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2003年4月より私(MATT)が仙台のコミュニティーFM局「せんだいエフエムいずみ」に時間を頂いてハワイアン音楽紹介番組「ハワイアン・パラダイス」をスタートし、この8月末で175回もの1時間番組をお送りしてまいりました。放送内容は毎回ひとつのグループまたはひとりの歌手や演奏家にスポットを当ててそれぞれの演奏曲を流しながら、彼らのエピソードや曲目の解説をする,というもので、時々はナ・ホクの受賞曲特集や作曲家の作品特集なども織り込んだ175回でした。 そして今回初めての試みとして私が毎月開催していますウクレレ・パーティーの会場(茨城県古河市にあるハワイアン・パブ・レストランOHANA)での公開録音を実施いたしましたので、ここにその模様をご紹介いたします。当日は参加者のご協力により会場と一体となった楽しい公開録音となりました。
[開幕]:MATTが作詞作曲したこのお店のPR曲をお客様に歌っていただき開幕です。 [司会者紹介]:司会者のフリー・アナウンサーTAKAKOさんを紹介。以下[M]と[T]の会話で進行します。
[T]:MATTさん、今回のテーマについてご紹介いただけますか。
[M] :今回は「私たちに日本語の歌詞で親しまれている曲と、そのオリジナル曲の比較」というものをテーマとして採り上げました。まずここで会場の皆様にクイズを差し上げましょう。皆様の中でわが国にウクレレを初めて持ち込んだ人物をご存じのかたはいらっしゃいますか?
[答1]:カラカウア王では?
[M]:たしかにウクレレの普及を推進したカラカウア王は在位中に世界一周をし、日本に立ち寄った際に皇室にいろいろと献上したのですが、そのときの目録には残念ながらウクレレという記載がありませんので、おそらく持ってこなかったと思われます。
[答2]:灰田有紀彦(晴彦)さんでは?
[M]:はい、おそらく灰田さんであろうというのが正解でしょう。もちろんそれ以前にハワイのミュージシャンが来日して演奏したという記録がありますので、当然彼らはウクレレも持ち込んだとは思いますが、帰国時に持ち帰っているはずですので本当の意味での「ウクレレを持ち込んだ人物」としては弟の勝彦を含めた灰田兄弟と思われます。ハワイ生まれの灰田兄弟は少年時代に父親が亡くなったために母親とともに納骨のため来日しましたが、ちょうど発生した関東大震災の混乱でパスポートを盗まれたことが契機となり日本に住むことを決心したのです。そして兄の通っていた独協中学の同級生永田哲夫との出会いが日本にハワイアン音楽を根付かせることになりました。
[T] :その当時のハワイアン音楽は日本語の歌詞が付いていたそうですが、これはハワイ語を翻訳したのですか?
[M]:この灰田、永田コンビによって誕生した日本初のハワイアン・バンド「モアナ・グリー・クラブ」では誰にも理解できないハワイ語の歌詞ではなく日本語の歌詞をつけて歌ったのですが、永田哲夫が大変センスのある作詞をしたことで、誰でもが気軽に歌える音楽となりました。たとえば「タフワフワイ」には「ハワイよいとこ一度はおいで…」という歌詞をつけたり(当時永田さんはハワイになど行ったこともなかったですが…)「イン・ザ・ロイヤル・ハワイアン・ホテル」という悲恋の唄は「青い小径」というきれいな歌詞を持った曲に変身させ、2002年にはそのロイヤル・ハワイアン・ホテルとハワイ州から感謝状が贈られたほどでした。それでは、まず灰田晴彦とモアナ・グリー・クラブの演奏、灰田勝彦の唄で「お玉杓子は蛙の子」をお聴きください。
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[T] :あまりにもコミカルな曲でビックリしました(笑)。
[M]:今聴いていただいた曲は「ナー・モク・エハー(四つの島)」というハワイ民謡ですが、同じ歌詞を南北戦争時代のヒット曲「リパブリック賛歌」にもあてはめているので、皆様はもしかするとこちらのほうをご存じかもしれませんね。いずれにしてもこの作詞者としてはなぜか「今川一彦、東辰三」の共作として著作権登録されていたのですが、実際には永田さんと東さんの共作でしたので、数年前に裁判のすえ登録を変更することができた、と永田さんが話しておられました。それではこれの原曲である「ナー・モク・エハー」をサンデイ・マノアのアルバム「クラック・シード」から聴いてください。リーダーのピーター・ムーンのもとに若きカジメロ兄弟が加わったトリオでの演奏です。
===CD再生===
[T] :これなら間違いなくハワイアン音楽ですが、意味は全く違うんですね。
[M]:そうですね、ハワイの四つの島を代表する花と山を歌詞におりこんでいるもので、ほかにも「ハノハノ・ハワイ」をはじめとしてたくさんの民謡が似た歌詞で歌われています。それでは次の曲「真赤な封筒」に進みましょう。
[T] :この歌詞もコミカルですね。とくにハワイアンの曲に「コリャサノサ」なんていう合いの手まで入るのは!
[M]:そうです。当時この曲は灰田・永田コンビによるオリジナル曲とばかり思われていたのです。それがのちになって「オー・バイ・ジンゴ」というアメリカのポップスであることまでは分かったのですが、肝心のオリジナル曲がどのようなものかが全くわからなかったので、私も米国の中古楽譜業界を探し回ってやっと楽譜を入手いたしました。あとで聴いていただく現代の演奏に比べるとモアナ・グリー・クラブの演奏のほうがオリジナルの楽譜に忠実であることがわかりました。それではまずモアナ・グリー・クラブの演奏による「真赤な封筒」をお聴きください。
===CD再生===
[T] :合いの手というか唄との掛け合いがおもしろいですねえ。
[M]:オリジナル曲のほうもこの部分「ウンパッ、ウンパッ」などという掛け声がはいっているようなのですが、これから聴いていただくのはその掛け声ははいっていませんがバンジョーのクランシー・ヘイズによるディキシーランド・ジャズの演奏をお楽しみください。
===CD再生===
[T] :ということは、この灰田・永田コンビはハワイアン音楽に限らず何でも採り入れて演奏したんですね。
[M]:ハワイ生まれの灰田兄弟はハワイに友人がたくさんいて、彼らから最新のヒット曲の楽譜を入手したと思われます。その結果、ハワイで流行っているメインランドのポップス曲も積極的に採用したのでしょうね。次の曲は有名な「小さな竹の橋」ですがTAKAKOさん、オリジナル曲は「橋の上」で日本の歌詞は「橋の下」になるのは不思議ではないですか。
[T] :あ、本当ですね。どうしてそうなったのですか。
[M]:この作詞者の門田ゆたかさんというかたは大変才能のある作詞家で、別なペンネームで「東京行進曲」の作詞を手がけるなど、広範囲の曲に詞をつけたかたなのです。もともとメインランドで作られたこの曲をディック・ミネがバッキー白片とアロハ・ハワイアンズのバックで日本初演をしたときに門田さんが作詞をしたのですが、オリジナルの歌詞をはなれて「浮かんでいた赤いはなびらが長い年月とともに消えていくように、あの日の夢も楽しい思い出も小さな竹の橋の下を流れ、やがて消えていく」という大変美しい歌詞に仕上げました。しかし、そこで問題が起こりました。まだ楽譜が発行されなかった時代にこの唄を聴いたさる有名ミュージシャンが「川の水に流れてゆく・・」はおかしい、「川の水が流れてゆく・・」に直さないといけない、と主張したり、「水面(みなも、またはみのも)を彩り…」と歌われるところの「水面」の意味ががわからず「皆もう色とりどり…」とかさらには単に「色とりどり…」とまで歌詞を変えてしまいました。のちに楽譜が発行されてこの混乱は収まったのですが、いまだに「色とりどり…」と歌う方をみうけるのはこのときの影響が残っているのです。それではディック・ミネの唄でこの曲をお聴きください。
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[M] :この曲のオリジナルを歌っている歌手はあのトランペット奏者ルイ・アームストロングだったのですよ。
[T]:え?全然想像もつきませんでした!
[M] :1930年代の米国レコード業界ではメインランド製のハワイアン音楽を有名ミュージシャンに歌わせてハワイアン音楽のブームを作り出そうとしていましたが、そのなかでデッカ・レコードはあの「ワイキキの結婚」で主演したビング・クロスビーと、なんとこのルイ・アームストロングに白羽の矢を立てたのです。そしてこの曲はルイが歌って大ヒットをしました。それではその演奏をお聴きください。
===CD再生===
[M] :いかがでしたか、ハワイアン音楽にトランペットのアドリブが入るのもなかなか良いでしょう?
[T]:会場からも「おー、かっこいい!」という声が起こりましたけど、ホントにかっこいいですね。
[M] :次の曲「南国の夜」ももとはメキシコの「ベラクルスの夜」という曲で映画主題歌だったのです。ただ南国情緒を持った映画に主演していたドロシー・ラムーアが歌ったことで、わが国ではハワイアン音楽の分野に加えられています。そしてこの日本語の歌詞は作者が登録されていません。
[T]:ということは誰が作詞したかが分からないんですか。
[M] :そうですね、多分基本になる歌詞を誰かが書き、それぞれの歌手が少しずつてを加えてきたのではないでしょうか。とりあえず、この曲をヒットさせた功労者で先日亡くなられた大橋節夫の歌でお聴きください。
===CD再生===
[M] :大橋さんの演奏は皆様おなじみと思いますが、オリジナルのドロシー・ラムーアの歌を聴いた方はほとんどいらっしゃらないと思いますので、ここで彼女の歌を聴いていただきましょう。
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[T] :ずいぶんセクシーな歌い方ですし、CDのジャケット写真で見てもセクシーなかたですね。
[M]:当時の典型的な美女だったのでしょうね。それでは次の曲「月の夜は」ですが、この曲に至っては日本語の歌詞しかご存じないかたが多いのではないでしょうか。この作詞者も「小さな竹の橋」と同じ門田ゆたかです。そしてこちらの歌詞はかなり「訳詩」に近い歌詞になっています。ただ、この歌詞によって日本では大変ポピュラーな曲になったのですが、肝心のハワイではあまり知られていません。日本へ演奏旅行に来たミュージシャンたちがリクエストをされるので勉強して帰ることで、この曲とかカイマナ・ヒラがハワイでも演奏されるようになりました。それではまず日野てる子の歌で「月の夜は」をお聴きください。
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[M] :この曲をハワイの人が歌っているものを探している中で面白い演奏を見つけましたので、これを聴いていただきましょう。歌っているのはもとフイ・オハナのメンバーで、そのご歌手として活躍し、数年前に亡くなったデニス・パヴァオがこの曲とタフワフワイを交互に歌っています。それではその歌をどうぞ!
===CD再生===
[T] :なかなか面白いアレンジでしたね。まるで一曲で二度おいしい、といった楽しい曲でした。
[M]:二曲がメイジャーとマイナーで交互に歌われるのもおもしろかったですね。それでは次の曲は今日聴いていただいた曲の中では最も新しい曲ですが、それでも1960年に作られた「パイナップル・プリンセス」です。この曲は当時18歳であったアネットがいろいろとリリースしたアルバムのなかに「ハワイアネット」というアルバムがあり、そのなかでこの「パイナップル・プリンセス」が大ヒットをしたものですが、翌年日本の16歳の少女だった田代みどりが歌い、日本でもヒットいたしました。ただこのみどりちゃんはなぜか歌手活動をすぐに辞めてしまったのでこの曲が彼女の代表曲になっています。この歌詞はもと「ミュージック・ライフ」誌の編集長で後にシンコーミュージックの会長にまでなった草野昌一さんが漣健児というペンネームで作詞したもので、昨年亡くなられたのですが、この方の作詞でヒットした曲は「可愛いベイビー」「ルイジアナ・ママ」「VACATION」「ステキなタイミング」「砂に消えた涙」「赤鼻のトナカイ」その他400曲ほどあります。それでは田代みどりの歌うパイナップル・プリンセスを聴いてください。
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[T] :可愛い歌声でしたね。それから歌詞自体も大変可愛いかったですね。
[M]:それではオリジナルを歌ったアネットの歌声をお聴きいただきましょう。
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[M] :ということで今日の公開録音は全部で6曲をそれぞれ日本語の歌詞とオリジナルの歌詞で聴きくらべていただきましたが、いかがだったでしょうか。
[T]:それでは最後にもう一度OHANAのテーマを歌っていただき、終了とさせていただきます。皆様ご協力をありがとうございました。
マヒナでハワイ音楽が好きだったのは佐々木敢一で、その次あたりが和田弘という感じです。}
そのうち例会で「Koryasa!」やりましょうよ。
大変、勉強に成りました、、、そーーかアームストロングですか。
昔の演奏では「コリャサノサノサ」だったんですが晩年のえんそうではちょっと短縮して「コリャサノサ」になっているようです。
これとは別に「koryasa!」という怪しげな英語の曲も灰田さんのお得意でしたね、是非ご披露よろしく!
きまさんの掲示板の感想を読んで「もしや?」と来て見たら書き込んでいただいてました。