久々に会う友人と話してよく思う違和感。
懐かしい思い出話に花が咲き、
変わらないキャラクターややり取りを見て、
タイムマシンであの頃にもどれる安心感。
でも
みな確実に大人になっていっている。
でもその
「大人になる」てのは
=「現実を見る」
ということ?
自分の現実を受け入れ、
環境や周りの人間を見ての現実的な「限界」ってのを知り、
その中で自分なりの楽しみを見出していくのが大人なら、
そんな大人ってどうなのよ。
みんなが自分の不遇自慢をする中で、
自分はすげー恵まれた環境で仕事に誇りを持って頑張っている話をするのは、
ただの自慢に聞こえてしまうのだろうか?
ま、実際の労働環境(時間とかカオスなミッションとか)を考えたら、
激務って言われてもしゃーないと思うが。
楽な仕事なんて世の中にはまず無いし
大変な中でもそれを楽しみにできるかは心持ち次第。
その前に、自分が最大限面白く働ける環境を手に入れるかどうかの本人次第?
そんなことを、日に日に「大人」になっていく友人達を見て思った。
どうせなら、自分のライフワークに誇りを持って、
生き生きと前に向かう話をしたい。
好奇心のままチャレンジして、
転んでも「なにくそ」ってアホのような夢を追い続ける
「子供」の方が楽しいんじゃないだろうか。
「仕事が楽しい」と胸張って言える人はどのくらいいるんだろうか?
そんな人達がマイノリティで、
なぜか肩身の狭い思いをしている不思議な世の中、
そしてそこに疑問を感じない日本の社会。
「協調性」という文化は、
時に意図しない方向にも迎合していきがち。
案外景気の上下、経済の勢いってのも、
「多数派がどっちか」っていうそんなもんかもね。
現実に感謝し、これからの未来をがんがんに話せる人とガッツリ話したい。
自分の身の回りにそんな友人がたくさんいる自分はラッキーだ。
日本にいるうちに、
出来る限り「子供」な話をして来よう。
そして、どれだけ「子供な大人」にこれから出会えるかってのが楽しみだ。
懐かしい思い出話に花が咲き、
変わらないキャラクターややり取りを見て、
タイムマシンであの頃にもどれる安心感。
でも
みな確実に大人になっていっている。
でもその
「大人になる」てのは
=「現実を見る」
ということ?
自分の現実を受け入れ、
環境や周りの人間を見ての現実的な「限界」ってのを知り、
その中で自分なりの楽しみを見出していくのが大人なら、
そんな大人ってどうなのよ。
みんなが自分の不遇自慢をする中で、
自分はすげー恵まれた環境で仕事に誇りを持って頑張っている話をするのは、
ただの自慢に聞こえてしまうのだろうか?
ま、実際の労働環境(時間とかカオスなミッションとか)を考えたら、
激務って言われてもしゃーないと思うが。
楽な仕事なんて世の中にはまず無いし
大変な中でもそれを楽しみにできるかは心持ち次第。
その前に、自分が最大限面白く働ける環境を手に入れるかどうかの本人次第?
そんなことを、日に日に「大人」になっていく友人達を見て思った。
どうせなら、自分のライフワークに誇りを持って、
生き生きと前に向かう話をしたい。
好奇心のままチャレンジして、
転んでも「なにくそ」ってアホのような夢を追い続ける
「子供」の方が楽しいんじゃないだろうか。
「仕事が楽しい」と胸張って言える人はどのくらいいるんだろうか?
そんな人達がマイノリティで、
なぜか肩身の狭い思いをしている不思議な世の中、
そしてそこに疑問を感じない日本の社会。
「協調性」という文化は、
時に意図しない方向にも迎合していきがち。
案外景気の上下、経済の勢いってのも、
「多数派がどっちか」っていうそんなもんかもね。
現実に感謝し、これからの未来をがんがんに話せる人とガッツリ話したい。
自分の身の回りにそんな友人がたくさんいる自分はラッキーだ。
日本にいるうちに、
出来る限り「子供」な話をして来よう。
そして、どれだけ「子供な大人」にこれから出会えるかってのが楽しみだ。