ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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教育の広場、第 227号、朝日新聞綱領の検討

2006年04月05日 | 政治関係
教育の広場、第 227号、朝日新聞綱領の検討

 (2006年04月05日発行)

 朝日新聞社には朝日新聞綱領というものがあるようです。4月2日の一面
に載っていました。まずそれを写します。

 一、不偏不党の地に立って言論の自由を貫き、民主国家の完成と世界平和
  の確立に寄与す。
 一、正義人道に基づいて国民の幸福に献身し、一切の不法と暴力を排して
  腐敗と闘う。
 一、真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的精神を持してその中正を期
  す。
 一、常に寛容の心を忘れず、品位と責任を重んじ、清新にして重厚の風を
  たっとぶ。

 まず気になったことはこれを社是と言わないで綱領としたことです。普通
の会社では社是と言うのではないでしょうか。綱領などと聞くと、左翼政党
のような感じがします。

 では社是と綱領はどう違うのでしょうか。学研の大辞典を引いてみました
。社是には「その会社の基本的な経営方針」とありました。

 綱領には「ある物事・方針などの大元になる要点」というのと、「〔政党
・団体などの〕政策・運営方針のよりどころとすべきものを示したもの」と
がありました。

 ほとんど違いはないと思います。会社か団体かの違いくらいです。すると
、新聞社は普通の会社と違うから社是にしないで綱領にしたのでしょうか。


 まあ、それはいいとしましょう。しかし、ここではっきりさせたい事は左
翼政党(特に共産党)の場合、その党の本質を表現したものは綱領なのかと
いう問題です。

 どうも一般にはそう思い込まれているようです。少し古い話ですが、民主
党の管直人さんが、共産党との協力ができない理由として「綱領があるから
なあ」(多分、「綱領に社会主義、共産主義社会を目指すと書いてあるから
」という意味)のことを言っていたと思います。

 共産党を理論的に批判する人もたいてい綱領を批判します。規約を批判し
た人は、多分、私しかいないでしょう。

 しかし、私見では、共産党の本質を最もよく表すものは規約だと思います
。規約の冒頭には組織の目的が書かれてありますし、目的こそその組織の本
質だからです。

 今は変わりましたが、昔の規約には長々とした「前文」があり、そこにも
本質的な事が書かれてありました。

 分かりやすく言うならば、共産党は全体主義の党だと思いますが、なぜそ
うなったかと言いますと、その民主集中制が正しく理解されていないからな
のです。そして、それをねじ曲げる梃子が「理論と実践の統一」であり、「
批判と自己批判」なのです。これらは規約に書いてありました。

 綱領という日本語は多分「プログラム」の訳語だと思います。ですから、
その意味は規約で定められた目的を達成するために、現下の情勢分析に基づ
いてどういう手順を取るかを定めたものなのです。

 朝日の綱領に返ります。これは4つの項目から成っています。最初の2つ
は目的の表現でしょう。後の2つは手段を述べているのでしょう。言論機関
として、自分たちはどういう性質の言論を使うかを述べているのだと思いま
す。

 民主社会とか世界平和とか進歩的言論とかを言うことはそれ自体が既に1
つの立場であり、従って本当は不偏不党ではないのですが、そこまでは言い
ますまい。不偏不党とは「特定の政党、宗教、団体に与しない」という意味
に解釈しましょう。

 手段としての言論についてだけ言います。「真実を公正敏速に報道し、評
論は進歩的精神を持してその中正を期す」がやはり不正確だと思います。

 第1に、「真実」はここでは「事実」を強調した表現のつもりでしょうが
、実際の言論では、部分的事実と全体的真実の区別が大切です。部分的事実
に捕らわれることなく全体的真実を追求することがジャーナリズムでも学問
でも大切です。これの違いを知らないために沢山の間違いや混乱が起きてい
る現実に鑑みて、この用語は是正すべきでしょう。

 第2に、評論の中正という点については、紙面の現状から推測して、中正
な評論を掲げるという意味だと思いますが、それが正しいか疑問です。私見
では、或る評論への批判的な評論は読者からのものであっても、原則として
載せる、つまり「議論を尊重する」というスローガンを掲げるべきだと思い
ます。

 もう随分昔の事になりますが、国語学者の大野晋さんが「日本語の起源は
タミル語ではないか」という説を朝日紙上で述べた時、他の学者が批判し、
それが載りました。大野さんは答えました。すると又、批判者が批判しまし
た。そしてかなり何回も議論があり、ついに大野さんが「もう止めたい」と
言って打ち切りになりました。

 私は議論ではルールを明確にし、又ルールを時々見直しながらしなければ
ならないと思っています。基本的には2往復までで止めるべきです。

 それはともかく、民主社会だというのに、世間には議論が少なすぎると思
います。特に議論を中心にしなければならない学校とか言論機関でそれが少
ないのは問題です。

 ついでに、なぜ学校などで議論が敬遠されるかと言いますと、「実り多い
議論」「やってよかったなと思える議論」のためにはルールと方法と司会者
のリーダーシップが必要なのですが、ではそういうルールや方法とはどうい
うものか、どういうリーダーシップが必要かが研究されておらず、理解され
ておらず、知られていないからだと思います。

 最後に、1人の人にコラムを担当させるのも例えば10年とかの時間的上限
を定めたらどうでしょうか。具体的には、朝日新聞の夕刊の加藤周一さんの
「夕陽妄語」とか吉田秀和さんの音楽時評とか、ファンも多いと思いますが
、あまりにも長すぎるのではないでしょうか。

 これも朝日新聞に送ってみますが、多分、「参考にします」という答えく
らいしか返ってこないでしょう。


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