自分が『ダメ人間』だと思い悩んでる人へ
とりあえず承認欲求を忘れてはみませんか?
承認欲求とは簡単に言えば『人から認められたいという気持ち』『褒められたいと思う気持ち』で、これ自体誰でも持っているものであり、なんら悪いことではありません。
誰だって褒められれば嬉しい。自然な感情です。
ただしこれが必要以上に大きくなると非常に問題が生じてきます。
少し前、あるヘルパーが患者の異変に気づきすぐに報告したことを所長から褒められ、また褒められたいがために自ら患者に異変を作り出し命を奪ってしまったという事件がありました。過剰に大きくなった承認欲求の末路です。
私はアドラーの心理学のすべてを無条件に受け入れることは出来ませんが、『褒められることをモチベーションにするな』という項目には強く賛同します。
過剰な承認欲求は、いずれ必ず自分を追いつめることになると思います。
以前何かの記事でも例えに出したことがありますが、親は初めて自転車に乗れた子供を褒めるでしょう。しかし、その後は自転車乗っただけで褒めることはありません。子供が再び褒められるためには、また何か新しいことを達成する必要があるのです。
しかし、前述の事件の彼はあまりに承認欲求が強すぎるため、手っ取り早く褒めてもらえるよう同じことを繰り返そうとして犯罪まで犯してしまいました。
また、自分の存在をアピールするためにその邪魔になる他者を貶める・・・これも承認欲求の現れですが、いずれも非常に無意味です。
同じことを繰り返したり、人を貶めることに時間を費やしている間は本人は停滞していて、全く成長していない。そうしている間に周囲はどんどん変わって行って、結果的に自分が取り残され、賞賛からほど遠い存在になってから気づいても遅いのです。
では『褒められるために努力して自分を高めればいい』かというとそこにも落とし穴が。
努力して結果が出せているうちはまだいいのですが、他人が求める成果(期待値)は時として本人のキャパシティを上回ってしまいます。
キャパシティを上回ってしまえば努力をしても達成することは難しい。よって達成できず、褒められることも無くなる。この状態が続くと強いストレスに苛まれることになります。
強いストレスはマイナス感情になり、ゆくゆくは精神を蝕むかもしれません。
また逆に『褒められなければやらないのか』という考え方にも行き着きます。もちろんやりたくないことはやらないという選択肢もあるので、やらないで済むものならそれもいいでしょう。しかし、世の中はそんなに優しくありません。
例えば重度の認知症の家族を看ている場合、心血注いでもお礼の言葉など望めないばかりか『お前は誰だ』『勝手なことをするな』『泥棒』など罵声を浴びせられることすらあります。だからといって看護をやめるわけにはいかないのです。
こういった時、承認欲求をモチベーションにしていると精神が間違いなく崩壊します。どんなに待ってもどんなに望んでも欲求は満たされませんから。
承認欲求は必ず満たされるものではありませんし、満たしてくれるものだけを選び取って生活できないのが現実です。
これらの状況から自分の心を守るためにどうすればいいのか。それは、自分に対する評価を他人に預けなければいい。自分のハードルは自分で設置するのです。
『褒められること』を目標にすると、すべての行動が他人の尺度で計られ、追い立てられ、それが能力の限界を超えた時に与えられる評価に不満がつのります。自分がどんなに頑張ったつもりでも評価が伴わないために達成感が得られず、大きなストレスになってしまいます。
能力は人それぞれ、成長率もひとそれぞれです。他人の尺度に合わせることは土台無理な話なのです。
自分が無理無く達成できるハードルを自分で設定して、少しずつ達成感を味わうようにする。この小さな成長をモチベーションにすることで、ストレスを溜めずに前進することが出来ると思います。それを積み重ねて行けば必ず何かしらの成果も上がり、いずれ褒められることもあるでしょう。褒められる時期が早いか遅いかの違いだけです。
ハードルを設定する上でのポイントは『自分に正直になること』。自分に向き合って、自分の能力を客観的に見極めること。できないことはできないことと認めること。自分の弱点を偽らないこと。
私は自分にできないことを偽らずに認めることで気持ちが大分楽になりましたよ(^^)
とりあえず承認欲求を忘れてはみませんか?
承認欲求とは簡単に言えば『人から認められたいという気持ち』『褒められたいと思う気持ち』で、これ自体誰でも持っているものであり、なんら悪いことではありません。
誰だって褒められれば嬉しい。自然な感情です。
ただしこれが必要以上に大きくなると非常に問題が生じてきます。
少し前、あるヘルパーが患者の異変に気づきすぐに報告したことを所長から褒められ、また褒められたいがために自ら患者に異変を作り出し命を奪ってしまったという事件がありました。過剰に大きくなった承認欲求の末路です。
私はアドラーの心理学のすべてを無条件に受け入れることは出来ませんが、『褒められることをモチベーションにするな』という項目には強く賛同します。
過剰な承認欲求は、いずれ必ず自分を追いつめることになると思います。
以前何かの記事でも例えに出したことがありますが、親は初めて自転車に乗れた子供を褒めるでしょう。しかし、その後は自転車乗っただけで褒めることはありません。子供が再び褒められるためには、また何か新しいことを達成する必要があるのです。
しかし、前述の事件の彼はあまりに承認欲求が強すぎるため、手っ取り早く褒めてもらえるよう同じことを繰り返そうとして犯罪まで犯してしまいました。
また、自分の存在をアピールするためにその邪魔になる他者を貶める・・・これも承認欲求の現れですが、いずれも非常に無意味です。
同じことを繰り返したり、人を貶めることに時間を費やしている間は本人は停滞していて、全く成長していない。そうしている間に周囲はどんどん変わって行って、結果的に自分が取り残され、賞賛からほど遠い存在になってから気づいても遅いのです。
では『褒められるために努力して自分を高めればいい』かというとそこにも落とし穴が。
努力して結果が出せているうちはまだいいのですが、他人が求める成果(期待値)は時として本人のキャパシティを上回ってしまいます。
キャパシティを上回ってしまえば努力をしても達成することは難しい。よって達成できず、褒められることも無くなる。この状態が続くと強いストレスに苛まれることになります。
強いストレスはマイナス感情になり、ゆくゆくは精神を蝕むかもしれません。
また逆に『褒められなければやらないのか』という考え方にも行き着きます。もちろんやりたくないことはやらないという選択肢もあるので、やらないで済むものならそれもいいでしょう。しかし、世の中はそんなに優しくありません。
例えば重度の認知症の家族を看ている場合、心血注いでもお礼の言葉など望めないばかりか『お前は誰だ』『勝手なことをするな』『泥棒』など罵声を浴びせられることすらあります。だからといって看護をやめるわけにはいかないのです。
こういった時、承認欲求をモチベーションにしていると精神が間違いなく崩壊します。どんなに待ってもどんなに望んでも欲求は満たされませんから。
承認欲求は必ず満たされるものではありませんし、満たしてくれるものだけを選び取って生活できないのが現実です。
これらの状況から自分の心を守るためにどうすればいいのか。それは、自分に対する評価を他人に預けなければいい。自分のハードルは自分で設置するのです。
『褒められること』を目標にすると、すべての行動が他人の尺度で計られ、追い立てられ、それが能力の限界を超えた時に与えられる評価に不満がつのります。自分がどんなに頑張ったつもりでも評価が伴わないために達成感が得られず、大きなストレスになってしまいます。
能力は人それぞれ、成長率もひとそれぞれです。他人の尺度に合わせることは土台無理な話なのです。
自分が無理無く達成できるハードルを自分で設定して、少しずつ達成感を味わうようにする。この小さな成長をモチベーションにすることで、ストレスを溜めずに前進することが出来ると思います。それを積み重ねて行けば必ず何かしらの成果も上がり、いずれ褒められることもあるでしょう。褒められる時期が早いか遅いかの違いだけです。
ハードルを設定する上でのポイントは『自分に正直になること』。自分に向き合って、自分の能力を客観的に見極めること。できないことはできないことと認めること。自分の弱点を偽らないこと。
私は自分にできないことを偽らずに認めることで気持ちが大分楽になりましたよ(^^)
だから自分の意思の力は凄く大事だし必要だけど、医療機関や福祉と連携しながら生活を支える事が出来るのかが大切じゃないでしょうか?
でも…福祉職って利用者さんの体調によって一進一退を続けますから結果が見えづらいし、自信がつきにくいんです。誉められたい自分の存在に気付いて欲しいって言う気持ちは分かりますね。