なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

木更津篇 2

2006-02-20 14:22:27 | 昭和
千葉県木更津に転勤してそこでの生活に馴染むのに時間はかからなかった。僕は君津製鉄所の現場の人々と直ぐに親しくなった。君津製鉄所の社員達は殆どが北九州の出身者で占められていた、僕が新任の挨拶に行き「八幡から来ました、○○です」と名刺を手渡すと、「八幡はどこにおったと?、俺は枝光よ、もう何年も帰っとらん、なつかしいのー」と北九州弁で僕に握手を求めてくるのだ。どこの現場に行っても初対面から確実な人間関係が出来ているので僕の営業活動は思い通りに進んだ。金額の張る随時契約も取れて僕は入社一年未満とは思えないほど成績を上げていた。一方の家内も近所で「北九州デビュー」して近所の同年輩の奥さん達と楽しそうに過ごしていた。もう、北九州の事など忘れてしまっていた。そして、休みの日はお互いの家族同士でドライブしたり花見に行ったりそれは楽しい生活を送っていた。しかし、僕たちの家計は毎月火の車だった。物価が北九州より2割程高いのだ、給料は北九州で入社した時のままだから、実質的な給与ダウンと同じなのだ。食費を節約するため庭で野菜を栽培したり、新鮮な魚を手に入れるため僕は木更津港から出る乗り合い船で東京湾に魚釣りに出かけるようになった。釣り船の船長は確実に魚のいるポイントに案内してくれるので「坊主」は一度もなかった。真鯛、いさき、鯵と季節の魚をクーラーボックスいっぱいに詰め込んで帰ると、家内と近所の奥さん連中は総出で魚をさばくのだった。北九州なら鮮度のいい魚はどこの店でも手に入るがここ木更津では自分で釣りに行くしか方法がなかった。ヒマがタップリあってお金のない僕の休みは家庭菜園と時々の魚釣りが趣味と実益を兼ねた生活の一部になった。木更津での生活にだんだん馴染んだ頃、僕は将来の生活に不安を抱くようになった。第一の不安は給与の安さだった。会社が何故引越し費用を全額負担してまで僕をこの地に転勤させたのかその理由が分かったからである。この会社は現地で社員は採用しない、何故ならば給与の安さで応募は皆無なのだ、北九州で採用した人間を転勤で連れてくれば人件費は確実に安くなる。しかも、採用する条件は中途入社で小さな子供がいる事が条件だった。そうすれば、簡単に止めて北九州に帰るはずはないと会社はにらんでいたのだ。その話をしたのは、僕の上司でもある君津出張所々長でもあるY氏だった。当時50歳前のY氏は北九州でギャンブルで食い詰め乞食同然の所をこの会社に採用され木更津に転勤してきた人である。すると僕の十年後はこのY所長の後を継ぎこの地に永住するのかと思った。永住は出来ない僕は長男だ、親は如何する?と言う思いが脳裏をかすめた。それから、数ヵ月後僕はY所長との確執で苦悩の日を過ごす事になる。 次回
へ                  写真は昭和57年当時の国鉄「君津駅」

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