教育の広場、第192号 顔のある教育長と顔のある校長
(2005年01月16日発行)
愛知県小牧市の教育長の副島孝さんがその「教育委員だより
」の第 103号(平成16年11月08日発行)で拙著『哲学の授業』
を論じて下さいました。まず、以下にその全文を掲げます。
教育委員だより No.103 平成16年11月08日
教育長 副島孝
『哲学の授業』
「哲学の授業」と聞いて、どんなことを連想するでしょう
か。普通は大学でしか、そんな授業は行われないでしょう。そ
ういえば、哲学の歴史のようなことを学んだ覚えのある人もい
るでしょう。しかし、『哲学の授業』(牧野紀之・未知谷)に
書かれている授業は、ずいぶんイメージの違うものです。著者
が浜松市立看護専門学校で行った哲学の授業を、教科通信「天
タマ」(看護師をめざす人たちの学校ですから「白衣の天使の
タマゴ」を略したもののようです)を基にまとめた記録です。
読み進むと、著者の一言ひとことが胸に突き刺さる感じがし
ます。一節を引用してみましょう。
「実際、世の中はでたらめなのです。しかし、皆さん自身が
このでたらめな大人の仲間入りをするのです。看護師になっ
て、最初は学校で習ったとおり『お世話させていただく』とい
う気持ちで一所懸命やるでしょう。しかし、そのうち仕事にも
慣れ、2年たち3年たつと、給料や休暇のことの方に関心が移
っていくのです。そして、知らぬ間に、今皆さんが軽蔑してい
る怠惰な教師や実習で疑問を感ずる看護師と同じような人間に
なっているのです。人間が分かれるのはこの後のことだと思い
ます。がんばっている人は、かつてそういう反省をして、出来
るだけの努力をしようと考えを改めて再出発してきた人なので
す。」
著者は、60年安保世代の人です。当時の学生運動の失敗を、
「本質論を前提にしてしまって、議論を戦術論に絞る」という
やり方が間違っていたのだと考え、本質論主義(1、本質論を
議論の中心に据える。2、議論はじっくりやり、行動を強制し
ない)を追求したと言います。「授業は教師の実力と情熱で8
割決まる」とか、「組織はトップで8割決まる」、「人間には
各自が自分の出来る範囲で努力する以上のことは出来ない。一
人一人の小さな努力が集まれば大きな変化を引き起こすことも
できる」など、耳に痛い言葉も少なくありません。
しかし、それ以上に『哲学の授業』に記述された、毎時間の
授業の進め方の背後にある考え方が参考になります。カンファ
レンスと著者が呼ぶ3~4人で行う「話し合い」、きちんと位
置づけられた書く時間(これが「教科通信」の材料になる)な
ど、非常に適切な授業方法を採用していて参考になります。こ
れが60歳近くになってから始めた実践であることも特筆されま
す。また、多くの授業論に通じていることも、主として大学で
教えてきた人とは思えないほどです。
もちろん「哲学の授業」の中身も参考になります。「先生と
生徒は対等か」、「成績を付ける基準は何か」、「寝ている生
徒を先生は起こすべきか」、「『不満があるなら、直接言えば
いい』という考えは正しいか」、「私生活では相手の全てを受
け入れるべきか」など、テーマのほとんどは人間関係の調整の
仕方に関係しています。一見考えるまでもなく自明のことと思
われるテーマも、馴れ合いでも感情的対立でもない話し合いの
経過を読むと、これまでの価値観を揺さぶられるものとなりま
す。
哲学で課題が解決すると考えるのは、もちろん早計です。
「なぜかわからぬが、哲学者たちの記述は完璧であっても、実
際そのとおりに作動した例はない。それに引き換え、農夫の鎌
は、いかなる哲学者にも記述された例はないが、つねに過ちな
く切れるものだ」(『薔薇の名前』)などの指摘は、頭に入れ
ておく必要があります。
しかし、この「哲学の授業」や先日拝見した応時中学校3年
生の授業での全員の集中ぶりは、最近各中学校でよく語られる
ようになった、日常の充実した授業を通じた生徒指導や不登校
対策という言葉が、その具体的な姿を見せ始めたことを実感さ
せてくれます。──
小牧市の光が丘中学の校長の玉置崇さんはこれを読んで興味
を持って下さったようです。自分のホームページで読後感想を
書いています。以下にその部分を引用します。
──途中読みだった「哲学の授業」(牧野紀之著)を読了。い
わば授業通信集だが、常に真摯な態度できっちりと学生と対話
し、ものごとの在り方について説いていく。まさに授業を通じ
て人を育てている記録集。感服。──
以上の事は例によって知人のSさん(名古屋市立中学の理科
教師)から教えられて知りました。
さて、私はこの2人のHPを見てみました。つまり小牧市の
教育委員会のHPと同光が丘中学のHPを見てみました。そう
したら、この2人の方は組織のトップとしては珍しいくらい積
極的に自分の意見を発表していました。
その実例としてつい最近の副島教育長の「教育委員だより」
No.109を読んでみましょう。「教職員表彰に想う」と題して次
の文章が載っています。
──毎年1月の仕事始め式の席上、小牧市の職員と教職員の表
彰が行なわれます。今年度も25人の職員と20人の教職員が表彰
されました。これは小牧市表彰条例に則り市長が表彰するもの
です。市の表彰には市職員や教職員だけでなく、各種の委員や
保護司や補導員などボランティア的な仕事を永年務めていただ
いた方も含まれています。
実は昨年度から教職員については、表彰を受ける条件を変更
してもらいました。それまでは市職員と同じく、25年以上市内
の学校に勤務している者となっていました。これを年数の規定
をはずし、他の模範になるとか、教育効果の向上に功績のある
などの条件にしてもらったのです。
理由はいくつかあります。まず25年勤続が条件では、一定年
限を過ぎて市外から転勤してきた人が除外されてしまうことで
す。次に、特に専門職である教員が勤続年数だけで表彰を受け
ることが合理的なのか、疑問があることです。
腰をすえて教育に取り組んでもらうために、現在は教員とし
ての身分と給与体系が保証されています。そのうえに自動的に
年数だけで表彰されるのは変ではないでしょうか。こんな考え
から、年数にかかわらず学校から推薦された教職員を表彰する
形にしたのです。
あの先生のクラスは掃除をしっかりやるとか、授業に熱心に
取り組むとか、そんな理由で十分なのですよ、とお願いしたの
ですが、昨年度は制度が変わったばかりということもあって、
25年経験つまり26年目の教職員の推薦が圧倒的でした。しかし
本年度は、26年目の人はごく少数です。校長先生方には、選考
でご迷惑をかけているかもしれませんが、選考方法も含めこの
制度を積極的に活用していただきたいと思っています。
ところで優秀な教員の処遇については、全国的な課題となっ
ています。表彰して特別な称号を与えることや、給与や手当な
どの優遇措置も各地で検討されているようです。これはある意
味では当然のことかもしれません。努力して成果を上げている
教員も、そうでない教員も、処遇が横並びでは悪平等と言われ
ても仕方ないでしょう。しかし、問題もあります。それは学校
での教育は、すべての教職員の協力に依っている要素が大きい
ということです。給与などにまで影響する方法は、同僚性の面
への影響も懸念されます。
予備校では講師間で10倍以上の給与の差は当たり前だ、公務
員は甘い、という批判は甘んじて受けなければなりませんが、
現状では給与や手当まで優遇するのは問題が多いと考えます。
表彰程度が適当ではないでしょうか。すべての教員が処遇に値
する教育活動を続けていると信じていますが、毎年特に各校で
表彰に値する1,2名の教職員を表彰することは、それなりに
意味があると思います。永年勤続の表彰のときは何も言わず、
この程度の表彰になると批判するのでは、教育活動の質を疑わ
れる結果になる、と逆に心配してしまいます。──
たしかにこの結論には異論のある方もあるでしょう。先の拙
著の感想にしても私には少し説明したい点があります。しか
し、いずれの場合にしても、これほど丁寧に考えて、あるいは
丁寧に読んで、率直に自分の意見を詳しく述べているトップは
少ないと思います。
こういう発言に対して批判をするのは考えものです。そうい
う批判は大きな観点から見るとたいてい間違っています。なぜ
なら、もっとも悪い事をしている人達を放任しておいて、「言
いやすい」という理由で大切な仲間を攻撃することになるから
です。「言いやすい人にだけ言って、言うべき人に対しては言
わない」というのは最も卑劣な態度で、こういう態度こそが世
の中を好くするのを妨げているのだと思います。
指導者には大統領型と天皇型とがあると言われます。日本は
国全体が天皇制だったためか、中小の団体でも、特に公の組織
では天皇型のトップが多いようです。その特徴は、実際の仕事
は部下に任せて、自分は何もせず祝典などの晴れがましい時に
だけ出ていく、というものです。
副島さんも玉置さんも日本には少ない大統領型のトップのよ
うです。しかも言論で指導していく民主的なリーダーのようで
す。もちろん大統領型でも東京都の教育長のように内容的に大
問題をはらんでいる場合もあるでしょう。しかし、トップを
「生きた屍」と大統領型(内容的にも肯定できるものと内容的
には疑問のあるもの)とに分けるとするならば、私は生きた屍
よりは問題のある大統領でもこっちの方がいいと思います。と
言いますのは、組織を腐らせる点で「屍トップ」ほどひどいも
のはないと考えるからです。
私の住んでいます引佐町の教育長は、「町内の全小中学校に
HPを作らせろ」という私の意見に対して次の回答を寄越しま
した。
──東久留女木新田自冶会長 牧野紀之様
毎日厳しい暑さが続いておりますが、御健勝にてお過ごしで
ございますか。日頃、自治会として御尽力いただいております
ことを厚くお礼申し上げます。
さて、自冶会長会で御指摘の「ホームページの作成」につい
て下記のように回答させていただきます。
記
1、小中学校のホームページの作成について
「開かれた学校」を目指して各種の方法で学校の情報の公開
を本町の小中学校でも目指しております。学級・学年・学校・
PTAだより、参観会、部活動公開、説明会、教育研究発表会
、ホームページ等の各種の方法で各学校の重点の置き方によっ
て取り組んでいるのが現状であります。各学校ではそれぞれの
学校の実態と教育方針により重点の掛け方が違っており、それ
が学校の特色となっております。
ホームページの近隣の市町村の状況を当たって見ましたが、
浜松市が先年指定事業として全校で取り組んだり、浜北市が先
進的に取り組んでいる状況がありますが、他の市町村は本町の
割合に近いかと思います。
本町では、急速にコンピュータが普及している状況の中で、
御指摘の対応を図るべく、校長会で状況を聴取し次のような見
解を出しております。
・現在開設している学校は更新に努める。
・ホームページの開設についてのガイドライン殊に子供のプ
ライバシー、更新等について担当教師と協議して全校の開設に
向けて9月の校長会で決定する。掲示板に子供や教師に対する
誹誇や中傷があったことからそれへの対応が特に大切であると
思われる。1、2校は開設に向けて準備している。
・合併する浜松市教育委員会と協議する中で、平成17年8
月末を全校開設の目途する予定(浜松市で全校開設した際も1
年有余置いていた。)
・町教育委員会のホームページについては町行政全般の調和
の中で開設しており、諸行事等の予定の更新にも遅れが無いよ
うに努力している。
2、姉妹都市シェヘリス市親善訪問
姉妹都市シェヘリス市親善訪問は合併を前に、今後の在り方
についての協議を深める意味で、国際交流協会からの依頼でし
たので、国際交流上の観点からお受けしました。幅広い教育行
政面から御理解いただければ幸いです。
以上
平成16年08月12日
引佐町教育委員会教育長 柴田宏祐
これは、要するに、さぼることも「各学校の特色」として容
認するということです。周りを見て、遅れた所を見て自己満足
するということです。平成17年8月末までに作るというのは
「自分の任期中にはやらない」ということです(平成17年6月
末に浜松市に合併しますから。もっともその後、期限を3月末
までに切り上げたようですが)。
これがさぼり教育長の見本です。これが生きた屍というもの
です。こういう人を「適材適所」として教育長に選んだ町長も
また「生きた屍」なのだと思います。
私たちは、公務員全体はさておき、少なくとも教員はすべて
もっとしっかりやってほしいと願っています。しかし、大部分
の教員は生きた屍です。法律で守られているこの人たちに、も
っと熱心に仕事をするように、研究も授業も日頃から精一杯取
り組むようにさせるのは不可能かもしれません。
しかし、その努力をしないわけにもいきません。その方法の
一つが、副島さんや玉置さんのような「顔のあるトップ」を教
えて、「君もこの人たちを見習え」と要求することではないで
しょうか。インターネットの発達した今では、その手段もある
と思うのですが。
お断り・再編集のためここに移しました。
(2005年01月16日発行)
愛知県小牧市の教育長の副島孝さんがその「教育委員だより
」の第 103号(平成16年11月08日発行)で拙著『哲学の授業』
を論じて下さいました。まず、以下にその全文を掲げます。
教育委員だより No.103 平成16年11月08日
教育長 副島孝
『哲学の授業』
「哲学の授業」と聞いて、どんなことを連想するでしょう
か。普通は大学でしか、そんな授業は行われないでしょう。そ
ういえば、哲学の歴史のようなことを学んだ覚えのある人もい
るでしょう。しかし、『哲学の授業』(牧野紀之・未知谷)に
書かれている授業は、ずいぶんイメージの違うものです。著者
が浜松市立看護専門学校で行った哲学の授業を、教科通信「天
タマ」(看護師をめざす人たちの学校ですから「白衣の天使の
タマゴ」を略したもののようです)を基にまとめた記録です。
読み進むと、著者の一言ひとことが胸に突き刺さる感じがし
ます。一節を引用してみましょう。
「実際、世の中はでたらめなのです。しかし、皆さん自身が
このでたらめな大人の仲間入りをするのです。看護師になっ
て、最初は学校で習ったとおり『お世話させていただく』とい
う気持ちで一所懸命やるでしょう。しかし、そのうち仕事にも
慣れ、2年たち3年たつと、給料や休暇のことの方に関心が移
っていくのです。そして、知らぬ間に、今皆さんが軽蔑してい
る怠惰な教師や実習で疑問を感ずる看護師と同じような人間に
なっているのです。人間が分かれるのはこの後のことだと思い
ます。がんばっている人は、かつてそういう反省をして、出来
るだけの努力をしようと考えを改めて再出発してきた人なので
す。」
著者は、60年安保世代の人です。当時の学生運動の失敗を、
「本質論を前提にしてしまって、議論を戦術論に絞る」という
やり方が間違っていたのだと考え、本質論主義(1、本質論を
議論の中心に据える。2、議論はじっくりやり、行動を強制し
ない)を追求したと言います。「授業は教師の実力と情熱で8
割決まる」とか、「組織はトップで8割決まる」、「人間には
各自が自分の出来る範囲で努力する以上のことは出来ない。一
人一人の小さな努力が集まれば大きな変化を引き起こすことも
できる」など、耳に痛い言葉も少なくありません。
しかし、それ以上に『哲学の授業』に記述された、毎時間の
授業の進め方の背後にある考え方が参考になります。カンファ
レンスと著者が呼ぶ3~4人で行う「話し合い」、きちんと位
置づけられた書く時間(これが「教科通信」の材料になる)な
ど、非常に適切な授業方法を採用していて参考になります。こ
れが60歳近くになってから始めた実践であることも特筆されま
す。また、多くの授業論に通じていることも、主として大学で
教えてきた人とは思えないほどです。
もちろん「哲学の授業」の中身も参考になります。「先生と
生徒は対等か」、「成績を付ける基準は何か」、「寝ている生
徒を先生は起こすべきか」、「『不満があるなら、直接言えば
いい』という考えは正しいか」、「私生活では相手の全てを受
け入れるべきか」など、テーマのほとんどは人間関係の調整の
仕方に関係しています。一見考えるまでもなく自明のことと思
われるテーマも、馴れ合いでも感情的対立でもない話し合いの
経過を読むと、これまでの価値観を揺さぶられるものとなりま
す。
哲学で課題が解決すると考えるのは、もちろん早計です。
「なぜかわからぬが、哲学者たちの記述は完璧であっても、実
際そのとおりに作動した例はない。それに引き換え、農夫の鎌
は、いかなる哲学者にも記述された例はないが、つねに過ちな
く切れるものだ」(『薔薇の名前』)などの指摘は、頭に入れ
ておく必要があります。
しかし、この「哲学の授業」や先日拝見した応時中学校3年
生の授業での全員の集中ぶりは、最近各中学校でよく語られる
ようになった、日常の充実した授業を通じた生徒指導や不登校
対策という言葉が、その具体的な姿を見せ始めたことを実感さ
せてくれます。──
小牧市の光が丘中学の校長の玉置崇さんはこれを読んで興味
を持って下さったようです。自分のホームページで読後感想を
書いています。以下にその部分を引用します。
──途中読みだった「哲学の授業」(牧野紀之著)を読了。い
わば授業通信集だが、常に真摯な態度できっちりと学生と対話
し、ものごとの在り方について説いていく。まさに授業を通じ
て人を育てている記録集。感服。──
以上の事は例によって知人のSさん(名古屋市立中学の理科
教師)から教えられて知りました。
さて、私はこの2人のHPを見てみました。つまり小牧市の
教育委員会のHPと同光が丘中学のHPを見てみました。そう
したら、この2人の方は組織のトップとしては珍しいくらい積
極的に自分の意見を発表していました。
その実例としてつい最近の副島教育長の「教育委員だより」
No.109を読んでみましょう。「教職員表彰に想う」と題して次
の文章が載っています。
──毎年1月の仕事始め式の席上、小牧市の職員と教職員の表
彰が行なわれます。今年度も25人の職員と20人の教職員が表彰
されました。これは小牧市表彰条例に則り市長が表彰するもの
です。市の表彰には市職員や教職員だけでなく、各種の委員や
保護司や補導員などボランティア的な仕事を永年務めていただ
いた方も含まれています。
実は昨年度から教職員については、表彰を受ける条件を変更
してもらいました。それまでは市職員と同じく、25年以上市内
の学校に勤務している者となっていました。これを年数の規定
をはずし、他の模範になるとか、教育効果の向上に功績のある
などの条件にしてもらったのです。
理由はいくつかあります。まず25年勤続が条件では、一定年
限を過ぎて市外から転勤してきた人が除外されてしまうことで
す。次に、特に専門職である教員が勤続年数だけで表彰を受け
ることが合理的なのか、疑問があることです。
腰をすえて教育に取り組んでもらうために、現在は教員とし
ての身分と給与体系が保証されています。そのうえに自動的に
年数だけで表彰されるのは変ではないでしょうか。こんな考え
から、年数にかかわらず学校から推薦された教職員を表彰する
形にしたのです。
あの先生のクラスは掃除をしっかりやるとか、授業に熱心に
取り組むとか、そんな理由で十分なのですよ、とお願いしたの
ですが、昨年度は制度が変わったばかりということもあって、
25年経験つまり26年目の教職員の推薦が圧倒的でした。しかし
本年度は、26年目の人はごく少数です。校長先生方には、選考
でご迷惑をかけているかもしれませんが、選考方法も含めこの
制度を積極的に活用していただきたいと思っています。
ところで優秀な教員の処遇については、全国的な課題となっ
ています。表彰して特別な称号を与えることや、給与や手当な
どの優遇措置も各地で検討されているようです。これはある意
味では当然のことかもしれません。努力して成果を上げている
教員も、そうでない教員も、処遇が横並びでは悪平等と言われ
ても仕方ないでしょう。しかし、問題もあります。それは学校
での教育は、すべての教職員の協力に依っている要素が大きい
ということです。給与などにまで影響する方法は、同僚性の面
への影響も懸念されます。
予備校では講師間で10倍以上の給与の差は当たり前だ、公務
員は甘い、という批判は甘んじて受けなければなりませんが、
現状では給与や手当まで優遇するのは問題が多いと考えます。
表彰程度が適当ではないでしょうか。すべての教員が処遇に値
する教育活動を続けていると信じていますが、毎年特に各校で
表彰に値する1,2名の教職員を表彰することは、それなりに
意味があると思います。永年勤続の表彰のときは何も言わず、
この程度の表彰になると批判するのでは、教育活動の質を疑わ
れる結果になる、と逆に心配してしまいます。──
たしかにこの結論には異論のある方もあるでしょう。先の拙
著の感想にしても私には少し説明したい点があります。しか
し、いずれの場合にしても、これほど丁寧に考えて、あるいは
丁寧に読んで、率直に自分の意見を詳しく述べているトップは
少ないと思います。
こういう発言に対して批判をするのは考えものです。そうい
う批判は大きな観点から見るとたいてい間違っています。なぜ
なら、もっとも悪い事をしている人達を放任しておいて、「言
いやすい」という理由で大切な仲間を攻撃することになるから
です。「言いやすい人にだけ言って、言うべき人に対しては言
わない」というのは最も卑劣な態度で、こういう態度こそが世
の中を好くするのを妨げているのだと思います。
指導者には大統領型と天皇型とがあると言われます。日本は
国全体が天皇制だったためか、中小の団体でも、特に公の組織
では天皇型のトップが多いようです。その特徴は、実際の仕事
は部下に任せて、自分は何もせず祝典などの晴れがましい時に
だけ出ていく、というものです。
副島さんも玉置さんも日本には少ない大統領型のトップのよ
うです。しかも言論で指導していく民主的なリーダーのようで
す。もちろん大統領型でも東京都の教育長のように内容的に大
問題をはらんでいる場合もあるでしょう。しかし、トップを
「生きた屍」と大統領型(内容的にも肯定できるものと内容的
には疑問のあるもの)とに分けるとするならば、私は生きた屍
よりは問題のある大統領でもこっちの方がいいと思います。と
言いますのは、組織を腐らせる点で「屍トップ」ほどひどいも
のはないと考えるからです。
私の住んでいます引佐町の教育長は、「町内の全小中学校に
HPを作らせろ」という私の意見に対して次の回答を寄越しま
した。
──東久留女木新田自冶会長 牧野紀之様
毎日厳しい暑さが続いておりますが、御健勝にてお過ごしで
ございますか。日頃、自治会として御尽力いただいております
ことを厚くお礼申し上げます。
さて、自冶会長会で御指摘の「ホームページの作成」につい
て下記のように回答させていただきます。
記
1、小中学校のホームページの作成について
「開かれた学校」を目指して各種の方法で学校の情報の公開
を本町の小中学校でも目指しております。学級・学年・学校・
PTAだより、参観会、部活動公開、説明会、教育研究発表会
、ホームページ等の各種の方法で各学校の重点の置き方によっ
て取り組んでいるのが現状であります。各学校ではそれぞれの
学校の実態と教育方針により重点の掛け方が違っており、それ
が学校の特色となっております。
ホームページの近隣の市町村の状況を当たって見ましたが、
浜松市が先年指定事業として全校で取り組んだり、浜北市が先
進的に取り組んでいる状況がありますが、他の市町村は本町の
割合に近いかと思います。
本町では、急速にコンピュータが普及している状況の中で、
御指摘の対応を図るべく、校長会で状況を聴取し次のような見
解を出しております。
・現在開設している学校は更新に努める。
・ホームページの開設についてのガイドライン殊に子供のプ
ライバシー、更新等について担当教師と協議して全校の開設に
向けて9月の校長会で決定する。掲示板に子供や教師に対する
誹誇や中傷があったことからそれへの対応が特に大切であると
思われる。1、2校は開設に向けて準備している。
・合併する浜松市教育委員会と協議する中で、平成17年8
月末を全校開設の目途する予定(浜松市で全校開設した際も1
年有余置いていた。)
・町教育委員会のホームページについては町行政全般の調和
の中で開設しており、諸行事等の予定の更新にも遅れが無いよ
うに努力している。
2、姉妹都市シェヘリス市親善訪問
姉妹都市シェヘリス市親善訪問は合併を前に、今後の在り方
についての協議を深める意味で、国際交流協会からの依頼でし
たので、国際交流上の観点からお受けしました。幅広い教育行
政面から御理解いただければ幸いです。
以上
平成16年08月12日
引佐町教育委員会教育長 柴田宏祐
これは、要するに、さぼることも「各学校の特色」として容
認するということです。周りを見て、遅れた所を見て自己満足
するということです。平成17年8月末までに作るというのは
「自分の任期中にはやらない」ということです(平成17年6月
末に浜松市に合併しますから。もっともその後、期限を3月末
までに切り上げたようですが)。
これがさぼり教育長の見本です。これが生きた屍というもの
です。こういう人を「適材適所」として教育長に選んだ町長も
また「生きた屍」なのだと思います。
私たちは、公務員全体はさておき、少なくとも教員はすべて
もっとしっかりやってほしいと願っています。しかし、大部分
の教員は生きた屍です。法律で守られているこの人たちに、も
っと熱心に仕事をするように、研究も授業も日頃から精一杯取
り組むようにさせるのは不可能かもしれません。
しかし、その努力をしないわけにもいきません。その方法の
一つが、副島さんや玉置さんのような「顔のあるトップ」を教
えて、「君もこの人たちを見習え」と要求することではないで
しょうか。インターネットの発達した今では、その手段もある
と思うのですが。
お断り・再編集のためここに移しました。