ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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教育の広場、第 181号、言葉の手品

2005年07月28日 | ご意見の広場
教育の広場、第 181号、言葉の手品

 前回に続いて少し学問的な事を書きます。

精神病理学者の木村敏(びん)さんは『人と人との間』(弘
文堂)の94~ 101頁に「了解」について次のように書いていま
す。

─ディルタイによれば、いっさいの文化的、歴史的世界は生
の表現、生の客観化されたものであり、これは自然科学的な因
果連関を求める説明によってではなく、そこに自らを表現して
いる生そのものの内的連関を追体験することによってのみ把握
されうる。この追体験の過程を、ディルタイは了解となづける
のである。

この了解の概念を精神病理学の中へ導入したヤスパースは、
これをさらに静的了解と発生的了解に区別する。或る人が怒っ
ているのを見て、その怒りそのものを追体験して了解するのが
静的了解であり、その人が例えば誰かに侮辱されて怒っている
のだ、というように、或る心的現象が他の心的現象から発生し
て来る意味連関を追体験するのが、発生的了解である。(略)

 一般に用いられている「追体験」の意味は、或る他人の心中
を思いやり、自分でその人の身になって感じとる、ということ
である。(略)

 これと同様に、或る風土を追体験するということは、自らを
その風土の中に住まわせてみる、それも単なる観光客としてで
はなく、構想力においてその風土を構成する生きた住民とな
り、その風土において自己を風土化した人間となって、その風
土を思いやるということである。(略)

 現実に与えられている事実的データを「結果」として前提
し、それに対する何らかの「原因」を仮定して、この原因から
の因果連関的・説明的な推論を行って、それが現在与えられて
いる結果と一致した場合に、事態が解明されたものとみなす方
法は、例えば自然科学的医学における病因論的診断に際して常
用される方法である。

 例えば、左半身に運動麻痺が生じている場合、大脳右半球の
病変という原因を仮定すれば、これが運動神経の伝導路の交叉
によって裏付けられた因果連関的推論によって、左側半身麻痺
という結果を完全に説明できるが故に、ここで病変の局所診断
が可能となる。さらにその場合、血圧とか、眼底所見とか、脳
脊髄液の所見とかのいくつかのデータが結果として前提され、
それに応じて、大脳の一定箇所における出血による組織破壊と
いうような原因の推定を許すならば、病因論的診断はますます
確実になる。

 或る風土の成立の事情を、自然科学的に説明しようとする態
度は、この医学的診断法の態度と同一である。(略)

 これに対して、風土の発生的了解に際してとられる態度は全
く異なったものである。風土は全体として一挙に与えられ、し
かもこの与えられ方それ自体の中に、それの成立の事情もま
た、直観的に与えられている。この場合にも、その風土に関す
る経験が豊かになれば、それだけこの直観も確かなものとなる
けれども、それは、データの豊富さに伴って精密度を増す自然
科学的推理の場合とは、違った意味においてである。つまりそ
れは、構想力の可能性を増大せしめることによってである。

 したがって、このような直観は、出発点となる構想力の優秀
さの度合いによって、つまり、それを見る人物の眼力の程度に
よって、大きく左右されることになる。(略)

 風土とは、説明されるべきものではなくて了解されるべきも
のである。それは何らかの原因に基づく結果ではなくて、現在
の風土のあり方それ自体の中に見出すことのできる何らかの契
機の意味的連関における表現である。─

 これについての私の考えは以下のとおりです。

 ここで木村さんは「自然科学的因果連関の説明」に対比して
「文化科学的歴史科学的了解による把握」を説明しているので
す。氏による対比を整理すると次のようになると思います。

 自然科学的・因果連関の説明的推理・局所診断
 文化科学的(追体験=了解)・内的連関の感取=把握・全体
の直観・構想力

 このように整理すると分かる事は、まず対比が完全でないと
いうことです。構想力に対応する自然科学的知力が述べられて
いません。それと同時に「全体の直観」に対して「局所診断」
と言われていますが、この「診断」の認識方法が述べられてい
ません。これを私の推測で補って完成させると、両者の違いは
結局は「部分の分析的認識(悟性)」と「全体の直観(構想
力)」の違いということになるのだと思います。

 これくらいの事なら大して新しくもありません。要するに、
理性主義に対するロマン主義です。従って、この問題は既にヘ
ーゲルが答えています。ヘーゲルを理解できない人達が形を変
えていろいろな説を立てているだけだと思います。

 もう少し丁寧に検討してみましょう。

 「了解」は「因果連関を求める説明」と対比されて「自らを
表現している生そのものの内的連関の追体験による把握」とさ
れています。しかし、両者はどこがどう違うのでしょうか。

 まず、結果としての(所与の事実の)「説明」と「把握」と
はどう違うのでしょうか。同じだと思います。だからやはり自
然科学だろうと文化科学だろうと「科学の目的は事実の説明」
なのです。

 では、その説明の仕方はどう違うのでしょうか。一方は「自
然科学的因果連関」とされています。因果連関に自然科学的と
そうでないのとがあるのでしょうか。ないと思います。つまり
因果連関で説明するのが自然科学だと言うのです。まず、ここ
に既に問題があります。自然科学は因果連関だけではありませ
ん。相互作用もあります。生物学では目的関係も使われます。

 それに対して歴史科学では「追体験」という方法を使うのだ
そうです。対象が人間的な事実である以上、追体験を方法にす
るのは当たり前です。問題はその追体験の中身です。この追体
験は自然科学における実験や観察とどう違うのでしょうか。社
会生活(政治や会社の活動)でのすべての政策や事業は実験と
いう意味を持っていますが、それは自然科学の実験とどう違う
のでしょうか。

 追体験では追体験する人はこれまでのすべての経験を踏まえ
ています。その追体験とやらは漠然と「感じる」だけのものの
ようです。それなら、それは芸術ではありえても科学ではない
と思います。科学は概念で定式化しなければなりません。「或
る心的現象が他の心的現象から発生して来る意味連関」と言い
ますが、それは「因果連関」とどう違うのでしょうか。

 それは「局所診断(分析)」か「全体の直観」かの違いのよ
うです。この両者は確かに違いますが、それは自然科学と文化
科学の違いでしょうか。自然科学の場合でも、新しい理論など
に気づく場合、「全体の直観」が大きな役割を果たしています
。むしろたいていの場合、答えは直観的にひらめくものです。
それを証明するために観察し実験しデータを集めるのです。

 木村氏のおかしさは、「完全な説明」を与えた「局所診断」
の後に更にデータが加わって「ますます確実な診断」がなされ
るなどと言っている所によく出ていると思います。

 たしかに分析的自然科学もありますが全体的自然科学もあり
ます。全体的文化科学もありますが分析的文化科学もありま
す。学者の方法の違いにすぎないと思います。

 新しい用語で何か新しい事を言ったつもりになるのは科学で
はありません。これまでの用語との関係をきちんと説明するべ
きです。そもそも「了解」と訳されているドイツ語は Versteh
en(フェアシュテーエン、理解)です。これをこれまで通り「
理解」と訳したらどこが拙いのでしょうか。

 ヘーゲル学の中でもヘーゲルの Wissenschaft (ヴィッセン
シャフト)という単語を「学」とか「学問」と訳すことで何か
を説明したつもりの人が多いです。私は「科学」でいいと思っ
ています。これまで「科学」と呼ばれてきたもの、あるいは普
通に「科学」と呼ばれているものの、これまで理解されていな
かった本性を明らかにしたのですから、対象を指示する単語と
してはこれまでと同じ単語を使わなければ分からないのではな
いでしょうか。それについての理解の違いは述語の中に示され
るのであり、文章全体の中で表現されるのです。

 実際、ヘーゲルの Wissenschaft を「学」とか「学問」と訳
して満足している人の中にはヘーゲル哲学の分かっている人は
一人もいないと思います。

 「実存」という単語についてもいつもそう思います。これは
人間のことなのですが、その人間を「実存」として捉える考え
方に立って見た時の人間のことなのです。ですから、人間をど
う捉えるかが問題になっている所では、対象を指示する語とし
ては「人間」を使い、その人間とは何かを文章全体で説明し
て、そのまとめとして実存という語を使えば好いと思います。

 イエス・キリストにしても同じです。この言葉は、「イエス
(ナザレのイエス、つまり歴史上の個人)がキリスト(旧約聖
書で予言された救い主)である」ということを前提して、それ
を認めた表現です。だから、ユダヤ教徒はこの言葉を使いませ
ん。彼らはイエスをキリストと認めていないからです。

 だから、イエスがキリストであるか否かを論じている時に、
イエス・キリストという言葉を使うのは学問的に間違いなので
す。そこで問題になっている対象はイエスなのだから、ただイ
エスと言うべきです。

 単語の意味は大きく分けて2つあります。1つはその信号対
象のことであり、もう1つはその対象についての理解のことで
す。この事を正確に理解したいものです。詳しくは「辞書の辞
書」(拙著『生活のなかの哲学』に所収)に書きました。
 (2004年08月20日発行)