坂上田村麻呂。この名は蝦夷征討の英雄として、征夷大将軍として、あまりのも有名である。しかし、その実像はあまり知られてない。田村麻呂が史実より伝説上の武将となったからであろう。(毘沙門天が北方の守護神であることから、北方を平定した彼自身が毘沙門天の化身として信じられ、国家の守護者としてあがめられている。) 田村麻呂は天平宝字2年(758)に生まれた。その先祖については、「続日本記」に坂上氏は後漢霊帝の曾孫阿智王の子孫で、応神天皇の御世に帰化したと載っている。 渡来系の氏を優遇した桓武天皇に早くから軍人としての資質を自他ともに認められ、延暦13年(794)に征夷大将軍大伴弟麻呂の下で副将軍となり蝦夷を討った。廷暦16年(797)には、征夷大将軍に任ぜられた。 そして、延暦21年(802)、陸奥の胆沢地方(岩手県)に胆沢城を築城し、蝦夷の大酋長アテルイ(大墓公阿弖流為『たものきみあてるい』)と、その片腕モレ(盤具公母礼『いわぐのきみもれ』)を降伏させ、30年以上の戦乱を終結させた。 |
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桓武天皇は平安国家の基礎を固めた英主であるが、この当時我が国は中国の”中華思想”の影響を受け、天皇の支配する”中華”の周辺には文化の遅れた民族がいるとした。支配者は彼らを教え導くという考えのが取り入れられた。 ■アテルイ・モレは蝦夷(アイヌ)だと、アイヌ史では当然の如く記述されている。 ■日本史が今後、縄文人をどのように(アイヌも含む多民族の扱い)位置づけていくのかがアイヌ人の「誇り」「文化」「文明」の大きな歴史の溝を埋めることになる。 ■日本は世界で最後に多民族が流れ着いた場所だという。テレビでもドキュメンタリーの番組などでも公然と語られている。 ■アイヌの歴史のポジショニングの真実は、もうはっきりさせてそこにあなたの「椅子」がある。・・・という、結城孝司氏の「先住民族サミット」の呼びかけ文には、大納得できるのです。 ■偽証がいくらでも横行できる現日本人の情けなさの理由のひとつに、歴史観の大きなゆがみがあるのです。
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