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記事訂正謝罪と「麻生優柔不断」画像

2008-11-12 10:07:55 | Weblog

 





 昨日の10月11日記事≪麻生定額給付金/「迅速性」をキーワードに読み解く公明党対策 ≫記事中、定額給付金「年度内支給」を「年内支給」と間違えて書き込んでしまいました。「年度内支給」でした。

 間違った情報を垂れ流したことを謝罪します。訂正しておきました。


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麻生定額給付金/「迅速性」をキーワードに読み解く公明党対策

2008-11-11 10:55:48 | Weblog

既に多くの人が言っていることだと思うが、私も一口乗って。――

 先月10月30日(08年)に「新しい経済対策」と称して麻生総理大臣が記者会見し発表した中で、「定額減税については給付金方式で、全所帯について実施します。規模は約2兆円」と「定額減税」打ち出した。

 対象は「全世帯」。

 ところが与謝野馨経済財政担当相が10月31日の閣議後の記者会見で「経済対策ではなく社会政策として議論が始まった。・・・・高い所得層への定額減税に社会政策的な意味があるのかという根本的な問題に答えないといけない」(「時事通信社」記事)

 (テレビ出演)「高い所得層の人にお金を渡すのは常識からいって変だ。所得が2000万円も3000万円もある人に渡したら、バラマキと言われる」(「毎日jp」記事)

 給付には所得制限が必要との考えを示して麻生首相の「全世帯給付」に疑義は挟んだ。野党からも「究極のバラマキ、」、「選挙対策」の批判が上がったこともあってのことだろう、11月4日の記者会見で「豊かなところに出す必要はない」と10月30日の「全世帯」からたった5日経過しただけで「所得制限」へとあっさりと政策変更、リーダーシップの欠如、主体性の欠如をお色直しのご披露に及んだ。
 
 しかし所得制限方式だと所得調査が個人情報保護法に触れるとか事務を行う自治体窓口の負担が計り知れないとかの指摘が出て、高額所得者の(多分好意の)辞退方式が持ち上がった。

 但し辞退方式も閣僚によって賛否様々の様相を呈した。

 与謝野 馨経済担当相「高額(所得)者は(給付金を)辞退するというのは、それは制度ではないんで、そういうことはあり得ないだろう」

 中川昭一財務相「低所得者の方々にできるだけ早くですね、給付をしたいということを考えれば、(辞退は)やむを得ない」

 野田聖子消費者担当相は「最初の総理のご発言、全所帯(給付)で良かったんじゃないかと思っております」
 
 山崎正昭参院幹事長は「総理の発言は重いわけですから、しっかりとした説明を国民にすべきだ」

 細田博之幹事長は「スパッと、これだと、これが案であるということを明確に決めなければならないんじゃないか」

 (7日の総務会)「このままでは閣内も不一致、政府与党内も不一致、自民党内も不一致になってしまう」

 「ばらばらな発言をこのまま許してもいいのか」

 記者に「閣内不一致ではないか」と問われて、

 麻生首相「僕はいろんな意見が出されて、結構だと思いますけど。別に、(給付金が)私のところにくるわけじゃありませんと、はなから思ってますから。公平性と迅速性っていうのは、ずっと申し上げている」(以上「FNN」記事から)

 麻生首相は「公平性と迅速性」を最重要の給付条件としている。お仲間の中川昭一財務相も「できるだけ早くですね」という言葉で、麻生べったりの「迅速性」を条件に掲げていた。

 「公平性」の場合、高額所得者の自発的辞退で果たして担保されるのだろうか。好意の辞退とならず、悪意の請求へと変らない保証はどこにもない。税金は貧乏人よりも俺たち高額所得者の方が多く払っている、給付もそれに応じるべきだを自己正当化の理由に胸を張って請求する者も多く出るに違いない。

 昨11月10日に全国市長会長の佐竹敬久秋田市長が秋田市役所で記者会見して、多分全国市長会長の立場としてだろう、「所得制限方式」に反対のメッセージを麻生以下に向けてぶち上げた。

 「市町村が事務を担うことになれば、全国で大変な混乱が起きる。・・・(高額所得者に)辞退を促したり、見なしの所得制限で対応する案もあるようだが、あいまいな形では市町村は耐えられない。所得制限なしが望ましい。・・・(市町村窓口での支給となれば)一時期に大勢が手続きに訪れる。すべての業務を放り出しても職員は足りず、政令市ならもっと大変だ。混乱は確実で、国が一切の責任を負うことを明確にしない限り、市町村は乗れない。・・・・・定額減税に加え、低所得者対策を行うのが本来のやり方。・・・・・国が国家公務員を総動員して支給するなら勝手だが、現場の実態を無視したやり方は困る。国会で軽々に決めるべきでない」(河北新報≪定額給付「所得制限で大混乱」秋田市長、見直し求める≫2008年11月10日月曜日から)

 高額所得者にも定額減税方式で一律に支給し、その上で低所得者対策を行えと、「公平性」の担保をそこに求めている。
 
 このことによって「公平性」が確保できても、有り難味は年度内を越える可能性が生じて、麻生政権が最も拘っている「迅速性」が担保されかねない。3月以降に総選挙がずれ込むと決まっているならいいが、政局次第でいつ総選挙とならないとも限らない状況にある。

 だからだろう、麻生首相はあくまで「迅速性」に拘った。北朝鮮に対して「対話と圧力」が対語化しているように「公平性」を「迅速性」の対言葉として掲げてはいる。

 そのことが昨11月10日の「毎日jp」記事≪首相VS記者団:定額給付金「基本的には『早く』『公平に』」 11月10日午前11時53分~≫が詳しく伝えている。

 <Q:定額給付金の所得制限については前向きな意向でしたが、それに変わりはないですか?

 A:もう昔からそんな話何回もしていて、これ3回目くらいじゃないのと思うけれども、まず全家庭に行くようにしましょうというのがもともとの話。あのときは定額減税するといっていたが、そうすると税金を払っていない人に行かなくなっちゃうと言った。だから全家庭にするようにというのが、それが基本。
そこに行くために方法を考えたらどうかということで、減税から定額(給付金)にいこうとなった。その方法がいいねって納得したの。それで高額所得者とか言った時に、笹川さんとかオレたちやら何やらにも来るのかと。普通、そりゃ違うだろうという話になった。それがもともとの発想。

 それで所得制限をするには、それは法律でやるのかと。それじゃ時間と手間がかかるので、急いでいるんだから、今やる迅速性でいったらということで。所得制限するとかいったら法律でやるということになるから、その段階でその話はなくなった。新聞には書いてないだろうけれども、(質問者のメモを指さしながら)それをよく読み直してみて。二つ目は辞退するとか何とかで、自分でどの程度辞退するのか。金があってももらいに行く人がいるかもしれんが、じゃあ、市町村の窓口で「あの人の所得いくら」って把握できる? そういった意味なら自発的にやってもらうのが簡単なんじゃないの? そういった意味なら。もっとうまいやり方があるのなら考えればいい。あとの細かい話は与党で検討してもらっているので、オレに聞かれても分からない。基本的には「早く」「公平に」。貧しいところにこの種の金が行くのが基本じゃないの?>・・・・・・

 「公平性」が必ずしも担保される保証がないまま、「迅速性」を全面に押し出している。

 先月10月26日夜、麻生首相は公明党の要請で太田昭宏代表と都内のホテルでひそかに会談したと≪文芸春秋・日本の論点≫(08.10.30)インターネット記事が伝えている。

 <会談には北側一雄幹事長も同席。席上、太田氏は「解散を延ばしても勝てる戦略がない」として、かねての考えである早期解散(11月30日投票)を迫ったが、麻生首相は、金融危機下の景気対策を理由に、首を縦に振らなかった」>とのことだが、「金融危機下の景気対策」優先は口実で、2カ月かそこらで、あるいは来年まで先延ばしたとしても、半年かそこらで自民党城を明け渡した首相にはなりたくない不名誉回避が最大理由の先延ばしなのは衆目の一致しているところである。

 元々定額減税は公明党が総選挙対策と兼ねた来年7月の都議会選挙対策を目的に言い出したもので、麻生政権側は財政上の問題も含めて、財源に見合う景気対策効果に懐疑的だった。

 また早期解散もやはり公明党が都議会選挙と衆議院選挙が間近に重なって都議会選挙をより優先させたい思惑に反して衆議院選挙の陰に隠れることを嫌って拘っていることだと言われている。

 となると、麻生首相は自己保身のために太田公明党代表が強行主張する早期解散に乗れない償いにもう一方の公明党の主張である「定額給付」の年度内支給を確約、それが「公平性」よりも「迅速性」の優先となって現れているといったところではないのか。

 年度内支給の「迅速性」のみ麻生首相の頭にあるから、「全世帯支給」から「所得制限」、「所得制限」から「高額所得者の自発的辞退」へと揺れ動くこととなった。

 こう見てくると、民主党の小沢一郎代表が「最初は全員にやるんだ。いや、やっぱりおれ(麻生首相)がもらうのは変だから所得制限はするんだとか、いろんなそのとき、そのときでお話されておりますけれども。ただ政権の延命にきゅうきゅうとしているという感じしか、われわれとしては受け取れません」(上記「FNN」記事)と述べたというが、実質的には麻生政権の「政権延命」に力を借りる目的の公明党対策であり、公明党の都議会選挙をも含めた総選挙対策に資する「定額給付」といったところではないだろうか。

 いわば、「定額給付」は自民党の選挙対策よりも公明党の都議会選挙+総選挙の色合いが濃いものではないかということではないか。

 「定額給付金」に関わるこのみっともない混乱・狼狽え(うろたえ)に幕を降ろすには「迅速性」の看板を外して、「公平性」のより確かな実現のみを目指すべきであろう。消費税一時停止といった方法は無理ということなら、累進減税+無納税者対策としたらなら、「公平性」が担保可能な上に地方自治体も税務署も事務処理にそれ程の負担がかからないように思える。

いずれにしても、麻生首相は「政局よりも景気対策だ」と選挙を先送りにしてきたが、「定額給付金」一つをとっても給付対象を絞りきれずにバラマキとなっている体たらくを見ていると、「景気対策」も似たような結果以外の期待は不可能と言わざるを得ないのではないか。

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患者受入れ不可能の場合は指定センターに患者を搬送、手空きの医師・看護婦を派遣させては?

2008-11-09 09:42:03 | Weblog

 10月4日夕方、救急車で江東区のかかりつけの産婦人科医院に搬送された出産間近の36歳の妊婦が下痢や嘔吐、頭痛を訴え、脳内出血の疑いがあるとして同じ江東区の「総合周産期母子医療センター」の墨東病院に治療受入れを要請したが、墨東病院は医師不足を理由に受入れを拒否。墨東病院は都内の22病院をネットワークで結ぶ「総合周産期母子医療センター」に端末で受入れ可能表示を示している病院を検索、かかりつけ医院に紹介。しかしかかりつけ医院が問い合わせたところ、8病院がことごとく受入れを拒否。

 最終的に再び墨東病院に受入れを要請し、受入れ許可を得て搬送したが、妊婦は墨東病院到着時に既に意識不明の状態で、胎児を無事出産したものの、母親は脳内出血の手術を受けたが死亡。

 かかりつけ医院は患者を搬送してきた救急車を待たせたままでいたと言う。それ程、緊急性を感じていたのだろう。にも関わらず、「墨東病院に搬送されるまで1時間20分」「日刊スポーツ」)経過していたという。

 パソコンと電話を使った病院探しと救急車の搬送時間を合わせて1時間20分のロスを生じせしめたということだろう。

 医学が高度に発達した時代だと言われていることに逆説する医療体制及び医療状況の不備から一人の女性の生命(いのち)を救い得ず死なせてしまうこととなったこの痛ましい事態を実感できていたのかどうか、これが妊婦受入れ拒否の最初の事例ではないにも関わらず、東京都の石原知事は国の責任だと言い、桝添厚労省は都の責任だと責任の擦り付け合いを演じた。

 今年7月に神戸市灘区都賀川親水公園で遊んでいた子供及び大人が山間部の局地的な豪雨が原因で急激に増水した鉄砲水に10人程押し流されて子供3人、29歳女性が一人死亡する水難事故が起きてから国土交通省や自治体がそれぞれが管轄する河川を調査、危険箇所に警報装置や警告看板を取付けることにしたり、公園の遊具で児童が整備不良が原因の重大な事故を受けると、全国の公園の遊具点検を行って危険箇所がないか調査するように、何か事故が発生してから事故起因の関連箇所の状況調査に入る常套手段に従って厚労省も産科救急の中核を担う全国74カ所の総合周産期母子医療センターの医師数の後手となる調査に入った。

 厚労省は<4月現在の医師数を把握していたが、非常勤の数え方などが不統一だったため、10月現在の最新値を聞き取り調査した。>(「毎日jp」)というから、まさしく事態発生後の後手の調査であり、後手となる危機管理であろう。

 医師数の多い少ないは人口密度によって評価の違いが生じるから単純には比較できないが、その調査によると常勤医で比較した場合、産科医6人だった都立墨東病院よりも少ないのは3施設で、非常勤の9人を加えた15人で比較すると、6割以上の46施設が墨東病院を下回っていたと上記「毎日jp」記事は伝えている。

 医師の補充がままならない現状を考えると、それを放置してきた国の調査で比較の基準とされるのは墨東病院にしたら迷惑もいいところだろうが、事故の発端を演じてしまったとなると、我慢するしかないといったところか。

 11月5日の「毎日jp」記事≪救急搬送:6病院、妊婦拒否 今年9月、脳内出血で今も重体--東京・調布≫が受入れ不備によって脳内出血を併発させて死亡した妊婦は墨東病院の事例だけではなく、今年9月に東京都三鷹市の杏林大病院でも起きていたことを伝えている。

 (全文引用)<嘔吐(おうと)や半身まひなど脳内出血の症状を訴えた東京都調布市の妊婦(32)が今年9月、リスクの高い妊婦に対応する「総合周産期母子医療センター」に指定されている杏林大病院(東京都三鷹市)など6病院から受け入れを拒否されていたことが分かった。女性は最初の受け入れ要請から約4時間後に都立墨東病院(墨田区)に搬送され出産したが、現在も意識不明の重体。子供は無事だった。

 都内の別の妊婦が10月、墨東病院など8病院に受け入れを拒否され死亡した事故の約2週間前に起きたケースで、妊婦に対する救急医療体制の不備が改めて浮かび上がった。

 この妊婦のかかりつけ病院だった調布市の飯野病院によると、女性は出産のため9月22日に入院。23日午前0時ごろから嘔吐や右半身まひなどの症状が出た。脳内出血の疑いがあり、医師が外科治療が必要と判断、午前3時ごろから複数回、杏林大病院に受け入れを要請したが、「産科医が手術中で人手が足りない」と拒否されたという。

 一方、杏林大病院によると、要請を受けた時、当直医2人が手術中で、約1時間後に再要請を受けた時も術後管理や空きベッドがなかったことから受け入れられなかったという。岩下光利・同大教授(産婦人科)は「飯野病院からの連絡に切迫性はなく、外科措置が必要との認識はなかった」と話している。その後、杏林大病院は飯野病院と分担し、小平市など多摩地区の3病院と23区内の2病院に問い合わせたがいずれも受け入れを拒否されたという。>――

 10月の妊婦受入れ不備問題の2週間前も墨東病院が舞台となっていたとは皮肉な巡り合わせじみているが、10月は「墨東病院に搬送されるまで1時間20分」経過していたのに対して9月の受入れでは「最初の受け入れ要請から約4時間」も経過している。

 「msn産経」記事によると、杏林大病院は東京23区外の多摩地域で唯一「総合周産期母子医療センター」に指定されいて、かかりつけの病院からは約4キロの距離だが、妊婦が最終的に搬送された都立墨東病院は約25キロ以上の距離だったと伝えている。6倍の距離と時間を科したのである。

 治療が1分1秒を争うときの時間と比較した場合、「1時間20分」の経過、「約4時間」の経過は搬送距離数も含めて取り返しのつかない重大なロスに相当する。

 産科医の補充・十分な配置が早急に望めない現状を踏まえると、上記ロスをロスとしない時間短縮方法は一般のかかりつけ医院が自前では不可能な患者の緊急治療を必要とした場合、産科救急の中核を担う総合周産期母子医療センターかそれに準ずる病院に連絡、医師の受入れ態勢に関係せずに可能ならかかりつけ医院の医師及び看護師を伴わせて搬送し、連絡を受けた病院は医師が対応不可能な場合は最寄の病院・医院から順番に電話で連絡、手すきの医師を探し出して患者の搬送を受けたセンター、もしくはそれに準ずる病院に派遣を願い、その医師が到着するまでかかりつけ医院から同行した医師もしくは看護師、あるいは搬送先の看護師等が重症妊婦が少しでも楽になれるように処置を施す。

 吉村・日本産科婦人科学会理事長の話としてが「年に約100万件のお産のうち、脳出血で亡くなる妊婦は約20人。欧米でもこのような妊婦を救命する体制はできていないが、日本でまず整備していきたい」(「asahi.com」)と語ったいうことだが、最悪の事態に備える危機管理体制のあるべき姿として常に脳内出血の併発を想定してセンター及びそれに準じる病院に脳外科医が所属していていて手がすいているなら治療を要請するのは当然のことだが、手がすいていないなら、他の病院の手がすいている場合は派遣可能な脳外科医を把握・記録しておいて、探し出して至急出向を願う。

 手すきの医師を見つけることができなかったとしても、搬送さえしておけば、搬送先の医師が手がすく場合もあるし、それさえも望めなかったということなら、最善の手を尽くしたということになるのではないだろうか。

 但し、最善・喫緊の課題は医師の数を増やすことだが、医師の地域間格差、病院規模対応格差、給与規模対応格差はなくならないだろうから、いわば都市のより給与の高いより大きな病院に集まる傾向はなくならないだろうから、医師の補充が最終的な解決方法につながる保証はないように思える。

 そのような状況を踏まえつつ、救命に最善を尽くす体制の構築が求められている。上記提案がそれに合致するかは不明だが、色々と手を尽くしてみるべきだろう。

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消費税増税/いつかは通る道なら、定額減税よりも消費税の一時停止、そして食品非課税で増税へ

2008-11-07 09:40:20 | Weblog

 「経済」なるものにド素人が言うのだから、効果は当てにはならない上に、細々として暮らしている者がこれ以上生活が苦しくならないよう願う自己利害で言うのだから、似た境遇以外の者に役立つかどうかも分からないが、役に立たない提言なら、聞き流して貰いたい。

 公明党の選挙対策の提案で「定額減税」が政府の追加経済政策に盛り込まれた。財源規模は2兆円。対象は最初は全世帯。期間は単年度限り。財源の支出先は「財政投融資特別会計」からその余剰金、世間で言われてところの「埋蔵金」を充てるとのこと。

 与謝野馨経済財政担当相が「経済対策ではなく社会政策として議論が始まった。・・・・高い所得層への定額減税に社会政策的な意味があるのかという根本的な問題に答えないといけない」(「時事通信社」記事)と10月21日の閣議後記者会見で全世帯支給に疑問を示していたにだが、年度内支給を目指す事務手続き簡略化の必要性から全世帯支給が麻生首相と公明党、その他の考えで、10月30日の記者会見でも麻生首相は「全世帯について実施します。規模は2兆円。単純に計算すると4人家族で約6万円になるはず」(「毎日jp」記事)とその効果に自信を持って打ち上げたが、与謝野財政担当相が11月2日放送の「NHK日曜討論」で麻生首相や中川昭一財務相、公明党の権力亡者たちが腹の中で余計なことを言うと舌打ちしたに違いないと思うが、改めて「2000万円も3000万円も貰っている人に生活支援というのはおかしい」(「47NEWS」記事)と全世帯支給に反対、所得制限を再度持ち出した。

 同じ「47NEWS」によると、公明党・山口那津男政調会長は同じNHKの番組で「年度内実施が遅れないよう検討しないといけない」と全世帯支給に固執。

 中川昭一財務相の方は「そうあるべきだと思うが手続きが複雑になる。迅速性が大事だ」と公明党に右へ倣えの全世帯支給。

 肝心の麻生首相は「全然いい。生活に困っているところに出すのであって、豊かなところに出す必要はない。・・・・おれのところに来るか? 私のところに来るわけがない。・・・どういうふうに割り振るか政府が検討するが、技術的には難しい」

 どう「技術的には難しい」のかと言うと、所得の把握が難しいから役所の手続きが煩雑となるため、年内の支給――クリスマスのプレゼントや正月のお年玉としてではなく、何よりも選挙用のお年玉――にならないからということらしい。

 麻生首相は最初は全世帯支給の考えを示していたのだから、そのときは「おれのところにも来るな」と分かっていたに違いない。尤も帝国ホテルでの一度の飲食に使う程度だ、たいしたカネではないとほんの束の間思っただけで、後は選挙効果しか頭に残らなかったのではないのか。

 だが、一方で選挙に悪影響を与えかねないセレブ批判が尾を引いている。与謝野経済財政担当相の「2000万円も3000万円も貰っている人に生活支援というのはおかしい」の発言が一旦世間に放たれてしまった以上もはや消去不能のまま有権者の頭に後々まで残って、「庶民感覚からズレている、麻生首相が6万円貰ってどうするんだ」と麻生首相に対するなお一層のセレブ批判へと発展しかねない心配が心ならずも「全然いい。生活に困っているところに出すのであって、豊かなところに出す必要はない」へと変心せしめたのではないのか。

 セレブ批判を避ける目的の変心だから、「おれのところに来るか? 私のところに来るわけがない」と言わずもがなの余計なことまで口にすることになった。

 だが、相変わらずの決断のなさ・優柔不断から「技術的には難しい」と迷っている。

 自公政府は定額減税が景気対策及び選挙対策に一定の効果があると見て打ち出したのだろうが、専門家の間では、「単年度限りだから、物価高への実感や景気の先行き懸念、さらに将来の消費税増税に備えて殆ど貯蓄に回り、消費には向かわないのではないのか、タンス預金に回るのではないか」とその効果に疑問を示している。

 村上龍の「JMM」記事にあったことだが、「テレビ東京のアンケート調査によると、定額減税について約3分の2は貯蓄に回すと答えた」という。

 それを避ける目的でクーポン券とする案もあるようだが、釣りを貰えない関係から余分な物まで買うことになる不便と希望は貯蓄だが、それをできない不便が不人気を呼ぶことになるのではないのか。

 同記事は、2兆円はGDPの0.4%に相当するが、3分の2が貯蓄に回れば、GDP押上げ効果は0.12%のみで、その効果は高が知れていると解説している。

 となると、景気対策はタテマエで、やはり選挙対策のみがホンネということになる。

 しかしこの不況と物価高で低所得者程、生活の遣り繰りにうろうろさせられ、将来的な生活不安を抱えているはずなのだが、支給されるわずかなカネを3分の2が使わずに貯蓄に回して将来の生活に備えたいとしている。

 カネで支給してその多くが貯蓄に回った場合、貯蓄は金融機関や自宅タンスに眠らせるだけのことだから、ほんのささやかな精神的安心感を与えはするが、例え一時的な効果しかなくても、生活の軽減に活用されないことになる。当然、消費に回らないとなれば、景気を刺激することもない。

 それとも全額クーポン券にするつもりなのだろうか。

 現金であってもクーポン券であっても、一般生活者が生活負担を直接的に軽減できるよう純粋に計ろうとするなら、政府財政から同じ2兆円を支出するにしても、政府の消費税収入の2兆円分に特別会計から定額減税分の2兆円を回して差引きゼロとして、その2兆円分に達するまで消費税の徴収を一時停止して、日々の生活出費の負担を直接的に軽くしたなら、それが小額であっても、心理的な安心感を与えるのではないだろうか。

 2兆円の消費税収入は現在消費税率が5%だから、40兆円の消費に当たり、その金額まで消費税をかけずに済む。定額減税で一世帯あたり6万円支給ということなら、各家庭とも120万円の生活出費まで消費税免除となる。

この方法だと所得制限の場合の手続きの煩雑化といった問題は起きないし、貯蓄に回って眠らせてしまう心配もない。クーポン券での不自由な買い物を強制されることもない。

 但し金持層の高額の贅沢品購入や麻生太郎の帝国ホテルといった高級ホテルでの毎晩のような贅沢な飲み食いにまで消費税を一時停止したなら、一般生活者の消費が満足に進まないうちに40兆円限度の消費額はたちまち満額に達してしまう。

 麻生首相は10月30日の「新経済対策」発表後のマスコミとの応答で、「生活対策より選挙対策という声も出ています。この批判について、総理はどうお考えですか」と問われて、「給付方式はバラマキという御批判なんだと思いますが、私は減税方式に比べまして、少なくとも今年度内に行き渡るということが第一。税金を払っていない、あるいは納付額が少ないという家計にも給付される点に於いて、より効果が多い方式だと私自身は思っております」と答えているが、低所得者にも同額支給できる点に「より効果が多い」と生活対策を持たせている以上、生活救済の観点から40兆円の限度額分は低所得者の消費に重点を置くべきではないだろうか。

 そうであるなら、元々消費税は低所得者程所得に占める消費税の負担割合が相対的に大きくなる逆進性を抱えていて、高所得層と比較して不公平な税制だと言われているのだから、その不公平な負担を軽減する意味からも高額な贅沢品を排して、低所得者に恩恵がより行き渡るように食品のみの消費に限った消費税の一時停止とすべきであろう。

 こういった方式なら、役所窓口での手続きが不要ということだけではなく、スーパー等のレジスターの扱い一つで済ませることができる。食品以外の日用雑貨を置いてあるスーパーもあるが、日替わり値引き商品など、レジスターのボタン操作一つで金額を変更できるようだから、食品のみに限った消費税の非徴収は簡単にできるのではないだろうか。

 役所・省庁の非能率な仕事、余剰人員、予算の非効率な執行、あるいは不正な支出等のムダをなくして政府財政に少しでも余裕を持たすことは最重要に必要なことだが、日本の政治家・官僚にとっては仲間意識・身内庇いの意識や私利私欲からムダを限りなくゼロに持っていくことは不可能だろうから(少しのゴマカシ・ムダでも禁固刑等を科して罪を重くすれば損得勘定が働いて抑止力となるのだが)、政府財政の苦境は変わらないことを考えると、麻生首相の言う3年後を待たずとも消費税増税という局面に立ち至らないとも限らない。

 そのとき余程景気が回復していてなお且つ一般生活者の所得が増えていればいいが、2002年2月から始まり、今年の中頃まで続いたいざなぎ景気を超える戦後最長の平成景気でも大企業は次々と戦後最高益を記録して潤ったが、中小企業の利益や一般生活者の所得に十分に反映されなかったことを考えると、自民党も民主党の野党以下も、「国民目線」とか「生活者が第一」と言うなら、少しぐらいの景気回復では生活実感に変化は望めない恐れもあることから、止むを得ないとする消費税増税は食品は非課税とすべきではないだろうか。

 非課税としてこそ、「国民目線」や「生活者が第一」がウソのないスローガンとなり得る。

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橋下府知事が言う「国旗・国歌を意識する」ことの危険性

2008-11-05 10:33:51 | Weblog

 大阪府の橋下徹知事が11月2日に大阪市内で開催の職業系高校生の学習発表会「第18回全国産業教育フェア大阪大会」開会式での挨拶で、「僕らの世代は日の丸、君が代をまったく教えられていない」と自身が受けてきた教育を批判、生徒たちに「国旗、国歌を意識してほしい」と訴えたという(≪「国旗、国歌意識して」 橋下知事が高校生に呼びかけ) msn産経/2008.11.2 19:13 )。

 同記事によると、国歌斉唱後の挨拶に立った橋下知事が開口一番、「高校生の諸君にメッセージを発したい」と(多分、例の勇ましく自信たっぷりな、どちらかと言うと甲高い断言口調で)切り出して記事にある言葉をそのままに伝えると次のようなメッセージを発した。

 「僕らの世代は最悪の教育を受けてきた。何でも生徒の自由にした結果、生徒と教師が同じ目線で話すようになってきた。バカを言っちゃいけない」
 「君たちが受けているのは社会とつながりのある教育」
 「国歌斉唱時は(歌声が小さかったので)残念だった。社会を意識するためには国旗や国歌を意識しなければならない」
 「いろいろな意見はあるが、それは大人になって議論すればいい」


 そして報道陣の取材に対しては、

 「(この問題は)教育委員会にきちんと議論してもらうべきだと思うが、今、国旗と国歌がある以上、きちんと(生徒には)認識してもらわないと。それは教育として本質的な部分だ」

 同日付の「毎日jp」記事(≪橋下知事:「国旗・国歌を意識すべきだ」 高校生の大会で≫)が伝える橋下知事の言葉は、

 「戦後教育の中でも最悪。国歌も歌わされたことがない」
 「君らの世代の時に、社会の中でどんな役割を担うかを意識しなければ。社会を意識しようと思えば国旗や国歌を意識しなければいけない」
 「僕は39歳だが、受けてきた教育は何でもかんでも生徒の自由。日の丸・君が代もまったく教えられなかった。結果を出しても評価されず、差がつくこともだめ。そういう教育はおかしい」


 報道陣に対しては、

 「どういう国旗・国歌がいいかは彼らが大人になってから議論すればいい。国旗と国歌を認識するのは教育の本質的な部分」

 両記事が書き上げている橋下知事の発言は微妙に異なる上に実際にどのようなつながりで最初から最後まで具体的にどう述べたかは不明で憶測するしかないが、憶測能力が弱いから、暗記教育で育った者として1+1=2式に両方の記事の発言をただ単に機械的に足してみた。

 「戦後教育の中でも僕らの世代は最悪の教育を受けてきた。僕は39歳だが、受けてきた教育は何でもかんでも生徒の自由。日の丸・君が代もまったく教えられなかった。結果を出しても評価されず、差がつくこともだめ。何でも生徒の自由にした結果、生徒と教師が同じ目線で話すようになってきた。バカを言っちゃいけない。そういう教育はおかしい。君らの世代の時に、社会の中でどんな役割を担うかを意識しなけれならない。社会を意識しようと思えば国旗や国歌を意識しなければいけない。国旗と国歌がある以上、きちんと生徒には認識してもらわないといけない」――

 「社会の中でどんな役割を担うかを意識」する人間が高校生・大学生ではなくとも、全日本人の中でどれ程いるのだろうか。そのように意識しつつ、日々の生活を送っている人間だどれ程いるというのだろうか。

 将来像を夢として述べることはあっても、何を学びたいのか、どのような職業で身を立てたいのか前以て具体的に考える人間も少ないのではないのか。学校が教えることを機械的に学び受け止め、高校生はその成績に合う大学、大学生はその成績に合う企業を進路として選択していくといったところが実情となっているのではないだろうか。

 自分自身が選択した職業に関わる役割と自身が置かれている生徒・学生・社会人・父親・母親といった社会的な身分に課せられた責任と義務を果たしさえすれば、それが結果的に社会へと跳ね返って社会的な役割の遂行へとつながっていく。最初から社会的な役割を意識して生活する人間など存在しないと思うのだが、どうなのだろうか。

 人間は自らが所属する“国の姿”、“社会の姿”は考える(「意識する」)。否応もなしに考えさせられる(「意識」させられる)。自己の生存・利害に関係してくるからだが、だからと言って、「社会を意識しようと思えば国旗や国歌を意識しなければいけない」と言うことにはならないだろう。国旗・国家が自己の生存・利害に常時関係するわけではないからだ。

 勿論、国旗・国歌に対してそれぞれが考えを持つと言うことはあり得る。その考えは自身が考える国の姿、あるいは社会の姿との関連で異なってくるのは当然の趨勢だが、人間が生活していく上で常に社会を意識するわけではないと同様に、社会を意識したからといって、常に国旗や国歌を意識するわけではない。

 当然、社会を意識した場合、国旗や国歌を意識しなければならないと言うことはない。それを我が橋下知事は「「社会を意識しようと思えば国旗や国歌を意識しなければいけない」などと言う。

 どうも国歌斉唱後の挨拶だと言うから、その続きで思いつきで喋ったような印象を受ける。もし思いつきではなく、前以て用意したメッセージということなら、粗雑極まりないメッセージとなっている。

 初めて愛国心への言及が盛り込まれ、賛否の議論を巻き起こした「改正教育基本法」の第二条「教育の目標」第5項が「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」と規定しているように日本人が「愛国心」と言うとき、単純に愛する対象の最上位に国家を置く。他国の場合も、「他国を尊重し」と尊重の対象に「国家」を置いている。

 日本の国家の場合は日本独自の歴史・伝統・文化を育んできた。そういった素晴らしい優れた歴史・伝統・文化を骨格とさせた国家を常に想定させている。

 我が日本の偉大な政治家中山成彬が文部科学大臣時代に静岡市で05年11月開催の教育タウンミーテイングでもって「正しい歴史教育と国旗・国歌に敬意を表することが大事、(愛国心を)子供に植え付けるには、親が子供を大事にすること、子供たちが親に感謝する気持ちを持つことだ。ふるさとを愛し国を愛する心、日本を守っていかなければならないという意識が生まれるのではないか。(中国の)過激な愛国教育はいけない 」(≪中山文科相、愛国心教育の重要性を強調…日教組批判も≫(05年6月12日/YOMIURI ONLINE)と述べたことも愛国心の最上対象に「国」(=国家)を置いている。

 このような考え方には国家がときには負の姿を取るという認識はない。戦前の日本のように国家の姿を間違えることがあるという客観的認識である。国家が自らの姿を間違えれば、歴史は負の姿を取り、文化も伝統も絶対的ではなくなる。

 だが、日本の歴史・伝統・文化を言うとき、あるいは「愛国心」を言うとき、歴史も伝統も文化も、それらを内容とした国家の姿もときには負の姿を取るとは考えず、逆にすべてを全面肯定によって成り立たせている。

 これは日本国家性善説とも言える主張と言える。日本民族優越意識が日本国家無誤謬説を生み出していることに添う主張であろう。愛国心に於ける国を愛する対象に国家を置いていること自体が既に日本国家性善説に立った考え方となっていることを示す。

 国家が常に正しい姿を取ると看做して、愛国心の対象に国家を置き、国を愛しろと言う。それも多くは国家権力の立場にある者が国家権力の圏外にある者に向かって。

 いわばお上が下々の者に向かって「お上を愛せよ」と言っている。それと同じであろう。「愛国心」を国民から国家に向けた行為と定めていることから生じている構図とも言える

 上からの命令・指示によって、下から上に向けた方向性を持たせた従属によって成り立たせている日本の「愛国心」なのである。国家が常に性善の姿を取るものと規定して国家の側から国民に「国を愛せよ」と一方的に要求することほど危険なことはないだろう。「要求」が戦前のように「強制」の姿――国家への忠誠を取らない保証はない。

 そして愛国心の表現行為の一つに国旗・国歌への敬意を置く。愛国心表明のバロメーターとしている。あるいはしようとしている。

 日の丸・君が代(=国旗・国歌)への敬意を正当化しようとしている者はアメリカ人が国旗・国歌に対して如何に敬虔な態度で以って敬意を表するかを例に上げ、日本人はそういった姿勢が不足していると比較する。

 偉大なる総理大臣だった安倍晋三も自著『美しい国へ』で国旗・国歌に関して次のように書いている。

 <「君が代」は世界でも珍しい非戦闘的な国歌

 アメリカでスポーツイベントの開会のとき、かならず歌われるのが国歌である。プロバスケットリーグのNBAや野球のメジャーリーグの開幕戦など、人気イベントになると大物ミュージシャンが招かれ、それが朗々とうたわれる。>と――

 いわば、そうなってはいない日本をおかしいと言っている。例え「『君が代』は世界でも珍しい非戦闘的な国歌」であっても、戦前そうであったように天皇の絶対性・優越性を謳い上げる国歌としての利用も可能であることにまで考えが向かないのは安倍晋三らしい短絡思考となっている。天皇の絶対性・優越性を謳い上げて日の丸・君が代に日本国家の優越性を担わせ、国民を侵略戦争に駆り立てる「戦闘性」を導き出す道具とした。「非戦闘的な国歌」に対する何という見事な逆説性であろうか。

 いくら戦後日本人とアメリカ人の国旗・国歌に対する態度の違いを言い立て、後者を立派だと、あるいは国民のあるべき姿だと評価しようとも、日本人とアメリカ人では決定的に違う点がある。

 既に多くの人間が指摘していることだろうが、日本人は一般的には集団主義・権威主義を行動様式としているが、アメリカ人は個人主義を一般的な行動様式としているという違いである。それを無視して単細胞にも「アメリカ人は日本人と違って国旗・国家に常に敬意を表している」という。

 日本人が集団主義・権威主義を行動様式としているということは戦前程に強い強制力が働いていなくても、国家を最大・最上の集団であると同時に最大・最強の権威と規定していて、国民をそれに従う下の存在に置く上下の力が作用していることを意味する。

 国家と国民をそういう上下関係に置いているからこそ、「愛国心」の対象を国家とし得るのである。国家権力の立場にある者が自らが所属する国家を愛せよと言えるのはそのためであろう。もし国家と国民が権威主義から離れて対等の関係にあるとするなら、国家権力の側から国家を愛せよなどとは言えなくなる。

 それが言えるところに、あるいは言っているところに問題がある。

 こういったことも考えずに、橋下府知事は「国旗、国歌を意識してほしい」と言う。

 アメリカ人にとっての「愛国心」とはアメリカが持っている理想を重んじる気持なのだそうだ。米ハーバード大学教授の歴史学者アンドルー・ゴードンが過去の負の歴史の克服に関わる日米の姿を語る中でのことだが、そう言っているのだから間違いはないだろう(07年3月1日『朝日』朝刊。≪歴史と向き合う 過去を克服するために≫)。

 参考のためにその箇所だけを引用。

 「多くのアメリカ人は、愛国心とは米国が持っている理想を重んじる気持なのだという点でユニークだ、と言うでしょう。私も米国のどこが好きかといえば、この国にあるいくつかの理想ということになる。ただ、他の国にそういう形の愛国心はないかというと、つまり米国がそれほど特別なのかというと、必ずしもそうではありません。フランスには市民革命以来の理想があるし、英国についても同様なことが言えるでしょう。問題は、その国が掲げる理想と現実のギャップをどう埋めるのかということで、それが各国共通の課題になっているのです」――

 「愛国心とは米国が持っている理想を重んじる気持」であって、単純に国、あるいは国家を対象とはしていない。

 これは日本人のように国家を上に置いて国民がそれに従う権威主義からの国家対国民ではなく、アメリカ人の行動様式となっている個人の権威と自由に価値を置く個人主義が個人を相互に自律した存在となさしめていて、国家から独立した個人の存在性を高める目的からの「理想」を対象とすることとなっている「愛国心」ということではないだろうか。

 但しアンドルー・ゴードン氏は記事の中でアメリカ人にも常に国家は正しいとする偏狭な国家絶対主義者が存在し、そのような国家を愛国心の対象としていることも指摘している。

 安倍晋三も上記主張の後で、言ってみれば 「米国が持っている理想を重んじる」アメリカ人の姿勢に賛同する形で言及している。

 「アメリカのような多民族国家においては、この国旗と国家は、たいへん大きな意味をもつ。星条旗と国歌は、自由と民主主義というアメリカの理念の下に集まった、多様な人々をたばねる象徴としての役割をはたすからである」――

 アメリカ人は星条旗と国歌に「自由と民主主義というアメリカの理念の下に集まった、多様な人々をたばねる象徴」としての価値を与えている。そこに意味を置いた国旗・国歌となっている。

 ということは、アメリカ人が星条旗という国旗、そして国歌に対するとき、彼らにとっては星条旗や国歌が象徴している「自由と民主主義というアメリカの理念」を確認する行為としていることを示す。

 「理念の確認」はその理念を尊重し、重視していなければ不可能であろう。日本の愛国心が国家を対象としているのとは違って、アンドルー・ゴードン氏が「愛国心とは米国が持っている理想を重んじる気持なのだ」と指摘しているように「米国が持っている理想」を愛国心の対象としている、日本と米国の「国」対「理想」の構図に相互に連動する、国家を確認する日本の国旗・国歌行為に対するアメリカの理念を確認する国旗・国歌行為ということではないのか。

 それとも日本の国旗・国歌(=日の丸・君が代)は国家以外に何らかの理念・理想を体現させていると言うのだろうか。体現させている理念・理想の確認行為が国旗・国歌行為だと言うのだろうか。

 安倍晋三は同じ『美しい国へ』で<2004年のアテネオリンピックで、水泳の800メートル自由形で優勝した柴田亜衣選手は、笑顔で表彰台に上ったのに、降りるときには大粒の涙を落としていた。
 「金メダルを首にかけて、日の丸があがって、『君が代』が流れたら、もうだめでした」 
 日本人として健闘をたたえられたことが素直にうれしかったのだ。2005年モントリオールで行われた世界水泳選手権では、同じ種目で残念ながら3位に終わってしまったが、「日の丸を一番高いところに揚げて『君が代』を歌いたかった」と悔しがっていた。>と書き記しているように、国旗・国歌(日の丸・君が代)を日本という国家の象徴と規定し、その象徴によって自身を日本人だと再確認する記号としているというだけの話であって、その役目以外に如何なる理念・理想も象徴させてはいない。

 安倍晋三はこのことに気づきもしないでアメリカ人と日本人の国旗・国歌に対する姿勢の表面的な違いだけを扱っている。

 ただでさえ日本人は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義性を行動様式としている。 現在のところは国家を愛する対象とした「愛国心」の上から下への義務付け、あるいは国家を象徴させているだけの国旗・国歌(「君が代」の場合、天皇の日本)への敬意の上から下への義務付けは無条件な国家性善を認知させる役目しかなく、それが例え強制に姿を変えなくても、上からの指示に下が無条件に従うこの場合の構図は国家の姿に対する合理的な客観的認識能力を奪う機能を持ち続けることに変わりはない。

 日本の侵略を否定し、戦前の日本は総体的にはアジアに対して善なる姿を取ったとする田母神前航空幕僚長のように国の姿を過つこともない、当然負の歴史を刻むことのなかった日本を見続ける客観的な認識能力の欠けた日本人を増やすことになるだろう。

 日本人がただでさえ考える力(=客観的認識能力)に欠けていると言われている状況にありながら、橋下府知事は国旗・国歌を認識させることでそのような日本人を増殖させようとしている。それを在るべき日本の教育だと主張している。

 もし考える力(=客観的認識能力)を育みたいとするなら、愛国心のみならず、国旗・国歌からそこに埋め込んである無条件に性善だと規定している「国家」を外し、日本人のみならず、人類が共有できる何らかの理念・理想をそこに埋め込んでからにすべきだろう。

 愛国心を言うとき、あるいは国旗・国歌に対するとき、米ハーバード大学教授の歴史学者アンドルー・ゴードンが言っているように「その国が掲げる(理念・)理想と現実のギャップをどう埋めるのか」の認識作業が必要となり、その作業を担う誰もが否応もなしに国家に対する客観的認識能力を高めざるを得なくなるに違いない。

 権威主義国日本の場合、単純に日の丸に敬意を表せよ、君が代を声高らかに歌えと言われて、ハイそうですかと答えれば済むという単純な問題ではない。

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日本民族優越意識が書かせた田母神「侵略否定」無誤謬説

2008-11-02 10:51:09 | Weblog

 麻生太郎・伊吹文明等の歴史観・日本観と同根・同質

 航空自衛隊トップの田母神俊雄航空幕僚長の民間企業募集当選論文『日本は侵略国家であったか』が政府見解とは異なる中国・朝鮮への日本の侵略を否定した内容だとして更迭されることとなった。

 田母神を侵略否定への衝動に駆り立てている美しいばかりに燦然と輝く信念は論文の最後の一説が説明尽くしている。

 「>日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである」――

 これを読んだとき、05年頃インターネット上に出回っていたとされる(現在でも根強く密かに出回っているのだろうか)「アインシュタインの予言」なる文書がなぜか頭に思い浮かんだ。

 ≪アインシュタインの予言≫

 <近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。
 一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。
 私はこのような尊い国が世界に一ヶ所ぐらいなくてはならないと考えていた。

 世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れる時が来る。
 その時人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあがなければならない。

 この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄でなくてはならぬ。
 世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。

 それにはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
 われわれは神に感謝する。
 われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを≫――

 上記田母神の最後の一説と>≪アインシュタインの予言≫とでは表現の格調の高さで雲泥の差はあるが、基本の情動は双子を為している。日本民族優越意識に彩られた情動なのは断るまでもない。
 
 この日本民族優越意識が歴史の間違いを許さない、日本国家の間違いを許さない日本民族の絶対性、あるいは日本民族の無誤謬性となって歴史の正しさ・戦争行為の正しさを彩ることとなっている。

 その絶対性・無誤謬性の証明に日本国家の悪行と言われる歴史上の出来事は先進国の中でも起こっている暴行や殺人と同じ一般的な犯罪に過ぎないと、政治行為に於ける国家的犯罪、あるいは戦争犯罪を一社会の中での個人的な犯罪と相殺する子供騙しの情状酌量化を用いている。優秀絶対の日本民族性からしたら、無視してもいい瑕瑾、玉に瑕(キズ)に過ぎないと。

 国家犯罪・戦争犯罪に対するこのような情状酌量化は見事なまでの合理的客観性なくし成立させ得ない論理であろう。いわば特別に頭のよい人間でなければできない。

 『日本は侵略国家であったか』の論文全体がこのような子供騙しの非合理性・非客観性に覆われ、成り立っている。日本民族優越意識・日本民族絶対性に発した侵略と戦争犯罪の無誤謬化の衝動がこじつけさせることとなった「うちの子に限って」と同列の「優秀な日本民族・日本国家に限って」の自己正当化といったところなのだろう。

 麻生首相はが田母神論文を「個人的に出したとしても、立場が立場だから、適切でない」(YOMIURI ONLINE)と記者団に述べたということだが、麻生首相に批判する資格はない。

 麻生の「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本の他の国を探してもない」発言は内に日本民族優越性を隠した発言であるし、2003年に被差別出身の野中広務に対して「野中のような出身者を日本の総理にはできないわなあ」(「Wikipedia」/魚住昭著『野中広務 差別と権力』からの引用)と差別発言を行ったとされているが、個人的な政治的能力に限った野中広務との優劣性に言及したのなら、被差別出身は理由とはならない。

 被差別出身を理由としたのは一般な日本人全体を優越的位置に置いていたからこそであって、そのような日本人全体の優越性は日本民族そのものを優越的と見ていることの裏返しとしてある意識なのは言を俟(ま)たない。

 自民党の優秀な政治家伊吹文明の文部科学大臣在任中の発言「大和民族がずっと日本の国を統治してきたのは歴史的に間違いのない事実。極めて同質的な国」、「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた」も日本民族優越論を意識の底に置いた発言であろう。日本民族の優越性・絶対性から発した日本民族の無誤謬性が言わせている日本の素晴らしさ、日本の歴史・伝統・文化の他国に類を見ない素晴らしさ・優秀さというわけなのである。

 いわば日本民族優越論者であるという点で麻生にしても(伊吹、その他の優越論者にしても)田母神と同じ穴のムジナなのだから、論文内容に肩をたたき合って、「あなたは正しいことを言った。勇気ある行為だ」と褒めこそすれ、「個人的に出したとしても、立場が立場だから、適切でない」と批判する資格はない。

 単に日本国総理大臣という立場上、中国・韓国との関係を損なうわけにはいかない政治的利害からの体裁・取り繕いに過ぎない。いわば他国の手前、田母神を批判の俎上に乗せる生贄の羊とせざるを得なかった。

 日本の歴史・伝統を如何に優れたものだとしたとしても、あるいは日本民族優越論を如何に鼓吹しようとも、それが直ちに個人個人の人格性に反映されるわけではない。利害の生きものであることから免れることができないために、反映しないことの方が多い。

 マスコミも指摘しているように文民統制を無視して国家の防衛政策を自分が考えている方向にリードしようとしたのだろうが、自分が考える国際社会のあるべき姿から防衛政策を論じるならまだしも、日本民族優越論から発した日本民族の無誤謬性を背景に論ずるとは、その時代錯誤な感覚に驚かざるを得ない。現在の日本の防衛を論ずるに東京裁判は必要だろうか。そういう人間が航空自衛隊のトップに坐っていた。いや、坐っていられた。

 このことだけを以てしても「日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ」と断言できる。

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消費税導入が政府・官僚のムダ遣いにアグラをかかせた

2008-11-01 07:48:26 | Weblog

 消費税(麻生政策)が先か、ムダ遣い排除(民主党政策)が先か

 30日午後6時から麻生首相が記者会見して「国民のための経済対策」を発表した。これが悪足掻きなのかどうかは総選挙が決める。

 その中で自公政権が今後とも維持されるという保証もない中で3年後に消費税を上げるとぶち上げた。「首相官邸HP」からの引用だが、次のように語っている。

 「次に、財政の中期プログラムについて申し上げさせていただきます。今回の経済対策の財源は、赤字公債を出しません。しかし、日本の財政は、依然として大幅な赤字であり、今後、社会保障費も増加します。国民の皆さんは、この点について大きな不安を抱いておられます。その不安を払拭するために、財政の中期プログラム、すなわち歳入・歳出についての方針を年内にとりまとめ、国民の前にお示しします。

  その骨格は、次のようなものであります。

  景気回復期間中は、減税を時限的に実施します。経済状況が好転した後に、財政規律や安心な社会保障のため、消費税を含む税制抜本改革を速やかに開始します。そして、2010年代半ばまでに、段階的に実行させていただきます。本年末に、税制全般につきまして、抜本改革の全体像を提示します。簡単に申し上げさせていただけるのなら、大胆な行政改革を行った後、>経済状況を見た上で、3年後に消費税の引き上げをお願いしたいと考えております。

  私の目指す日本は、福祉に関して、中福祉・中負担です。中福祉でありながら、低負担を続けることはできません。増税はだれにだって嫌なことです。しかし、多くの借金を子どもたちに残していくこともやめなければなりません。そのためには、増税は避けて通れないと存じます。勿論、大胆な行政改革を行い、政府の無駄をなくすことが前提であります」・・・・・・・・

 二つの条件がついている。一つは>「経済状況を見た上で」。二つ目は>「大胆な行政改革を行い、政府の無駄をなくす」となっている。

 民主党の消費税に関わる政策は「消費税の引き上げを論ずる前に税金のムダづかいを排除すべき」と「ムダ遣い排除」を主目的としているのに対して、麻生消費税増税政策は>「経済状況」を最初に持ってきて、>「大胆な行政改革を行い、政府の無駄をなくす」は最後に持ってきていることからも分かるように「ムダ遣い排除」は副次的となっていると言える。

 民主党は「ムダ遣い排除」が主目的だから、麻生首相の記者会見での「3年後の消費税の引き上げ」に対して民主党の直嶋正行政調会長が早速「無駄遣いを根絶せず、国民に負担増を求めるのは筋違い」「47NEWS」≪反発野党反発、与党に驚きも 首相の消費税発言≫(2008/10/30 22:27 【共同通信】)と批判している。

 確かに政府財政は地方分を含めて1200兆円を超える巨額に達し、700兆円前後もの赤字国債を抱えていて予算運営が硬直化している手前、消費税増税は避けて通ることはできない状況になってはいるだろうが、その一方でムダ遣いの横行・蔓延が跡を絶つことなく存在している。

 このように自民党政府と官僚が巨額の財政赤字、赤字国債を抱えながらムダ遣いがなくならないのだから、ある意味自分の懐が許す範囲でとどまらずに借金をしてまでしてムダ遣いに走る人間の姿を取っていると言える。当然の勢いとして何らかの新しい収入の機会を得れば、それが自分が額に汗して手に入れた収入・カネでないとなれば尚更のこと、そのカネの一部はムダ遣いに利用されることになるだろう。

 このことはムダ遣いする者の必然的な動向としてある構図であるはずである。

 政府予算にムダが多いのは官僚と一体となった政権維持と、そのことと相互対応する議員身分維持のための利益誘導が必然化させたムダとそれに乗っかった官僚のムダであって、それが長期政権となってムダ遣いが慣習化して自民党政治そのものと官僚自身そのものがムダ遣い体質となったことが原因となっているはずで、いわば消費税増税による新たな歳入の余裕が却ってムダ遣い体質を改める機会を取り上げ、逆にムダ遣いの慣習を今以上に野放しする絶好の機会にしかねない側面を抱えかねないということである。

 となれば、どのような困難を抱えようとも民主党が言っているようにムダ遣い根絶・ムダ遣い排除を主目的として、それを果してから、消費税増税に向かう手順を取るべきではないだろうか。

 1988年に消費税を日本で最初に導入したのは竹下内閣で、国民世論は大反対し、野党反対の合唱の中、政府は強行採決して可決・成立させた。

 麻生首相は世論調査等の国民の民意なるものが常に正しい姿を取るわけではない譬えとして消費税導入当時の野党と国民の反対を引き合いに出すが、10月30日の当ブログ記事≪マスコミは問題にしたが、質問者は問題としなかった麻生即席ラーメン「400円」≫で民主党の女性議員・牧山弘恵議員の午前中の質問を取り上げたが、昼の休憩を挟んで午後の質問に対する答の中で麻生首相はやはり消費税を導入時の民意を引き合いに出している。

 勿論、民意なるものが常に正しい意見として存在するわけではないことは承知している。何も消費税導入時の1988年まで遡らなくても、3年前の05年9月まで遡れば済むことで、小泉元首相の郵政選挙時の国民の民意・世論を例に取れば簡単に証明できることなのだが、麻生首相が反小泉政治の立場を取っていたとしても、同じ政党の人間である手前、譬えに挙げることができないだけのことだろう。小泉内閣では総務大臣や外務大臣まで務める恩恵を小泉純一郎から受けてもいる。あのときの小泉支持・自民党支持の国民民意は間違っていたなどとは口が裂けても言えまい。

 だが、あのときの小泉支持・自民党支持の民意は格差のにっちもさっちもいかないしっぺ返しを食らうこととなった。

 但し牧山弘恵議員は民意・世論なるものが間違った姿を取るケースもあることに気づいていないようだ。麻生総理の引き合いを牧山弘恵の午後の質疑から見てみる。

 牧山「もう一点、テレビ中継が切れましたので、もう一度ご意見を伺いたいと思います。このパネル3についてでございます。総理はこのパネルをご覧になってまったく関係ないと言われてましたけども、このデータは衆議院による3分の2の再可決が正しいと思うかどうかというものです。ガソリン税がいいかどうかと、そういうことを聞いたものではございませんでした。衆議院による3分の2の再可決が正しいかと思うかどうかという世論調査を行ったものです。再可決による国民世論をまったく関係ないと言ったんでしょうか」

 麻生「あのう、これ、ガソリン暫定税率のときの話を聞かれましたから、このテロの話とは関係ないんじゃないかと申し上げました」

 牧山「ガソリン暫定税率のときに聞いただけであって、そのときに国民は3分の2による衆議院の再可決を正しいと思うかどうかという、そういう直近の民意でございます。やはりこういう直近の民意を、やっぱり、総理、耳を傾けていただきたいなと思うのですが、総理、如何でしょうか」

 麻生「直近の民意に耳を傾けることは大切なとこです。しかし同時に、>例えば過去を振返ってみますと、いろいろなときに、消費税、確か竹下内閣のときだったと思いますが、あのとき直近の民意は反対、だったと思いますが、結果的に政府与党、消費税というのを取らせていただいて、スタートしたと存じますけども、結果としてはあの選択は正しかった。私どもはそう思っています。やっぱり消費税と言うものは必要な間接税と思っておりますんで、その意味で直近の民意だけですべて頼るというわけにはいかないものかと存じます

 麻生首相が消費税導入時の反対民意を持ち出して「その意味で直近の民意だけですべて頼るというわけにはいかないものかと存じます」と言っているのだから、牧山弘恵議員は効果があるならいいが、馬の耳に念仏程も効果がないと理解しなければならないにも関わらず、やはり期待を述べるだけの形式で次のように質問を終わらせている。

 「国民の世論調査というものは大変重要な資料だと思います。私たちもこういった国民世論調査は本当に真摯に受け止めて、これから慎重に、こういった国民の世論を見ながら対応していったほうがよろしいと思います」

 民主党が政権を獲った場合、自分たちに不利な世論調査を突きつけられたときどうするのだろうか。「よろしいと思います」では済まないだろう。

 麻生は自民党が消費税を導入しようとしたとき、国民も野党も大反対したが、自民党は民意に逆らって導入を決定した。その決定は正しかったという。その主張の裏にはもし民意に従っていたら、国の財政を破綻させてしまったかもしれないという冷笑と民意に逆らうことの自信を隠しているに違いない。

 だが、その認識には一つ欠けているところがある。先に自民党政府と官僚が巨額の財政赤字、赤字国債を抱えながらムダ遣いがなくならない姿を借金をしてまでしてムダ遣いに走る人間に譬えたが、消費税導入によって新たな歳入機会を得たことによる予算増加の余裕がムダ遣い体質にアグラをかかせることとなって官僚と一体となった自民党自身のムダ遣いの体質を改める機会を失わせ、ムダ遣いの慣習を慣習とさせたまま伝統・文化とする危険性への認識である。
 
 ムダ遣いの体質を改める機会を持たないままムダ遣いの慣習を慣習とさせたまま伝統・文化としてきたからこそ、今日に於ける跡を絶つことのない目に余るムダ遣いの横行・蔓延なのであり、政府予算のムダ遣い・官僚のムダ遣い、そして政治家のカネの問題等々の噴出なのである。それを新たな消費税増税による歳入増加が拍車をかけかねない十分に考えられる懸念、恐れへの認識を欠いたまま、消費税増税を言う。

 財政赤字や赤字国債に関係なしにムダ遣いがなくならないからと言って、政府歳入とムダ遣いが決して無関係ではないことだけは確かである。先に例を挙げたように、借金してまでしてムダ遣いをする人間にしても、収入は常に関係しているはずだからである。収入が多ければ、それを無視したムダ遣いも多額となるのが一般的だからだ。

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