3/31 年度末最後の日 近くのクリニックで胃カメラ検査を受けて来ました。
受付815から検査終了845
胃がんのようなポリープは無かったようですが、結果は、検査した医師とは
別の方も胃カメラの写真を見て診断するとのこと。
会社の健康診断では、バリウム検査を受けていませんでしたが、現在は、
完全に胃の検査は無くなり、各自が人間ドックで検査することになって
います。
検査後は、徒歩5分で、自宅に戻り9時からテレワークを開始しました。
3/31 年度末最後の日 近くのクリニックで胃カメラ検査を受けて来ました。
受付815から検査終了845
胃がんのようなポリープは無かったようですが、結果は、検査した医師とは
別の方も胃カメラの写真を見て診断するとのこと。
会社の健康診断では、バリウム検査を受けていませんでしたが、現在は、
完全に胃の検査は無くなり、各自が人間ドックで検査することになって
います。
検査後は、徒歩5分で、自宅に戻り9時からテレワークを開始しました。
3/30 寒い日です。軽自動車ステラのスタッドレスタイヤを夏タイヤに交換しました。
軽自動車は、軽くジャッキアップの楽で、ナットも4個なので、楽勝です。
けど、終わったあとのスタッドレスタイヤの水洗いと片付けがやはり
面倒ですね。
けど、寒い日でした。
3/29土曜日 愛知県内から同県内への引越しの手伝いに行きました。
大型の冷蔵庫・洗濯機などの運搬は、引越し屋さんに依頼していますが、
トラックの到着時間は、午後3時から5時の予定とか。
結果は、トラックが来たのは、予定どおりの午後5時。それから積み込みですが、
冷蔵庫の幅は、65センチ 玄関ドアの幅は、66センチ ぎりぎり、
養生シートの厚みで、出せないことに。いろいろと手間のかかる
引越しでした。
引越し先の作業は、午後8時に終わりましたが、引越し屋さんは、朝5時に出て、
一件目は、愛知県から大阪府へ、二件目が、ここ、さにらもう一件に三件目に
廻るとか。お疲れさまです。
給湯器ですが、給湯時設定した温度と湯量で止まるのですが、そのボタンを
押さないで、給湯をはじめてしまいました。時間が経っても止まらないので、
リモコンを見ると、自動給湯ボタンを押してなく、高い温度60℃でお湯を
はっていました。自動設定がある給湯器 ゆえの失敗。過去も何回かあります。
バスタブには、水を継ぎ足して、入れる温度にしました。
おかげで、あふれるほどのバスタブに入れることが出来ました。
水とガスの無駄遣いでした。
津市から伊賀上野市へ向かいました。国道163号を北西に走ります。途中の案内板に記載が
あった長野氏城跡に向かいました。国道から外れて道を進みましたが、途中で、通行止め
の看板、登山はあきらめました。
/////////////////長野氏城跡 - 津の時間。(津市観光協会)///////////
長野氏の出自については明らかではありません。南北朝時代には、すでに美里町の長野の地を本拠とし、一族を旧安濃郡(現在の安芸郡芸濃町の南半・安濃町・ 美里町・津市の大半)の各所に配置し、旧奄芸郡(芸濃町北部・鈴鹿市南部・河芸町・津市北部)にも勢力を伸ばしていました。
南北朝時代(14世紀後半)には、足利尊氏方の有力な武士として、「梅松論」や「太平記」に活躍する様子が記されています。
室町時代の伊勢国は、雲出川を境にして南は伊勢国司北畠氏の支配下にあり、北はあまり強い勢力ではありませんが、伊勢守護の支配下にありました。室町幕府 は北畠氏対策と守護勢力のけん制をはかり、将軍の権力を浸透させるために、当時、国人とも呼ばれた北勢各地の有力武士を直接の家来にすることが必要でし た。この親衛隊の役割りを果した者は奉公衆と呼ばれ、全国で300人以上いました。
有力な国人であった長野氏も奉公衆に属しながら北勢各地の荘園にも勢力をのばし、応仁・文明の乱(15世紀後半)の頃には三重郡、16世紀には桑名にまで進出したこともありました。
“長野城は、美里町桂畑西方の非常に眺めのよい山頂(標高540m)にあります。城跡からは伊勢湾はもとより、中勢南部の山々や平野が一望できます。地元 では””しろんだい・城の台””と呼び、20m×40mの一段高い台状地を中心にして、そのまわりを狭い平坦地が階段状にとりまいています。この頃の城に はほとんど石垣は使用されていません。
城跡から尾根づたいに北西約300m離れた所には””馬場””と呼ばれる平坦地があり、その一角には湧水も出ています。城跡の周囲はどこも急斜面が麓まで続さ、天然の要害になっています。
この城が文献記録に始めて登場するのは、南北朝時代の争乱を伝える「太平記」延文5年(1360)の記事です。畠山国清らとの抗争に敗れ、京都を脱出し た伊勢守護仁木義長は、この長野城で幕府追討軍の六角氏頼・土岐頼康らに対し、2年以上も籠城戦を続けました。「太平記」には、要害堅固なため、寄手がな かなか近寄れなかった、と記しています。
東の城・中の城・西の城は、長野小学校の北側の丘陵上(標高230m)にあります。この名称は江戸時代に書かれた「伊勢一国旧城跡附」によるもので、””じょうやま・経塚””と地元では呼んでいます。それぞれ階段状の台状地・堀切・土塁などがよく残っています。
多気北畠氏城館を見学後、伊勢市に向かいました。ナビは、また、元来た道、美杉を経由で
案内しています。なぜかわかりませんが、手持ちの地図は、東に行く、黄色の国道です。
すごく遠回りするナビに逆らい、国道368号を東に向かいました。
途中から道路幅は、二車線から一車線と狭くなり、下り坂ですが、ガードレールが無い、
狭いカーブの連続です。対向車が来るところでは、2回ほど、広いところまでバックしました。
対向車は、約15台ほどでしたが、次は通りたくない酷道でした。
道の駅 美杉 から 道の駅 茶倉駅 まで、約16キロです。
津城跡の後、同じ津市内にある続お城スタンプの多気北畠氏城館に向かいました。
経路は、名松線沿いに沿って走る県道15号を走行し、美杉リゾートの横を追加、電車には
残念ながら会うことなく、国道368号に到達し、県道30号へ左折して、庭園に到着しました。
北畠神社からは、霧山城跡への登山道が整備されています。
/////////////////////////北畠神社 - 津の時間。(津市観光協会)主なご祭神 北畠顕能公・北畠親房公・北畠家公
〇奥一志の多気御所として栄華を誇った伊勢国司の北畠顕能を祀る。「太平記」ゆかりの神社でもあり、昔から多くの著名人がこの神社を訪れています。
境内にある北畠氏館跡庭園は枯山水と池泉回遊式を組み合わせた室町期の名園で、名勝及史跡にも指定されています。
紅葉の名所としても有名です。