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川柳・政治・時事・エッセイ

『現代の詩』への肉迫・・・原子修

2007年12月29日 | 川柳
              現代川柳『泥』終刊号に

 ポエジーは不滅であり、万能であり、時空の制約をはねのけ、ジャンルの壁を突き破り、形態のちがいを超越する。

 たった今この世に誕生したばかりの初発の言葉あれば、自由詩と川柳の差異はけしとび、万人の胸を刺しつらぬく感動の表現あれば、定型詩と非定型詩の区別は霧散する。

 言葉であって言葉ではなく、音数律であって音数律ではなく、生であって生ではなく、死であって死ではないものへの、烈しき渇きと到達と離反こそが、詩というものなのか。

         くらげあわあわ僕の心肺機能かな   さとし

 生の極限をついに追いつめた作者が、<くらげあわあわ>という擬態詞系の感性語の虫捕り網に<くらげ>のイメージを捕捉するとき、すでに、作者の原体験は、解読不能の言語ボトルに密封されて、読者の感応テープルに投げだされる。

         それでいいのか?・・・と、問うなかれ。

 伝達性を拒否した時点で、すでに、伝達不能のものをつかみとったのだから、それ以上を望む必要はない。

 究極の詩・・・それは、ついに、生命現象の不可解さと一致する。
 とすれば、つぎの作品は、奇怪にも、ポエジーの頂点から俗身への、見事な回帰の所産か。

        太い樹にゆっくりゆっくりなればいい   池さとし

禅のパラドックスをそのまま作品として生きる作者のしたたかな哲学を読み落としてはならぬ。イメージ遊戯やレトリックゲームを貫通して向こう側へ抜け出し得た作者の、複雑な思考回路の果ての原言語が、超技法の世界をつくりだしている、と見るのは、深読みか。

 しかし、そのような 視座に立って、はじめて、つぎのような作品群の、きわどい実存の崖が視認できるのだ。

           いつからの黄昏れほうほう後頭部
           そして棺遠方探美の旅に出る
           ネクタイの涙もろさを見てる月
           八月の縄一本の失語症
           追伸の一行がらがら蛇になる    池 さとし


 川柳は禅たり得る・・・と、作者の持論に書いてあるとしても、やはり禅は川柳たり得よう。
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