 :
この夏、セブ島に連れて行ったが、そこで5㎞のランニング後、ホテルのトレーニングルームで腹筋等をする際、トレーナーの人と話す機会があった。

そういう時、自閉症でも昨年末20㎞のハーフマラソンを走ったんだと言うと尊敬のまなざしで見られたし、況やもしトライアスロンをしたとでも言う事になれば、一生の宝物になるだろう事は想像に難くない・・・。

ただ、その場合でも誇らしく思うのは、あくまで親の方であって、将人自身にはそういう感情は、将来的にもおそらく、「ない」と思う・・・。

かといって、将人が地獄のように感じているかと言うと、必ずしもそうでもないようなので、実に判断に苦しむ所だ・・・。

思えば、自分も20代半ばまではかなりきついトレーニングを自らかって出ていた。老人の判断を将人にあてはめてもおかしくなるというものだろう。

あっという間に将人も成人になる。果たしてどうしたものか。





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登山と心拍計

2007年07月28日 | 体育
恒例の夏休み直前、1学期の総仕上げとも言うべき雲取山登山に行って来た。

今回は去年の轍を踏むまいと、心拍計をつけ、140になったら直ぐ休むようにした。

どうも、昔の癖でつい頑張ってしまうきらいがあり、結局長続きしない結果になるからだ。辛くなるのは、怠けでも何でもなく、自らの体が悲鳴を上げ、破綻前の警報なのだと素直にとらないといけない。若い時は、運動して辛くなって来ても、それは耐えてやり抜くべきものでしかなく、休む事には罪悪感さえ覚えていたが・・・。

今回、根性論をさらりと捨て、単純に心拍計の指し示すところに従い、140を超えたら休み、120を割ったらまた歩き始める、という事をしたが、実にこれが合理的であった。

140を超える頃には極端に息が切れ始めたし、120を割った頃には息の乱れが消え、100を割ったら完全に汗が引いた。

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できれば、将人のマラソンに伴走する時にも心拍計を付けさせたいと思ったが、伴走者用の心拍計なるものが存在しないらしい。もともとスポーツ用心拍計は海外メーカーの独擅場だったが、カシオも最近この分野に参入したので、後発メーカーとして今までにない所にも目を付け、是非とも作ってもらいたいものだ。

ただ、そうすると心拍数がまだ上がっていないからと、将人の苦しさを「単にわがまま」だと断定しきって、精神的なパニックを無視してしまう事にもなりかねないか・・・。やはり、総合的な判断をする覚悟は大事だろう。目的あっての目標であり、ゲージはあくまでゲージにしか過ぎないのだから。



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三峯(5)豚汁配布と子供の応援

2007年06月19日 | 体育
いったんレースが始まると、応援に行かなくてはならないし、走り終わった選手に豚汁を順次配らなくてはならないし、なかなか忙しい。

特に中学生は4㎞なので早く終わるが、スタートは10㎞の部と同じ地点なので、ゴールは山の中腹となり、豚汁の小屋のある山頂駐車場(10㎞ゴール)から降りて行かなくてはならないし、また、登って来ないといけない。

特に昨年と違い、今年は選手が道幅一杯に走っており、片側一車線を大会関係者用に解放していないのが最大の問題だった。そのため、4㎞ゴールには何とかたどり着けたが、応援、着替え補助を終え、10㎞ゴールに戻ろうとすると車が動けない。しばらく様子を見たが、車列が延々とのろのろ走行だ。

「このままでは、高校生の親御さんは豚汁会場から離れられず、子供の応援に行けないじゃないか。」と業を煮やし、やむなく、対向車線に車が向かってこない事を確認しつつ、対向車線を駆け上がって行った。はたして、10㎞の部最後尾に救急車とパトカーがまるで寄り添うかのようにして伴走していた。

どうしようかと思ったが、競技を終えた選手が小雨降る肌寒い中で温かい豚汁を待っている由、お巡りさんに掛け合い、何とか許可を頂けたので、そのままパトカーの横をすり抜け、対向車線を山頂まで駆け上がった。
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三峯(1) 三峰山マラソン

2007年06月10日 | 体育
新入生もそろそろ学校生活に慣れる頃となり、まず最初の学校行事である三峰マラソン大会があった。

これは本来「第28回 奥秩父三峰山マラソン大会」という公的な歴史ある大会で、光の村は原則として中学生は4㎞の部、高校生は10㎞の部に全員参加する事になっている。もちろん高校生でも新入生は4㎞の部に出場したり、そのあたりは先生方が子供の力を適切に評価してエントリーして下さる。

スタートの場所も時刻もみんな同じで、光の村のパン屋のある二瀬の広場から一斉にスタートし、ダムの上を通って、秩父湖脇の三峯神社に向かう自動車道を駆け上がるコースだ。山腹の分岐した道で4㎞の部はゴールとなり、10㎞の部は山頂の三峯神社駐車場まで走る事となる。標高差は、4㎞の部で60m、10㎞の部で500mだ。聞く所によると、箱根駅伝のいい練習になると大学生も大挙して参加するそうだ。

私など学生時代から走るのが大の苦手なものだから、マラソン大会の雰囲気というものを全く知らないでここまで生きてきた。しかし、光の村に将人がお世話になる事となり、この手の大会で均整の取れた無駄のない体の老若男女が大勢、颯爽と走っていく光景を見ると、こんな小生まで走りたくなってしまうから不思議だ。

特に、小生よりも遙かに年配の筋骨隆々の方々が各地のマラソン大会を連戦して回っていらっしゃるのを聞くにつけ、本当に唖然としてしまう。こういう人生もあるのだなと・・・。今の体重のままだと、ただでさえ柔道で痛めた膝はマラソンに到底耐えられないが、もし何とか10㎏減量できたら将人と一緒に走れるかも知れない・・・とまたも思った。体脂肪のほとんどない、軽々とした体で、颯爽と風を切って走るその姿は、まさにバイクのツーリングを思わせた。


ゴール前500メートル地点で待っていると、将人たちの集団も先生に伴走されながら山道を駆け登ってきた。息もあまり乱さず、淡々とした顔で来たが、昨年と違い余裕があるのか、私の顔を見るなり、ニヤニヤして手をたたき、体をくねらせ踊り始めた。ただ、これまでと違うのは、こっちに寄って来る事もなく、そのままコースを駆け上がって行った事だった。本当に余裕の走りだった。聞くと、この4㎞の山道を23分でゴールしたらしい。実に昨年より5分近くの時間短縮だ。更に、昨年は先生にぴったり伴走して頂いて何とか走った訳だが、今年は集団の先頭で、伴走して頂いたから走ったと言うより、一人で駆け上がったという方がもう正確かも知れない。

何にせよ、100点満点だと親の目からは思う。頑張って走ったら、任天堂のWiiを買う約束だったので、早速買って帰った。 




追伸 :
せっかく並んで買ったWiiだが、将人にとっては手をひねったり、振ったりして遊ぶWiiのリモコンはどうも苦手らしく、早々に遊ぶのをやめてしまった。結局、親父だけがやっているが、Wiiのすごい所は大人も結構遊べるという事だ。

そう言えば、ハニービーの時も将人が欲しがったと言うより、私が欲しくてかったら、将人もだんだん覚えたという流れだった。

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実を結ぶトレーニング

2007年01月11日 | 体育
長いようで短かかった将人の冬季家庭学校(冬休みというところを光の村ではこう呼ぶ。)も終わり、久々に通常の生活に戻った。将人の運動につきあった分、本来の自分の運動が少なくなり、私は若干太ってしまったようだ。

時々近くの市営体育館に行ってウェイトトレーニングをしているが、専用トレーニングマシンを扱うせいか、そこでは中学生以下の使用を禁止している。そのため、将人と連れだって行く事ができず、この冬季家庭学校の間の私のトレーニングは中止となってしまった。ある程度筋力がつき、遊び半分じゃないトレーニングができる年齢になってから来て下さいということなのだろう。

将人と行った旅行先のホテルでたまたまトレーニングジムがあったため、ウェイトトレーニングを一緒にした事があったが、将人はことトレーニングに関してはとてもまじめにする。これは普通の子供以上だと本当に思う。まじめにする以上はちゃんと結果に結びつく努力をさせたい。自分の経験から言うと、器具を使ったトレーニングは筋肉をムラなく鍛えることができ、バランスが良いように思うので、できればジムでトレーニングを一緒にさせたかった・・・。

腕立て伏せにしても膝屈伸にしても、つっぱるための伸筋系は鍛えられるが、引きつけるための屈筋系は鍛えにくい。若い頃、がむしゃらに腕立て伏せやスクワットばかりしていた私は、毎週、筋力トレーニングをする度に、伸筋系はまだまんざらでもないと思うのに、屈筋系が極端に弱いのに愕然とし、あの頃のきついトレーニングは一体何だったんだろうかと憮然としてしまう。

もっと正確に言えば、懸垂をすれば良かったのだろうが、それはきつ過ぎて、続かなかった。ウェイトを使った、負荷の調節できるトレーニングマシンをもしあの頃使っていたら・・・、と悔やまれる。また、もも(大腿部)の裏側の筋肉に到ってはマシンを使わなければ、トレーニングしようがない。必死にやった努力が実を結ばないのは本当に虚しいものだ。

うさぎ飛ぶもそうだ。あの頃は必死にずいぶんやった。ところがその努力が膝を痛める原因となり、努力が無どころか、仇で返されるような結末となった。
フルスクワットという深い膝屈伸運動もそうだ。それのやりすぎで、膝下を痛め、いまだに後遺症に苦しんでいる。聞くところによると、昭和53年頃、事故があったせいもあり、それらはやらないよう学校で指導され始めたという。運動方法も変遷するのだ。

自分のは競技のためのトレーニングだったが、将人たちのトレーニングは成長期の若者ということもあり、心肺系の発達、正しい姿勢、自分自身の体をもてあまさない体作り、作業に耐える体と心作り等が主眼になっていると思われる。

そのため、自分のような、競技のためのトレーニングばかりしてきたものにはやや奇異に映り、まさに走ってばかりの、マラソンクラブのそれに見える。

その関連のトレーニングに関しては小生、全く見識を持たないが、1年にも満たず、わずか8カ月でハーフマラソンが完走できるほど鍛えて下さった光の村方式はとてもシステマティックで理知整然としたものなのだろう。

今回、爪の下が内出血していたものの、20㎞走るための練習と本番を通じて足にマメが一つもできず、皮も全然剥けていないのはむしろ不思議だった。丁寧な指導と寮生活を通した、まめなお世話の努力がなせる技と改めて敬意を表したい。

先生は何とか努力させようとし、生徒はそれに必死に答え、その双方の努力がちゃんと実を結ぶ。こんな素晴らしい事が他にあるだろうか。自閉症で散々苦労してきた私たちから見れば、まさに奇跡的な事である。

とりわけ驚くのは、あんなに鍛えられてるのにも関わらず、今回の帰校の前に、「光の村、好きですか」と聞くと、「好きです。」とまんざらでもない様子で答えた事だ。西武秩父の集合場所で久しぶりに担任の先生に会った際、将人が先生に向かって「バイバイ」と言ったというが、それはもうほとんど父親かお兄さんに向かって発する、親しみを込めた戯れ言葉のように思えた。その後、仲良く(?)、先生方やみんなと一緒に大滝の学校に向かって行った、と言う。

大変お手数ですが、また3学期もどうかよろしくお願いいたします。




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光の村マラソン大会

2006年12月24日 | 体育

 
光の村マラソン大会に行って来た。

中学生は20㎞、高校生は42㎞走ると聞いて、将人たちは本当に大変だなとかわいそうなくらいに思って来てみたが、意外や意外、こっちが拍子抜けするくらい、みんな淡々とやっていた。

みんなが毎朝5㎞走っている学校裏の山道で、栃本の公衆トイレ横駐車場をスタート兼エイド地点とし、学校裏から少し登った所を折り返し点とする、1週2.5㎞のコースの往復だった。

長距離走の分、普段より遅めのペースで、ちょこちょこわさわさという感じではあるが、力強くかつ粘り強くみんな走っていた。もちろん、しかめっ面している子もいたし、時には泣き声のような叫び声を上げている子もいた。こづかれるように先生に押されてやっと足を進める、ほとんど競歩しているような子もいた。

ただ、将人も含め概してみんなポーカーフェースで、どの子も足を淡々と進めていたし、逃げだそうとしている子はいなかった。長く座り込んでいる子も見なかった。以前、将人がよくしていたような、道路に大の字に寝て、「嫌だ!」と抵抗している子もいなかった。

また、普通のマラソン会場でよく見る、立ち止まってげーげー吐いたり、脇腹を押さえながら苦しそうに走っている子は不思議なほど見なかった。いわゆる体調不良なら青白くなったり、吐いてもおかしくないのに、そういう子は一切おらず、時折騒いだり停まったりした時はこだわりなど他の要因で停まったという事なんだろうか。 それくらい周到にみんな準備して頂いているということなんだと思う。

かと言って、先生方が鞭を持って追い立てているかと思いきや、そんな事はない。男の先生も女の先生も自転車に乗って、時折「がんばれ!」「どうした!」と声かけしながら伴走しているだけだ。

敢えて言えば、普段は厳しい中にもやさしさを漂わせた光の村の先生方が、この時だけはそのかけ声に異常なほど気合がこもっていた。

まるで冬山登山で遭難し、極寒のテントの中で「今眠ったらもう終わりだぞ。目ん玉をおっ広げてもう少し頑張れ!もう一度家族の所に一緒に帰ろう!!」と仲間に活を入れている人のようだ。

あるいは、猛火に包まれたビル火災で退路を断たれ、10階の窓から救助用ネットを張った下の駐車場まで、生き延びるために何とかダイブさせようと仲間に必死に気合いをかけている人みたいだ。

今思えば、あれは生徒たちに対する叱咤激励であると同時に、もしかしたら先生方自身もキツイから両者を奮い立たせていらっしゃったのではないかとも思う。もちろん、第一義的には「諦めるな。障害をぶっ飛ばせ!」という気合であることは明白だが・・。

それくらい、このマラソン大会にはさまざまな人の、複雑かつ単純、そして限りなく純な思いが込められているのだ。

早朝5時半からのマラソン、続いて保護者会という過密日程で、先生方もおそらくほとんど寝ていらっしゃらないのだろうに、勾配のある山道を42㎞も、しかも生徒に合わせて敢えてゆっくり伴走するのはたとえ自転車でもとてもしんどいはずだ。最長老(?)の校長先生に到っては、自転車にもお乗りにならず、始めから終わりまで遅い子に付き添っておられた・・・・。

考えてみれば、28才以降今まで42㎞も自分は歩いた事さえあっただろうか。本当にご苦労な事である。

一人も脱落する事なく、そんなご苦労を生徒も先生もしたのに、だれ一人「どんなもんだい!」(ボクシングの亀田風に言えば、どんなもんじゃい!)と威張ろうとしない事がむしろ不思議だった。

昔、私も体育会系のクラブに属し、頑張っていた時代があったが、所詮は自分のためにやっていたはずなのに、いつしか部のため皆のためみたいになって、トレーニングを終えて帰る時には心の中で「どんなもんだい。」といつも肩をいからせていた・・・。

知り合いがパラシュート降下にチャレンジした事があった。テレビでも時々芸人さんがやっている、インストラクターにぶら下がる形のタンデム降下ではない。バンジージャンプのような、11メートル飛び出し塔からの飛び出し訓練。それが躊躇なくできるようになると、数本の細いロープで空中に吊り下げられた、開傘状態からの80メートル落下訓練。もちろん、着地までパラシュートを操縦するための懸垂、着地のための受け身練習など、やる事は山ほどある。以上、さまざまな地道な訓練を数週間かけて行い、初降下となる。たとえ好きで始めた訓練とはいえ、最後の最後まで逃げ出したくなる気持ちが見え隠れする。だが、いったん降下したら、それまでの恐怖、不安がすっかり晴れて、まさに「天下を取った。」かのような自信と変わり、精神的にも雲上の人と化す。下じもの、娑婆の人間とは自分は違うのだ、と。

人間には一皮むける時がある。パラシュートの初降下しかり、マラソンしかり。それは人様々だろう。

だが、少なくとも将人たちにとっては、今回のハーフ、あるいはフルマラソンは十分それに値するはずだ。何十㎞も走ったのだ。威張り散らしたり、「お父さん、こんなに走ったんだから絶対○○買ってよね。」くらい言っても良さそうなものだ。

あるいは、光の村の子は自分から進んでここに入学したり、自ら好んでマラソンしている子はおそらくいない。それなら、こんなにきつい事をさせられたら怒り出して、先生にくってかかってもおかしくないはずだ。それが、先生方の並はずれたご苦労は当然あったにしても、結局すんなりマラソンに応じて、しかもできてしまう・・・。

基本的に自閉症は素直な障害なんだという事だろう。あるいは、これが若いという事なんだと思う。

これがまだできる時に、できるだけ多くの事を体験し、多くの世界に目を向けさせたい。

限られた能力の、将人の鍵穴に何とかして何かの鍵がささらないか、可能性をまだ探りたい。 諦めるのはまだまだ早い、と本当に思った。

今回は、忍耐力という点で完全に父を追い抜いた。これまで、子供子供して、障害児の幼子だった将人がひと皮もふた皮もむけて青年となり、我が子に「尊敬」の念を初めて感じた歴史的な一日となった。 光の村に感謝!

 

 

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将人のハーフマラソン

2006年12月21日 | 体育

 

あさっては光の村マラソン大会だ。高校生はフルマラソン、中学生はハーフをそれぞれに応じた速度で走りきる。

中休みが高校生は40分、中学生は10分あるとはいっても、それぞれを4~6時間、2~4時間で走るのは並大抵の事ではない。午後は学期末の保護者会がある事もあって、高校生は朝5時半スタートだという。この時期の5時半といえば、まだまだ真っ暗だ。山あいの光の村ではなおの事だろう。

ここまで行くと、ついこの前まで手を焼いていた自分の子供に尊敬の念まで抱いてしまうくらい、神々しいものがある。その応援のため明日には秩父入りして、あさっての早朝に備える事にした。

単に体と精神力を鍛えるジョギングの域を超えてここまで来ると、昨年見た韓国映画「マラソン」の世界とオーバーラップする。その主人公は実在する韓国の自閉症青年で、19歳の時にフルマラソンをサブスリー(42.195㎞を3時間以内で走りきる、アマチュアランナーの夢を表現した言葉)で走りきり、健常者も含めた韓国史上最年少記録を打ち立てた人だそうで、翌年にはトライアスロンも15時間でやり遂げている。

以前見た時には「すごい」と思ったし、その余韻が残るままに光の村を知ったからか、光の村への入学をすんなり抵抗なく決めてしまった。 だが、あさって現実に目の前で将人がハーフマラソンという、親もできない、巨大で高い高い壁を乗り越えようとしているにあたり、改めてもう一度「マラソン」を見ないといけないと思い立ち、約1年ぶりに今日また見た。

今度で都合3回だと思うが、毎回感動する所が違ってくる。実に奥深い映画だ。光の村で、ランニング大会がある度に見返す事になりそうだが、おそらくその度に見方が変わってくると思う。

今回はまだ、「できない」と諦めていた将人が「できる」事を見て感動するだけに終わりそうだ。

そして、親の満足のためにさせているのも、この年齢だからこそまだ許されると信じたい。そして、それはとりも直さず、いろんな体験を通じて将人自身が自分の世界を作り上げていく糧(かて)となると確信したい。

この前の秩父宮ロードレースの時は苦しそうでもないが、かといって楽しそうでもない、息を乱さないポーカーフェースでのゴールだった。

願わくは今度は、解き放たれ、はじけ切ったような、すがすがしい笑顔で息を弾ませながらゴールしてくれる事を願う。

 

 

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将人が3時間走る!

2006年12月02日 | 体育


つい先日、秩父宮記念ロードレース大会が終わったかと思ったら、年末には光の村マラソンが催されるという。毎月定期的に行われている5㎞のマラソン記録会に毛が生えたくらいのものかと思っていたら、何と将人が3時間かけて20㎞走るのだという。

生徒の能力に応じて目標速度は個々に違い、速い生徒は時速10㎞だが、将人はまだ時速7㎞だ。だが、速度の違いはあっても、ごく一部の生徒を除き、走る距離はみんな、中学は20㎞、高校は42.5㎞だ。

何という学校だろう・・・。

7月にもこれに似た事があった。

将人は小学校時代、脱走してばかりいたので逃げ足が速くなっては大変だと思い、敢えて自転車の練習をさせなかった。そのため、光の村に入学した当初は自転車にも乗れなかったが、数回指導して頂いただけでもう乗れるようになり、今や自転車の魅力にとり憑かれたようだ。学校では自転車に乗る機会もそんなに多くはないのだろうが、家庭学校に帰ってきた時には暇さえあれば乗っている。そのせいもあってめきめき上達し、7月末の自転車記録会では59㎞を5時間30分で走りきったと先生から緊急ファックスを頂いた。

あの時も唖然とした・・・。 「できる」「できない」だけではなく、忍耐力をつけて、極めさせようとするのだ。

「光の村は子供たちを追い込む教育をする」とどこからか批判があったらしく、1学期の終わりに「追い込む教育」はしていない、と何度も先生が保護者会でおっしゃっていた。だが、何にもしない、できない将人を、少なくとも初めは追い込んで教育しないでどうするんだ、と本心思った。

実際、4月は暗い顔をして帰校して行った。ただ、不思議に「光の村、行かない。」とは言わなかった。本来どうしても嫌いなものは、「いらない!」とか、「行かない!」とか言えるのに・・・・。帰校のための自動車や電車にも乗った。そして、家庭学校で父と一緒に学校よりきつい筋トレをした。(父は昔からランニングは大の苦手だが、筋トレは得意だった。お父さんは腹筋100回するけど、将人は50回でいいよ、と言えば、時間はかかったが喜んでした。一緒にするのがとても好きなのだ。) そのうち、体力がついてトレーニングが当たり前の事となってくると、入学前の朗らかさが戻ってきて、ふざけるようにもなった。

夏休み前の保護者会は泊まり込みで行われたが、夜、生徒の相撲大会があった。笑いやおふざけもあった。こんなくつろぎもあったんだ、とほっとした。まるでオリンピックの強化選手並みの生活を、毎日強いられているものとばかりに思っていたから。

今日も一緒に家庭学校でランニングした。父が膝を痛めているのを知ってか、はたまた自分の体力が余っているのを知ってか、「お父さんは膝が痛いから、将人はマラソンする。お父さんは自転車で一緒に走る。いいですか?」と聞くと、一瞬、間が空いて、「中学校、10周」と答えた。親父が一緒に走るか、自転車で伴走するか、は全然問題ではなく、いつもしている「中学校の周りを自転車で10周(6㎞)走る」こだわりの方が大事なようだった。

果たして、問題なく自転車で伴走させてくれた。無事8周(4.8㎞)走って、ほとんど息を乱していなかったのは秩父宮ロードレースの時と同じだった。そして、更にいつも通り、自転車でそのコースを10周回った。もう5㎞のマラソンはちょっとついでにする事に過ぎなくなっているのだ。

これなら本当に20㎞を3時間というのも無理ではなさそうだ。

もう、追い込むとか何とかいうレベルの話を超越している。

確かに普通の子が憧れの選手のようになりたいと自ら求めてする、運動部のきつい練習とは違うだろうが、当初はともかく、少なくとも今は嫌な事ではないようだ。まるで「仕事」のようにこなしている。この粘りは将来に活きると確信を持った。



追伸1 :

父の自転車伴走を許した心がなせる技か、今まで何度頼んでもどうしてもくれなかったのに、「将人の明太子、ちょっとくれる?」と食事の時、今回も頼んでみたら、初めて自分から明太子の乗った皿を差し出してくれた。・・・・・・。ここまでが、実に長かった。しかし、運動させる事でどうしてこんな事まで変わるのか、本当に摩訶不思議だ。

追伸2 :

自転車で中学校の周りを10周走る時、もうマラソンしたのだから、後は好きにすればいいと思い、「将人一人で自由に自転車で走ったら」と言うと、それは嫌ならしく、[本当に走らなくとも、自転車の伴走でいいからついて来い]と言う事のようだ。
まだ、見放されていなかった!!\(^◇^)/

追伸3 :

この中学校は、将人が出た小学校の卒業生の半数近くが行く市立中学校だが、先輩も含めて、出会うと驚いたように「石川君!」とよく声をかけてくれる。将人もちょっかい出したり、会う人みんなに「お早うございます!」と言って回る。将人が自分を誇示するかのように颯爽と走るのが印象的だった。自信が出てきたように思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ロードレースに全員参加

2006年11月26日 | 体育

周辺市町村主催/長距離走大会に年何回か学校全員で参加するそうだが(本当に頭が下がるが、先生方も生徒に伴走して下さる!!)、その一つである秩父宮記念ロードレース大会がこの11月23日にあった

10数年前に完成したダムでできたさくら湖の周辺を走るというもので、例年は天気も悪く、水辺なので風が吹くととても寒かったそうだ。今年は天気もまずまずで、意外にも風がほとんどないという好条件での開催となった。

そう言えば、10月始めの体育祭もその前日まで台風級の大雨が降っていたのに、当日はカラッと晴れて最高の秋晴れのもと開催された。

浅香光代さんの猫だかなんだか,飼っていらっしゃるペットを連れて行くと、どんな店でもお客さんがどんどん入り始めるので、商売繁盛の御利益があると言う噂まで立って、是非うちに猫をつれて遊びに来てくれというお店が引きも切らなかったと言う。ラジオでご本人がおっしゃっていた事なので、あながちウソでもないのだろうが、将人にもそれに近いものがある。

将人と一緒に生活するようになり、もうすぐ14年になる。その間、将人を連れて実にいろいろな所に行った。将人の登下校で、小学校に朝晩ついて行かなくてはならず、また、小学校から何回か脱走したのでと、特に1年生から4年生までは終日学校でついているように言われたため、普通の仕事はほとんどできず、金はないけど時間はたっぷりあるセミリタイア状態を40代前半から始めることとなり、周辺のお散歩は当然の事、週末には自動車で将人と一緒に遠出した。

当初は電車にも乗れないひどい状態だったが、だんだん車内でも徘徊が少なくなってきたため、5年生からは新幹線や飛行機を使った旅行に積極的にチャレンジして、遠くにある印象的なものを見せて歩いた。奈良の大仏、原爆ドーム、札幌雪祭り、石垣島の珊瑚礁、等々。

本で見るより、実物を見せるのが一番だし、デジカメで撮って、パソコンを使った遊びの中でそれを何回も見返しさせて言葉と結びつけるのは非常にいい勉強になると思ったからだ。(もちろん、旅行好きな私がそれを口実にしたという面もあながち否めないが・・・。)

それ以来、デジカメはいつも肌身離さず携帯し、将人の目に入ったものは全て画像で記録し、後で言葉を付けて将人のパソコンに入れておくようにした。必ずしも期待したとおりに見てくれないが、単語力アップには役立っていると感じる。

近くの散歩は雨なら中止だが、飛行機や新幹線での旅行は旅行中に天気がどうなるか、大問題だ。それなのに、これまで行った数ある旅行で、雨にたたられた事はほとんど記憶にない。と言うか、先日の体育祭の時のように、台風も早まったり、遅くなったりして、まるで将人の行く先々を空けてくれるかのような振る舞いをした。

こんな事をここで書いても笑われるだけなのは百も承知だ。でも、書きたくなるくらい不思議に晴れた。本当の晴れ男だ。そんな事を思ったロードレースとなった。


今回も後ろに走る事もなく、まっすぐ前を向いてちゃんと走り、練習通りに5㎞の山道を28分台で走り終えた。光の村では5㎞を30分が目標という事なので、普通の学校の陸上部のような、とにかく走れ走れの、タイム中心のトレーニングではないようだ。それでも毎朝5㎞の山道を走っていると、だんだん速くなって、ほとんどの先輩は20分程度で走りきっていた。しかも、余り息を切る事もなく! 

医者から膝の故障のためもう走ってはいけないと言われたら、逆に無性に走りたくなってきた。若い時は走る事なんて眼中になかったのに、だ。初めて行ったロードレース会場の雰囲気は、誰にもそんな事を思わせてしまう不思議な魔力があった。

秋晴れのもとで少し遅めの紅葉を満喫しながら、伸びゆく若者の後ろ姿をゴールに追い、溢れんばかりの活発な、その成長エネルギーのしぶきを少し分けてもらった気がしたのは私だけだろうか。

本当に久しぶりに、とてもすがすがしい晴れやかな気分になった、最高の秋の休日であった。

こんな参観日なら何度行ってもいい。光の村に栄光あれ!! 

 

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初めての光の村体育祭

2006年11月07日 | 体育
平成18年10月7日、恒例の体育祭が開催された。数あるイベントの中でも最大のイベントのひとつと言ってもいいほど力の入ったものだ。その感想文を求められたので提出したが、それを転記してみる。
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前日までの大雨が嘘のようにやみ、まさにこれぞ秋晴れという絶好の体育祭日和となった。

思えば約1年前、同じこの校庭に家族みんなでこの体育祭を見学に来たものの、将人は競技を全く見ず、朝礼台に上がったり、荷物を置いたレジャーシートの上でお茶を何本もがぶ飲みばかりしていたが、今度は生徒の皆さんの中に完全に混じって競技をしている・・・。

悪さをした時、怒って追いかけてもこっちがとうてい追いつけない位の猛スピードで逃げる事のできる将人が、幼稚園、小学校といつも逆方向に走ったり、途中で脇見したりで、徒競走と言えば必ずどん尻だった。我々も周りもあの子はそういう子だからと納得していた。

ところが、まさに同じその将人が、今回は生き生きした目で姿勢正しく颯爽と、生まれて初めての一等賞を取った。

入学当初はまるで乳母捨て山に捨てられたかのように暗い顔をしていた子が、家庭学校で帰る度にはきはきして、帰校の際にも嫌がらなくなるようになり、体育祭を機に光の村の精神が完全にその心に宿ったようだ。

小学校の一泊二日の宿泊学習の際にはとてもいい子だった将人が、普段はどうしようもない状態だった。ならば、宿泊学習を連続してみたらどうだろうかと寄宿制養護学校をインターネットで探した。はたしてそこは、一年中、林間学校しているようなところだった。

思えば、自分も小学校の頃、林間学校は楽しくて仕方がなかった。山を歩いて目に入る虫や草、また木や花の名前がすらすら言えたらどんなにか楽しいだろうと思った。目の前にそびえ立つ、雲にかすんだ山を上から見下ろしたらどんなに気持ちいいだろうかと思った。漆黒の夜空に浮かぶ無数の星を見上げながら、スバルがどうのこうのとうんちくを垂れる事ができる人を羨望のまなざしで見た。木の実やキノコを毒のあるものないもの見分けられる人を直感的に尊敬した。木を切って、器用に椅子や机を作ってしまう人を超能力者のように感じた。

ここに初めて来た時感じた空気はその空気だったと思う。

ここには健常児もうらやむ環境とそれを支える優秀な先生方がいる。その環境で限られた能力の将人が無限の力を開花させようとしている。

(夏休み等、健常児にもオープンして1週間程度の合同授業はどうだろうか。特殊学級のない学校の子にはとても勉強になると思う。また、野生の猿が日常的に校庭にやって来る環境も子供にとってはたまらない魅力があるはずだ。)

障害児教育は障害そのものの多様性からどれがいい悪いを論じる事は難しい。しかし、個々の子供に関しては明らかに、いい悪いを論じられてしかるべきだ。

将人にとっては明らかに適切かつ最善であったと現段階までは結論できると思う。

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