ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

NHK の広場、12、ドイツ語(11、菩提樹)

2005年07月14日 | NHKの広場
 田辺さん問題の3回目です。


 NHKラジオドイツ語講座の係御中

 前略
 私はドイツ語講師をしている仕事がら、NHKのラジオドイツ語講座をほとんど聞いています。優秀な講師陣がとてもよく考えて作った好い講座だと感心し感謝しています。

 しかし特に文法的な点については時々疑問を感ずることがあります。2~3年前からその点について率直な質問を出しています。あるいは係の方も私の名前くらいは御存知かと思います。しかし、ほとんど返事が来なくなりました。

 私の質問が内容的に答えるに値しないようなものなのでしょうか。そんな事はないと思います。1度などは、係の方から「今、3人の講師の方に回答をお願いしています」という葉書をもらいましたが、回答はついにありませんでした。

 一般的に言っても、議論は学問や教養の根本だと思います。聴取者からの質問に放送時間の中で答え議論をすることは是非とも必要な事だと思います。

 田辺茂樹さんには何回か質問を出したのですが、一度も答えていただいていません。そこで今回は、係の方に質問します。

 昨年(2002年)の11月22日には有名なシューベルトの「菩提樹」を取り上げています。この放送には以下の2つの問題点があると思います。

第1は小さな問題ですが、まずそれを書きます。

 「市門の前の 泉のほとりに 一本の菩提樹が 立っている」とありますが、この「市門の前」とは市を囲む壁(塀)との関係で市内の方(壁の中の方)の前なのでしょうか、それとも壁の外の方の前なのでしょうか。この説明がなかったと思います。テキストにも書いてありません。小さな問題ですが、やはり説明した方がよかったと思います。

第2は第4連と第7連に出てきます「安らぎを見いだす」とはどういう事かという問題です。念のために田辺さんの訳を引きますと、第2連には「私のもとへおいで 友よ ここできみは安らぎを見いだせる!」とあり、第7連では「おまえはあそこで安らぎを見いだせるのに!」となっています。

田辺さんは前者で直接法が使われ、後者で接続法第二式が使われていることの説明をしました。この説明は当然の事だったと思います。しかし、後者の接続法は第二式現在が使われていますが、本当は第二式過去の方がよかったということまでは説明していなかったと思います。テキストにも書いていません。

これはかなり高級な事ですから、御存知なのに言わなかったのかもしれません。第7連は、本当は、「おまえはあそこで安らぎを見いだせたのに!」なのだと思います。

それはともかく、私の問題にしたい事はこの「安らぎを見いだす」とは具体的にどういう事を考えているのかという問題です。田辺さんは「おそらく『私』は、もはや二度とあの菩提樹の木陰で安らぎを見出すことはないのでしょう」と説明しています(テキスト73頁)。

つまり、田辺さんは「木陰に腰掛けて休憩すること(そして、かつての恋人を思うこと)」だと理解しているようです。

 しかし、これは違うのではないでしょうか。

寒風の吹きすさぶ真冬の夜に菩提樹の木陰に腰掛けても安らぎにはならないと思いますし、破れた恋を追想しても「安らぎ」にはならないと思います。そもそも歩きながら今も追想し続けているのです。

ここでの「安らぎ」とはそのような浅薄な事柄ではないと思います。この歌の根本にかかわる問題です。ドイツ語学の大家関口存男(つぎお)さんは「泉に飛び込んで自殺すること」と解釈しています。先輩の解釈も参照してほしいと思います。

田辺さんと相談の上、お返事いただければ幸いです。
 今後もより良い放送を期待しています。
                        草々
2003年01月06日
                  牧野 紀之


 田辺さんからの返事(2003年03月04日)の該当部分

 「菩提樹」の vor dem Tore:
 Vorstadt, vor der Stadt といった例との関連からは「外側」と考えるのが普通かとは思いますが、私自身の限られた体験でも、城壁の内側に井戸がある町を訪れたことがありますので、「内側」の可能性も排除できないと思います。そんなわけ
で、放送ではこの vorが「外」か「内」かについてはあえて触れませんでした。

 「菩提樹」についてのその他のご指摘は、詩の自由な解釈に関わることがらと思います。テキストを読む人がそれぞれの読み方をすればいいのではないでしょうか。私にも私なりの思い入れがありますが、講座ではミュラーのテキストに基づいて、私が標準的と思う説明をするにとどめました。──


 批評

 第1の答えについて言いますと、田辺さんは「ドイツ語の vorという前置詞の意味だけが問題」なのを理解できず、ドイツの現実を問題にして考えました。

 ドイツ語教師なのにドイツ語を研究せず、ピアノばかり弾いているとこういう事になるのかなと思いました。

 正解はもちろん「外側」です。

 第2の答えは、これこそ官僚の屁理屈だと思います。一方で「解釈の自由」を主張し、他方で「標準的」な解釈の存在を前提して発言するのは矛盾していると思います。

 標準的と言うならば、田辺さんが「標準的と思う」根拠をあげるべきでしょう。私は田辺さんの解釈のあまりの不自然さをきちんと指摘しているのですから、それに反論するべきです。関口さんの解釈の方が標準的だと思います。

 ドイツ語を研究していない田辺さんは関口さんの解釈を知らなかったようです。
 (2005年07月14日)