なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

写真取り込み

2006-02-06 14:56:14 | 昭和
先日昔のアルバムを開いたら、写真の色あせが進行していた。しかも、茶色のシミもでていた。そこで、今日から暇を見つけてスキャナーでパソコンに取り込む作業に着手した。取り込んだ写真は色補正してシミをぼかす作業をするので数百枚ある写真を全部取り込むのにかなり日数がかかるだろう。今から、30年以上前の色あせた写真が補正すると現像したてのような色にかわる。30年後の写真の世界でこのような事が出来るとは夢にも思わなかった。僕は昔は写真が趣味だった、現像から引き伸ばしまで自分でやっていた、風景や街の光景人物写真などさまざまな被写体をカメラに収めた、今僕の書斎のカメラ専用の防湿庫には、キャノン、ニコン、そしてミノルタ、極めつけはマミヤRZ67PROが交換レンズとともに眠っている。それらの高級カメラはここ数年シャッターを押してない。デジカメの性能がよくなって自然と銀塩カメラから離れてしまった。カメラのメーカーが銀塩写真機の製造から撤退している。デジカメの便利さを享楽するとフイルムをカメラ店に持って行くのがバカらしくなってくる。しかし、一眼レフの重さとシャッターを切るときの「バシャ」と言う音はデジカメにはない、そして、現像に出してどのように写っているのか出来上がり迄の期待感もない。まだフイルムが残っているので花のシーズンになったら交換レンズを携えて写真を撮りに行こう。そして、現像が終わったらスキャナーでパソコンに取り込もうか!?
 上の写真はK無線視聴室のスピーカ。画面に映っているスピーカーだけで400万円位していた 昭和50年撮影  

悲運のいとこ

2006-02-04 16:14:47 | 昭和
僕の嫁さんのいとこにエイちゃんという男性がいる。現在57歳、僕と同じ年である。このエイちゃんは人のよさで定評がある。彼は25歳の時、行き付けの飲み屋の女性と結婚した。やがて、娘が生まれエイちゃんは幸せな生活を送っていた。だがその幸せも長く続かなかった、エイちゃんの女房が水商売に再び勤めだしたのだ。そして、スナックに通ってくる常連客との浮気が発覚したのだった。エイちゃんの女房は昼間から3歳の娘を連れてホテルに男と入浸っていたのだ、その様子を幼子はエイちゃんに「ママがほかのおじさんと布団の上でダンスしてたよ」と告げたのだ。びっくりしたエイちゃんは同居していた母親に昼間の女房の監視を頼んだ、数日後ホテルから出てくるエイちゃんの女房を見つけ懲らしめたのだ。そして、エイちゃんはその女房と離婚したのだった。離婚後にエイちゃん名義で借りていたサラ金の借金300万の置き土産も残されていた。以来、エイちゃんは一生懸命働いて元女房の借金を返済し一人娘の成長だけを楽しみに生きてきたのだ。結婚に懲りたエイちゃんは以後独身を貫いた「女はしたたかな生き物よ、特に水商売の女はしたたか者よ」と水商売の女を忌み嫌っていた。そして、エイちゃんは寝食を忘れて働いた、そして、将来娘が結婚してもみんなで住めるような大きな家を建てた。今から15年前の事だ。
 昨夜、エイちゃんの親戚から電話があった。実はエイちゃんは昨年秋から体調を崩して入院していたのだ。病名はガンである、本人もガンを告知されて、余命があとわずかしかない事を知っていると言う、体重も35キロまで落ちている。その彼が最期は自分の家で迎えたいと希望し点滴を付けたベットごと自宅に帰ってきたという内容の電話だった。
 会って何と声を掛けたらいいのだろう、「頑張れ」とか「絶対良くなるよ」とつきなみな慰めの言葉など何の意味もない。今から3年前ガンで入院していた僕の店に勤めていたパートさんを見舞った時僕はいつになく大きな声で「頑張って」とか「必ずよくなるからね」と言い残して病室を後にした事を思い出していた。その後パートさんの葬儀の席で何と無意味な事を言ってしまったのかと僕は後悔した。そんな事を考えていると昨夜はなかなか寝付けなかった。

一年ぶりの黒崎

2006-02-03 14:31:15 | 昭和
午前中黒崎に行って来た。税理士事務所が黒崎にあるのでこの時期毎年黒崎を訪れている。税理士事務所で用件を済ますと車を有料に預けてデジカメ片手に黒崎の街中を散歩するのが年一回の行事になってしまった。一年前は旧長崎屋を取り壊した後にビジネスホテルを建設中の最中だった。例の姉歯と木村建設の建物だ、菅原ビルも一年前は耐震偽装の被害者になる事など夢にも思わなかったに違いない。やはり、黒崎は年々さびれてきている、空き店舗も一年前より確実に増えている、何より人通りが少ない、上の写真は旧井筒屋前の昼前の風景である、別に車や通行人を避けて撮った写真ではない。やっぱり、黒崎は浮上できないのか、青春時代のあの賑わった黒崎の人ごみが嘘みたいにシーンとしている。北の空を見上げると「コムシテイ」のビルがむなしくそびえている。昼飯前だったので旧井筒屋裏の「めしや丼」でカツ定を頼んだ、一度入ってみたかったのだ愛想のない店だおまけにまずい、客は僕一人だけだった。飲食店は賑やか方がいい。来週また、決算書の検討に税理士事務所に行かねばならない。今度はどこの店に行こうかな。「唐そば」があった時はラーメンを食べる目的のためだけに黒崎に行ったものだが最近の黒崎を知らないので美味しい店がわからない、だれか、黒崎で何か美味い物を食べさせてくれる店を教えてください。

長編ドラマはDVDに限る

2006-02-02 18:26:33 | 昭和
先日「戦国自衛隊」が放映された。午後9時から11時までの2時間長編ドラマだ。タイムスリップものの映画が好きなのでDVDに予約した。そのドラマを昨夜DVDで見た。面白かった、舞台は関が原合戦にタイムスリップした自衛隊の物語だ、昔見た千葉真一主演の戦国自衛隊と匹敵する位面白かった。「そんな面白い映画を何故放映当日に見ないのか?」と言うと、それは、15分おき位に入る連続CMにうんざりするからだ。大体一時間の番組で合計10分から15分位をCMが占めている、民放の収益源だからそれはあたり前なのだがやはりその時間がもったいないと思うのである。昨夜は8時にDVDを再生して見終わったのが9時半だった。DVDを見ながらCMだけを早送りで飛ばして次のシーンに飛べるから放映当日の番組を見た人達よりも30分も得をしたのである。映画をこのような見方をするのはDVDレコーダーを購入した時からだ。瞬時に次のチャプターに行けるのが便利である。戦国自衛隊の後編は今度の土曜日である、もちろんDVDに予約済みだ、そして翌日曜日にCMを飛ばして本編だけ見る予定である。民放の番組はCMが多すぎる。もう少しCMを減らせないものか、BSやCSの契約家庭が増えている背景には僕のような考えの人が増えているからかもしれない。

おいちゃんになった日

2006-02-01 13:19:52 | 昭和
僕が「おいちゃん」と初めて呼ばれた日の事を今でもはっきり覚えている。ぼくが30歳の誕生日(8月25日)の翌日の事だ。その日僕はガソリンスタンドで車を洗っていた時だ少し離れた所で車を洗っている20才位の女の子が「おいちゃん!」と大きな声で呼んでいるのだ、僕はその声には無関心で車にセッセとワックスをかけていた。すると、その子は僕の所にやってきて「おいちゃん!さっきから呼びようのに聞こえんやったと?おいちゃん」「エッ!おいちゃんて俺の事?」僕はケゲンな顔をしてその子の顔を見た。「そうよ、おいちゃんしかここにはおらんやん、その洗車ブラシもう使わんのやったら貸してよ」「ああ、いいよ」僕は視点の定まらない目で返事した。「おいちゃん」と初めて言われたのだ、それまでは「兄ちゃん」か「あんちゃん」で通用していた。何で「おいちゃん」なのか、僕は落ち込んで家に帰った。そして、嫁さんにさっきの話をしたら嫁さんは「そうよ、あんた立派なおいさんよ、あんたもう30よ、兄ちゃんで通じる訳なかろうもん」と追い討ちをかけた嫁さんの言葉に僕は再び傷ついた。30才になった翌日に他人からも嫁さんからも「おいさん」のレッテルを貼られたのである。その夜いつもより多く酒を飲んで夜更かししていると嫁さんが部屋を覗き「おいさん!酒飲みすぎよ早よ寝らんね、おいさん!」。そして、その日をきっかけに僕は「おいさん」の称号を受け入れる事にした、今から27年前の事である。それにしてもあの時スタンドで「おいちゃん」と僕を呼んだあの娘は今47歳位だろう、もう「りっぱなおばさん」になっているに違いない、「なあ、おばさん、そうだろう?」