前回のエンジンオイル交換日は、2023.11.28でした。走行距離が少ないので、6カ月の交換を
延ばしていましたが、約4000キロ走行したので、総走行距離92352kmで交換しました。
今回は、黄色のシェル缶 SP 0W-20 です。
特に今回は、オイルをこぼすことなく無事完了です。
前回のエンジンオイル交換日は、2023.11.28でした。走行距離が少ないので、6カ月の交換を
延ばしていましたが、約4000キロ走行したので、総走行距離92352kmで交換しました。
今回は、黄色のシェル缶 SP 0W-20 です。
特に今回は、オイルをこぼすことなく無事完了です。
岡山県の観光地で必ず出てくる「閑谷学校」(しずたに)に行って来ました。講堂は、「国宝」と
なっています。学校の周りは、765メートルの石塀で囲まれていて、まさに城という感じです。
入場料400円・駐車場は無料。11/9当日は、イベントもあって、にぎわっていました。
この学校は、庶民のための学校ということで、講堂の奥にあり資料館で、その歴史も
勉強して来ました。
今回は、道の駅「みやま公園」からの帰りのナビが、備前インターで山陽道に乗るように
案内されたことから、その手前にある閑谷学校に寄ることにしました。
道路地図、高速道路の地図に記載のある閑谷学校を始めて見学することが出来ました。
/////////// 観光スポットへリンク/////////////////
旧閑谷学校|観光スポット | 岡山観光WEB【公式】- 岡山県の観光・旅行情報ならココ!
現存する日本最古の“庶民のための公立学校”
1670年に岡山藩主池田光政(みつまさ)が日本初の“庶民のための公立学校”を創立。谷深き地に建てられた学校は閑谷学校と名付けられました。日本の歴史を創る有能なリーダーが、ここから多く輩出されました。堂々とした入母屋造りの講堂は“学問の殿堂”と呼ばれるに相応しい雰囲気。国宝に指定されています。儒学の祖・孔子像が安置された聖廟(せいびょう)など国の重要文化財に指定された施設が点在しています。
2015年には「特別史跡旧弘道館(茨城県)」「史跡足利学校跡(栃木県)」「史跡咸宜園跡(大分県)」とともに「近世日本の教育遺産群−学ぶ心・礼節の本源−」として日本遺産第1号に認定されました。
瀬戸大橋記念公園となっている下津井城跡を訪問しました。下津井の瀬戸内海側から狭い道を上って、
記念公園の駐車場に止めました。そこから整備された公園の道を上っていくと本丸に着きます。
破城されたということですが、石垣が累々と横たわり城跡を感じます。瀬戸大橋が見える城跡でした。
////////////////////////// 倉敷市ホームページ から下津井城跡/文化財保護課/倉敷市
備讃瀬戸の海を臨む下津井は,古来瀬戸内の軍事・海運の要衝として知られ,16世紀の終わり頃には既に宇喜多氏の城砦があったとされますが,関連する文献や絵図などの史料がほとんどないため,詳しい内容についてはわかっていません。 慶長8年(1603)に岡山藩の家老池田長政が城主となり,現在見られるような総石垣の近世城郭に整えましたが,寛永16年(1639)には廃城となり,わずか36年の短い存続期間でした。城跡は,東西に延びる尾根筋を利用した細長い連郭式の構造をもち,本丸を中心に南側に二の丸,西側に西の丸,東側に三の丸を配置しています。また,三の丸の東には堀切を挟んで中出丸,さらに東出丸など,宇喜多時代のものと思われる郭も残っています。
現在は瀬戸大橋架橋記念公園の一画として散策路などが整備されており,地域の歴史に触れながら備讃瀬戸の美しい景色も楽しめる場となっています。
鬼ノ城から降りて、向かった場所は、続100名城のNo.171備中高松城跡です。
この城跡は、備中松山城とセットで訪れたことがある城跡です。前には、
無かった備中高松城址資料館が建っています。
御城スタンプは、資料館の開館時間10時から15時に、受付窓口で押せます。
備中高松城は、羽柴秀吉の高松城水攻めで、歴史に残る城跡で、周囲には
水攻めに堤防跡も残っています。
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VRで蘇る 備中高松城の戦い 特設ページ | 【公式】岡山市の観光情報サイト OKAYAMA KANKO .net
城巡り 鬼ノ城跡へ向かいました。岡山総社インターチェンジで降りて、北方向の鬼城山ビジターセンターを
目的地としました。途中には砂川公園があります。ビジターセンターの駐車場は、広く70台近く止められます。
途中までの約3キロの山道は、狭く離合は難しく、上りは、3台とすれ違い、すこしバックしたのは、一度、
下りは、6台と会いましたが、無事に通行出来ました。ビジターセンターで、御城No69スタンプを押してから
まず、鬼ノ城 西門に行きました。西門・南門・東門・北門と一周は、約2800メートル 60分ほどです。
途中の展望台から、西門方向を撮影、復元された立派な西門と青い空です。
南門へ向かう途中から石道と西門。
城跡からは、瀬戸内海・小豆島・四国が見渡せます。
こんな山の上に、城壁が繋がっているとは、総社の万里の長城という感じでした。
/////////総社市ホームページ 鬼ノ城トップ
鬼ノ城は、古代の正規の歴史書には登場しないが、後世の文献である鬼ノ城縁起などにでてくる。それによると「異国の鬼神が吉備国にやって来た。彼は百済の王子で名を温羅(うら)という。彼はやがて備中国の新山(にいやま)に居城を構え、しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり、婦女子を掠奪したので、人々は恐れおののいて「鬼ノ城」と呼び、都へ行ってその暴状を訴えた・・・」。これが、一般に温羅伝承と呼ばれる説話で、地名もこれに由来している。
鬼ノ城の構造と規模
鬼ノ城は、すり鉢を伏せたような形の山で、斜面は急峻だが頂部は平坦である。この山の八合目から九合目にかけて、城壁が2.8kmにわたって鉢巻状に巡っている。
城壁は、一段一列に並べ置いた列石の上に、土を少しづつ入れてつき固めた版築土塁で、平均幅約7m、推定高は約6mもある。要所には堅固な高い石垣を築いており、その威圧感は天然要害の地であることとあわせ、圧倒的な迫力をもっている。このように、版築土塁や高い石垣で築かれた城壁は、数m~数十mの直線を単位とし、地形に応じて城内外へ「折れ」ていることに特徴がある。
城壁で囲まれた城内は比較的平坦で約30ヘクタールという広大なもので、4つの谷を含んでいるため、谷部には排水の必要から水門が6ヶ所に設けられており、また、出入り口となる城門が4ヶ所にある。城内には、食品貯蔵庫と考えられる礎石建物跡やのろし場、溜井(水汲み場)もある。
この他に城内には貯水池とみられる湿地が数ヶ所ある。さらに兵舎、各種の作業場なども予測されるが未発見である。
自転車が3台ありますが、今はほとんど使われることなく、家の周囲に置いています。
ヘルメットを買わないといけないと思いながらそのままで、タイヤの空気も抜けてきています。
ということで、自転車のタイヤの虫を交換して、空気を入れました。
また、乗る機会があるでしょう。