ごとりん・るーむ映画ぶろぐ

 現在584本の映画のあくまで個人的な感想をアップさせていただいています。ラブコメ、ホラー、歴史映画が好きです【^_^】

みなさん・さようなら(ドゥニ・アラカン監督)

2007-12-31 | Weblog
ストーリー;肝臓がんでモントリオールの病院に入院している自堕落な元社会主義者レミは末期症状に陥ろうとしていた。妻はロンドンの証券会社で働く息子に電話をしてモントリオールによびよせる‥。
出演;レミ・ジラール、ステファン・ルソー、マリー・ジョゼ・クローズ
コメント;息子のセバスチャンはロンドンの証券会社で働いている。午後2時半にカナダのモントリオールから電話が届く。映画の中で彼は、ノルウェーの北海油田開発会社をアメリカがのっとり、その原油価格の高騰を防止するスワップ取引のやり手のディーラーをしているらしい。死の床にある父親は自らを「好色な社会主義者」といい、その息子を「野心的な資本主義者」と定義づける。
 病院の描写はカナダといよりもフランス的だ。病室の移動には役所の許可が必要となり、病院の中では理事会よりも組合が強い影響力をもっている。洗濯場で女性がレイプされ、ノートパソコンなどが日常的に盗難にあう病院だ。病院のシスターは「聖体」のパンを器にいれ、死の床にある病人は廊下に寝かされているケースもある。田舎の大学教師をしていた父親はその職場を非常勤講師に奪われ学部長は挨拶にも見舞いにもこないという官僚主義。病院の壁は白く塗られているが、時に緑がかり、そして青みをおびて陰影をだす。カナダという設定なのでセントローレンス川やモントリオールという地名がでてくる。そしてアメリカのバーリントン病院にデータを転送したり、オーストラリアからニューカレドニアまで海の上の航海している妹は、衛星通信で画像を転送してくるというハイテクな設定だ。終始、死について語る登場人物たちはある意味では現実的でもある。「20世紀はそれほど陰惨な時代でもない。16世紀のスペインとポルトガルは1億5000万人を殺害した。オランダ、イギリス、フランス、アメリカはそれぞれ先住民族を5000万人殺害している。あわせて2億人だ。なのに彼らの慰霊碑もたたない。」そしてまた2001年の9月11日のテロの映像にあわせて「犠牲者が3000人というのは少ない。ゲティスバーグの戦いではアメリカは50,000人の死者を出している」といった過激なナレーションが流れたりする。かなり暗い内容なのだが、「死」と向き合った瞬間の人間がいかに「笑い」を取り戻せるかについてこの映画は取り組んでいるようだ。ただし、なかなか笑えないが。映画の中で「ポーランドが不幸なのは神がいる証拠」といって笑いあうシーンがある。これ、おそらく一部のキリスト教徒がキリスト教を否定する共産主義国家については神の「怒り」が示された‥とする見解をもっていたことへのアナロジーだろう。ファティマのマリアといったマリアの再来伝説はポルトガルにはじまり、日本の秋田県にもこのファティマのマリアは現れたそうだ‥。宗教にはかなり冷淡な映画だが修道女は「だからこそ人間を許す神が必要なのだ」と説く。主人公はフランス系カナダ人として、ケベック独立運動、毛沢東主義、実存主義、構造主義‥とあらゆる主義を渡り歩き、しかも自分はバカだ‥と客観視できる知的能力も持ち合わせている。すべての主義を脱ぎ捨てた後、湖のほとりで死んでいく姿は「人生への執着」を最期までみせてくれる。そして画面は急に爽やかな白の世界となり。なんともいえない空の色が画面に広がる。
(マリア・ゴレッティ)
マリア・ゴレッティは、イタリア農夫の娘として生まれた。1890年生まれとされている。年少のころに父を失い、母親が働かざるを得ない貧しい生活の中、家事手伝いをしていた。隣家の息子アレッサンドロは、マリアを誘惑し続けたが、それをマリアは固く拒んだ。その結果、アレッサンドロはマリアを刺してしまう。このときにはマリアは12歳ということになるが‥。アレッサンドロは、カプチン会の修道院に入り、庭師として贖罪したといわれているが、この女性はキリスト教的「貞節」についての教訓話とされている。ただしこの映画ではそうした貞節さについてはどちらかといえば皮肉として扱っているフシもみえなくはない。むしろ12歳で死んでしまった女性と老人の主人公との対比とみるべきだろうか。ただしこの主人公の男性は「バークレーで勉強していた‥」とさりげなく語る場面がある。相当なインテリであることが示唆されているように思う。この話を映画化したのが「沼の上の空」。主演がイネス・オルシーニだが、この映画では主人公の女性はレイプされ殺害されることになる。1949年のアウグスト・ジェニーナ監督の作品。ベネチア映画祭の最優秀監督賞を受賞した作品だが、その一部がこの映画の中でも流される。まさに官能的ともいえるイネス・オルシーニの「太もも」である。しかしどちらにせよ実話(寓話?)も映画も女性は殺害されていることに変わりがない。フランソワーズ・アルディという名女優の名前もでるが「グランプリ」という映画が有名か。カレン・ケインはナショナル・バレエ・オブ・カナダのダンサーだが映画の中で「カルメン」を踊っているシーンが流れる。カルメンの運命は有名なとおり。
(プリモ・レーヴィ)
 イタリア系ユダヤ人の学者。アウシュビッツに収容されていた学者だが、戦後イスラエルのパレスチナ攻撃を批判。レーヴィとよく対比される学者にフランス系ユダヤ人のレヴィナスがいる。レヴィナスはプリモ・レーヴィと異なり、ウィーン条約でその安全を保証されていたため捕虜収容所で過ごす。プリモ・レーヴィは強制収容所のためいつ死ぬのかわからないという境遇にあった。主人公の家にはレヴィナスではなくレーヴィのビラがはってあるが、それはレヴィナスが生き残りの学者であり、死のふちを見なかったところにあるという寓話だろう。最終的にレヴィナスはユダヤ教のタルムードの研究に入り込むがそれはこの主人公とは無縁の話だ。宗教とはやはり一種の境を設けていることは間違いなく、現在よりも過去を懐かしむといったところがある。おそらく生き残った友人たちがレヴィナスを読み、死んでいく主人公がレーヴィを読むということになる。「死ぬ意味がわからない」と嘆く主人公の裏側に「生き残った理由がわからない」と嘆く友人たちがいる。そしてもちろんそこに救いは用意されていない。しかしラストシーンで観衆もまた「救いが無いこと」を了解する構造になっている。しかしこれはもともと戦後の欧米知識人に共通する理解だったのだろう。統計学的偶然で生き残った‥ということだけで一種の矛盾したやるせなさを誰しもが抱える。構造主義もマルクス・レーニン主義もそうした雰囲気の中で醸成されていったということはあるのだろう。もちろん日本でも戦後知識人が掲げだした戦後民主主義というのは生き残りの学者の美学だったのかもしれない。
(「歴史とユートピア」)
ルーマニアの地方都市に生まれの学者シオランの著書。バルカンのパスカルとか「呪詛の人」と呼ばれた。主人公もまた「呪詛の人」と化しているが、このシオランの著書が主人公の書斎に並んでいる。ニーチェとは一線を画していたようだが、既存の思想・信仰体系への批判を展開した。バチカンを批判し、カソリック教徒をののしる主人公の思想的基盤を構築したものと考えられる。「神なき絶対」を探求するモラリストとして知られているが、主人公は「モラル」は受け入れられなかったようだ。
(サミュエル・ピープス)
1633年生まれ。サミュエル・ピープルの日記がやはり書斎に並んでいる。これもまた印象的だが、もともとは中産階級の生まれだったが、ケンブリッジ大学を卒業し、フランス人と結婚する。当時のイギリスはチャールズ1世が断頭台に消え、クロムウェルの革命政権樹立後の無政府状態にあった。主人公が一種のアナーキズムと皮肉、ユーモアを兼ね備えていたことがうかがい知れる。知性は集団によって左右されるというテーゼが示され、フィラデルフィアの独立運動当時やソフォクレスの初演時のギリシアなどが映画の中で紹介される。そしてその背後にはクロムウェルの時代や、アウシュビッツの時代が対比されるわけだが‥。執着しているのは現在ではなく過去だ、とジャンキーに指摘された元教授の表情が味わいぶかい。若いうちには人生の殉教者になれるが老いてくると人生に執着するようになるともらす主人公は1950年生まれのまだ50代の前半だ。ジャンキーにむかって「先のことはわからない」とつぶやくこの社会主義者はおそらく主義という名の別の宗教に取り付かれていたのかもしれない。             
 この映画はアカデミー外国語作品賞を受賞してカンヌでも上映された。
 で、実のところ、この映画がいい映画かどうかというと個人的には「歴史や文学のネタばらしをするにはいい映画」だと思うが、映画本来の世界で遊ぶ楽しさがまったくないのがかなり不満。宗教と死といったテーマが全面にでており、別にこれは映画でなくてそれこそ論文でも書けばしいのではないか、と思った。かなりのインテリが作成した映画かもしれないが、これだったらエイリアン対プレデターに1500円払ったほうが納得がいく。

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