ごとりん・るーむ映画ぶろぐ

 現在584本の映画のあくまで個人的な感想をアップさせていただいています。ラブコメ、ホラー、歴史映画が好きです【^_^】

みなさん・さようなら(ドゥニ・アラカン監督)

2007-12-31 | Weblog
ストーリー;肝臓がんでモントリオールの病院に入院している自堕落な元社会主義者レミは末期症状に陥ろうとしていた。妻はロンドンの証券会社で働く息子に電話をしてモントリオールによびよせる‥。
出演;レミ・ジラール、ステファン・ルソー、マリー・ジョゼ・クローズ
コメント;息子のセバスチャンはロンドンの証券会社で働いている。午後2時半にカナダのモントリオールから電話が届く。映画の中で彼は、ノルウェーの北海油田開発会社をアメリカがのっとり、その原油価格の高騰を防止するスワップ取引のやり手のディーラーをしているらしい。死の床にある父親は自らを「好色な社会主義者」といい、その息子を「野心的な資本主義者」と定義づける。
 病院の描写はカナダといよりもフランス的だ。病室の移動には役所の許可が必要となり、病院の中では理事会よりも組合が強い影響力をもっている。洗濯場で女性がレイプされ、ノートパソコンなどが日常的に盗難にあう病院だ。病院のシスターは「聖体」のパンを器にいれ、死の床にある病人は廊下に寝かされているケースもある。田舎の大学教師をしていた父親はその職場を非常勤講師に奪われ学部長は挨拶にも見舞いにもこないという官僚主義。病院の壁は白く塗られているが、時に緑がかり、そして青みをおびて陰影をだす。カナダという設定なのでセントローレンス川やモントリオールという地名がでてくる。そしてアメリカのバーリントン病院にデータを転送したり、オーストラリアからニューカレドニアまで海の上の航海している妹は、衛星通信で画像を転送してくるというハイテクな設定だ。終始、死について語る登場人物たちはある意味では現実的でもある。「20世紀はそれほど陰惨な時代でもない。16世紀のスペインとポルトガルは1億5000万人を殺害した。オランダ、イギリス、フランス、アメリカはそれぞれ先住民族を5000万人殺害している。あわせて2億人だ。なのに彼らの慰霊碑もたたない。」そしてまた2001年の9月11日のテロの映像にあわせて「犠牲者が3000人というのは少ない。ゲティスバーグの戦いではアメリカは50,000人の死者を出している」といった過激なナレーションが流れたりする。かなり暗い内容なのだが、「死」と向き合った瞬間の人間がいかに「笑い」を取り戻せるかについてこの映画は取り組んでいるようだ。ただし、なかなか笑えないが。映画の中で「ポーランドが不幸なのは神がいる証拠」といって笑いあうシーンがある。これ、おそらく一部のキリスト教徒がキリスト教を否定する共産主義国家については神の「怒り」が示された‥とする見解をもっていたことへのアナロジーだろう。ファティマのマリアといったマリアの再来伝説はポルトガルにはじまり、日本の秋田県にもこのファティマのマリアは現れたそうだ‥。宗教にはかなり冷淡な映画だが修道女は「だからこそ人間を許す神が必要なのだ」と説く。主人公はフランス系カナダ人として、ケベック独立運動、毛沢東主義、実存主義、構造主義‥とあらゆる主義を渡り歩き、しかも自分はバカだ‥と客観視できる知的能力も持ち合わせている。すべての主義を脱ぎ捨てた後、湖のほとりで死んでいく姿は「人生への執着」を最期までみせてくれる。そして画面は急に爽やかな白の世界となり。なんともいえない空の色が画面に広がる。
(マリア・ゴレッティ)
マリア・ゴレッティは、イタリア農夫の娘として生まれた。1890年生まれとされている。年少のころに父を失い、母親が働かざるを得ない貧しい生活の中、家事手伝いをしていた。隣家の息子アレッサンドロは、マリアを誘惑し続けたが、それをマリアは固く拒んだ。その結果、アレッサンドロはマリアを刺してしまう。このときにはマリアは12歳ということになるが‥。アレッサンドロは、カプチン会の修道院に入り、庭師として贖罪したといわれているが、この女性はキリスト教的「貞節」についての教訓話とされている。ただしこの映画ではそうした貞節さについてはどちらかといえば皮肉として扱っているフシもみえなくはない。むしろ12歳で死んでしまった女性と老人の主人公との対比とみるべきだろうか。ただしこの主人公の男性は「バークレーで勉強していた‥」とさりげなく語る場面がある。相当なインテリであることが示唆されているように思う。この話を映画化したのが「沼の上の空」。主演がイネス・オルシーニだが、この映画では主人公の女性はレイプされ殺害されることになる。1949年のアウグスト・ジェニーナ監督の作品。ベネチア映画祭の最優秀監督賞を受賞した作品だが、その一部がこの映画の中でも流される。まさに官能的ともいえるイネス・オルシーニの「太もも」である。しかしどちらにせよ実話(寓話?)も映画も女性は殺害されていることに変わりがない。フランソワーズ・アルディという名女優の名前もでるが「グランプリ」という映画が有名か。カレン・ケインはナショナル・バレエ・オブ・カナダのダンサーだが映画の中で「カルメン」を踊っているシーンが流れる。カルメンの運命は有名なとおり。
(プリモ・レーヴィ)
 イタリア系ユダヤ人の学者。アウシュビッツに収容されていた学者だが、戦後イスラエルのパレスチナ攻撃を批判。レーヴィとよく対比される学者にフランス系ユダヤ人のレヴィナスがいる。レヴィナスはプリモ・レーヴィと異なり、ウィーン条約でその安全を保証されていたため捕虜収容所で過ごす。プリモ・レーヴィは強制収容所のためいつ死ぬのかわからないという境遇にあった。主人公の家にはレヴィナスではなくレーヴィのビラがはってあるが、それはレヴィナスが生き残りの学者であり、死のふちを見なかったところにあるという寓話だろう。最終的にレヴィナスはユダヤ教のタルムードの研究に入り込むがそれはこの主人公とは無縁の話だ。宗教とはやはり一種の境を設けていることは間違いなく、現在よりも過去を懐かしむといったところがある。おそらく生き残った友人たちがレヴィナスを読み、死んでいく主人公がレーヴィを読むということになる。「死ぬ意味がわからない」と嘆く主人公の裏側に「生き残った理由がわからない」と嘆く友人たちがいる。そしてもちろんそこに救いは用意されていない。しかしラストシーンで観衆もまた「救いが無いこと」を了解する構造になっている。しかしこれはもともと戦後の欧米知識人に共通する理解だったのだろう。統計学的偶然で生き残った‥ということだけで一種の矛盾したやるせなさを誰しもが抱える。構造主義もマルクス・レーニン主義もそうした雰囲気の中で醸成されていったということはあるのだろう。もちろん日本でも戦後知識人が掲げだした戦後民主主義というのは生き残りの学者の美学だったのかもしれない。
(「歴史とユートピア」)
ルーマニアの地方都市に生まれの学者シオランの著書。バルカンのパスカルとか「呪詛の人」と呼ばれた。主人公もまた「呪詛の人」と化しているが、このシオランの著書が主人公の書斎に並んでいる。ニーチェとは一線を画していたようだが、既存の思想・信仰体系への批判を展開した。バチカンを批判し、カソリック教徒をののしる主人公の思想的基盤を構築したものと考えられる。「神なき絶対」を探求するモラリストとして知られているが、主人公は「モラル」は受け入れられなかったようだ。
(サミュエル・ピープス)
1633年生まれ。サミュエル・ピープルの日記がやはり書斎に並んでいる。これもまた印象的だが、もともとは中産階級の生まれだったが、ケンブリッジ大学を卒業し、フランス人と結婚する。当時のイギリスはチャールズ1世が断頭台に消え、クロムウェルの革命政権樹立後の無政府状態にあった。主人公が一種のアナーキズムと皮肉、ユーモアを兼ね備えていたことがうかがい知れる。知性は集団によって左右されるというテーゼが示され、フィラデルフィアの独立運動当時やソフォクレスの初演時のギリシアなどが映画の中で紹介される。そしてその背後にはクロムウェルの時代や、アウシュビッツの時代が対比されるわけだが‥。執着しているのは現在ではなく過去だ、とジャンキーに指摘された元教授の表情が味わいぶかい。若いうちには人生の殉教者になれるが老いてくると人生に執着するようになるともらす主人公は1950年生まれのまだ50代の前半だ。ジャンキーにむかって「先のことはわからない」とつぶやくこの社会主義者はおそらく主義という名の別の宗教に取り付かれていたのかもしれない。             
 この映画はアカデミー外国語作品賞を受賞してカンヌでも上映された。
 で、実のところ、この映画がいい映画かどうかというと個人的には「歴史や文学のネタばらしをするにはいい映画」だと思うが、映画本来の世界で遊ぶ楽しさがまったくないのがかなり不満。宗教と死といったテーマが全面にでており、別にこれは映画でなくてそれこそ論文でも書けばしいのではないか、と思った。かなりのインテリが作成した映画かもしれないが、これだったらエイリアン対プレデターに1500円払ったほうが納得がいく。

カランジル(ヘクトール・バベンコ監督)

2007-12-31 | Weblog
ストーリー;南米最大の刑務所カランジルは4000人収容規模だが約7500人の囚人が収監されていた。ヴァヴェル医師は刑務所内の大麻と同性愛によるエイズや結核などの感染病の防止のために電車に乗りカランジル刑務所に赴任する。1980年代に実際に起きた刑務所暴動事件と囚人のエピソードをつづる文句なしの名作。
出演;ルイス・カルロス、ロドリゴ・サントロ、アイルトン・ブラーサ
コメント;とてつもない名作だ。刑務所制度への抗議とかそうしたイデオロギッシュなテーマでとらえられるべき作品ではない。美術・撮影・小道具・装置そして監督すべてがとてつもないスケールでこの4000人収容規模の7500人の囚人を描く。
 実話にもとづく映画だが、実際のエピソードを織り交ぜて映画化されている。111人の囚人が軍隊の突入により犠牲となったが、ソニー・ピクチャーは「コメント等については作成者によるもの」という断り書きをいれている。囚人の証言が基礎なのでそうしたイデオロギー交じりで語られるのはきわめて不幸な映画といえる。ヘクトール・バベンコの「蜘蛛女のキス」をみたときにウィリアム・ハートの演じるゲイが夢想から現実に足を踏みいれるプロセスをきわめて興味深くみた。しかし当時のヘクトール・バベンコには、イデオロギーが先にたっており、映像的には「いまひとつ」という感想をいだいた。ブラジルのオリバー・ストーンといった印象を抱いたが、オリバー・ストーンと異なるのは、きわめて完成されたシナリオにもとづいて、モデルをしっかり確定したうえで、とてつもないこの映画を完成してしまったことだ。
 シナリオの完成度はとにかく凄い。「被害者に情けは示さない」「戻るか、それとも忘れるか」「売人は吸うなっていったのは義兄だ」「借りを返せ」「抗生物質がきかない」「赤ん坊は親の悪事を覚えていますか」「罪は治せますか」「悪党なのになぜわれわれよりもてるんだ」‥他の映画では何気ないセリフがすべてその後のシーンに生きてくる。刑務所の映画であるから、収容されるまでの状況も映画化されるが、ピストルの味気ないまでの射撃。赤ん坊の前で、しかも公衆の目の前でのあっけらかんとした犯罪。日本の公園と指して変わりがない公園で子どもと遊ぶ強盗。階段の血を洗い流すクレンザーがだらだらと床に流れていくシーンや犬と猫がお互いをみつめあうシーン。そして、ブラジルの雨の日に、ピストルを洗面器から取り出すシーン。電車が夜の刑務所を通りすぎるシーンなどはおそらく実際の電車が通過するまで撮影を待っていたのだろう。撮影にはかなりの時間とフィルムを費やしたのだろうと思う。「電車」というのがヘクトール・バベンコのこだわるシーンの一つだったに違いない。「黄疸棟」とよばれる(密告や性犯罪者が収容される棟)の様子もおそらく実際の刑務所ではさもありなんという描き方だ。直木賞作家の浅田次郎氏が「刑務所で一番嫌がられるのは性犯罪者」とある本に書いているが、この映画の中でも15歳の少女を強姦した犯罪者が、そのことが露見するや否や囚人から暴行をうけて黄疸棟に避難するエピソードを紹介している。「(強姦犯罪者に対して)死刑反対論者の俺も死刑にするのが当然さ」。そしてその犯罪者はそれでも逃げ切れずに陰惨な最後を迎えるのだが‥。日本でもブラジルでも「家」「愛」「神」を信じる光景には変わりがない。もともとは大麻や同性愛によるエイズの被害を防止するために派遣された医師がみた南米最大のカランジル刑務所の様子を描くところに一つのポイントがあるが、そうした背後のエピソードは途中で消えてしまい、時間の経過もまたある囚人が「30日後に会おう」といわれてコイン1枚を渡されて独房に閉じ込められるシーンで表現されるという心憎さだ。このコインも重要な小道具として機能する。刑務所の庭から気球を飛ばす囚人には絶望的な状況でも希望を失わずに調和を守ろうとする人間の最低限の基準が示される。最も「基準」というのもこの映画ではどうでもいいぐらいのスケールになってしまうのだが。ブラジルの川での水遊びといい、「水」という映画にしにくいものを「雨」「霧」「クレンザー」「水蒸気」といった種々の状態で映画に取り入れたアイデアもすごい。「泡」の描き方も半端ではなく、歯ブラシをめぐってのラブシーンは日本映画では考えられないほどなまめかしい。歯磨き粉を黒人女性の顔にまぶすシーンはどんなポルノ映画よりも扇情的だ。そして雨の中でさされる傘の色やテントの色が黄色の美しい模様で、これがまたブラジル、そして映画の中に彩りを添えている。
 ラストシーンには相当な気合がはいった連続で、これはもう目がはなせないシークエンス。得体の知れない水と血の結合は犬と猫がみつめあうシーンで完結する。「人間を密集させるとどうなるか」を映画で実験した作品で(動物は狭い空間ではかえって仲良くするらしい。その空間でのいがみあいは死ぬことを意味するからだ)、それが監督も意図していないとてつもない映像を生み出した。これが最初から「閉ざされた空間」ではなく「開放された空間」だったらここまでの映画にはならなかったのだろう。見てソンはないし、もう一度見てソンもない。すばらしい名作だと思う。


 この映画の中で「蜘蛛女のキス」を髣髴とさせる演技を披露したロドリゴは、その後ハリウッドの「ラブ・アクチュアリー」でローラ・ジニーとのラブロマンスを演じている。とってつもなく鍛えぬいたインテリぽいスポーツマンのデザイナー役とこの映画の「女形」との対比がまたすごい。

マイ・ビッグ・ファット・ウェディング(ジョエル・ズウィック監督)

2007-12-31 | Weblog
ストーリー;30歳になるギリシア移民とツーラはレストランの案内係。レストランである日とてつもなく素敵な男性をみかけ、その後市民大学に通いパソコンを習得する。さらにはメガネをコンタクトにかえファッションもかえて‥。
出演;ニア・ヴァルダロス 、ジョン・コーベット、レイニー・カザン
コメント;とにかく主役のニア・バルダロスは最初から最後まで不細工過ぎて感情移入がなかなかできないが、男優(ジョン・コーベット)は無茶苦茶かっこいい。黄土色のネクタイや紺や黒系統のジャケットをジーパン姿ではおる高校の教員というシチュエーションだが、何気ない仕草がたまらなくダンディだ。しかも髪の毛が適度に薄めでそれを長く伸ばし、目が細くて、ベジタリアンという設定である。しかも高校で教えている科目は物理という設定のようにみえる。(さらにはロースクールを断念して‥という超スーパーマンぶり)。それでも「シカゴ郊外の中流家庭‥」とかサラリといってのけるあたりはイヤミにも聞こえてくる。この二人では確かに通常はうまくいきそうもないのだが、「実話」であるからして結婚までいってしまう。とはいえ、ストーリー自体にはこの映画はあまり重きをおいておらず、一種アルトマンの「ウェディング」を髣髴とさせる「描写」主体で楽しませてくれる映画といえる。お父さん役の英語の発音や「クセノ!!」と叫ぶシーン、さらには暗がりでソファにひっそり座っているシーンなど老人役やオバハン役が映画を盛り上げる。このニア・ヴァルダロスは映画の中では「30歳で駿を過ぎた」と紹介されているが1962年生まれなので、実際にはさらに10歳サバをよんで40歳。みていて辛くなるのははたして私だけだったのだろうか。ただこの40歳という実年齢が、映画の中の暗いような明るい家庭とギリシア移民の背負った民族の歴史とてらしあわせて微妙な色合いをかもし出す。
もともとギリシアはオスマン=トルコから独立したという関係にある。かつては、ローマ帝国に侵略されさらに文化的に征服しなおした、と総括されるが、映画の中でも「アラクノフォビア」(蜘蛛恐怖病)「ミラー」(リンゴ)など、英語そのほかの言語の語源となった言葉がある。映画の中で父親があらゆる言葉はギリシアに由来するといって自慢しているのは、あながち誇大妄想というわけでもなく、西欧文明の由来はギリシアにあるというのはほぼ「常識」かもしれない。「哲学も民主主義も文字も陶芸も混乱もオレンジもキモノも‥ギリシアに由来」というくだりは結構面白い。アフロディーテ・パレスやミコノス島のランプも映画の中で楽しめる。
やや痴呆症気味の祖母が「ターキッシュ」といって罵倒するのにもこの国の近代の歴史があるといえる。1897年ごろには、クレタ島の所有権をめぐって、在住のギリシア人と戦争となる。もとはベネチア共和国の領有地だったが、イスラム教を布教したオスマントルコと在来のギリシア人が抗争。それにギリシア政府が派兵し、ギリシアは敗北する。その結果、ギリシアは賠償金を支払い、クレタ島はトルコが宗主国となる。さらに20世紀を迎えて、第一次世界大戦後にトルコとギリシアとで戦争になる。ケルタ・アマチュルクがトルコを率いて、セーブル条約からローザンヌ条約に切り替えることに成功した、おそらくこの映画の祖母は、この戦争で国土をトルコに蹂躙されたのではないか。さらに第二次世界大戦時にはまずイタリアに侵攻され、ついでドイツがギリシアに攻め入る。イギリスが援助するが、この頃のギリシアについては「コレリ大尉のマンドリン」の描写も参考になる。父親・母親はこの頃の移住だろうか。。ギリシア自体は、宗教的にも,ギリシア正教とトルコの回教に分かれ,現在でも紛争が続いているというが、やはり多数派はギリシア正教だろう。映画の中でギリシア教会の「洗礼」や「結婚」、披露宴の様子などが撮影されているが極めて興味深い。この暗い歴史の影が映画にさらに深みを与えている。別にアルメニア人でもウズベク人でもよさそうなものだが、暗い歴史とギリシア文化の両方を背負ったアメリカのギリシア移民という設定が、「結婚」「恋愛」をからませるとこういう風になるのか‥と思った次第。「イエの頭は男だが、首は女。首が動いて頭が動く」という論理は日本でも苦笑する家庭が多いのでは。実際のところ欧米、特にヨーロッパの国々の中でギリシアは、国土をめぐる戦争を(キプロス島をめぐり)戦闘状態を続けていた。現在でもギリシアはトルコに対して戦時体制にあるといえる。最前線基地の対岸はトルコであり、この映画の随所にそれはあらわれてくる。
(ハリー・S・トルーマン高校)
ツーラ・ポルトカロスが映画の中で通学している市民大学。18歳の大学生より明らかに社会人が勉強しなおす場所〈市民大学〉として機能しているようだ。夜間講義も実施している。トルーマン自体は民主党出身のアメリカ第33代大統領(在任1945~53)。ルーズベルト大統領の後をうけて形で原爆投下を決定した人物。共産主義に対して強持ての政策を実施し、ヨーロッパには、マーシャル・プランを実施。ニューディール政策の継承もおこなった。公共に資するというイメージと民主主義を一種反共主義という「ファシズム」に塗り替える瀬戸際まで演出したようにもみえるが当時の時代背景からするとやむをえないのかもしれない。朝鮮戦争やマッカーシズムの中で選挙には立候補をせず、アイゼンハワー大統領に後を譲った。この時代については「マーベリック」が参考になる。「生い立ちは人生を縛るものではなく、今後の糧とするものだ」という台詞がこの市民大学の描写で生きてくる。「勉強で身を開いた姉さん」をみて自分も絵の勉強を志すニッキーの姿が美しい。ツーラはここでコンピュータの夜間のコースと「陶芸のコース」に通うという設定。シカゴの街並みがまた美しく、雑然とした雰囲気も好ましい。
  (コリント式柱)
 前6世紀ごろのギリシアの柱の様式でイオニア式より彩色性が高いとされている。映画の中では、彫刻まではみえなかったし、本来ならば直径と高さは1対10の比率になるのだが、アメリカではそこまでは作れなかったようだ。後、ローマ帝国にもこの柱の様式は受け継がれるが、屋根を支えるという柱本来の機能はローマ帝国の時代に失われていく。パルテノン神殿の柱がコリント式の代表作とされているが、映画の中のツーラの自宅も「パルテノン神殿」風となっている。庭には多神教をもした彫刻が数体置かれているという映画美術の腕の見せ所。
 (ウゾ)
 ギリシアのお酒。薬能効果もあるらしいが、アルコール度は40度もある。これを何倍も飲むともちろん意識がなくなるが、それをこの映画では画面がぶれて「表現」されていた。ちょっとそれは‥という気も。無色だが、甘い香りがする。トロっとした感じのウゾを小さな器でキュッと飲む姿は「イキ」である。ちょっとかわいい感じのお父さん(マイケル・コンスタンティン)がこれを飲むシーンもかっこいい。
(ムサカ)
 ギリシアの伝統料理。茄子とひき肉で調理したもの。美味しそう。映画の中で出演者がかぶりついている‥。ベジタリアンにはちょっと厳しいかもしれない。


バリスティック(カオス監督)

2007-12-31 | Weblog
ストーリー;元FBI捜査官エクスは妻を亡くし酒におぼれていたがFBIからの依頼で捜査に復帰する。ところが図書館で国防情報局DIAのコンバット部隊が謎の女性シーバーと銃撃戦をしているところにでくわす‥
出演;アントニオ・バンデラス、ルーシー・リュー 、レイ・パーク
コメント;アントニオ・バンデラスの憂いのある演技が印象的。ほとんどスタントマンなしで演じたそうだが、バイクのシーンなど「顔見せ」状態で危険な撮影にいどんでくれている。ルーシー・リューについては‥正直いってあまり好きではない女優だが、演技のほどはマアマア。それにしても色気と演技力に欠ける女優であることは間違いなく、ほとんどこの映画は水色のワイシャツに黒のコートをはおり無精ひげをのばしたアントニオ・バンデラスがいいところ全部もっていく状態。端役で出演しているテリー・チェンのハンサムぶりが印象的。

 銃撃戦の映像に一部スローモーションをとりいれるなど、サム・ペキンパーに勉強した印象もあるのだが成功していないのが残念。ジョン・ウーの「フェイス・オフ」のように銃撃戦の最中をスローにして「虹の彼方に」をバックにかけるぐらいでないとせっかくの予算が台無し。カオス監督は1973年生まれのタイ出身の人らしいが、次回作に期待したい。衣装、小道具、スタントなどはかなり優れものの映画だし、「ソフトキル」という新兵器のアイデアも面白い。あとひとひねりあれば、アクション映画の古典的名作として残った作品なのかもしれない。かけていたのはおそらく老人役のいい人がいなかったことも指摘できるかもしれない。青色を多用しているあたりは北野武を意識したのか。これももう少しきつく「青」を全面に出して欲しかった。バンデラスの水色のワイシャツは、もう少し汚れをきつくしてほしかったしなあ‥。とにかく「あと一つ」が何か足りないアクション映画。

N.Y式ハッピー・セラピー(ピーター・シーガル監督)

2007-12-31 | Weblog
ストーリー;内気なサラリーマン・デイブ(アダム・サンドラー)は、優柔不断で恋人(マリサ・トメイ)に人前でキスもできない。セントルイスへの出張のさいにスチュワーデスにヘッドフォンを依頼するがなかなか持ってきてくれず、ちょっとスチュワーデスに手を触れた瞬間にセキュリティ・サービスがやってくる‥
出演;ジャック・ニコルソン、アダム・サンドラー、マリサ・トメイ
コメント;とにかくカメオ出演がすごい。映画の中ではヤンキースとレッド・ソックスという野球のチームも一つの話題だが300勝投手のロジャー・クレメンス、ヤンキースの新人王ジーター、テニスコートの暴れん坊ジョン・マッケンロー、ニューヨークがロケ地だけにジュリアーニ市長、バスケットボールのボビー・ナイト、バリトン歌手のメルルといった人たちが本人役で出演しているほか、ヘザー・グラハム、ハリー・ディーン・スタントンといった名優がクレジットもないのに出演している。ルイス・ガスマン・ジョン・タトゥーロといった役者が脇役を固め、オスカー女優のマリサ・トメイがヒロイン役、セラピストにはハリウッドの大御所ジャック・ニコルソンといった布陣。そして主役はアメリカのお茶の間の人気者アダム・サンドラー。「グースフラバー」という「イヌイット」の怒りを静める呪文や、女装したウッディ・ハレルソン、空中駐車場から転落するレクサスや「ぶちきれると縁も切れる」といった箴言めいた言葉も飛び出す最高級に笑えるコメディ。ラストシーンまで展開が読めない面白い脚本に加えて思いもかけないキャスティング。4200万ドルのヒット作というのはこの映画に限っては看板倒れではなかろう。
 ニューヨークの撮影がとにかく見事で街の雰囲気が画面から伝わってくるようだ。また衣装も街の生活のにおいが伝わってくるような自然体。街の撮影には欠かせない電車や車の移動風景も撮影が見事だ。主人公のアパートの内部はマンハッタンのドイツ銀行43階を借り切って撮影したものというが、合成にみえない背景ととともになんとなく往年のビリー・ワイルダーのおしゃれな映画をも思い出す。
 映画の途中では「殺生が禁止されている」仏教徒の寺にアダム・サンドラーとジャック・ニコルソンが殴りこみに行く場面なだおが盛り込まれており、とにかく楽しい。ウツウツしているときにはぜひともお勧め。
 ラブコメだけにラストは決まりきったようなものだが、ハッピーエンドはシェイクスピアの「空騒ぎ」といったところか。途中「ウェストサイドストーリー」の「I feel pretty」の合唱も入るサービス付。

(レクサス)
 いわずとしれた我が日本を代表するトヨタの車。4ドアのLS400でおそらく市場価格約100万円といったところか。

妹の恋人(ジェレマイア・チェチェック監督)

2007-12-31 | Weblog
ストーリー;自動車修理工員のベニー(エイダン・クイン)の妹ジェーン(メアリ・スチュワート・マスターソン)は心が蝕まれており、ベニーは仕事中も妹の世話にかかりきり。医者からは妹を施設にいれるようにすすめられるがこの二人には他にみよりもいない。そこへ「バスター・キートンのすべて」を熟読するサム(ジョニー・デップ)が転げ込んできた‥。
出演;エイダン・クイン、メアリー・スチュワート・マスターソン、ジョニー・デップ
コメント;1993年の映画ということもあって俳優がみんな若い。「パイレーツ オブ カリビアン」のジョニー・デップとこの映画のジョニー・デップ、「ハンニバル」のジュリアン・ムーアとこの映画のジュリアン・ムーアなどの比較も楽しいかもしれない。チャーリー・チャプリンの映画やバスター・キートンの映画にだいぶ借用している箇所が多いがイヤミなほどではない。むしろ現在統合失調症と呼称されている病気を取り扱い、やや重苦しさも感じさせるほど。エイダン・クインが扮するベニーが飼っている金魚やデップがテニスのラケットを使ってマッシュ・ポテトを作ったり、アイロンでトーストを作ったりするシーンが楽しい。また冒頭ではゆっくりと走る電車のシーンが美しく続き、「時代を感じさせない御伽噺の世界」を意識した映画へひきずりこまれる。恋に落ちた二人がタピオカを食べるシーンも本当にタピオカが食べたくなるほど美味しそう。
 ジュリアン・ムーアは元女優のウエイトレス役で出演。劇中劇で「高校生 連続殺人鬼」にも出演している。
 デップのバスター・キートンを意識した演技も注目。デップ自身も演技がうまい役者だが、やはり「笑わぬ殿下」といわれたバスター・キートンのすごさを逆に意識せざるをえなくなるという絶妙のはずし方だ。

グッドウィルハンティング(ガス・ヴァン・サント監督)

2007-12-31 | Weblog
ストーリー;マサチューセッツ工科大学の数学の授業でフィールド賞を受賞したランボー教授の出した数学の問題(フーリエシステムの問題らしい)を清掃員ウィル・ハンティングが解いてしまう。ランボー教授はその才能を認めて、カウンセリングと就職などを斡旋するが‥
出演;マット・ディモン、ベン・アフレック、ロビン・ウィリアムス
コメント;教養主義的なストーリーだが、「あの国」の教育のいびつさと当時ハーバード大学の学生だったという脚本も担当したマット・デイモンとベン・アフレックのある種の「思い込み」のようなものも実は感じた。二人はこの作品でアカデミー最優秀脚本賞を受賞。その後の二人の俳優としてのキャリアについてはハリウッドでもトップ・クラスだろう。
 とはいえ、フーリエ解析の宿題を、基礎的な数学力もなしにいきなり解いてしまうなどということは考えられない。映画の中ではインドの天才数学者ラマヌジャンも引き合いに出されていたが、それでもありえない。これはたとえばギリシアの天才数学者ピタゴラスをタイムマシンで現代に連れてきても高校生の微分積分の宿題が解けないのと同じ論理だ。要は、ある種の体系の中でのタスクはその体系の中で生きる人間しか意味を持たないし、別の体系で生きる人間は別の体系の中に意味を求めるということに他ならない。
 アメリカ南部の市場経済の歴史について詳しく、有機化学についても素養があり、特に数学についてはひらめきがあるという設定だが、個人的にはまずそこにしらける。とはいえ、マット・デイモンが通勤などに使っている電車からみえる車窓の風景は、夜から朝へ、朝から夜へ変化する一瞬の輝きをとらえておりそれはかなり魅力的な映画。またハーバード大学の一年間の授業料が15万ドル(約1500万円)というのも驚きだし一種の「矛盾」も確かにそこにある。おそらくは、アメリカでこうした図書館で独学からスタートして天才的なひらめきを見せる人間もいることはいるだろうが、それが20歳まで放置されているケースというのは稀といってよい。ラストでは彼はあるべきシステムの中であるべき方向性をもって西へ走る。そしてそれは彼がマサチューセッツやハーバードで評価されたシステムとの決別だし、車が走る風景はボストンのスラムとさしてかわらないコンクリートの無機質な世界でもある。

 カリフォルニアで彼を待ち構えているのは、もしかすると失望かもしれないし、失敗かもしれない。おそらく「トライ」することに意味を見出した彼はフーリエ解析よりも、恋に意義を見出したのだろう。それも一つの選択だが、けっして彼の捨てたものと選んだものとに優劣があるわけでは、やはりない。

 システムとシステム。大学の「物語」と個人の「物語」。映画の中ではただの助手として描かれていた人物は、結局、教授のコーヒーを入れる役割しか演じていなかったが、こうした人物が一体何に「勝負」するのかは不明のままだ。
 才能論はある意味危険だし、しかもそれがある種のエリート的な意味合をもつとさらに危険だ。残るのは結局アナログ的な友情だった‥というわけだが、フィールド賞もノーベル賞も権威付けをするための道具にすぎない。消費社会は記号を消費する。ハーバード、スタンフォードといった名だたる記号にこの映画の評価はやや甘かったような気もする。そしてそれこそが実はハリウッドの弱い部分だった‥ということをマット・デイモンとベン・アフレックは実は見破っていたのではないか。まさに驚くべきはその後の彼らの俳優としてのキャリアであり、それを脇で支え続けたベテラン俳優たちなのだろう。

メリーに首ったけ(ボビー&ピーター・ファレリー兄弟)

2007-12-31 | Weblog
ストーリー ;16歳の卒業式。現実にはありえない学園ナンバーワンの人気女性と親しくなるが、肝心のデートに行く前に彼女の自宅のトイレで「豆」と「ソーセージ」をチャックにはさんで救急車で病院に運ばれて13年‥精神科医のセラピーを受けながら悶々と彼女をおもう小説家志望の男‥
出演 ;キャメロン・ディアス 、マット・ディロン、ベン・スティラー
コメント ;キャメロン・ディアスは「チャーリズ・エンジェル」を見たときにやや肌がやばい状況にあると思ったがこの映画ではまだ大丈夫な状態。撮影時には、25歳ぐらいのはずだったからなのだろうか。高校生の役も息を呑むほど美しい。もっとも片思い役のベン・スティラーも「リアリティ・バイツ」でみせた二枚目ぶりとは違って、高校生でトラウマを背負う三枚目ぶり。でもこういう大事なデートのときにヘマをやらかしてそれが傷になっているケースは割りと多いのではないのだろうか‥。少なくとも個人的にはそうした思春期のデートトラウマを抱える身にとっては、ベン・スティラーに肩入れせざるをえないシナリオ作りだ。

 で、ラストはラブコメにはなくてはならないオチとなるのだが、ベン・スティラーならずとも、「ほんとー、マジ、俺でいいのー」と絶叫したくなるが、そのとおり。キャメロン・ディアスと実際に私生活で交際したのはマット・ディロンで、この二人が水着姿でじゃれつく写真は一時期インターネットにもばらまかれていた‥。現実と映画の違いの厳しさを味わうには良い教材。ややブラック・ジョークがきつい台詞もあるし、よく動物愛護協会からクレームがこなかったなあ、と思うほどのシーンも満載。さらには靴フェチの男性も必見の映画といえるだろう。
 ベン・スティラーは1965年生まれなので撮影された1998年には33歳ごろ。歯の矯正をしている高校生の役はきわめてはまり役。キャメロンと夏のフロリダ海岸で風を涼むシーンは秀逸。


マジェスティック(フランク・ダラボン監督)

2007-12-30 | Weblog
ストーリー ;1951年、アメリカでは非米活動調査委員会がいわゆる赤狩り(マッカーシズム)の嵐が吹き荒れていた。「サハラの盗賊」でスタジオから一定の評価を得た脚本家ルークは次回作「灰から灰へ」のクランクイン前に共産主義活動の疑惑をかけられ、その前途を閉ざされ、恋人の女優からも別れ話を切り出されて、酒を飲んで海岸線をひた走る‥。
出演;ジム・キャリー、マーティン・ランドー、ローリー・ホールデン
コメント;コメディ俳優のジム・キャリーがハリウッドの暗い歴史である1951年当時のハリウッドを描く。1951年は朝鮮戦争が勃発した年でもあり、アメリカとソ連は朝鮮半島で代替戦争をしていたともいえる。マッカーシズムにより、ハリウッドでは「ハリウッド10」とよばれる10人の映画監督や脚本家らがいずれも失業したり投獄されたりした。この映画の巻頭でさりげなく撮影されている「アフリカの女王」の監督はマッカーシズムと戦ったジョン・ヒューストン。台本の端々に「ドレフェス事件」「エミール・ゾラ」「Dデー」‥といった当時の世相を象徴する言葉が描き出される。
 ジム・キャリーはローソンという街で映画館の復興に携わるが、そこでかかる映画もまた「欲望という名の電車」(エリア・カザン監督)や「地球の静止した日」(ロバート・ワイズ監督)などいろいろ「深読み」ができる構成で、しかも映画中の映画「サハラの盗賊」ではイスラム教徒とキリスト教徒が戦うシーンで「この異教徒め」といった台詞まで用意されている。
 
 とにかく老人役がいずれも渋くしかもかなり多くの重要な役割を演じている。街自体が若者が第二次世界大戦で戦死したという設定のせいかもしれないが、こうした老人役の多数の起用はこれまでハリウッドが忘れてきたもの。そしてまた、懐かしい蒸気機関車の走るシーンもまたすばらしく、車窓からみえる緑の木々がまた美しい。お相手役のローリー・ホールデンはブロンドの美女を演じるがこれもまた1951年にふさわしい設定だ。再興される映画館の名前が「マジェスティック」(威風堂々)。この厳しい思想統制の時代に、脚本家はいかなる形で「威風堂々」を貫こうとするのかが見もの。また、「アメリカ独立宣言」を「契約」と表現するのはかなり意味が重い。世界中で唯一「社会契約説」にのっとって国家を設立したのがアメリカ合衆国。その契約を重んじるか「紙切れの一枚」とするかでは意味合いが日本とまったく違う。そして映画館をフレッド・アステアなどの神々が降臨する神殿にたとえるのもユニークだ。

 この1951年当時にはハリウッドは思想的に非米活動委員会に圧迫され、商業的にはテレビの進出に圧迫される。この苦しい時代の暗い部分をかなり暗く、そしてまた一抹の救いをもって描いたのがこの作品。疑惑をかけられたことで自殺した映画人もいたらしいので、この映画の主人公のような真似は自分であれば‥多分、できない。ただし、おそらく1954年をピークに下火になっていったこのマッカーシズムもおそらく本当の神(社会契約説に唱える「神」、つまりアメリカ合衆国憲法)の前には「歴史上の汚点」としてのみ記録される結末となった。あれから約50年。21世紀にこうした映画が撮影される意味は政治的に大きく、そしてまた映画の中できらめきをみせる水の青い光や緑色の光は、セピア色の写真ではかもし出せない美しさをみせる。

 この映画のモデルは「ハリウッド10」の一人であるダニエル・ゴランボ(「ローマの休日」)とされているが、物語の伏線はさらに別なところにも多々用意されており、映画ファンなら楽しめること間違いなし。

愛しのローズマリー(ボビー&ピーター・ファレリー兄弟)

2007-12-30 | Weblog
ストーリー;厳格な牧師を父にもつ9歳のハル。今わの際に父親の残した言葉がトラウマとなり、「女性は見た目」で一方的な勝負を続けるハルだったが高名なカウンセラーとエレベーターの中に閉じ込められたことから、「心」で女性をみるようになり‥。
出演;グウィネス・パルトロウ、ジャック・ブラック 、ジョー・ヴィッテレッリ
コメント ;画面や演出には文句をつけたくなるところが山ほどあれど、それでも「泣ける」ストーリー。アカデミー主演女優賞を「恋に落ちたシェイクスピア」で受賞したグウィネス・パルトロウが「笑い」「特撮」に挑戦。見事にそして成功。はかない表情とさりげない演技に胸が熱くなる。ブラック・ジャックは、導入部分では「ややテレビ」的な演技だったが、ラストに近づくほどに味わいのある表情をみせるようになる。高名なサイコセラピーのアンソニー・J・ロビンスが本人役で登場し、実際に脊髄に支障を」きたしているレネ・カービーなどが出演。
 ストーリー自体は当初の「予測」を裏切り、どんどんシリアスな方向へ。「美人~性格が悪い」「国際ボランティア~心が優しい」といった二元論で切り捨てるのではなく、どんでん返しの連続のこれぞラブコメといったストーリー。

(キリバス)
 映画の中にでてくるキリバスはオーストラリアの近くに存在する南太平洋の島。観光収入に頼る部分が多いものの映画の中で言及されているように経済状態はあまりよくないようだ。ただし公用語は英語なので、国際平和部隊が行くにはコミュニケーションが取りやすいのかもしれない。
(シエラレオネ)
 これも映画の中ででてくる国名。キリバスよりも状況は深刻でアフリカ西部にある国。寿命が世界一短い国といわれている。
(パメラ・アンダーソン)
 いわゆる「セクシー女優」だが動物愛護運動もしているらしい。パメラ・アンダーソン以外にもレベッカ、ブリトニー・スピアーズなどの写真をあらかじめ見ておくと、ちょっと「わかる」部分が増えてくるかも。主人公の好みがかなり高い水準にあることがわかる‥。

ブレイブハート(メル・ギブソン監督)

2007-12-30 | Weblog
ストーリー;スコットランドはイングランドとの圧制に苦しんでいた。13世紀、あまりのエドワード1世の非道な政治にある農民が立ち上がる‥
出演;メル・ギブソン 、ソフィー・マルソー、ブレンダン・グリーソン
コメント;この映画ではフランスとの100年戦争がエドワード3世によって開始されるちょっと前からおこなわれていたスコットランドとイングランドとの戦いを描いている。関連作品として「ジャンヌ・ダルク」や「タイムライン」があげられるだろう。「タイムライン」では現代から当時のフランスに渡った人間はフランス人に「スコットランド人だ」といって言い訳をする場面があるが、ある意味ではフランスとスコットランドとはイングランドを敵としている部分で共通していたのだろう。
 ソフィー・マルソーがエドワード2世に嫁ぐシャルル4世の妹イサベラの役を演ずる。映画の中でも弱気な「ゲイ」として描かれているエドワード2世だが、その後、イザベラとの不仲が原因で王位を奪われ、1327年にバークレー城で暗殺される運命にある。このエドワード2世の父親エドワード1世はヘンリー3世の息子で模範議会などを召集し、貴族の反乱を調停した人物。血も涙もない王として描かれているが国内外の状況を考えれば、エドワード2世に王位を継がせることに執着しすぎた感もある。スコットランドは結局、その後14世紀にロバート・ブルースが独立を達成。ただし1603年にエリザベス1世が死去により、スコットランドでいえばジェームズ6世(イングランドとしてはジェームズ1世)が即位し、同君連合といわれる形となる。
 映画では、おもに「自由」を求める平民ウィリアム・ウィレスの人生を描く形式だが、スコットランドのハイランドの風景がいかにも綺麗で、この映像だけでも十分楽しめる。貴族と平民、農民といった階級間のいがみあい、もしくは土地税などとイングランドの関係は、西洋では一般教養として扱われているのだろうから、ある程度世界史の知識があるとかなり楽しめる作品だ。ただおしむらくはメル・ギブソンの演技は「リーサルウェポン」とさして変わりがない味気なさ。監督業に専念するというのも一つの方策なのかもしれない。100年戦争はその後エドワード2世の子エドワード3世が、カペー王朝の断絶に付け込んで始めることになる。映画のちょっとした隠し味を考慮すると、エドワード3世というのは‥ということになるのだが‥。このエドワード3世自体は再びスコットランドに大きな影響力をもたらすので、解釈は歴史的には難しいところだろう。
 
 その後のイングランドの話だが、まずはエドワード1世自体は英国国民にさして人気がなかったわけではなかったらしい。当時はすでにマグナカルタがあったが議会の操縦もうまかったようだ。
 ウェールズ人を敵に回してケルト人の首領レヴェリンをまず殺害するが、これが現在のウェールズ独立運動のシンボルとなってしまう。映画の中でもウェールズ人がスコットランドと手を組むシーンがあるが、それは当時、このエドワード1世がウェールズを攻め込んだためだと思われる。ウィリアム・ウィレスは実際には絞首刑の後体を4つに裂かれてしまう。ブルースのロバートはその後スコットランドの王となり、フランスと手も組む。エドワード1世はこのロバートを追いかける途中1307年に68歳で死亡。羊毛税を引き上げて議会を怒らせるがなかなか見事な君主だったらしい。一方、映画の中でもやや頼りなく描かれているエドワード2世だが、「親友」の二人は事態をこじらせたため、地方の貴族に殺害されてしまう(映画の中ではエドワード1世が殺害していたが)。そして1314年にスコットランドのロバートにバノクブーンの戦いで敗北する。採取撃てて金はその3年後の1327年に退位させられる。映画の中でソフィー・マルソーが演じていた奥さんに殺害され、井戸に放り込まれる。
 そしてウィリアム・ウィレスの子どもという設定のエドワード3世が登場。かなり華やかな消費生活を送るが、このエドワード3世が百年戦争を始める。さらには、黒死病がはやり始める。晩年はやや寂しい人生だったようだが‥。しかしその後を継いだリチャード2世は、ロンドン塔に閉じ込められて殺害。その後のヘンリー4世は直接の家系ではないので、実は映画のオチとしてはあんまりうまく言ってない気もするのだがな‥。

チェ・ゲバラ(マルセロ・シャプセス監督)

2007-12-30 | Weblog
ストーリー;1928年生まれのアルゼンチン人エルネスト・ゲバラの主にメキシコからキューバ革命樹立までの時代を描くノンフィクションルポ。
コメント;チェ・ゲバラというのは実はあだ名で本名はエルネスト。「チェ」は「you」とかそうした意味合いに近いようだ。愛称なのだろう。キューバでなぜ共産主義革命が成功したのかは、やや不明なのだが、少なくともカストロとこのゲバラという歴史に残る人物が大きな役割を果たしていたことには間違いないのだろう。映画の中ではゲバラが武装革命のみならず、冷静に東欧社会主義の限界をみすえていたことも紹介している。実際に東欧社会主義は崩壊してしまったわけだが、貿易や教育といった社会的基盤を重視する方向性は当時の共産主義運動では相当に珍しかったのだろう。また共産主義者の多くは政権をとると同時に「私腹をこやす」「極端な弾圧を加える」といった例がみられるが、キューバの場合にはカンボジアのような大虐殺もなければ、文化大革命のような思想統制もなかった。ゲバラはなんとアメリカで演説をしたり、フランスでサルトルなどと対談をする一方で産業も重視するというかなりの戦略家だったのだが、この39歳でボリビアで殺害される人物がなぜにここまで歴史や社会の行く末をみとおしていたのかはまったく不明だ。勇敢であると同時に自らの苦手な部分をも認識していたというこの人物は、「権力を握らないことで歴史に名を残した」ともいえるのかもしれない。
 なお、映画「父の祈りを」の主人公は獄中の中でこのゲバラの写真を壁にはっている。主人公はアイルランド独立運動の活動家であって共産主義者ではないわけだが、こうした普遍性もかなりすごいことではある。

ゴーストシップ(スティーブ・ベック監督)

2007-12-30 | Weblog
ストーリー ;1962年に行方不明となった豪華客船がベーリング海に漂流しているのが発見された。サルベージ船のグループはその回収に乗り出すが‥
出演;ガブリエル・バーン、ジュリアナ・マーグリーズ、ロン・エルダード
コメント;幽霊船といえば昔懐かしき恐怖話を思い出すが、この映画ではデジタル機器を備え付けた最新のサルベージ船を描く。映画の途中でローレライ、マリーセレストといった有名すぎるほど有名な船の名前が飛び出す。これらは物語の伏線ともなるがこの映画のローレライは思いもかけぬ人物が該当する(もともとはライン川沿いの妖精だが)。舞台設定はまず1962年。ただしマリーセレスト号は1872年なので、その90年前。船長とその船員7名がニューヨークからトリポリへ向かう最中に約1ヵ月後ジブラルタル海峡沖で無人で発見された話である。もっともコリン・ウィルソンは、その原因を科学的に証明しており、マリー・セレストの謎は謎でもなんでもないということになる。
 とはいえこの映画明らかに「タイタニック」を意識して作成されている。船の沈み方やダンスシーンなどはパロディかと思うほど。予算の関係でエキストラが揃っていないだけだが、幽霊船にはちょうどよいチープさが漂う。また、映画最後に描かれる「回想シーン」のスピード感はなかなかのもの。人間の身体がロープでスパっと切れる感覚は漫画の「寄生獣」を思わせる。
 なお製作にはジョエル・シルバーとロバート・ゼメキスが名を連ねる。ラストはなんとなく「キャスト・アウェイ」を彷彿とさせる気もする。また「エイリアン3」「ユージュアルサスペクト」「タイタニック」「エルム街の悪夢」「フェノミナン」といった過去の映画へのオマージュがたっぷり。ガブリエル・バーンの死に方がなんとなく映像的にはきれいなのだが、もう少し青みがかった照明できれいに撮影していたら、などと思う。この手の映画ではラストになんらかの精神的カウンセリングの場面などを織り交ぜていくとヒッチコック的な深みも出るのに‥。デジタル社会ではこうした幽霊船モノはなかなか作りにくいだけに、製作者の意地をもう少しみせてくれればありがたかった‥。

トロイ(ウォルフガング・ピーターゼン監督)

2007-12-30 | Weblog
ストーリー;ホメロスの「イーリアス」を下敷きに作成された歴史スペクタクル。
出演;ブラッド・ピット、エリック・バナ、ピーター・オトゥール
コメント;この映画では、ホメロスの「イーリアス」を基にして独特のフィクションの世界を繰り広げている。とはいえ、映画の都合上カタルシスが得られるようにストーリーが改変されており、見るべきは5万人の軍団がぶつかりあう戦闘シーンということになるだろうか。
 でもこの監督は「アウトブレイク」といい「パーフェクトストーム」といい本当にすごい予算をかけて単純な話を作り上げる名手だと思う‥。
 アキレスとヘクトル、そしてオデュッセウスといった歴史上の知名人が人間模様を繰り広げる。ヘクトルとアキレスが戦ってヘクトルが死んだのは事実。ただし映画では述べられていないが、ヘクトルの妻アンドロマケは最終的には逃げ切れていない。戦利品としてギリシアのネオプトレモスの戦利品とされた。またその息子アステュアナクスもアキレスの息子ネオプトレモスによって殺害される。あまりにも悲劇的な話であるためラシーヌやエウリピデスが戯曲にもしている。またトロイの王プリアモスの娘カッサンドラも逃げ切れずトロイ陥落後アガメムノンの妾とされ、後にアガメムノンとともにクリュタイムネストラに殺害される。
 アキレス自身は言い伝えではケイロンに育てられたということになっている。デイダメイアとの間にネオプトレモスをもうけている。
 トロイの木馬はオデュッセウスの発案によるものだが、トロイ戦争終了後、家路につく途中単眼巨人キュクロプスの目をつぶしたためポセイドンの怒りをかい、妻ペネロペの元に20年かけて還ることになる。パリスが弓の名手であることと、産まれたときに国を滅ぼす者として予言されたという。アキレスの踵を射抜いたのもパレスだが、彼も後にフィクロテテスに毒矢を撃たれて死亡。
 トロイ自体があまり明るい話はないが、これはやむをえないのかもしれない。一つの歴史スペクタルとしてみればいい映画だが、個人的には「ナンだこりゃ」というレベルの話でもある。ただしショーン・ビーンだけは際立つ演技。アンドロマケ役の女性はやや老け込みすぎかな。
 なおこの時代の勢力図はやや地中海世界は複雑だ。もともとはホメロスの詩としては女性問題に端を発しているが基本的には領土問題。もっといえばエーゲ海と黒海を結ぶ交易路をめぐる争いともされている。ヘレナという人名はヘブライを象徴したものとする説も根強いらしい。このあたりの地域は砂漠かそれに近い乾燥地帯のようだからそのあたりは映画では考慮されている。エジプトでは新王国時代、そして映画でもちょっとだけ名前がでるがヒッタイトもまたギリシア半島を伺っているという情勢にある。ちょうどミケーネ文明とよばれるシュリーマンが発掘・発見した時代の頃で、19世紀半ばまでは空想の産物とされていたころの話だ。
 とはいえ、ミケーネ文明自体もまたドーリア人(ギリシア人)もしくは海の民によって滅ぼされたということだから、歴史はあまりハッピーエンドはない。この海の民はヒッタイトを滅亡させ、エジプトも攻撃したらしい。歴史の流れの中であえて救いの場面をストーリーに織り込んだのは現代風なのか、それともそれがヒューマニティなのか。
 こうした歴史スペクタル物は実際にはこうだったああだったというのが面白いところだが、それにしても救いがない。ヒューマニティという言葉はまだこの時代にはなかったのかもしれない。そのせいか「笑い」のかけらもでてこない映画である。
 ショーン・ビーンのふんするオデユッセウスは、「あきれたヒト、知恵の固まり」と称されており、トロイの木馬も彼の発案だが、これは地中海では最大級のほめ言葉だ。イタケとよばれる地域の片田舎の領主である彼はこの戦争で、知恵の女神アテネの支援を得ているとの評判をとり、10年を超えるトロイの戦争と、その後10年の帰宅途中の旅をホメロスの作品にとどめた。もっとも田舎にもどってからの彼の消息についてはホメロスは語っていない。ショーン・ビーンの憂いを帯びたインテリジェンスとアキレスの単純さが対比をなし、それはまさしく歴史小説の「イリアス」と「オヂュッセウス」の対比ともなっている。


悪霊喰(ブライアン・ヘルゲランド監督)

2007-12-30 | Weblog
ストーリー ;カロリング王朝からの異端とよばれるカソリック内の修派。その最後の司教が不審な死を遂げた。その話を聞いたニューヨークで伝道にあたるアレックスはフランス、パリの司教と連絡をとりバチカンへ向かう‥
出演;ヒース・レジャー、マーク・アディ、シャニン・ソサモン
コメント ;かなりいかがわしい映画と思いきや光と影が交錯する見事な撮影。役者もまたかなりの高水準。イタリアのローマの撮影風景がかなりきれいだ。カソリックの組織体がかなり厳格に描かれており、隠れた名作といえるのではなかろうか。
 この映画では知る人ぞ知る名作「ロック・ユー」のメンバーが勢ぞろい。あの有頂天な映画とはうってかわって、重苦しい雰囲気を漂わせている。特に古い書物の中で逆光の中、ちゃんと空気の中に埃がまっているシーンもキッチリ撮影しているところがすごい。ホラーとしては最高レベルの評価に近い。
〈アラム語〉
セム語系統の言語。ペルシア帝国,メソポタミア,パレスティナ,エジプトに及ぶ共通文化語になった。旧約聖書のダニエル書などに記載がみられるアラム語は聖書アラム語と呼ばれる。シリア系統にも通じる言語。この映画の中でのアラム語とは旧約聖書の聖書アラム語のことを指していると考えられる。
〈サン・ピエトロ大寺院〉
バチカンにあるローマ・カトリック教会の主聖堂。使徒ペテロの墓所上に建立され,ギリシア十字を基本とし中央に壮大なドーム(直径42m)を架した盛期ルネサンス建築。映画に使用されていたのはこの主聖堂のスタジオセットと考えられる。旧聖堂(教会堂建築参照)は五廊式バシリカで,ローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって324年に創建された。教皇ニコラウス5世が改修に着手し,その没後工事は中断したが,教皇ユリウス2世が16世紀初めにブラマンテの案に基づいて工事を再開した。ラファエロ,ミケランジェロ(大ドームを設計),1603年―1629年マデルノ(身廊,玄関廊,ファサードを設計)などが次々に監督を務め,イタリア・ルネサンス最大の建築事業となった。聖堂の前のサン・ピエトロ広場を囲む半円形の円柱回廊はベルニーニが建造。