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アテルイ・モレ(アイヌ)の戦い

2008年08月19日 | 川柳
 坂上田村麻呂。この名は蝦夷征討の英雄として、征夷大将軍として、あまりのも有名である。しかし、その実像はあまり知られてない。田村麻呂が史実より伝説上の武将となったからであろう。(毘沙門天が北方の守護神であることから、北方を平定した彼自身が毘沙門天の化身として信じられ、国家の守護者としてあがめられている。)

 田村麻呂は天平宝字2年(758)に生まれた。その先祖については、「続日本記」に坂上氏は後漢霊帝の曾孫阿智王の子孫で、応神天皇の御世に帰化したと載っている。 渡来系の氏を優遇した桓武天皇に早くから軍人としての資質を自他ともに認められ、延暦13年(794)に征夷大将軍大伴弟麻呂の下で副将軍となり蝦夷を討った。廷暦16年(797)には、征夷大将軍に任ぜられた。

 そして、延暦21年(802)、陸奥の胆沢地方(岩手県)に胆沢城を築城し、蝦夷の大酋長アテルイ(大墓公阿弖流為『たものきみあてるい』)と、その片腕モレ(盤具公母礼『いわぐのきみもれ』)を降伏させ、30年以上の戦乱を終結させた。
アテルイ アテルイ 坂之上田村麻呂 田村麻呂の墓

 桓武天皇は平安国家の基礎を固めた英主であるが、この当時我が国は中国の”中華思想”の影響を受け、天皇の支配する”中華”の周辺には文化の遅れた民族がいるとした。支配者は彼らを教え導くという考えのが取り入れられた。

 東北地方には大和民族が自分たちとは異なる民族である考えていた狩猟の民ともいうべきエゾがいたのである。朝廷は自分たちを文明の民と一万的に規定し、東北に生きる異民族を蝦夷と蔑んだ。(ちなみにエゾに「蝦夷」という漢字を当てるのは、差別意識という説がある。)

 八世紀の後半政府は東北地方に次々と新たな群を設立し、住民から税を徴収しようとした。このような東北に対する支配の強化に抗して「自衛戦争」を起こしたのがアテルイ達である。

 田村麻呂の出現以前、蝦夷征伐はうまくいっていなかった。朝廷がはじめて派遣した大規模な征伐軍は大敗する。『続日本紀』によれば、その戦いは延暦8年(789)夏のことで、北上川周辺において五万余の大軍を集結させた朝廷軍と、アテルイ軍とが戦った。アテルイ側の正確な兵数はわからないが、朝廷軍の半分以下だったといわれている。衣川あたりに釘付けにされ、あえて六千の精鋭を進軍させたがアテルイの戦術に翻弄され溺死するもの千余人という、致命的な大敗北を喫したのである。

 アテルイ、モレは、平安律令政府の東北征服戦争に対してゲリラ戦で頑強に抵抗した゛蝦夷゛の首長と副将で、征夷大将軍・坂ノ上田村麻呂の軍に帰順(802)、田村麻呂将軍が両雄の武勇と器量を惜しみ、戦後の蝦夷経営に登用すべく朝廷に助命嘆願したが、許されず両雄は河内の国で処刑された。アテルイは名将であった。しかし、侵略軍に対して自衛戦争をしただけなのに「負ければ賊軍」で朝廷に反逆した逆賊となってしまった。

■アテルイ・モレは蝦夷(アイヌ)だと、アイヌ史では当然の如く記述されている。

■日本史が今後、縄文人をどのように(アイヌも含む多民族の扱い)位置づけていくのかがアイヌ人の「誇り」「文化」「文明」の大きな歴史の溝を埋めることになる。

■日本は世界で最後に多民族が流れ着いた場所だという。テレビでもドキュメンタリーの番組などでも公然と語られている。

■アイヌの歴史のポジショニングの真実は、もうはっきりさせてそこにあなたの「椅子」がある。・・・という、結城孝司氏の「先住民族サミット」の呼びかけ文には、大納得できるのです。

■偽証がいくらでも横行できる現日本人の情けなさの理由のひとつに、歴史観の大きなゆがみがあるのです。

 

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