ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

他者批判の資格

2005年06月14日 | ハ行
 K・Sさんからご意見をいただきました。まずそれを全文掲載します。

──初めまして。K・Sと申します。39歳.某県在住、私立高校で数学の講師をしております。『哲学の授業』「教科通信(というもの)」には大いに刺激と示唆を受けました。数学における「教科通信」は、どんなふうにできるか、どういうものにするのがよいか、思案中です。

 「教育のひろば」は、第 180号から配信を受けています。毎号たのしみにしております。

 さて、第 195号と第 193号の内容について投書致します。メールマガジン上で取り上げて頂ける場合は匿名でお願いします(年齢・出身地・職業は必要ならば示して頂いてもかまいません)。

まずは第 195号について。

<やれやれ。こんな事で本当に魅力ある授業が生まれるのでしようか。否です。ため息をついていても仕方がないので、考えてみましよう。

静岡県の事業に対するお嘆き、特に、仲間を天下らせるための予算をつける、大枠ではまことにごもっともと思うのですが、細部には不足感があるというか、腑に落ちない部分があります。例えば

<出発点としての事実は「魅力のない授業」が沢山あるということです。残念ながらこれは事実です。私は昨年、某県立高校の英語の授業を2回(高1と高2)参観しましたが、それはそれはお粗末なものでした。内容ゼロでした。生徒が荒れているわけでもないのに、です。本当に生徒が可哀相だと思いました。

 というところ、上記の英語の授業はどんなもので、そのどこがどう「お粗末」であったかを説明して欲しいと思います。詳しいほどいいと思いますが、少しでも、1例だけでも、ともかく「具体的に。

 参観された授業について、いかに牧野さんご自身が「お粗末」「内容ゼロ」と見てとったものであっても、具体的に伝えてもらわなければ参観していない者にはわかりまぜん。それを、ただ「『魅力のない授業』がたくさんある」と書かれて、「うん、そうそう、そういう授業っていっぱいあるよね」とあいまいに頷いて読み進めるような読み方は私にはできません。

 牧野さんは、いったいどのような授業(の例)を魅力のない授業(の例)だとお考えなのかが見えてきて初めて、私(読者)自身の中に「なるほど確かにそれでは魅力に乏しく、困る」となって同意共感が生まれるか、「いや、それはそれで魅力があると捉える生徒もいるのでは?」などという異論が出るかし、「自分の考えを自分にはっきりさせ、さらに発展させる」ことができるのだと思います(あるいは既に類似のことをどこかに発表されているのでしたらご教示下さい。『哲学の授業』『哲学の演習』の2冊は拝読致しましたが、「魅力のない」「内容ゼロ」の授業例への言及はされていなかったと記憶しています)。

 次いで第 198号について。こちらは,かなり遅い反応で恐縮です。

<最後に積極的な提案をしましょう。

このご提案を、あるいは本号の内容全体を、早川氏本人にはお伝えになったのでしょうか。ここに書くだけでなく、それをすべきだと思います。両方同時か、まず早川氏宛が先か、がいいと私は思います。せっかくのこのような文章を早川氏宛に示さないのであれば、それこそそんなことだから「世の中はよくならない」、のではないですか。

 既になさっていらっしやるのでしたらすみませんが、もしそうならば、こういう私のような誤解は十分予想可能なはずですから、そのことを合わせて記して頂ければと思います。また、私の主張は単に「(早川氏に伝えることを)すべきだ」ではなく「牧野さん自身がすべきだ」というものです。よって、もし「引用自由なのだから、そう思ったおまえがせよ」と言われるとすれば、それは的を射ていません。──


    感想(牧野 紀之)

 こういう「やる気がないのにあるように偽装している人」とは関係したくないのですが、どこに偽装があるのかを暴露するのも意義があると思いますので、1度だけ感想を書きます。

 第1に、高校の数学の教師であるK・Sさんは私の活動や本に触れて「自分もどういう教科通信を出したらいいか思案中だ」と言っています。つまり、まだ出していないのです。これで「自分には牧野批判の資格がある」と思い込んで批判を展開しているわけです。

 これを読んで思い出したのはわが町の教育長が、「町の小中学校にホームページを作らせろ」という私の要求に対して、「浜松でもそうだったから1年くらいの準備期間が必要だ」と答えたことです。この返事は本メルマガ第 192号に載せてあります。

 つまり、やる気のある人は「すぐ始めてやりながら改善していく」のです。やる気のない人は「すぐにはやらないで何とか理由をつけて先延ばしする」のです。それだけです。言い訳無用。

 第2に、私が授業参観した英語の授業について具体的に描写していないから「自分の考えを自分にはっきりさせ、さらに発展させる」ことができないと言って、責任を私に転嫁しています。

 第 195号の趣旨は、「仲間を天下らせることが真意」というだけではありません。その施策とやらが間違いで、校長のリーダーシップが本当の問題だ、と言っているのです。

 K・Sさんにやる気があったならば、この趣旨を正しく理解し、「自分の学校の校長のリーダーシップはどうかな」と反省してそれを書いただろうと思います。しかし、これはK・Sさんの保身と出世の妨げになると思ったのでしょう。避けています。

 第3に、第 193号の内容を早川和雄さんに直接伝えたのかと質問して、「もし伝えていないならば」という仮定で私を批判しています。K・Sさんは私が憎いのか嫌いなのかどちらかでしょう。それは自由です。しかし、まずは質問だけで止めておくのが常識ある社会人の態度だと思います。

 ついでにその後分かった事を書いておきます。早川和雄さんは長崎総合科学大学の教授ですが、集中講義だけを担当しているそうです。ですから、日頃の教授会にすら出席せず、集中講義の時だけ長崎に来るようです。つまり神戸に住んでいるのでしょう。

 集中講義というものをどう考えるか。私見は本メルマガ第41号(集中講義を全廃せよ。まぐまぐでの配信日は2001,07,14)に書きました。

 第4に、早川さんへは牧野だけが言う義務があるのであって、K・Sさんにはその義務はないという趣旨の事を書いています。しかし、K・Sさんも「牧野がどこそこであなたの事をこう批判していますよ。答えたらどうですか」と言うことは全然悪くないと思います。

 立花隆さんや長谷川宏さんは自分に対するしっかりした学問的な批判を無視して活動を続けています。たしかに、批判には必ず答えなければならないとは言えませんが、総合的にみて答えるべき批判と答えなくてもいい批判とがあると思います。それは一般大衆の判断だと思います。

 立花さんや長谷川さんに対しては一般の方々も「批判に答えたらどうか」と伝えた方がいいと思います。立花さんが批判に答えないので、立花さんへの評価を下げたという人はいます。NHKなどは相変わらず立花さんを使っていますが、良識を疑います。

 最近は偽装が多いようで、かつて世界一の大富豪だった人も株の名義の偽装とやらで逮捕されました。やる気の偽装では逮捕はされないと思います。しかし、簡単に見破られます。牧野批判などというのは教科通信を 100号以上出し、自著を10冊以上出してからでも遅くはないと思います。
(メルマガ「教育の広場」、2005年04月09日発行)