現代川柳『泥』五号 レクイエム
不凍湖の底をただようカレンダー
洞爺湖の絵葉書に記されたこの作品を目にした時、思わず「あっ」と声が洩れてしまったことを思い出す。
この湖は、わたしには余りにも身近な風景で、すっかり見逃してしまっていたものだった。
転勤族だった紀子さんの、処女句集「雪の皮膚」には洞爺村での生活や風景画、独特の繊細な感性でしっかりとみつめられ、作品化されたものがみられる。
大きな文字で書かれたこの作品に触れたとき、彼女の日常の視点が、自然をいかに丁寧に冷静に見つめているかを知った瞬間でもあった。
「あっ」と声を発してしまったのは、わたしが知らず知らずに雫してしまったおびただしい量の大切なものが、突然、目前に押し寄せてきたような錯覚に陥ってしまったからにほかならない。この湖を一句もかたちになしていなかった迂闊さに気づかされた瞬間なのである。
女神が棲んでいるという伝説のある洞爺湖へ彼女はいくたび訪れていたのだろう。その水面は彼女が訪れるたびに、どのように光っていたのだろう。どのようにゆらいでいたのだろう。ひかりの粒を慈しみながら、丁寧に拾い集めている姿が浮かんでくる。ひかりの放った香りや、水が発した匂いも雫することなく集めている姿を・・・。
彼女の作品の根底にはいつも自然の美しさが描かれていたように思える。そして一方では今を生きている人間への(ご自身への)眼差しも包含されていて作品がより深みを増していたように思う。
水面の美しさとたっぷり過ごしたであろう視線は、やがて少しずつ湖底へと沈み無限の時刻(とき)とただよいながら彼女だけの宇宙を拡げていったのだろう。
カレンダーに残された紀子さんだけの過去(きのう)現在(いま)未来(あす)は今も不凍湖の底をゆらゆら漂い続けているのだろうか。
飛べそうで春の絨毯干している
一束の薔薇の余熱で鳥になり
紀子作品にみられる高貴な品位は、そのまま彼女のイメージとつながり、近寄りがたい雰囲気があった。
わずか十七音字に品格を包含させるには、作品の対象となることやものが、それに相応しいものでなければならないだろうし、また、それらをどのようなプロセスで浄化しているかといった姿勢、また、どう表現しているのかという感性や個性、さらには知的センスまでが備わっていなければ、本当の意味での品位を作品に投影することはできないと思う。
そう考えてみると彼女の作品から感じられる高貴な雰囲気というものは、それらを無意識のうちの超越していて、ことばを媒介に、言葉以上の別の表現方法が内在していたような気がしてならない。それは、作品の「豊かさ」「広さ」「深さ」に繋がる『幽玄の世界』とでも言えるようなものではないだろうか。
続く・・・。
不凍湖の底をただようカレンダー
洞爺湖の絵葉書に記されたこの作品を目にした時、思わず「あっ」と声が洩れてしまったことを思い出す。
この湖は、わたしには余りにも身近な風景で、すっかり見逃してしまっていたものだった。
転勤族だった紀子さんの、処女句集「雪の皮膚」には洞爺村での生活や風景画、独特の繊細な感性でしっかりとみつめられ、作品化されたものがみられる。
大きな文字で書かれたこの作品に触れたとき、彼女の日常の視点が、自然をいかに丁寧に冷静に見つめているかを知った瞬間でもあった。
「あっ」と声を発してしまったのは、わたしが知らず知らずに雫してしまったおびただしい量の大切なものが、突然、目前に押し寄せてきたような錯覚に陥ってしまったからにほかならない。この湖を一句もかたちになしていなかった迂闊さに気づかされた瞬間なのである。
女神が棲んでいるという伝説のある洞爺湖へ彼女はいくたび訪れていたのだろう。その水面は彼女が訪れるたびに、どのように光っていたのだろう。どのようにゆらいでいたのだろう。ひかりの粒を慈しみながら、丁寧に拾い集めている姿が浮かんでくる。ひかりの放った香りや、水が発した匂いも雫することなく集めている姿を・・・。
彼女の作品の根底にはいつも自然の美しさが描かれていたように思える。そして一方では今を生きている人間への(ご自身への)眼差しも包含されていて作品がより深みを増していたように思う。
水面の美しさとたっぷり過ごしたであろう視線は、やがて少しずつ湖底へと沈み無限の時刻(とき)とただよいながら彼女だけの宇宙を拡げていったのだろう。
カレンダーに残された紀子さんだけの過去(きのう)現在(いま)未来(あす)は今も不凍湖の底をゆらゆら漂い続けているのだろうか。
飛べそうで春の絨毯干している
一束の薔薇の余熱で鳥になり
紀子作品にみられる高貴な品位は、そのまま彼女のイメージとつながり、近寄りがたい雰囲気があった。
わずか十七音字に品格を包含させるには、作品の対象となることやものが、それに相応しいものでなければならないだろうし、また、それらをどのようなプロセスで浄化しているかといった姿勢、また、どう表現しているのかという感性や個性、さらには知的センスまでが備わっていなければ、本当の意味での品位を作品に投影することはできないと思う。
そう考えてみると彼女の作品から感じられる高貴な雰囲気というものは、それらを無意識のうちの超越していて、ことばを媒介に、言葉以上の別の表現方法が内在していたような気がしてならない。それは、作品の「豊かさ」「広さ」「深さ」に繋がる『幽玄の世界』とでも言えるようなものではないだろうか。
続く・・・。