ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸に縁のある人

2017-04-13 23:07:38 | 水戸

正岡子規(慶応3年1867-明治35年1902)
 伊予温泉郡藤原新町(現・松山市)で生まれ、東京へ出て、東大予備門(現・東大教養学部)に入学して、東京帝国大学哲学科へ進学したそうです。明治22年に予備門での同級生、水戸の菊池謙二郎を訪ねて水戸を訪れ、「水戸紀行」を書きました。この旅の折に肺結核の最初の徴候があったそうです。大学を中退し、新聞「日本」の記者になるとともに、俳句の革新をめざしたそうです。晩年は根岸の子規庵で、結核による病床の中で、「病床六尺」、「仰臥漫録」を書いたそうです。偕楽園に水戸来訪の折によんだ句の子規句碑があります。

 

長塚節(明治12年1879-大正4年1915)
 下総岡田郡国生(こっしょう)村(現・常総市)の豪農の家に生まれ、明治26年に水戸の県立水戸中学校(現・水戸一高)に首席で入学たそうですが、4年生で脳神経衰弱になり、中退して郷里へもどったそうです。正岡子規の「歌よみに与ふる書」を読んで共感して子規を訪問して入門し、「アララギ」の創刊に加わったそうです。子規の没後、「馬酔木(あしび)」に短歌を発表、その後写実的に表現した小説をてがけ、東京朝日新聞に代表作「土」を発表したそうです。翌年、「土」は夏目漱石の序文を載せて春陽堂から出版されたそうです。千波公園に 長塚節歌碑があります。

 

野口雨情(明治15年1882-昭和20年1945)
 多賀郡中郷村磯原(現北茨城市)の水戸藩郷士の家で生まれ、北海道で小樽新報(石川啄木と一緒)等に勤務したそうです。その後離婚して郷里に戻り、大正7年に水戸へきて、雑誌(茨城少年社)編集の仕事に携わり、中里つると再婚して、彼女の献身的な愛情のもとに「枯れすすき(船頭小唄)」を彼女の家、旅人宿・対紅館で作詞したそうです。水戸滞在はあしかけ2年で、上京して、「七つの子」、「赤い靴」、「兎のダンス」、「シャボン玉」などの童謡や詩を発表したそうです。本町に四丁目の犬の童謡碑があります。

 

山村暮鳥(明治17年1884- 大正13年1924)
 群馬県西群馬郡棟高村(現・高崎市)で生まれ、堤ヶ丘尋常小学校の代用教員となり、英語夜学校に通ったそうです。東京の聖三一神学校に入ってその間、詩や短歌の創作をはじめ、卒業して、日本聖公会のキリスト教伝道師となって秋田、仙台などで布教活動をおこなったそうです。大正7年に、水戸ステパノ教会へ転任して、肺結核や貧困と闘いながら、詩集の出版を続けたそうですが、詩集「雲」を病床で校正を終えて、大正13年に大洗町で死亡したそうです。が、江林寺墓地内にあります。

 

船橋聖一(明治37年1904-昭和51年1976)
 東京府本郷区横綱町(現・墨田区横綱)に生まれ、旧・水戸高等学校(現茨城大学)に入学したそうです。この頃から舟津慶之輔(よしのすけ)の名で作品を発表したそうですが、水戸の花柳街にも大変親しんだりもしたそうです。その後、東京帝国大学文学部を出て、村山知義・河原崎長十郎らと劇団「心座」の結成に参加し、明治大学で教鞭をとりつつ、戯曲、小説を次々と発表したそうです。戦後は流行作家となり、日本文芸家協会初代理事長にもなったそうです。水戸を舞台の一つにした「悉皆屋(しっかいや)康吉」や、「花の生涯」、「ある女の遠景」などがあります。


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