新城城跡からさらに西に国道151号線を、豊川方面に進むと野田城跡があります。飯田線の駅に野田城駅があります。国道には、野田城跡の案内板も出ています。
城あとは、小高い丘にあり、案内板が二枚ありました。城跡には、土塁や本丸跡がありました。
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新城市のホームページから
野田城は永正13年(1516)から天正18年(1590)に城主の移封に伴って廃城となるまでの75年間に亘って存続したとされている。
築城者は、奥三河地域で勢力を張った三河菅沼氏一族の菅沼定則で、はじめ今川方に属していた。定則は、南東方面に約1km離れた場所にあった館に居住していたが、たびたび水害を被るので、永正5年(1508)にこの地に築城の計画を開始したとされる。しかし、吉田城や長篠城の築城時期と同じ頃であるため、東三河地域での今川氏の影響下で築城された可能性も考えられる。
城主は、大永6年(1526)から永禄3年(1560)に今川義元が桶狭間で戦死するまで遠州と西三河地域の狭間でその帰属先を転々としたが、義元の死後は徳川方となっている。
その後野田城は戦地となり、元亀4年(1573)までの12年間に今川氏や武田氏からたびたび攻撃を受けている。永禄4年(1561)には今川氏真によって落城し、元亀2年(1571)の武田軍の攻撃の際には、城に火を放って城を開けたとされる。元亀4年(1573)の「野田の戦い」では、武田軍と籠城戦を強いられている。
なお、この「野田の戦い」の時に武田信玄を撃ったとされる火縄銃は、『信玄砲』として市の指定文化財となっており、設楽原歴史資料館で展示されている。
この地の北側には東西方向に伊那街道が通り、北上すると長篠城や信州や遠江方面、南下すると吉田城などがある東三河平野部に至る。つまり野田城は、東三河の山間部と平野部の中間地で街道を押さえる拠点的な役割を果たしていたと考えることができる。
立地は、本宮山麓からなだらかに派生した丘陵が舌状に張り出した先端部に位置している。かつての地形は、丘陵地の麓の東側を桑淵、西側を龍淵と呼ばれた淵によって挟まれた比高差約18mを測る自然の要害的地を成していたが、現在は東側に杉川、西側に殿田川が流れており、西側は埋立てなどで地形の改変が著しい。
城郭の構造は南北に延びる丘陵地に3つの曲輪を配した連郭式で、丘陵端部の一番奥まった南側に位置する曲輪が中心となり、3つの曲輪のうちで標高が一番低い。
縄張りの様子
幾度となく城が攻撃された野田城であるが、その都度城を奪還して修理を繰り返した結果、元亀4年の野田の戦い時には、武田軍と籠城戦ができるほど野田城の縄張りはより堅固なものに改修されていたものと推測される。
主郭は、東西約60mで南北約47mの長方形で、南西部には素掘りの井戸が見られる。南面と北面には高さ1m前後の土塁が認められ、この土塁の外側に堀が造られている。これら堀の西側の形状が湾曲していることから、本来は堀が巡っていたと考えられている。ここの出入り口は、北西と南東の2箇所に虎口が認められるが、西側部にも虎口があったことが古絵図等から推測されている。北西虎口は、土塁を乗り越えて出入りする格好で、その東側の土塁は「かぎ型」に屈曲して北側に張り出し、この虎口への横矢掛けを意識した造りとなっている。また、南西虎口の前面には馬出し状の広場を有している。ここでも土塁上から虎口に向けて横矢掛けとなっており、虎口の防備性を高めている。さらに、ここの南方の麓から主郭へ至る登城道は、この馬出し経由する道に限定される。このあたりは、主郭の南側の斜面地に設けられた堀と、その外側に土を盛って土塁状の平坦面が形成され、防御性を際立てている。さらに、東側の斜面にも2段の段差を持つ平坦部が造られて、虎口への侵入に備えている。
真ん中に位置する曲輪は南北約50mの方形を呈し、全体的に後世の開墾等で地形が改変されている。主郭とは土橋によって連絡する。また、ここより北側に位置する曲輪と画する場所は、約1.5mの段差を有しているが、これは堀の痕跡と考えられる。西側の市道を挟んだ所に土塁状の高まりが残り、古絵図と比較してこの曲輪の一部であった可能性が高い。
一番北側に位置する曲輪は、約40m四方で北東部が突出した形状を呈する。東と北にわずかに土塁状の高まりが認められ、北側には溝状の窪みを持つ。さらに、この溝状の西端からわずかに北方に派生しているが、古絵図から三日月状の堀で馬出しを形成していたようである。
野田城は、東側を切岸と各曲輪に共通した犬走り状の平坦部で防備され、丘陵下の南面と西面にそれぞれ侍屋敷が推定されており、主郭への出入りの防御性が高い縄張りである構造から、単に城主が居住する城郭としてだけでなく、軍事性が非常に高かった縄張りであったことが推測される。
城あとは、小高い丘にあり、案内板が二枚ありました。城跡には、土塁や本丸跡がありました。
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新城市のホームページから
野田城は永正13年(1516)から天正18年(1590)に城主の移封に伴って廃城となるまでの75年間に亘って存続したとされている。
築城者は、奥三河地域で勢力を張った三河菅沼氏一族の菅沼定則で、はじめ今川方に属していた。定則は、南東方面に約1km離れた場所にあった館に居住していたが、たびたび水害を被るので、永正5年(1508)にこの地に築城の計画を開始したとされる。しかし、吉田城や長篠城の築城時期と同じ頃であるため、東三河地域での今川氏の影響下で築城された可能性も考えられる。
城主は、大永6年(1526)から永禄3年(1560)に今川義元が桶狭間で戦死するまで遠州と西三河地域の狭間でその帰属先を転々としたが、義元の死後は徳川方となっている。
その後野田城は戦地となり、元亀4年(1573)までの12年間に今川氏や武田氏からたびたび攻撃を受けている。永禄4年(1561)には今川氏真によって落城し、元亀2年(1571)の武田軍の攻撃の際には、城に火を放って城を開けたとされる。元亀4年(1573)の「野田の戦い」では、武田軍と籠城戦を強いられている。
なお、この「野田の戦い」の時に武田信玄を撃ったとされる火縄銃は、『信玄砲』として市の指定文化財となっており、設楽原歴史資料館で展示されている。
この地の北側には東西方向に伊那街道が通り、北上すると長篠城や信州や遠江方面、南下すると吉田城などがある東三河平野部に至る。つまり野田城は、東三河の山間部と平野部の中間地で街道を押さえる拠点的な役割を果たしていたと考えることができる。
立地は、本宮山麓からなだらかに派生した丘陵が舌状に張り出した先端部に位置している。かつての地形は、丘陵地の麓の東側を桑淵、西側を龍淵と呼ばれた淵によって挟まれた比高差約18mを測る自然の要害的地を成していたが、現在は東側に杉川、西側に殿田川が流れており、西側は埋立てなどで地形の改変が著しい。
城郭の構造は南北に延びる丘陵地に3つの曲輪を配した連郭式で、丘陵端部の一番奥まった南側に位置する曲輪が中心となり、3つの曲輪のうちで標高が一番低い。
縄張りの様子
幾度となく城が攻撃された野田城であるが、その都度城を奪還して修理を繰り返した結果、元亀4年の野田の戦い時には、武田軍と籠城戦ができるほど野田城の縄張りはより堅固なものに改修されていたものと推測される。
主郭は、東西約60mで南北約47mの長方形で、南西部には素掘りの井戸が見られる。南面と北面には高さ1m前後の土塁が認められ、この土塁の外側に堀が造られている。これら堀の西側の形状が湾曲していることから、本来は堀が巡っていたと考えられている。ここの出入り口は、北西と南東の2箇所に虎口が認められるが、西側部にも虎口があったことが古絵図等から推測されている。北西虎口は、土塁を乗り越えて出入りする格好で、その東側の土塁は「かぎ型」に屈曲して北側に張り出し、この虎口への横矢掛けを意識した造りとなっている。また、南西虎口の前面には馬出し状の広場を有している。ここでも土塁上から虎口に向けて横矢掛けとなっており、虎口の防備性を高めている。さらに、ここの南方の麓から主郭へ至る登城道は、この馬出し経由する道に限定される。このあたりは、主郭の南側の斜面地に設けられた堀と、その外側に土を盛って土塁状の平坦面が形成され、防御性を際立てている。さらに、東側の斜面にも2段の段差を持つ平坦部が造られて、虎口への侵入に備えている。
真ん中に位置する曲輪は南北約50mの方形を呈し、全体的に後世の開墾等で地形が改変されている。主郭とは土橋によって連絡する。また、ここより北側に位置する曲輪と画する場所は、約1.5mの段差を有しているが、これは堀の痕跡と考えられる。西側の市道を挟んだ所に土塁状の高まりが残り、古絵図と比較してこの曲輪の一部であった可能性が高い。
一番北側に位置する曲輪は、約40m四方で北東部が突出した形状を呈する。東と北にわずかに土塁状の高まりが認められ、北側には溝状の窪みを持つ。さらに、この溝状の西端からわずかに北方に派生しているが、古絵図から三日月状の堀で馬出しを形成していたようである。
野田城は、東側を切岸と各曲輪に共通した犬走り状の平坦部で防備され、丘陵下の南面と西面にそれぞれ侍屋敷が推定されており、主郭への出入りの防御性が高い縄張りである構造から、単に城主が居住する城郭としてだけでなく、軍事性が非常に高かった縄張りであったことが推測される。