現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「萱野章次郎」氏のこと

2011-10-28 22:10:15 | わが家のこと
『会津少年郡長正自刃の真相』の著者「宇都宮泰長」氏は、
この本の巻末で「萱野章次郎」について触れている。

この本を出版したことで、千代田生命の社長をされていた
「萱野章次郎」氏から手紙をいただき、食事をご一緒した
ことがある、と。

萱野家は、明治2年「萱野長修」が 藩主の代わりに
「死罪」となったことで、お家断絶。子供らは母方の姓
「郡」を名乗った。

また、萱野長修の弟「隆衡」は「三淵」姓を名乗った。
その子「三淵忠彦」(1880-1950)は、初代 最高裁判所
長官(在任、昭和22年ー25年)である。

そして「三淵忠彦」の次男「章次郎」が、萱野家を再興
すべく「萱野章次郎」と改姓した。

大学4年の春、私は、就職試験の手始めとして、千代田
生命を受けた。本社が目黒区の私の自宅に近かったから、
大学からの帰途に寄ったのだった。
一次、二次と通り、最後の役員面接で、サプライズ!。
「萱野章次郎」氏が千代田生命の副社長であられたのだ。
その萱野氏、私の履歴書を見て、「あ、僕、この人
知ってるよ」と云われたのだ。

私の方は、それまで「会津会会報」などで 萱野氏の
お名前と写真でお顔を見知っていた程度。面識は無かった。
それなのに、会津会名簿でか、私のことを「知っている」
と云われた。もう驚き桃の木、“最初の気”である。

全く奇特な縁。その後、萱野氏は千代田生命の社長に
なられた。絵を愛する温厚な紳士だった。私が福島の
支部長になれたのも、萱野氏のおかげだったかと、
今になって思う。その時、氏は癌で入院されていた。
病院にお見舞いに伺ったのが最後となった。

「郡長正自刃」の真相 その1 

2011-10-28 21:51:22 | 会津藩のこと
宇都宮泰長編著『会津少年郡長正自刃の真相』(H15年、
鵬和出版 限定500部)を入手した。

明治4年5月、豊津の育徳館内で、旧会津藩の留学生
「郡(こおり)長正」が、切腹して果てた。16歳。

「切腹」の理由については、狭間祐行の『会津戦争』
(S16年刊)や、笹本寅の『会津士魂』によって、「母親
宛の手紙に『食事がまずい』と、食べ物の不満を書き
綴ったことが、豊津藩の子弟に見つかり、『武士が
食べ物の不平を言うとは』『会津の死に損ない』と
嘲笑されたため」というのが、今まで、信じられて
きた定説だ。

「郡長正」のことは、会津人なら誰でも知っている
話であり、私も、子供の頃から母親に聞かされ、
「食べ物の不平不満は決して言ってはならない」と
教えられてきた。そして上記二冊の本は、私も
中学校の時に何度も読んで、暗記するほどだった。

その本には、豊津高校では、「郡長正」のことを顕彰し、
碑もあると書いてあったので、昨年 訪ねてみたが、
誰も「郡長正なんて知らない」という。碑も無かった。
私は多いに失望したものだった。

たしかに「いじめにあって自殺」したなんて、現代の
子供たちには、教育上も よろしくない話だ。

また、「食べ物のことで不平不満を言った」のが
原因というのも、何か変だと 私も思っていた。

そして、そのことを否定する説が「宇都宮氏」に
よって、明らかにされたのだ。

解明の鍵は、当時 まだ郵便制度が整っておらず、
会津と豊津を結ぶ手紙の往還は難しかった。つまり、
母との「往復手紙」など存在しなかったのだ。

小説家の勝手な創作で、事実が曲げられることに
私は疑問を感じる。「郡長正」は太平洋戦争に
向かって「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び」の
倹約、忍耐、そして殉国の精神高揚に利用された
のだ。だが、今の世となっては、長正の「創作話」は、
会津にとっても小笠原家にとっても不名誉な話で
ある。宇都宮氏は、双方の不名誉を晴らしてくれた。

だが、一度定説とされると、真相が明らかにされても、
容易に訂正されない現実に、恐ろしさも感じるのである。

「郡長正切腹」の真相 つづき

2011-10-28 03:48:51 | 会津藩のこと
「郡(こおり)長正」の留学先は「小倉藩・小笠原家」だが、
小倉藩は、幕末、慶応2年の「第二次長州征伐」の際、
幕府側の先鋒であったため、長州に攻められ、豊津に
藩庁を移し、明治2年には「豊津藩」となっていた。

藩主は「小笠原」氏。会津藩同様、徳川家康を祖とする
徳川親藩である。小笠原家としては、戊辰戦争に敗れた
会津に同情して、前途有為の少年たちを引き取って勉学
させようとの好意であった。

それに、旧会津藩士の子弟7名が選ばれ、遠く九州の地
まで行ったのである。

その一人「郡長正」は、会津藩家老 萱野権兵衛長修の次男。
萱野権兵衛は、戊辰戦争の責任を一身に負って、明治2年、
5月切腹させられた。萱野家は断絶となり、姓を「郡」と
改めていた。

『会津少年 郡長正自刃の真相』の著者 宇都宮泰長氏は、
「会津の少年達」の教育係りだった「中川三郎」の子孫で、
曽祖父から 語りつがれていた話を明らかにしてくれたのだ。

その「伝えられていた話」とは「郡長正は“小笠原の
殿様に申し訳ないことをした”と言って切腹した」との
こと。

会津から来た少年7人の間で、喧嘩があった。そこで、
小笠原藩の中川三郎が喧嘩の仲裁に入ると、長正が
「小笠原藩は、長州に攻められた時、城を焼いて
逃げたではないか」と、小笠原家を侮辱するような
ことを口走ったようだ。

それに対して、中川三郎は、「小笠原家は会津藩が降服
したあと、750名もの会津藩士を東京まで護送する任に
あたった。親藩のよしみで、罪人としては扱わず、温情を
もって世話したが、途中脱走する者が相次ぎ、大変な
迷惑を蒙った。君たちは、どこまで 当家に迷惑をかける
のか」というような話を聞かせ、長正を諭したようだ。

郡長正は、そのことを聞いて驚き、小笠原家の厚情に
感謝し、誹謗したことを悔いて「小笠原の殿様に申し訳
ないことをした」と腹を切った。というのが真相のようだ。

宇都宮氏は『郡長正自刃の真相』の書の巻末に、東京まで
護送された会津藩士 750名の名簿を載せている。

白虎隊士として蘇生した「飯沼貞吉」と父「時衛」の名も
ある。私の母方の祖「山室鉄四郎」の名もあるが、「牧原
寅彦」の名は無い。「牧原」は、別ルートで東京に護送
されたようだ。

事実は小説よりも面白い。驚くべき真相だが、なぜか、
会津では、問題にされていない。一度定説となったものを
変えたくないのか。