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川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

花は満開ですか・・・池さとし

2007年12月08日 | 川柳
           現代川柳『泥』第五号 レクイエム

      はらからよ本日晴天稲の花
                     朝粥よ森羅万象ふきこぼし

 「はらからよ」「朝粥よ」の助詞「よ」にこめられている作者の心情は・・・そんなことをふと考えてしまう。

(精神のあらゆる手段は言語の中にある。言語について省察しなかったものは、全然何も省察しなかったも同じだ。・・・アラン)

 本来助詞の「よ」は、疑問や禁止、感動や強意などを表す時に用いられる。川柳では、リズムを整えるためのひとつの手段として意図的に使われることもある。

 兄弟姉妹、あるいはまた仲間たちに、晴れ晴れとした今日の気持ちのありようを知らせようとしているのかも知れない。

 ここには、自然の美と人間の精神の美の融合が図られている。いわば現代生活の底を流れている不安から、ほんの一瞬でも開放された喜び、安堵感が誠実に表白されているようにも思えてならない。

 人々は多かれ少なかれ、重圧から解き放たれたい願いと隣り合わせで生きていると言ってもいいだろう。

          薄氷よ西太后の耳かざり
                   漬物石ずしりと冬の念書など

 この雰囲気の作品を目にすると、桑野晶子さんの作風を思い出してしまう。

 そういえば、紀子さんは、晶子さん教室のかけがえのないメンバーのひとりであった。

 晶子さんの作品、(水ぎょうざ黄河の月もこのような・じゃがいもの花と流れて海は臨月・屋根に雪妻という名の諳んじる・桃の花触れれば脆い水子坂)は、日常性を基底にそこから雄大な自然へとの融合・昇化・この柔軟な手法がひとつの特質となっているが、紀子さんもそのレトリックが身についている。

         薄氷より西太后の耳飾り      伊藤紀子
         水ぎょうざ黄河の月もこのような  桑野晶子

 ふたりの作品、どちらも日常から非日常への昇化であり、現実と非現実の、ふたつの異なる次元のものを止揚させて成立している。

 美を弁証法的に構造化するひとつの側面に、このような作品は存在すると言っても過言ではないだろう。

 川柳が持つ美の世界を構築している、異質なふたつのもの(現実と非現実・日常と・非日常・時間と空間)の止揚を、存分に駆使した作品が、紀子さんのロゴスとパドスとなって作品を際立たせている。

   忘恩の花豆ふっくり炊き上がる
         ゲリラが仆れている辛夷が咲いている
                   秋茄子の色の深みは泣き涅槃

 仄かにも微かな佇まいを覗かせる内在律、自然の生命との照応を効果的に発揮させている。

 まだまだこれからが人生、そんな紀子さんの早すぎる黄泉への旅、こころからご冥福をお祈りしながら・・・
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