福島県いわき市に来て、平城跡だけ見て帰るわけにはいかないので、城跡を検索、
小名浜港から近い泉城跡へ向かいました。泉公民館の東側の公園に、その泉城跡の石碑がありました。
城跡らしいものはなにもありませんでした。
泉城は、寛文8年(1668年)内藤政親によって築かれた。
泉藩は寛永11年(1634年)磐城平藩内藤政長の四男内藤政晴が二万石を分与され立藩したが、陣屋が
築かれたのは二代政親のときであった。元禄15年(1702年)三代内藤政森は上野国安中へ転封、変わ
って安中より板倉重形が一万五千石で入封した。
延享3年(1746年)板倉勝清は遠江国相良へ転封、変わって相良より本多忠如が一万五千石で入封する。
本多忠籌のときに老中を務め、五千石を加増されて二万石、さらに城主格となる。以後代々本多氏が
続いて明治に至る。
小名浜港から近い泉城跡へ向かいました。泉公民館の東側の公園に、その泉城跡の石碑がありました。
城跡らしいものはなにもありませんでした。
泉城は、寛文8年(1668年)内藤政親によって築かれた。
泉藩は寛永11年(1634年)磐城平藩内藤政長の四男内藤政晴が二万石を分与され立藩したが、陣屋が
築かれたのは二代政親のときであった。元禄15年(1702年)三代内藤政森は上野国安中へ転封、変わ
って安中より板倉重形が一万五千石で入封した。
延享3年(1746年)板倉勝清は遠江国相良へ転封、変わって相良より本多忠如が一万五千石で入封する。
本多忠籌のときに老中を務め、五千石を加増されて二万石、さらに城主格となる。以後代々本多氏が
続いて明治に至る。
いわき駅の平城跡を見学後、東に向かい太平洋側に向かいました。
太平洋側は、5年前の東日本大震災の津波で、堤防が損壊、津波の被害のあった海岸沿いです。
防波堤のかさ上げ工事がまだ続いています。そして、目的地の塩谷岬灯台に着きました。
天気は、風雨で、灯台のところまで登っていくことは出来ません。太平洋も荒波です。
薄磯海岸の海抜73メートルの断崖に立つ白亜の灯台で、明治32年(1899年)に開設された。今でも沖合40キロの海上まで光を放ち、船の安全を守っている。映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となった灯台としても知られる。ふもとには美空ひばりの歌碑が建立され、多くの観光客が訪れている。
青い水平線と黒松の樹帯にある白い灯台。
太平洋側は、5年前の東日本大震災の津波で、堤防が損壊、津波の被害のあった海岸沿いです。
防波堤のかさ上げ工事がまだ続いています。そして、目的地の塩谷岬灯台に着きました。
天気は、風雨で、灯台のところまで登っていくことは出来ません。太平洋も荒波です。
薄磯海岸の海抜73メートルの断崖に立つ白亜の灯台で、明治32年(1899年)に開設された。今でも沖合40キロの海上まで光を放ち、船の安全を守っている。映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となった灯台としても知られる。ふもとには美空ひばりの歌碑が建立され、多くの観光客が訪れている。
青い水平線と黒松の樹帯にある白い灯台。
土曜日8/27 いわき市に行く目的地のひとつが、磐城平城跡です。
いわき駅の北側の山が城跡で、民有地ということでいつでも敷地内には入れません。
柵の外からの本丸跡を撮影しました。
周囲の石垣や説明板を見て来ました。
北側の住宅地の道路角には、案内柱が建っていました。
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歴史的には、磐城平城は、初代磐城平藩主・鳥居忠政が慶長八(1603)年に築城。
本丸にあった美しい三階櫓は戊辰戦争の敗戦で焼失してしまいましたが、今も貴重な歴史的文化遺産
として残されています。
鳥居忠政は、父 元忠の関ヶ原合戦の際の伏見城での忠死の功により、慶長七年(1602)
磐城十万石を拝領し、徳川家康の命により伊達氏への備えとして平城を築城します。
岩城氏の居城大館は狭隘で、要害堅固でないことから、飯野八幡宮の境内に着目し、忠政は
将軍秀忠から永三百貫を拝借し、領民を総動員し、十二年を要して、築城したと言われてい
ます。
平城は南面が断崖をなす物見岡にあり、北に好間川、東に夏井川、南に新川が流れ、西は丘
陵続きとなっています。
物見岡の最高所に本丸、その東に水手曲輪・水手外郭、西に大手郭・大手外郭・内記郭を配
置している梯郭式の縄張りです。
本丸には外観二層の三階櫓があり、大きな水手郭を脇に配しているのが特色で、本丸の南北
両面断崖下には、半円形の城坂堀と丹後沢があります。
忠政は新城の絵図を幕府に奉呈し、秀忠はその功労を賞したといわれ(「磐城資料」)、元和
八年(1622)二十万石に二倍加増して山形転封で報いました。
以後、内藤→井上→安藤と交代し廃藩を迎えます。出典(城と石垣の歴史 纂修堂 鈴木啓)
(ふくしまの城 歴史春秋社 鈴木啓)
いわき駅の北側の山が城跡で、民有地ということでいつでも敷地内には入れません。
柵の外からの本丸跡を撮影しました。
周囲の石垣や説明板を見て来ました。
北側の住宅地の道路角には、案内柱が建っていました。
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歴史的には、磐城平城は、初代磐城平藩主・鳥居忠政が慶長八(1603)年に築城。
本丸にあった美しい三階櫓は戊辰戦争の敗戦で焼失してしまいましたが、今も貴重な歴史的文化遺産
として残されています。
鳥居忠政は、父 元忠の関ヶ原合戦の際の伏見城での忠死の功により、慶長七年(1602)
磐城十万石を拝領し、徳川家康の命により伊達氏への備えとして平城を築城します。
岩城氏の居城大館は狭隘で、要害堅固でないことから、飯野八幡宮の境内に着目し、忠政は
将軍秀忠から永三百貫を拝借し、領民を総動員し、十二年を要して、築城したと言われてい
ます。
平城は南面が断崖をなす物見岡にあり、北に好間川、東に夏井川、南に新川が流れ、西は丘
陵続きとなっています。
物見岡の最高所に本丸、その東に水手曲輪・水手外郭、西に大手郭・大手外郭・内記郭を配
置している梯郭式の縄張りです。
本丸には外観二層の三階櫓があり、大きな水手郭を脇に配しているのが特色で、本丸の南北
両面断崖下には、半円形の城坂堀と丹後沢があります。
忠政は新城の絵図を幕府に奉呈し、秀忠はその功労を賞したといわれ(「磐城資料」)、元和
八年(1622)二十万石に二倍加増して山形転封で報いました。
以後、内藤→井上→安藤と交代し廃藩を迎えます。出典(城と石垣の歴史 纂修堂 鈴木啓)
(ふくしまの城 歴史春秋社 鈴木啓)
いわき・ら・ら・ミュウ の1階、いわきデイクルーズのチケット売り場の近くに、
日本海軍駆逐艦の模型がおかれていました。
過去に、海軍軍艦の本で読んだ記憶があります。
その軍艦は、小名浜港の防波堤となった軍艦でした。
また、津波の関係で、説明板は、防波堤工事の区画された場所に、仮置きされていました。
//////////////////////////////////////////////////////////
「説明板」保存されているタービンから
東北地方最大の国際港であり、日本一の広域都市いわき市の海の玄関でもある小名浜港は、かつては
今日のような護岸も防波堤もない、遠浅の砂浜に小さな漁船を引き揚げておく程度の漁村にすぎません
でした。
長い苦しい戦争を戦い抜いて生残った「日本海軍の艦艇」は武装を撤去し、過酷な悪条件下に海外の復
員軍人のみならず、婦女子や病人など、十数万の国民の帰国に働いた後、本土沿岸の危険な機雷処理に
働き、更にあるものは連合軍に引取られ、あるものは現在の海上保安庁に残されたりしましたが、横須
賀港にあって15センチ9連発ロケット砲を装備し、対潜学校練習艦として沿岸警備に活躍していた駆
逐艦「澤風」と、日本海方面にあって人間魚雷「回天」の搭載艦となっていた駆逐艦「汐風」の2隻は、
日本再建の希いをこめて福島県小名浜築港の基礎とするため回航され、澤風は今の魚市場の防波堤とし
て、また汐風は現在の1号埠頭の中央付近に着底させ、コンクリートで固定してそのまま使用する事に
なったものです。
澤風・汐風は同型艦で、大正9年・10年の完成で、1.215トン、長さ97.5メートルの技本式
(海軍技術本部式)バーソンス型タービン38,500馬力2基を備え、当時39~40ノットの高速を出し
得た駆逐艦であり北洋警備などでも活躍して本県の北洋漁船員にはおなじみの軍艦であり、戦前いわき市
出身の艦長小野四郎少佐が指揮をして小名浜港に入港したこともあるのですが、これらの艦も今は忘れら
れた存在となっていましたが、小名浜在住の旧海軍々人有志の海桜会が廃棄処分となった同艦のタービン
機関を保存しその後こに名前を連ねる福島県海友会を中心とする有志の人々の苦心と熱意によって記念碑
として永久に保存されることになりました。
昭和48年11月3日 福島県海友会記念碑建設委員会
日本海軍駆逐艦の模型がおかれていました。
過去に、海軍軍艦の本で読んだ記憶があります。
その軍艦は、小名浜港の防波堤となった軍艦でした。
また、津波の関係で、説明板は、防波堤工事の区画された場所に、仮置きされていました。
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「説明板」保存されているタービンから
東北地方最大の国際港であり、日本一の広域都市いわき市の海の玄関でもある小名浜港は、かつては
今日のような護岸も防波堤もない、遠浅の砂浜に小さな漁船を引き揚げておく程度の漁村にすぎません
でした。
長い苦しい戦争を戦い抜いて生残った「日本海軍の艦艇」は武装を撤去し、過酷な悪条件下に海外の復
員軍人のみならず、婦女子や病人など、十数万の国民の帰国に働いた後、本土沿岸の危険な機雷処理に
働き、更にあるものは連合軍に引取られ、あるものは現在の海上保安庁に残されたりしましたが、横須
賀港にあって15センチ9連発ロケット砲を装備し、対潜学校練習艦として沿岸警備に活躍していた駆
逐艦「澤風」と、日本海方面にあって人間魚雷「回天」の搭載艦となっていた駆逐艦「汐風」の2隻は、
日本再建の希いをこめて福島県小名浜築港の基礎とするため回航され、澤風は今の魚市場の防波堤とし
て、また汐風は現在の1号埠頭の中央付近に着底させ、コンクリートで固定してそのまま使用する事に
なったものです。
澤風・汐風は同型艦で、大正9年・10年の完成で、1.215トン、長さ97.5メートルの技本式
(海軍技術本部式)バーソンス型タービン38,500馬力2基を備え、当時39~40ノットの高速を出し
得た駆逐艦であり北洋警備などでも活躍して本県の北洋漁船員にはおなじみの軍艦であり、戦前いわき市
出身の艦長小野四郎少佐が指揮をして小名浜港に入港したこともあるのですが、これらの艦も今は忘れら
れた存在となっていましたが、小名浜在住の旧海軍々人有志の海桜会が廃棄処分となった同艦のタービン
機関を保存しその後こに名前を連ねる福島県海友会を中心とする有志の人々の苦心と熱意によって記念碑
として永久に保存されることになりました。
昭和48年11月3日 福島県海友会記念碑建設委員会
土曜日 日立市の天気は曇り空 いわき市は雨だった。
日立市では、パッソのETCをアンテナ一体型から分離型に乗替てから出発しました。日立中央インターから常磐道に乗りましたが 取り付け道路に100円が必要です。
常磐線は福島県の原発事故区間が四年前の地図では不通でしたが今は走れます。二輪車はだめの条件が記載されています。いわき市に入ると福島県です。いわき中央インターで下りて目指すはいわき駅の北の城跡 平城跡です。この平城跡は民有地にあり柵から中には入れませんが写真を撮って来ました。いわき駅から北にある山が城跡でした。いわき市から次の目的地はふくしまアクアマリンです。途中 海側の灯台を見てからと思い、海側に走るとそこは津波対策工事中です。防波堤のかさ上げが大々的にまだ行われているのでした。いわき市も津波の被害を受けた地域なのを認識しました。
灯台に着くと雨風が強く 灯台のしたまでは行けますんでした。灯台からアクアマリンに向かいました。アクアマリンは水族館ですが、小名浜は港で海産物のお店がいっぱいある建物があります。ランチはカジキの天ぷら丼 でした。
日立市では、パッソのETCをアンテナ一体型から分離型に乗替てから出発しました。日立中央インターから常磐道に乗りましたが 取り付け道路に100円が必要です。
常磐線は福島県の原発事故区間が四年前の地図では不通でしたが今は走れます。二輪車はだめの条件が記載されています。いわき市に入ると福島県です。いわき中央インターで下りて目指すはいわき駅の北の城跡 平城跡です。この平城跡は民有地にあり柵から中には入れませんが写真を撮って来ました。いわき駅から北にある山が城跡でした。いわき市から次の目的地はふくしまアクアマリンです。途中 海側の灯台を見てからと思い、海側に走るとそこは津波対策工事中です。防波堤のかさ上げが大々的にまだ行われているのでした。いわき市も津波の被害を受けた地域なのを認識しました。
灯台に着くと雨風が強く 灯台のしたまでは行けますんでした。灯台からアクアマリンに向かいました。アクアマリンは水族館ですが、小名浜は港で海産物のお店がいっぱいある建物があります。ランチはカジキの天ぷら丼 でした。
金曜日 今日は東京に向かって出発です。朝の新幹線は指定席は満席状態です。
ビジネスマンに混じっていました。
富士山は、雪はなく、写真のよえでした。
東京からは地下鉄に乗り換え昼前に目的地一に到着です。地下鉄の駅から目的地までは徒歩10分ほどですが、新幹線や地下鉄の冷房車内から出たらやはり暑い日です。
午後3時過ぎまで東京にいたあとは、目的地2に向かいました。目的地2は常磐線の日立市になります。常磐線が上野から品川まで乗り入れするようになってからは初めてです。常磐線の特急ひたちは 新型車両です。自由席は無くなりすべて指定席となっております。このため前日までにえきネットで指定席を予約して起きました。
この全席指定席の指定状況は車内の座席上に表示されています。
緑は指定席に発売済み 黄色はまもなく発売済みの区間 赤は空席を表しています。東京を出て上野までは 黄色表示が目立っていましたが 上野を出るとほぼ緑色になりました。
ビジネスマンに混じっていました。
富士山は、雪はなく、写真のよえでした。
東京からは地下鉄に乗り換え昼前に目的地一に到着です。地下鉄の駅から目的地までは徒歩10分ほどですが、新幹線や地下鉄の冷房車内から出たらやはり暑い日です。
午後3時過ぎまで東京にいたあとは、目的地2に向かいました。目的地2は常磐線の日立市になります。常磐線が上野から品川まで乗り入れするようになってからは初めてです。常磐線の特急ひたちは 新型車両です。自由席は無くなりすべて指定席となっております。このため前日までにえきネットで指定席を予約して起きました。
この全席指定席の指定状況は車内の座席上に表示されています。
緑は指定席に発売済み 黄色はまもなく発売済みの区間 赤は空席を表しています。東京を出て上野までは 黄色表示が目立っていましたが 上野を出るとほぼ緑色になりました。
会社のパソコンのエクセルで、データ処理をしていますが、今日は、二回ほど固まって
フリーズです。1回目は、しんぼうしてすこし待ちましたが、電源ボタンを押して、強制終了
させました。
また、その後、二回目に固まってフリーズです。
かっかして、マウスを、バーンをたたいてしまいました。
マウスにあたってもなにも解決されないのにです。
ここは、席をたって、トイレに行き、頭を冷やしました。
フリーズです。1回目は、しんぼうしてすこし待ちましたが、電源ボタンを押して、強制終了
させました。
また、その後、二回目に固まってフリーズです。
かっかして、マウスを、バーンをたたいてしまいました。
マウスにあたってもなにも解決されないのにです。
ここは、席をたって、トイレに行き、頭を冷やしました。