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大和朝廷統一の不思議・・・とあるコラムより

2008年08月18日 | 川柳

さて、これまでとは全く異なるジャンルのコラムをこれから始めたいと思うのだけれど、もちろん私は学者でもなければ研究者でもないので、古代史に関する史料全般の精査(古文書とか遺跡の実査とか)が可能なわけではない。だから視点、どちらの方向からみるかというところで勝負しなければならない。幸いこの方面の参考書は昔からかなり親しんできたし、準地元である佐倉市には国立歴史民俗博物館もあるなど考える材料は多いと思われるので、関心のある方にはそれなりに楽しんでいただけるものは書けるのではないかと思っている。

まず、考察する範囲である日本古代史はどこからどこまでかということであるが、通常「古代」という言葉は記録で確実にさかのぼれる以前という意味でとらえられている。だから日本史の場合は日本書紀以前、天皇でいうと天武天皇より前か後か、年号でいうと672年壬申の乱あたりを境にするという考え方をとることが多い。感覚的にも、8世紀には平城京・平安京の建設があってそのあたりから中世という見方はしっくりくるのだが、この連載では、それより若干遅く8世紀半ばまでを範囲にとりたいと考えている。その理由については後で(だいぶ後だが)詳しく説明するが、「倭」から「日本」になったことをもって古代の終了と考えたいからである。

古代の日本というと、学校で習った大まかな流れはこのようになるだろう。
① 古代の日本では、先進文化国である中国(漢)、朝鮮半島諸国の影響を受けて、いくつかの小国がまず成立した。
② その中から、周囲の諸国と連合あるいはこれらを征服することにより勢力を増し、直接中国の王朝に接触する国が現れた。その代表が3世紀の卑弥呼による邪馬台国である。
③ やがて、近畿地方に統一政権である大和朝廷が成立した。仁徳天皇陵など巨大な古墳群に示されるように、その勢力は西日本全域と東日本の一部に及んだ。
④ 朝鮮半島への派兵(白村江の戦い)や統一政権内部の勢力争い(崇仏戦争から壬申の乱まで)を経て、大和朝廷は奈良平城京において確固たる基盤を固めた。

それぞれ事実の大枠はそのとおりだと思うのだが、常識で考えるといろいろ不思議なところがある。その不思議なところを他の国や時代と比較して、常識で考えてみようというのがこのコラムの趣旨である。今のところ4本のサブテーマを考えていて、それぞれ「統一政権の成立」「魏志倭人伝」「隋書倭国伝」「白村江の戦い」である。(注.隋書倭国伝は正しくはタイ国伝だが、字が出ない)

最初のサブテーマは「統一政権の成立」で、これは実は日本古代史のすべてに共通する問題である。そしてそのキーワードは「実効支配」である。現代人は統一政権というものをいまの日本政府に比定して、ああそうなんだなとあっさり前提してしまうきらいがあるが、よく考えれば鉄道もなければ道路もない、舟だって馬だってそんなにいない古代日本で統一政権がどうやって成立しえたのだろうか。

むしろ各部族、各集団がかなり後の時代まで、日本各地に自分の領土を勝手に作って実効支配をしていた、という推論が常識的なのではないだろうか。このことを考えるため、話はいきなり飛んで13世紀に世界史上空前絶後の領土を獲得したモンゴルの事例についてみることとしたい。

 

○日本の歴史の不思議のまた不思議。

○大和朝廷なるものをもうとっくに、さまざまな歴史学者や文化人は「天武天皇の後世への権力誇示」とも、とらえている。

(なぜ、さまざまな古墳の中に誰もが入り込めないか?・・・ここが、この日本の歴史のアキレス腱だと思っている人は数多い。)

○聖徳太子は渡来人であり、斑鳩の里に描かれている装束は、渡来人です。今でも奈良で様々発見される調度品や遺跡は朝鮮半島の古代からの風習そのものではないか?

○朝鮮半島の墓石は亀の石の上に墓石が立ててある。今でも。

      古墳そのものは、朝鮮半島ではたくさんある。

○IT時代は、ある意味において歴史を正す大きな良き武器でもあることを信じたい。

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           本日、大和朝廷の不思議をちょっと発掘中!

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