テニスプレイヤーの日記

日々の随想や所感を書きます。

城巡り 野田城跡へ

2014年08月30日 | Weblog
新城城跡からさらに西に国道151号線を、豊川方面に進むと野田城跡があります。飯田線の駅に野田城駅があります。国道には、野田城跡の案内板も出ています。
城あとは、小高い丘にあり、案内板が二枚ありました。城跡には、土塁や本丸跡がありました。

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新城市のホームページから

野田城は永正13年(1516)から天正18年(1590)に城主の移封に伴って廃城となるまでの75年間に亘って存続したとされている。
築城者は、奥三河地域で勢力を張った三河菅沼氏一族の菅沼定則で、はじめ今川方に属していた。定則は、南東方面に約1km離れた場所にあった館に居住していたが、たびたび水害を被るので、永正5年(1508)にこの地に築城の計画を開始したとされる。しかし、吉田城や長篠城の築城時期と同じ頃であるため、東三河地域での今川氏の影響下で築城された可能性も考えられる。
城主は、大永6年(1526)から永禄3年(1560)に今川義元が桶狭間で戦死するまで遠州と西三河地域の狭間でその帰属先を転々としたが、義元の死後は徳川方となっている。
その後野田城は戦地となり、元亀4年(1573)までの12年間に今川氏や武田氏からたびたび攻撃を受けている。永禄4年(1561)には今川氏真によって落城し、元亀2年(1571)の武田軍の攻撃の際には、城に火を放って城を開けたとされる。元亀4年(1573)の「野田の戦い」では、武田軍と籠城戦を強いられている。
なお、この「野田の戦い」の時に武田信玄を撃ったとされる火縄銃は、『信玄砲』として市の指定文化財となっており、設楽原歴史資料館で展示されている。
この地の北側には東西方向に伊那街道が通り、北上すると長篠城や信州や遠江方面、南下すると吉田城などがある東三河平野部に至る。つまり野田城は、東三河の山間部と平野部の中間地で街道を押さえる拠点的な役割を果たしていたと考えることができる。

立地は、本宮山麓からなだらかに派生した丘陵が舌状に張り出した先端部に位置している。かつての地形は、丘陵地の麓の東側を桑淵、西側を龍淵と呼ばれた淵によって挟まれた比高差約18mを測る自然の要害的地を成していたが、現在は東側に杉川、西側に殿田川が流れており、西側は埋立てなどで地形の改変が著しい。

城郭の構造は南北に延びる丘陵地に3つの曲輪を配した連郭式で、丘陵端部の一番奥まった南側に位置する曲輪が中心となり、3つの曲輪のうちで標高が一番低い。

縄張りの様子

幾度となく城が攻撃された野田城であるが、その都度城を奪還して修理を繰り返した結果、元亀4年の野田の戦い時には、武田軍と籠城戦ができるほど野田城の縄張りはより堅固なものに改修されていたものと推測される。

主郭は、東西約60mで南北約47mの長方形で、南西部には素掘りの井戸が見られる。南面と北面には高さ1m前後の土塁が認められ、この土塁の外側に堀が造られている。これら堀の西側の形状が湾曲していることから、本来は堀が巡っていたと考えられている。ここの出入り口は、北西と南東の2箇所に虎口が認められるが、西側部にも虎口があったことが古絵図等から推測されている。北西虎口は、土塁を乗り越えて出入りする格好で、その東側の土塁は「かぎ型」に屈曲して北側に張り出し、この虎口への横矢掛けを意識した造りとなっている。また、南西虎口の前面には馬出し状の広場を有している。ここでも土塁上から虎口に向けて横矢掛けとなっており、虎口の防備性を高めている。さらに、ここの南方の麓から主郭へ至る登城道は、この馬出し経由する道に限定される。このあたりは、主郭の南側の斜面地に設けられた堀と、その外側に土を盛って土塁状の平坦面が形成され、防御性を際立てている。さらに、東側の斜面にも2段の段差を持つ平坦部が造られて、虎口への侵入に備えている。

真ん中に位置する曲輪は南北約50mの方形を呈し、全体的に後世の開墾等で地形が改変されている。主郭とは土橋によって連絡する。また、ここより北側に位置する曲輪と画する場所は、約1.5mの段差を有しているが、これは堀の痕跡と考えられる。西側の市道を挟んだ所に土塁状の高まりが残り、古絵図と比較してこの曲輪の一部であった可能性が高い。

一番北側に位置する曲輪は、約40m四方で北東部が突出した形状を呈する。東と北にわずかに土塁状の高まりが認められ、北側には溝状の窪みを持つ。さらに、この溝状の西端からわずかに北方に派生しているが、古絵図から三日月状の堀で馬出しを形成していたようである。

野田城は、東側を切岸と各曲輪に共通した犬走り状の平坦部で防備され、丘陵下の南面と西面にそれぞれ侍屋敷が推定されており、主郭への出入りの防御性が高い縄張りである構造から、単に城主が居住する城郭としてだけでなく、軍事性が非常に高かった縄張りであったことが推測される。
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城巡り 川路城跡へ

2014年08月30日 | Weblog
新城市の観光パンフレットに、川路城跡というのが記載されていました。早速、行ってみました。飯田線の三河東郷駅の西南側にあります。城跡には、碑があるだけでした。


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川路城趾(大坪城趾)・お鷹井戸  新城市川路字小川路

設楽氏の主城で、築城年代は定かではないが応永の頃(1394~1427)という説がある。
戦国期、設楽貞通 は松平元康(後の徳川家康)にいち早く従属し、天正3年(1575)の長篠の戦いでは酒井忠次の部隊に参加、その後、徳川家康の関東移封に伴って武蔵国礼羽に移り、川路城は廃城となる。  川路城に隣接するようにして小川路城、端城 があるが、何れも川路城を本城とした出城である。
城趾の近くに 「お鷹井戸」と呼ばれる井戸跡が残っている。 これは、歴代の城主が鷹狩の際の鷹の飼育にこの井戸水を使っていたという。

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城巡り 新城城址へ

2014年08月30日 | Weblog
長篠城址を見学した跡は、今来た151号線を、西に戻り、設楽歴史資料館の近くにある馬防柵を、
見学、さらに、新城城跡に向かいました。新城小学校のところが城跡ということです。正門に、新城の陣屋の門が残っています。校庭の南側には、土塁や碑・城あと資料館もあるようです。

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新城市のホームページから/////
新城城は今から400年以上前の天正4年(1576)に築城され、城主は長篠の戦いで功績のあった奥平信昌が初代を務めました。その後、数人の城主交代を経ながら、慶安元年(1648)に野田城主の子孫である菅沼定実が7,000石で入城したことから、いわゆる大名の居住地とされる「お城」から旗本の居住地の「陣屋」に呼び名が変わるようになりました。そして、明治元年(1873)まで菅沼氏が領主として、この新城地域を治めました。「新城(しんしろ)」という地名の由来は、長篠城に対しての新しい城という意味であるとも言われています。お城の様子 現在、この城跡の場所に小学校が建てられています。城郭の範囲は、その運動場を中心にした100m四方に城郭と陣屋が重複し、その南面を除く周囲を家臣団屋敷が囲み、地籍図等から500m×400mの範囲に広がるものと推定されています。
幕末頃の様子を描いた絵図には、南側を開けたコの字状に土塁と堀が方形に巡り、その東側に喰い違い虎口を有する広場が設けられています。
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長篠城址でのランチは、鮨の「とくや」さん

2014年08月30日 | Weblog
長篠城跡でのランチは、鮨の「とくや」さんで、いただきました。駐車場の東側即です。
平日は、サービスランチ820円ですが、土、日、祝日は、やっていないですが、よくばりセット980円を
注文しました。海鮮丼セットや握りセットなど、お寿司の定食セットがご馳走です。
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城巡り 長篠城跡へ

2014年08月30日 | Weblog
東名高速の豊川インターから北東に約20キロ国道151号線を進むと長篠城跡に到着です。
長篠城は、あの長篠の合戦、武田勝頼と織田・徳川連合軍が、武田騎馬隊を鉄砲隊で、撃破した舞台となった長篠城です。長篠城は、豊川と宇連川の合流点にあたり、天然の要害となっています。現在残る土塁・堀は、その様子を今に残していました。城については、長篠城跡史跡保存館に詳しく展示解説されていました。入館料は、大人210円でした。
城跡の土塁は、一部、カットされて飯田線の線路となっていますし、東南方向を見ると新東名の工事が進んでいました。
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長篠城は、永正5年(1508)田峯菅沼氏の一族、菅沼元成によって築かれました。はじめ今川氏に属し、その後松平元康(家康)へ、そして元亀2年(1571)武田氏へ属しました。その後天正元年(1573)には、再び家康が長篠城を奪回しました。

天正3年(1575)奥平貞昌(信昌)を城主とし援兵を入れて武田勝頼の侵攻に備えました。5月、武田軍長篠城を攻撃、21日援軍の織田・徳川と設楽原で戦い、武田軍大敗。翌年、奥平信昌は城を郷ヶ原へ移し、長篠城は廃城となったとされています。

立地は、豊川と宇連川の合流点にあたり、自然の地形を巧みに利用した後ろ堅固な自然の要害となっている。戦国末期の城郭の遺構(大型土塁や巨大な堀跡)が今もよく残っています。本丸跡を中心に約35,500平方メートルが史跡指定地となっています。

周辺には、鳥居強右衛門磔死の碑・武田勝頼本陣跡の医王寺・武田氏宿将の墓など「長篠の戦い」に関連した史跡が数多くあり、歴史を動かした合戦の全貌を垣間見ることが出来、長篠城址史跡保存館が中心となってその資料保存と研究に努めています。
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豊橋の吉田城跡へ

2014年08月30日 | Weblog
豊橋市役所の地域は、吉田城の城跡です。本丸あとには、石垣が残っています。
駐車場は、公園内に無料駐車場がありましたが、市役所の地下駐車場に止めました。30分100円です。
城あとの本丸あと、二の丸あと、三の丸あとと公園として、広く、市民の公園となっている地域が城あとです。鉄櫓が復元されています。シンボル的な存在でした。

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城巡り 伊奈城跡へ

2014年08月30日 | Weblog
東三河の地図に、載っていた伊奈城跡に、平野屋さんから向かいました。新幹線の見える田んぼのなかに、その城あとは、あり、土塁や櫓がありました。
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豊川市のホームページから

伊奈城趾公園・花ヶ池公園は、徳川家の家紋「葵の紋」発祥ゆかりの地として,平成6・7年度に「愛知のふるさとづくり事業」の選定を受け整備しました。
 享禄二年(1529)岡崎城主・松平清康(徳川家康の祖父)が吉田城(豊橋市)を攻めた時、当時の伊奈城主・本多正忠は清康軍に参加し、先陣をきって東門を破り城を攻め落とした。正忠は清康を伊奈城に招いて凱旋の祝宴を開き、城内の花ヶ池にあった水葵の葉を敷いて酒肴を出したところ、清康は大そう喜び、「立葵は正忠の家の紋なり、此度の戦に、正忠最初に御方参て、勝軍しつ、吉例也、賜らんと仰ありて、これより御家紋とはなされたり。」(藩翰譜・新井白石編)
 この記述を裏付けるように、岡崎市の随念寺に残されている清康の肖像画には、「立葵の紋」が描かれている。
 このように、本多家から松平家の家紋となった「立葵の紋」が、徳川家康の代に「三つ葉葵の紋」となったと伝えられている。
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蒲郡市の宿泊お勧めは、三谷温泉「平野屋」さん

2014年08月29日 | Weblog
蒲郡市の宿泊は、色々三河湾に面して温泉があります。色々検索した結果、三谷温泉で、楽天から「平野屋」さんを選びました。松風園やひがきホテルさんもあったのですが、「ずわいがに食べ放題」の夕食バイキングにつられて、申し込みしました。本館での宿泊で、温泉、露天風呂ありで、二人一部屋で、一人あたり11500円のコースです。費用的には、お得価格かと思います。口コミでは、松風園、平野屋さんとも老舗の旅館です。到着時、抹茶のサービスや夕食のずわいがに足の食べ放題もいただき、良かったです。
朝食もバイキングでした。バイキングだとついつい食べ過ぎてしまいました。
温泉も口コミの通り、露店風呂に行くには、一旦、服を着る必要がありますが、そんなのが苦にならないので、満足です。部屋の風呂場は使わないでそのままです。部屋の風呂場には、いつからかわかりませんが、家族連れの忘れ物が、ふたつありました。翌朝フロントに連絡しました。
なお、部屋は、本館の予約でしたが、別館の部屋になり、三河湾の見えるいい部屋でした。良かった。
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竹島水族館のアシカショー

2014年08月29日 | Weblog
蒲郡市に、竹島水族館があります。行って来ました。あまり広くない管内ですが、夏休み終わり近くになって、子供づれのお客さんで一杯です。アシカショーも堪能しました。良かったです。
入館料は、大人500円ですが、蒲郡お得旅ガイドブック「がまポン」についているクポーンを出したら350円になりました。「がまポン」は、蒲郡市博物館においてあったものをいただきました。
その他も割引クポーンが使えるので、まず入手したいです。
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五井城跡の長泉寺へ

2014年08月29日 | Weblog
五井城跡というのが、蒲郡市の北側にあります。八幡宮の南にある御宮池が堀の一部であったとか、城門らしい門は、長泉寺の門として残っているようです。


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五井城跡  蒲郡市五井町中郷

文治年間(1185~1190)に源新宮十郎行家によって築かれた。 その後、戦国時代には鵜殿氏の居城となっていたが、松平信光の七男松平忠景が城主となり五井松平氏の祖となる。
天正18年(1590)6代伊昌の時徳川家康の関東移封に伴い、下総国印旛郡へ移り、7代忠実以降は交代寄合衆として明治まで続く。
城は八幡宮辺り一帯に築かれていて、神社の南側にある池が堀の名残という。

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