不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

打率8割の麻生失言/またまたヒット、「何もしない人の分を何で私が払う」

2008-11-28 06:53:25 | Weblog

 衆愚意識が言わせたタイムリーヒット


 11月20日の経済財政諮問会議で一打大逆転の次のような失言ヒットをかっ飛ばしていたようだ。26日に公開された “議事要旨” で明らかになったタイムリーヒットの数々らしい。

 「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」

 「67、68歳になって同窓会に行くと、よぼよぼしている、医者にやたらかかっている者がいる。学生時代はとても元気だったが、今になるとこちら(首相)の方がはるかに医療費がかかってない」

 「私の方が税金は払っている。努力して健康を保った人には、何かしてくれるというインセンティブがないといけない」――

 【インセンティブ】――「動機づけ」

 プロ野球の選手なら監督に頼りにされる好打者といったところだが、以上は「asahi.com」記事≪「何もしない人の分を何で私が払う」医療費巡り麻生首相≫(2008年11月27日1時45分)からの引用だが、記事は「社会保障費の効率化の議論の中で」出た首相発言だとし、なお且つ「自らの健康管理を誇ったうえで、病気予防の重要性を訴えたものだが」と一応の情状酌量を与えているが、「保険料で支え合う医療制度の理念を軽視していると受け取られかねない発言だ」と批判を加えている。

 「NHK」WEB記事≪首相 医療費めぐる発言で陳謝≫(08年11月27日 15時36分)が麻生太郎の「陳謝」を次のように伝えている。

 「発言の前後を切って話を作って報じられているが、今、病の床についている人が気分を害したのであれば、おわびする。・・・・予防を考えない今の制度はいかがなものかということを指摘したもので、もっと予防に力を入れれば、医療費は抑えられる。予防や健康管理をしているかどうかでずいぶん差が出る

 果して「発言の前後を切って話を作って報じられ」たのだろうか。「予防を考えない今の制度はいかがなものかということを指摘した」もので、そういう制度にすべく訴えただけだとしたら、「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」とか、「今になるとこちら(首相)の方がはるかに医療費がかかってない」とか、「私の方が税金は払っている」といった言葉がどこから出てくるのかと言う問題になる。

 健康管理と言うことなら、大中小企業が人員を必要最低限以下に抑えて、少ない労働者で無闇やたらと残業を課して人件費を浮かす人件費抑制の労働政策を転換して、残業廃止で体力的に時間的・精神的余裕を与えることだろう。

 だが、残業をしないと満足に余裕のある生活が送れない低賃金となっている。残業廃止によって体力的な時間的・精神的余裕を手に入れることができても、金銭的には物質的にも精神的にも余裕を得ることができない経済大国世界第2位の日本なのである。これも自民党政治の恩恵ときている。

 麻生の弁解指摘は体裁のいい後付けの責任回避口実に過ぎない。

 「今、病の床についている人が気分を害したのであれば、おわびする」ということなら、「今、病の床についている人」の中で「気分を害した」者がいるかどうか、すべての病院をまわって確かめてみるといい。

 果して麻生の釈明で一件落着とすることができるのだろうか。「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」にしても、「こちら(首相)の方がはるかに医療費がかかってない」にしても、「私の方が税金は払っている」にしても、自民党政府の首相やその他の要職にある政治家が靖国神社に参拝して、「公人としてではなく私人としての参拝だ」とマヤカスのとは正反対にあくまでも私人としての問題であって、公人たる首相が国の政策を議論する場で口にすべき話題ではないだろう。

 口にするとしたなら、仲間内の場ですべきで、帝国ホテルとかの高級ホテルのバーで飲んでホラを吹き談笑するときのネタとすべき話題であろう。ところが首相という公人の立場で経済財政諮問会議に出席して、公人として発言した。

 議論の合間にごく個人的なその場限りの冗談で言ったことなら、 “議事要旨” に残ることはあるまい。病気予防の重要性と社会保障費の効率化の議論に添わせて麻生の本気は「私の方が税金は払っている。努力して健康を保った人には、何かしてくれるというインセンティブがないといけない」という方向に向かっていたからこそのクリーンヒットと断言せざるを得ない。

 要するに民主党の鳩山幹事長が批判して、「支え合う仕組みがあり、それがあるから安心できるという共生の理念をまるでおわかりになっていない。病気になりたくてなっている人はいない。このような方が果たして総理にふさわしいのか、首をかしげる。信じられない発言だ」≪「共生の精神に反する」民主・鳩山氏、首相医療費発言に≫asahi.com/2008年11月27日11時52分)と言っているように、“相互扶助・相互負担”の精神から離れて制度自体を、以前会社を経営していただけのことはあって、個人レベルの金銭的な効率の問題に矮小化させている。

 確かに自身の不摂生・不養生から他人よりも医療費を費やす人間が数多くいるだろうが、そうであったとしても「私」とか「こちら」との比較で論ずるべきではなく、あくまでも国民を顔とした国の制度として社会保障費に向ける政府予算の効率化との兼ね合いで議論すべき問題であったろう。

 自分が予想した程の支持率を獲得できず、自身の失言や政策がくるくる変る節操のなさから評判も芳しくない四面楚歌の中で次の首相に誰がふさわしいかの世論調査でのみ民主党の小沢代表を抜いている唯一の功績を頼りにそこで麻生太郎こそが首相にふさわしい人物だと決定的に印象づけたい腹づもりで党首討論を執拗に求め、今日28日午後3時から開催することが正式決定したが、他にこれと言って誇ることができる目ぼしい功績がないことからの経済財政諮問会議でつい出てしまった「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」や、「67、68歳になって同窓会に行くと、よぼよぼしている、医者にやたらかかっている者がいる。学生時代はとても元気だったが、今になるとこちら(首相)の方がはるかに医療費がかかってない」、あるいは「私の方が税金は払っている。努力して健康を保った人には、何かしてくれるというインセンティブがないといけない」といった自慢話だったのではないのか。元々人間が軽く出来上がっているのである。

 但し真に問題としなければならない事柄は発言からチラチラと顔を覗かせることとなっている麻生首相の衆愚意識であろう。本来的に「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」とか「今は(世界各地で)人種、地域、宗教でいろんな争いが起きている。日本は一国家、一文明、一文化圏で、そういう国はあまりない」と発言する日本民族優越主義者である。

 民族優越意識は権威を振りかざして下を従え、上の権威に対しては追従する権威主義を土台として発動される。自民族を最上・最優秀の権威とする人間は自己を最上・最優秀の自民族と同一化して最上・最優秀の部類に置き選民とし、選民であることの確証に反対概念たる劣る者を不特定多数の一般的大衆に置く。

 いわば対外的に自民族を優越的な位置に置き、他民族を劣る民族として下に置く者は、その上下意識・優劣意識が対内的には自己を上に置き、一般国民を下に置く選民対(=劣る者)の上下関・優劣関係を作動させる。

 我が麻生太郎は衆愚意識を内心に隠しているからこそ、1983年の発言だが、「東京で美濃部革新都政が誕生したのは婦人が美濃部スマイルに投票したのであって、婦人に参政権を与えたのが最大の失敗だった」と女性の判断力を男性のそれと比較して劣るとする女性に対する蔑視や、「新宿のホームレスも警察が補導して新宿区役所が経営している収容所に入れたら、『ここは飯がまずい』と言って出て行く。豊かな時代なんだって。ホームレスも糖尿病という時代ですから」(2003年)とホームレスを下に見据えた侮蔑的な発言ができる。

 国内外の米価を比較する例えに「7万8000円と1万6000円はどちらが高いか。アルツハイマーの人でもわかる」(2007年)とアルツハイマーで苦しんでいる本人や家族の苦痛・苦労を思い遣る視線も持てずに軽々しく「アルツハイマーの人」を持ち出すことができる。
 
 麻生首相が衆愚意識から抜けるには自身の何様意識は勿論、「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」といった民族優越意識から早く目覚める以外に道はないだろう。

 早く目覚めないと、政治の世界でも官僚の世界でも、また一般世界でも如何ともし難い人間は存在するが、日本の総理大臣自体が如何ともし難い人間の仲間入りしたままで首相の座を終わり、如何ともし難い総理大臣だったと歴史に名を残すことになるだろう。

 上記「NHK」WEB記事が河村官房長官が記者会見で述べた釈明を最後の部分で伝えている。

 「麻生総理大臣の思いは、みずから努力して健康を勝ち得ることも大事だというものであり、病気になった方が悪いという思いはまったくない」

 「できるだけ釈明というか、説明しなくて済むに越したことはない。麻生総理大臣の性格で、いろいろな発言がこれからもあると思うが、1つの個性であって、本意を理解していただく努力をわたしがしなければいけない立場だと思っている」

 まるで頑是無い子供のいたずらで迷惑をかけた人に母親が子供を連れて謝ってまわる図である。「いいこと悪いことがまだ区別がつかない年だもんですから。さあ、頭を下げて謝んなさい」

 いつ起こるか分からない地震対策に対する危機管理でもあるまい、総理大臣の失言に備えて官房長官が「本意」を釈明する役目を予め担うという人事上の図柄はどのような政治性の上に成り立っているのだろうか。そのような国家の政治性とは何を物語るのだろうか。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする