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テニスプレイヤーの日記

日々の随想や所感を書きます。

城巡り 津城跡へ

2025年03月23日 | Weblog

2025.3.23 津城跡へ向かいました。ナビを設定して進むと、高山神社に

到着です。お城スタンプを押しました。

高山神社に参拝後、津城跡を散策しました。

石垣も本丸を中心に残っており、立派な石垣でした。

////////////////////////////////////////  津市 - 「津城跡」 //////////////////////////////////

城跡は市の中心部にあり、市民の憩いの広場として親しまれています。現在は本丸と西之丸、内堀の一部が残り、お城公園として整備されています。平成17年3月、県指定史跡に指定されました。

津城の歴史■

織田信包(信長の弟)が天正8年(1580)に津城を創築。以後、津は城下町として発展してきました。本丸を中心に出丸を置き、幾筋かの河流を城の外堀に取り入れたもので、 低湿地ながら防御には堅固な城でした。

その後、藤堂高虎公が四国伊予の今治(愛媛県)から移封、 慶長16年(1611)に大規模な改修を行い、北側の石塁を高く積み直し、その東北と西北の両すみに三重の櫓をつくりました。 また、城の周囲に武家屋敷をつくる一方で、伊予から連れてきた町人たちを岩田川の南に住まわせて、 伊予町をつくりました。
さらに高虎公は、参宮街道を城下に引き入れたり、城の東に堀川を切り開いたりして津の基礎づくりを行いました。 2代藩主高次公はそれをもとに城下を整備、明治維新まで津は32万石の城下町として栄えてきました。

明治になっても町はほとんど旧城下町のままでしたが、明治の終わり頃になって外堀が埋められ、 新しい道や町が作られるようになってきました。現在では、本丸・西の丸・内堀の一部を残すのみとなりましたが、 復興された角櫓の三層の白壁に老松がはえ、苔むす石垣とともに昔を偲ぶことができます。<button class="simplefavorite-button" data-postid="4566" data-siteid="1" data-groupid="1" data-favoritecount="24"></button>


ICタグの自動車検査証 継続されたかはスマホアプリで確認。

2025年03月20日 | Weblog

パッソの車検が終わって、車検証が来ました。が、「自動車検査証」は、令和5年3月2日の印字のみ

継続されたかどうかは、見ただけではわかりません。

ICタグを読み取るアプリをスマホにインストールして、検査証のデータを見ると、

ちゃんと有効期限は、二年後の令和9年3月になっていました。

ICタグの自動車検査証は、継続して使用していくことのようです。


スタッドレスタイヤから夏タイヤへ

2025年03月20日 | Weblog

2025.3.20 スタッドレスタイヤから夏タイヤに交換しました。

10315km   新調したBS VRX2は、約2400km走行しました。

交換時には、ブレーキ周りの目視点検・清掃を実施しています。

 右前のディスクブレーキ

夏タイヤに交換後、スタッドレスタイヤを水洗いしたあと、

タイヤのゴムに挟まった石を取り除いていくと、助手席前の

タイヤに、なんとプラスねじが刺さっていました。

 写真は、ねじを抜いて、刺さっていた近くに置いたもの

ですが、幸い今のところ抜いても空気は抜けず、タイヤパンクの接着材を

抜いた穴に少し充填しておきました。

ねじが比較的短いものだったことと、タイヤ新品だったことで、タイヤの奥まで、

いかなかったようです。


城巡り 竹中陣屋跡へ

2025年03月17日 | Weblog

豊臣秀吉の命軍師「竹中半兵衛」の竹中陣屋跡を訪問しました。二回目です。

竹中半兵衛像など、案内が充実していました。菩提山城もいつか登ります。

/////////////////////////////竹中氏陣屋跡 (岩手城跡)|観光スポット|岐阜県観光公式サイト 「岐阜の旅ガイド」

戦国時代の智略が飛び交うなかで、豊臣秀吉の名軍師『竹中半兵衛』とその一族の活躍には目を見張るものがありました。半兵衛の息子重門(しげかど)が、築造した陣屋跡には白壁の櫓門、がっしりとした石垣が残っており、旗本では珍しい城郭建造物です。関ケ原の合戦で重門は、黒田長政とともに東軍として参戦しています。陣屋脇には、半兵衛の銅像があり、陣屋から北に行くと半兵衛の墓所がある「禅幢寺」が見えてきます。

 


城巡り 黒野城跡へ

2025年03月17日 | Weblog

黒野城跡へ行きました。二回目です。黒野城の大きな看板が、土塁に設置されています。

前回は、雨だったような記憶ですが、堀には今日は水がありません。土塁の上を一周

しました。

//////////[市]黒野城跡|岐阜市公式ホームページ///////

黒野城跡は、岐阜市北西部に位置する平城です。文禄3年(1594年)に加藤貞泰が美濃国黒野4万石に封じられた際に築城、慶長15年(1610年)に貞泰が伯耆国米子に転封されるまでの16年間存続しました。

平成26年5月~6月に本丸入口部分で発掘調査を行った結果、当時の石垣が姿を現しました!石垣は2段残っていましたが、本来はさらに高く積まれていたと考えられます。また築城時に大規模な造成工事を行っていることも分かりました。貞泰公の城造りに対する意気込みが伝わってくるようです。


城巡り 大桑城の四国堀跡へ

2025年03月17日 | Weblog

稲葉山城と大きく関係する城といえば、大桑城です。「おおくわ」 と読むかと思いましたが、

「おおが」です。大桑城は、同時期の朝倉家一乗谷城のような城下町を守るため土塁と堀で

固めていた城でした。その土塁と堀の一部が、四国堀と呼ばれています。

山城には、昨日からの雨天でぬかるんでいることから後日にしました。

あと、土岐氏菩提寺のお寺を見てきました。立派な門がありました。

インターネット検索で、//////大桑城跡 - 山県市ホームページ///////

大桑城跡は、室町時代から戦国時代にかけて権勢を誇った、美濃国の守護土岐氏の山城です。
 天文4(1535)年に発生した長良川の大洪水により、枝広(現在の岐阜市長良公園)にあった守護所は大きな被害を受けました。当時の守護土岐頼芸は、大桑に政治的機能を移し、城と城下町を整備したとされています。
 天文12(1543)年、勢力を増していた斎藤道三との間に大きな戦いが起こり、大桑城は落城、頼芸は天文19(1550)年頃に道三に追放されました。

 現在、標高407.5メートルの古城山の山頂一帯には、大小160余の曲輪(山の斜面に造成された平坦地)が分布しており、また敵が容易に侵入できないよう、堀切、竪堀が設けられ、さらに一部に石垣も残っています。
 山麓の城下町の入り口には、四国堀(市史跡)・越前堀・外堀という大規模な堀と土塁からなる防御施設(惣構)が築かれていたことから、大桑城は堅固な城であったと考えられています。


城巡り 鷺山城跡へ

2025年03月17日 | Weblog

岐阜城の西側に低い鷺山がありますが、そこに城跡があります。

国盗り物語では、斉藤道三が、稲葉山城を息子嫡子斉藤義龍に渡し、隠居した

城となったという城です。

標高は、68mで、頂上に城跡の案内と石碑があります。

頂上から東には、堅牢な稲葉山城が見えます。

 


城巡り 稲葉山城跡へ(岐阜城)

2025年03月17日 | Weblog

長良川北岸から岐阜城を望む岐阜城

岐阜城は、今回で3回目です。稲葉山山頂に築かれた山城で、

国盗り物語のメインの城です。

金華山ロープウェーで、往復しましたが、登山道も整備されていますので、

約一時間で、登ることは可能です。

 

3/17は、雨があがって雲は取れつつありましたが、風が強く、吹き飛ばされそうでした。

金華山ロープウェーには、錘を積んで運行していました。

 /////////岐阜城天守閣|岐阜市公式ホームページ//////////から

かつて稲葉山城と称し、戦国時代には、斎藤道三公の居城でもあったところです。特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄10年(1567年)(一説に永禄7年)8月、不世出の英傑織田信長公がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、地名も「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地としてからでした。
現在の城は昭和31年7月、岐阜城再建期成同盟によって復興されたものです。城内は史料展示室、楼上は展望台として多くの人に親しまれています。 また、金華山一帯は平成23年(2011年)に「岐阜城跡」として国史跡に指定されています。
岐阜城は現在築城されている城郭のうちでは、有数の高さ(約329m(国土地理院の三角点の標高))にあり、最上階からは、眼下に鵜飼で有名な清流長良川が市内を貫流し、東には恵那山、木曽御岳山が雄大な姿を見せ、北には乗鞍、日本アルプスが連なっています。また西には伊吹、養老、鈴鹿の山系が連なり、南には濃尾の大平野が豊かに開け、木曽の流れが悠然と伊勢湾に注いでいるさまを一望におさめることができます。


岐阜の昼・夜食のお勧め 「魚のいち幸」さんへ

2025年03月16日 | Weblog

岐阜市内でのお勧めランチ・ディナーは、福井県出身の方が始めたお店「魚のいち幸」さん

岐阜県は、海がありませんから、新鮮な海魚は取れません。そこで、福井県河野村現在の

南越前町から直接仕入れた魚を出すお店として、開店されたお店。

福井県生まれ育ちから他の店よりも優先して選択しました。

写真は、夕食にチョイスした三食丼と天ぷら(越前そば)のセット 1880円税込み

三食は、蟹・いくら・ネギトロ 

美味しいかったです。

場所は、岐阜城から長良川の対岸で、西の方に少し行ったところで、

〒502-0931  岐阜県岐阜市則武428-8 岐阜城から来ると、正木古川東 交差点を

行き過ぎてから、左折・左折して入ってください。正木古川東 交差点で、左折して

しまうと中央分離帯があるので、すぐに右折出来ません。