ダイハツムープ、ステラのオイル交換とオイルフィルターを交換しました。雨が少し残っていましたが、上がる方向なので作業開始です。
今回は、オイルフィルターも交換します。事前に購入してあります。部品は、スバルの番号シールが貼ってありますが、ダイハツの部品番号も
そのまま見えます。デンソー製です。オイルをドレインプラグで、抜いたあとに、オイルフィルターを緩めて、外します。
途中、オイルが漏れてくるので、オイル受けに漏れなく受けます。その後、外して、当たる面を清掃します。
そして、新しいフィルターのオイルリングのところにオイルを塗ってから、つけて締めていきます。リングに当たったら、手で3/4締めるます。
力だけで締めるというように説明書きされています。その後、ドレインプラグのところのパッキンのあたりも清掃して、新しいパッキンを
はめて、締め付けます。強さは、パッキンのあたりで確認します。
このあとは、フィルターに残っているオイルをオイル受けに出して、廃油をこぼさずに、オイル缶に、入れます。この時、こぼさないように。
最後に、新オイルを注入して、完了です。今回は、フィルターも交換したので、2.9リットルを使う予定です。全部で3リットルの缶なので
入れすぎてもしれてますが、控えめにしておきます。あとは、オイルケージを確認して終了しました。
オイルフィルターまで交換するのは、少し面倒ですが、タイヤを外さないでも、ステラは出来るのでいいです。
今回は、オイルフィルターも交換します。事前に購入してあります。部品は、スバルの番号シールが貼ってありますが、ダイハツの部品番号も
そのまま見えます。デンソー製です。オイルをドレインプラグで、抜いたあとに、オイルフィルターを緩めて、外します。
途中、オイルが漏れてくるので、オイル受けに漏れなく受けます。その後、外して、当たる面を清掃します。
そして、新しいフィルターのオイルリングのところにオイルを塗ってから、つけて締めていきます。リングに当たったら、手で3/4締めるます。
力だけで締めるというように説明書きされています。その後、ドレインプラグのところのパッキンのあたりも清掃して、新しいパッキンを
はめて、締め付けます。強さは、パッキンのあたりで確認します。
このあとは、フィルターに残っているオイルをオイル受けに出して、廃油をこぼさずに、オイル缶に、入れます。この時、こぼさないように。
最後に、新オイルを注入して、完了です。今回は、フィルターも交換したので、2.9リットルを使う予定です。全部で3リットルの缶なので
入れすぎてもしれてますが、控えめにしておきます。あとは、オイルケージを確認して終了しました。
オイルフィルターまで交換するのは、少し面倒ですが、タイヤを外さないでも、ステラは出来るのでいいです。
高松の親類のところに寄ったら、やはり城巡りとしては、天守閣の石垣の修復なったところに行かないわけには、行きません。
過去から数えると4回目ぐらいですが、行って来ました。本丸の天守閣の石垣が修復されていました。前回は、鞘橋からは進入禁止になっていたので、鞘橋を渡るのも今回初めてです。
天守閣も復元するのかどうかわかりませんが、想像図もありましたので、写真撮影しました。
高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれていますが、その玉藻公園の桜は、まだ、つぼみでした。南国高知との気温の違いです。
玉藻公園の入園料は、大人200円で、南東の良櫓の堀の反対側に無料駐車場もあります。
また、彦根城と姉妹城縁組をしています。
過去から数えると4回目ぐらいですが、行って来ました。本丸の天守閣の石垣が修復されていました。前回は、鞘橋からは進入禁止になっていたので、鞘橋を渡るのも今回初めてです。
天守閣も復元するのかどうかわかりませんが、想像図もありましたので、写真撮影しました。
高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれていますが、その玉藻公園の桜は、まだ、つぼみでした。南国高知との気温の違いです。
玉藻公園の入園料は、大人200円で、南東の良櫓の堀の反対側に無料駐車場もあります。
また、彦根城と姉妹城縁組をしています。
南国市の道の駅「南国風良里」に、売られていた黄色の柑橘類 400円から1000円で、袋に詰められて売られています。名前は、「文旦」
名前を聞いたこともなく、もちろん食べてこともないので、どんなのかわからないので、5個入400円を購入しました。
高松の親類の家で、その日に食べましたが、夏みかんやグレープフルーツのようなすっぱくなく、甘夏や八朔のように、甘い感じですが、
すっきりした味でした。
自宅に帰ってからインターネットで調べて見ると、文旦は、みかん類、ザボン 買ったのは、路自の土佐文旦でした。
すっぱくなくて、うまい。今度、高知に行ったら、土佐文旦は、必ず買います。写真の右側です。
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ブンタン(文旦/ぶんたん)とは
●蜜柑(みかん)科ミカン属ブンタン類
水晶文旦(すいしょうぶんたん)/スイショウブンタン 原生地は中国・台湾とされ、江戸時代に日本に伝わったと伝えられています。ブンタンの標準和名は「ザボン」といい、暖かい地方で栽培され、土佐文旦をはじめ、安政柑、晩白柚など自然交雑により様々な品種が見られます。獅子柚子と呼ばれている物も実は文旦の亜種です。
●高知の土佐で栽培されている文旦には土佐文旦と水晶文旦があり、土佐文旦にはハウス文旦と呼ばれるものもあり、区別されています。
【土佐文旦】・・・通常は自然のままの露地栽培されている物を指します。皮がやや厚めですが、果肉がしっかりとしまっており、さわやかな甘みが特徴です。種が結構多いのも特徴です。
【ハウス文旦】・・・ ビニルハウスで収穫を早めた物。露地栽培物と比べて糖度が高く甘いものが多いようです。また皮も薄いのが特徴。
水晶文旦(すいしょうぶんたん)/スイショウブンタン【水晶文旦】・・・ハウス栽培され、ハウス文旦よりも早く収穫されます。土佐文旦とよく似ていますが、品種としては別品種で、早い時期の物は表皮の色がまだグリーンですが、時期が遅くなるにつれて黄色くなってきます。土佐文旦やハウス文旦と比べて、濃厚な甘さと果汁の多さが特徴です。また、土佐文旦に比べると種も少なめで、その分果肉が多く詰まっています。
●文旦の旬は晩秋から冬
高知県産 土佐文旦(トサブンタン)/とさぶんたん
【土佐文旦】・・・12月~1月に収穫され、1ヶ月ほど追熟された後1月から2月が旬
【ハウス文旦】・・・ 10月頃から収穫が始まる。旬は11月~12月
【水晶文旦】・・・9月頃から収穫が始まり、旬は10月~11月下旬
名前を聞いたこともなく、もちろん食べてこともないので、どんなのかわからないので、5個入400円を購入しました。
高松の親類の家で、その日に食べましたが、夏みかんやグレープフルーツのようなすっぱくなく、甘夏や八朔のように、甘い感じですが、
すっきりした味でした。
自宅に帰ってからインターネットで調べて見ると、文旦は、みかん類、ザボン 買ったのは、路自の土佐文旦でした。
すっぱくなくて、うまい。今度、高知に行ったら、土佐文旦は、必ず買います。写真の右側です。
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ブンタン(文旦/ぶんたん)とは
●蜜柑(みかん)科ミカン属ブンタン類
水晶文旦(すいしょうぶんたん)/スイショウブンタン 原生地は中国・台湾とされ、江戸時代に日本に伝わったと伝えられています。ブンタンの標準和名は「ザボン」といい、暖かい地方で栽培され、土佐文旦をはじめ、安政柑、晩白柚など自然交雑により様々な品種が見られます。獅子柚子と呼ばれている物も実は文旦の亜種です。
●高知の土佐で栽培されている文旦には土佐文旦と水晶文旦があり、土佐文旦にはハウス文旦と呼ばれるものもあり、区別されています。
【土佐文旦】・・・通常は自然のままの露地栽培されている物を指します。皮がやや厚めですが、果肉がしっかりとしまっており、さわやかな甘みが特徴です。種が結構多いのも特徴です。
【ハウス文旦】・・・ ビニルハウスで収穫を早めた物。露地栽培物と比べて糖度が高く甘いものが多いようです。また皮も薄いのが特徴。
水晶文旦(すいしょうぶんたん)/スイショウブンタン【水晶文旦】・・・ハウス栽培され、ハウス文旦よりも早く収穫されます。土佐文旦とよく似ていますが、品種としては別品種で、早い時期の物は表皮の色がまだグリーンですが、時期が遅くなるにつれて黄色くなってきます。土佐文旦やハウス文旦と比べて、濃厚な甘さと果汁の多さが特徴です。また、土佐文旦に比べると種も少なめで、その分果肉が多く詰まっています。
●文旦の旬は晩秋から冬
高知県産 土佐文旦(トサブンタン)/とさぶんたん
【土佐文旦】・・・12月~1月に収穫され、1ヶ月ほど追熟された後1月から2月が旬
【ハウス文旦】・・・ 10月頃から収穫が始まる。旬は11月~12月
【水晶文旦】・・・9月頃から収穫が始まり、旬は10月~11月下旬
桂浜の龍馬記念館のあたりが、浦戸城跡です。国民宿舎のところに、浦戸城の碑があり、そのところに石垣の残り、本丸跡が残っていました。
浦戸城は、高知を代表する景勝地『桂浜』の背後の山一帯が、長宗我部氏最後の居城、浦戸城跡である。
ここは、北、東、南を海に囲まれた要害の地であり、また、紀貫之の『土佐日記』にも出てくる浦戸の港を擁し、上方との連絡、水軍の保有にも便利な土地であった。元親は最初、天正16年(1588年)現在の高知城のある大高坂山に築城しようとしたが、鏡川の治水に失敗し、天正19年に浦戸へと移り、本拠とした。以後約10年間、子の盛親が関ヶ原の合戦で敗れるまで、長宗我部氏の居城であった。浦戸城は石垣の一部と尾根の西方二ノ丸付近に3条の堀切を残すのみであるが、古城としての面影を偲ぶことができる。
浦戸城は、高知を代表する景勝地『桂浜』の背後の山一帯が、長宗我部氏最後の居城、浦戸城跡である。
ここは、北、東、南を海に囲まれた要害の地であり、また、紀貫之の『土佐日記』にも出てくる浦戸の港を擁し、上方との連絡、水軍の保有にも便利な土地であった。元親は最初、天正16年(1588年)現在の高知城のある大高坂山に築城しようとしたが、鏡川の治水に失敗し、天正19年に浦戸へと移り、本拠とした。以後約10年間、子の盛親が関ヶ原の合戦で敗れるまで、長宗我部氏の居城であった。浦戸城は石垣の一部と尾根の西方二ノ丸付近に3条の堀切を残すのみであるが、古城としての面影を偲ぶことができる。