ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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小論理学

2006年12月21日 | 業績一覧
  ヘーゲル著、牧野紀之訳、定価各3675円(税込み)

   上巻・B6版上製、本文 342頁、訳注 204頁、
   下巻・B6版上製、本文 459頁、訳注 121頁

    1978年10月分冊で出版開始。
    1989年05月上下2巻の合本で出版

   いずれも鶏鳴出版刊


     内容説明

 ヘーゲル哲学の中心は論理学にあります。それをコンパクトに示した小論理学を、意味を補いながら訳したものです。

 ヘーゲル自身が日本語で話したらこう語ったのではないだろうかと思われる口調で訳されています。

 試しに、第1節の冒頭の段落を松村一人氏及び長谷川宏氏の訳と比較してみます。

   牧野紀之訳

 〔『哲学の百科辞典』への序文においては、やはり、哲学とは何かという問題から始めるのが妥当であろう。しかるに、およそ科学というものを定義するには、その科学の対象を示すのとその認識方法を示すのと二つの方法が考えられる。そこで、哲学とは何かに答えるのにこれら二つの方法は使えないかと考えてみると〕哲学以外の科学は自己の対象を表象によって直接承認されたものとして前提したり、〔その対象を〕認識する方法を(その認識の始元についても〔その始元からの〕進展についても)すでに容認されたものとして前提したりすることができるという長所を持っているが、哲学〔だけ〕はそういう長所を持っていない。たしかに哲学は、まず第一に、その対象を宗教と共有してはいる。哲学も宗教もその対象は真理であり、しかも最も高い意味での真理である。更に進んで〔第二に〕哲学も宗教も〔単に有限物から切り離された神だけを扱うのではなく〕有限物の領域も、すなわち自然と人間精神も扱っている。両者共に、自然と人間精神とは互いにどういう関係を持ち、またそれらの真理である神に対してどういう関係を持っているかということを論じているのである。

 従って、〔哲学は宗教と同じ対象を持っているのだから〕たしかに哲学はその対象についての知識を〔読者が持っていると〕前提することができる。いや、それどころか、哲学はそういう知識を前提しなければならないし、その上更に、また、読者がその対象に関心を持っていると前提しなければならない。というのは〔なぜ前提しうるのみならず前提しなければならないと言ったかと言うと〕、意識は、対象についての概念よりも表象を時間的には先に手に入れるものだからで、思考する精神はただ表象作用を通ることにより表象作用にひたり切ることによって初めて、思考による認識と概念による理解へと進みゆくものでさえあるからである。


   松村一人訳(岩波文庫)

 哲学は、他の諸科学のように、その対象を直接に表象によって承認されたものとして前提したり、また認識をはじめ認識を進めていく方法をすでに許容されたものとして前提したりするという便宜をもっていない。なるほど哲学はまず宗教と共通の対象をもってはいる。両者ともに真理を対象としており、しかも、神が真理であり、神のみが真理であるという最高の意味における真理を対象としている。また両者ともに、有限なものの領域、すなわち自然および人間の精神、それらの相互関係、およびそれらの真理としての神とそれらとの関係を取扱っている。したがって哲学は、われわれがその対象を知っていることを前提しうるのみならず、それを識りそれに関心をもっていることを前提しなければならない、とさえ言える。このことは、意識は、時間からすれば、対象の概念よりも表象の方を先に作るものであり、しかも思惟する精神は、表象作用を通じまた表象作用に頼ってのみ、思惟的な認識および把握へ進むものであることを考えただけでも明かである。


   長谷川宏訳(作品社)

 哲学以外の学問では、対象を直接にイメージできるものとして前提したり、認識をどこからはじめ、どう進めていくか、その方法を、すでにあたえられたものとして前提したりできるが、哲学ではそんな便利なやりかたをとれない。哲学の対象はさしあたり宗教と同じだと考えてよい。哲学と宗教はともに真理を対象とし、しかも最高の意味でつまり、神が真理であり、神のみが真理である、という意味で真理を対象とする。とすると、哲学も、人びとがその対象を知っていることを前提できるし、人びとが対象に関心をもつこととならんで、対象を知っていることを、前提しなければならない。というのも、意識は、時間的順序として、対象の概念を形成する前に対象のイメージを形成するのであって、思考する精神ですら、イメージを通過し、イメージを手がかりにすることによってのみ、思考にもとづく認識と概念に進むことができるのだから。