ロイヤルモータースとその仲間たち

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伊能忠敬一行が有野町南部を測量  の記録 

2010-05-12 20:37:33 | 旧有馬郡の民話
伊能忠敬が有野町南部を測量している記録がありました。
彼は日本の沿岸を測量しているのですが、内陸部を測量している事は余り知られていません。 貴重な資料ではないでしょうか?
また、「転地明察」の主人公、渋川晴海の実績がおそらく伊能忠敬に影響していると思います。

イノペディア   伊能忠敬をもっと知りたい方


伊能忠敬一行が有野町南部を測量   有野町誌より    P100より

文化七年、九州地方を測量後、同八年山陽路に戻り、姫路から多紀郡立杭村(今田町)を経て有馬三郡三田に入り、有馬温泉に止宿している。 この時、忠敬らと加西郡で別行動をとった測量隊は裏西国街道といわれた湯の山街道北の道を測量している。 測量日記には次のような内容の記述が見られる。
三月七日、晴れ、三木上町から淡河町まで三里十一町五間。 八日も晴天、淡河町から南萩原、来た萩原、行原村、東畑村、中山村、野瀬村(いずれも現在淡河町)を経て有馬郡に入り屏風村(八多町)で昼食をとり、深谷村、付物村、柳谷村、(いずれも八多町)を経て西尾村五社、(有野町)まで測量し夜中までかかっている。 淡河町から五社まで実測三里十二町二十三間であった。
九日、晴れたり曇ったり。 有馬に宿泊して周辺を測量した。 有馬の追分から始めて唐と村、西尾村地先、切畑村,姥ヶ懐(うばがふところ)と測り、西尾村五社の前日の測り留めにつないだ。 このあと一行はさらに有馬に戻り船坂村(西宮市)との境まで測量している。


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