「小泉・安倍格差」とネーミングせよ

2007-03-18 03:53:49 | Weblog

 ネットで記事を検索していたら、次の記事に出会った。<『小泉改革で中央・地方に格差」…読売首長アンケート>((2007年3月15日3時0分 読売新聞)

 「4月の統一地方選を前に、全知事、市区町村長の計1882人(2月1日現在)を対象に読売新聞社が行った『全国自治体首長アンケート』で、全体の9割が『小泉改革』によって中央と地方の格差が広がったと感じていることがわかった。
 選挙の争点となる重要政策課題では、財政再建や地域経済の活性化が上位に挙げられるなど、厳しい財政、経済事情の中、やりくりに苦悩する首長の姿が浮かび上がった。
 アンケートは、インターネットの画面で回答する方法で、1月末~2月末に1718人から回答を得た。」

 調査結果を纏めてみる。

☆統一地方選で争点になると考える重要政策課題(複数回答)
1.公的介護保険や医療、少子化対策等の「福祉政策」(64・8%)
2.「地方財政の再建」(63・7%)
3.「雇用・景気対策など地域経済の活性化」(57・6%)

 (既に広く言われていることだが、この世論調査からもいざなぎ景気を超えたという現在の景気が地方にまで及んでいないいびつな姿が浮かんでくる。)

☆三位一体改革や規制緩和などの「小泉改革」で、格差が広がったか
1.「そう思う」(54・8%)
2.「どちらかと言えばそう思う」34・4%

 (合計89・2%。記事の「全体の9割が『小泉改革』によって中央と地方の格差が広がったと感じていることがわかった。」とは、このこと。現在の安倍「美しい」首相が幹事長および官房長官として背後から抱きつくようにして小泉格差政治を支えたのだから、格差拡大の凶悪犯罪は自民党の後押しを受けて小泉主犯・安倍共犯で行われたと言える。)

☆格差を感じる首長の割合(人口規模が小さいほど高く数値を示す)、
1.5000人未満の自治体では96・2%が格差の広がりを認める
2.50万人以上では75・9%

 (富裕層に厚く、中間層以下に薄くなっていく現在の景気の恩恵が中央と地方の関係に於いても、かつての小泉首相に対する安倍晋三の「美しい」忠実さそのままにそっくりと忠実に踏襲されている相対関係にあることが分かる。)

☆地域経済の実感
1.「上向いている」(21・2%)
2、「悪化している」(27・5%)
3.「変わっていない」(50・7%)

(記事には「冷え込んだ地方経済のてこ入れに腐心していることを窺わせる」との注釈がついている。「変わっていない」は悪い状態のまま「変わっていない」と言うことだから、「悪化している」と合わせて88・2%が苦境に喘いでいることが分かる。)

 ――「全知事、市区町村長の計1882人」のうち「回答を得た」「1718人」の「9割」が「『小泉改革』によって中央と地方の格差が広がったと感じている」。多分回答しなかった164人はこちこちの自民党系、なおかつ安倍シンパであるため、格差なしとウソをつくわけにはいかない、格差ありとすると、「美しい」安倍晋三からその「美しい」を剥ぎ取りかねない危惧を感じて回答拒否となったといったところではないか。

 「全知事、市区町村長」の絶対多数が自民党系と見ることができるはずである。知事は独立した存在形式を取るから、党派を鮮明にするのは広く支持を集めるには賢明ではないといった理由からだろう、都道府県の全知事47人の所属党派は全員が無所属となっているが、実体は殆どが党派色を持っているわけで、それを隠すということは自分をいい子にして誰にでも受け入れられようとする日本的な馴合いの選挙利用に過ぎず、実体は自民党系が多数を占めているはずである。

 このことは全国の都・県会議員の所属党派が証明している。総務省の平成16年12月31日現在の調査によると、自民党系が1403人、民主党系が207人、公明党203人、共産党系127人、自由党系23人、社民党系74人、諸派59人、無所属699人となっている。

 日本はピラミッド型の権威主義社会、あるいは権威主義的系列社会だから、テレビで顔を知られ、芸能雑誌でその日常行動が記憶されている知名度の高い芸能タレント等の立候補が巻き起こす波乱や自民党系前知事のスキャンダルといったアクシデントががなければ、一般的には下の圧倒的多数を占める自民党系都・県会議員1403人と無所属699人のうちの保守系の合計数が系列下の役目として知事の当選を支えるはずだから、都道府県知事の47人は無所属であっても、その大多数は自民党系と見なさなけれならないはずであるし、都・県会議員の下位を占める市区町村長にしても、さらにその下位の市区町村議員にしても、ピラミッドの形に従って自民系、あるいは保守系の裾を広げていると見ていいはずである。

 そのような分布にある「全知事、市区町村長の計1882人」のうちの「回答を得た」「1718人」の「9割」が「格差が広がったと感じている」ということは、その多くが身内からの批判・造反と言える。身内から見ても、小泉・安倍政治がつくり出した格差は凶悪で目に余るということだろう。

 誰がつくったのでもない小泉・安倍がつくった「格差」と言うことなら、景気にも岩戸景気、いざなぎ景気などとネーミングするし、1990年代の不景気にしても〝失われた10年〟とネーミングしているのだから、〝小泉・安倍格差〟とネーミングして、どこが悪い、当然のことで、そうネーミングして後世の教訓として日本の歴史に記録しておくべきではないだろうか。

 今後「格差」という文字を書くとき、あるいはその言葉を口にするときは、〝小泉・安倍〟の文字を冠して、「小泉・安倍格差」と書き習わし、呼び習わそうではないか。テレビに出る民主党以下の野党議員は格差を問題とするとき、単に「格差」、「格差」と言わずに、「小泉・安倍格差」と正確に言い、国民にも現在の格差が「小泉・安倍格差」であることを厳しく知らしめるべきである。

 「小泉・安倍地方格差」「小泉・安倍教育格差」、「小泉・安倍所得格差」、「小泉・安倍正規・非正規社員格差」、「小泉・安倍福祉格差」、「小泉・安倍障害者いじめ格差」etc.etc・・・・・。

 何と素晴しいネーミングだろうか。自画自賛――。

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キレイゴトの赤ちゃんポスト忌避論

2007-03-17 07:00:18 | Weblog

 大相撲2日目中継が終わった後のNHK6時のニュース(3月12日)をインターネット記事から検索。

 長勢法務大臣「一般的に言えば、赤ちゃんポストに乳幼児を置き去りにしても、生命や身体に危険を生じさせるおそれがないのであれば、刑法の保護責任者遺棄罪の成立は認めにくい。ただ、具体的に犯罪が成立するかどうかは、事実関係に基づいて捜査機関が判断することだ」

 (「~判断することだ」の後の部分を東京新聞(2007年03月13日)のインターネット記事は「危険の恐れがはっきりしていれば、遺棄罪に全く該当しないということはない」となっている。)

 対する柳沢厚生労働大臣(熊本市の幸山市長が赤ちゃんポストに対する国の見解を文書で示すよう求めていることについて)「赤ちゃんポストの設置には、賛否両論があり、難しい問題だ。ただ、文書で回答すると、厚生労働省が、『一般的に認めた』という誤解を与えるおそれがあるため、文書は出さないほうがよいと考えている」

 日経のインターネット記事の柳沢厚労相の答弁は、「施設設置自体は医療法上違法ではないが、行為については個々のケースによる。すべて児童福祉法、刑法(違反)に当たることがないとまでは言えない」

 同日経記事による政府高官「子捨ての勧めになりかねない」

 7月3日の読売、九州版なのか、それによると、
 安倍首相「匿名で子どもを置いていけるものを作るのがいいか、大変抵抗を感じる」
 塩崎官房長官は「法的解釈の前に、親が子を捨てる問題が起きないよう考えるのが大事」
 高市少子化相も「無責任に子どもを捨てることにつながっては元も子もない」――

 長勢法相も柳沢「生む機械」も、犯罪誘発の可能性をより前面に押し出した説明となっている。政府高官や安部以下が示す危惧への配慮なのか、犯罪の可能性を持ち出すことで積極的認可ではない姿勢を見せている。但し犯罪の可能性を示唆して牽制しようとするあまりにだろう、例え長勢の言う「刑法の保護責任者遺棄」や「産む機械」が言う「児童福祉法、刑法(違反)に当たる」行為があったとしても、それらは第三者による赤ちゃんポストの設置目的を阻害する犯罪に当たるはずが、それを無視して両者がつながっているかのような誤った印象を意図的に与えることになっている。

 今までも「匿名で子どもを置いてい」(安倍)く、「親が子を捨てる」(塩崎)、「無責任に子どもを捨てる」(高市)遺棄はあった。江戸時代は辻番の前、寺の山門の下、あるいは成長して奉公人への可能性を願ってなのだろう、大店の玄関前、それ以降は病院の玄関、あるいは通勤時間になると通行人が溢れる人目のつく場所に捨てて、誰かの手に渡ることを願う。場所という観点から言えば、辻番の前や寺の山門、病院の玄関と同じく、赤ちゃんポストは単なる便宜的スペースに過ぎない。違う点は辻番の前や寺の山門、病院の玄関等への捨て子はそれぞれの活動主体の本来的な活動目的外の事柄であるが、赤ちゃんポストの場合は会社の定款同様に目的・活動が前以て決められている点であろう。赤ちゃんポスト設置主体が自らの目的・活動に反して医者の医療過誤のように犯罪行為があった場合は法に問われなければならないが、設置主体が関与しない形でそこで「犯罪が成立」した場合、赤ちゃんポスト自体が犯罪誘発要件となったからと言って法に問うわけにはいかないはずで、別問題で問うべき事柄であろう。

 問うことができるとしたら、深夜のコンビニは現金強奪を企む人間にとっては好都合な強盗誘発の要件を満たしているからと、日本全国のコンビニを、少なくとも夜間の間は営業禁止にしなければならなくなる。

 一頃パチンコ店近くのパチンコ景品換金所がよく襲われて現金強奪事件が起きたが、だからと言って、換金所の存在自体が問題となったことを聞いたことはない。

 人目につかない場所に既に死んでしまった嬰児・乳児の類を捨てるのは明らかに死体遺棄罪に当たるだろうが、呼吸している新生児等の人目につかない場所への放置は一般的には自力的生命力が脆弱であることを認識し、当然の結果として死へ突き放す可能性が高くなることを予想した行為であるのと違って、人目につく場所への遺棄は逆に自力的生命力の脆弱を補うための行為であり、それはそのまま生への可能性・生育の方向に向けた遺棄行為であろう。死んでもいいやと、わざわざ赤ちゃんポストにまで出かけて捨てるということは、人間の一般性に反するはずである。

 勿論、死んでしまった子の捨て場所に困って、赤ちゃんポストに捨てるケースも生じるかもしれないが、それは別の問題であろう。死体解剖によって死亡推定時間を割り出せるのだから、赤ちゃんポストの設置目的自体の過ちには当らないはずである。

 他に考えられる犯罪は他人の赤ん坊を恨みから盗んだが、困らせてやろうとしたまでで、殺すつもりはなく、テレビの報道等で赤ん坊の両親の散々困った様子を見たところで、赤ちゃんポストに放置するといったケースもあるかもしれない。

 しかしこのケースは下手に人目につかない場所に放置されるよりも子ども自身にとっては有利となる選択・取扱いであって、他に考えられるケースにしても、母親(あるいは父親)自身の行為が例えそれが犯罪行為に当るとしても、あるいは高市少子化担当が言うように「無責任に子どもを捨てる」行為であっても、それらのことを離れて、子供自身の生への可能性に向けた処置、成育維持に向けた措置であるかどうかで、その有効性は判断されるべきではないか。

 もう一つ赤ちゃんポストの考えられる有効性は嬰児である早い段階に預けることによって、例えそれがポストの設置によって社会的につくり出された「子捨ての勧め」の風潮を受けた行為であったしても、捨て子の年齢を超えた子供の育児が面倒になった場合の〝捨てる〟に代わる虐待を方法とした邪魔者扱いで子供の人格を決定的に傷つけたり、最悪死に至らしめてしまう危険を防げるかもしれない、あるいはその数を減らせる可能性である。

 このような可能性が確実視されるなら、逆に赤ちゃんポストを各地に設置して、捨て子の年齢を超えないうちの「子捨ての勧め」を大いに広めるべきではないだろうか。邪魔者になって虐待するようにならないうちに子供のためを思って赤ちゃんポストに預けてくださいと。

 このような子ども自身の生育・生命維持に向けた視点が長勢法相にしても、「産む機械」にしても、政府高官にしても、塩崎官房長官にしても、高市少子化相にしても、当然のことながらいくらでも「美しい」安倍晋三にしても持ち得ていない。育児の慣習を固定的に把え、そこから外れた慣習が呉牛月に喘ぐ類で社会的に一般化することへの恐れのみに視線を向けている。

 「美しい」ばかりの固定観念としか言いようがない。そのことは「産む機械」の「文書で回答すると、厚生労働省が、『一般的に認めた』という誤解を与えるおそれがあるため、文書は出さないほうがよいと考えている」とする方針が証明している。文書回答が国による正式認知・お墨付きを与えることとなって次の赤ちゃんポストにつながった場合、子捨て習慣の広がりを誘発しないか、それへの阻止の狙いからの文書回答拒否なのだろう。

 安倍晋三にしてそうなのだが、下村内閣官房副長官やその他の国家主義者が現在と比較した戦前の「共同体や家族主義」を持ち出すのは戦前の日本社会を善と把えてすべてうまくいっていた矛盾なき時代空間だと価値づけ、固定観念化しているからで、固定観念化はそっくりそのまま客観的認識能力の欠如が可能とする思考性であろう。そのような主張が彼らの主たる思想・哲学となっている。客観的認識性の欠如からの固定観念が、産んだ親が子供を育てる一般的プロセスから外れる〝育児の形〟あるいは〝成長の形〟に単純・単細胞に拒絶反応を発疹させる。

 戦前の日本の戦争も、アジアの解放の聖戦だった、アジアの植民地解放の戦争だった、あるいは自存自衛の戦争だったとすることで、戦前日本の絶対性・無矛盾に整合性を与えることができる。その一方で、「格差はどの時代、どの社会にも存在した」と自らの戦前を善とする論理を裏切る矛盾したことを平気で強弁する。強弁できる鉄面皮・恥知らずにしても客観的認識能力の欠如が可能としている態度であろう。

 「格差」は政治や国民が関わってつくり出した国の矛盾、あるいは社会の矛盾の一つである。自分たちの無神経・鈍感さにあくまでも気づかない。

 戦前の「共同体や家族主義」が決して善ばかりではないこと、絶対性・無矛盾を備えていたわけではないことを前々回の『安倍・腰巾着下村の軽薄政治思想』(07.3.11)では人身売買や集団就職等で解説したが、今回は捨て子を例にして説明してみようと思う。

 『大日本史広辞典』(山川出版社)から【捨子】の項目の引用。

「棄子・棄児とも。子どもを捨てること。また捨てられた子をいう。基本的には間引きや堕胎と違い、その死を望まず、親権や扶養義務を一方的に移す養子入りの一つといえた。かつての家は労働力に非親族の住込み奉公人を必要とし、子育ても多様な仮親慣行が示すように、生みの親が全責任を負うものではなく、貰い子や養子奉公人の延長として捨子が受容された。近代以降激減し、それと反比例して大正末期以降、親子心中が急増するのは、家のあり方の構造的変容と、子育てを生みの親の全責任と見る育児観の変化による。現実の捨子の他、一時的に子どもを辻などに捨てる儀礼的な捨子や、蛭子(ひるこ)や熊野の本地、酒天童子・弁慶・金太郎など、神話や昔話のなかで活躍する捨子の英雄も注目される」

「その死を望まず、親権や扶養義務を一方的に移す養子入りの一つといえた」――まさしく赤ちゃんポストの利用は、江戸時代の決して悪い意味ではない捨て子の延長にある形態と言える。
 
 但し上記慣習はいわば主として町(都市)に於ける慣習であって、村(農村)の慣習は間引き・子殺し、あるいは売って金銭収入の対象とする人身売買を主たる内容としていたはずである。『近世農民史』(児玉幸多著・吉川弘文館)には「武士や町人の間では堕胎が多かったが、農村では多く圧死させた」の一節がある。堕胎は江戸時代に産婦人科の医学流派である中条流があり、「後世産婦人科の代名詞ともなり、堕胎術者を中条流というようにもなった」(『日本史広辞典』)と言うから、そういった面々が行ったのだろう。外科的中絶ではなく、クスリを使った流産が主流ではなかったのではないだろうか。いずれにしても、町には捨て子を拾う需要があったが、村にはなかったことが背景となった異なる慣習と言うことなのだろう。これも格差の一つと言える。

 上記『大日本史広辞典』(山川出版社)の【捨子】の解説は捨て子を肯定的に把えているが、利害の生きものである人間の利害が絡まなかったとは考えにくいことで、一方で間引き、堕胎、人身売買といった慣習があったことを考え併せると、捨て子に関わる慣習のすべてを肯定的に把えることは難しい。

 捨て子を引き受けた上で自身で養育するか、あるいはカネを出して他人に養育させ、一定の年齢に達したなら、商家や職人の家に労働力として養育にかかった以上の値段で斡旋・売買して利益とするといったことも行われていたのではないだろうか。女の子なら、12、3歳まで育てて、女郎屋に禿(かむろ・かぶろ/上位の遊女の身の回りの世話をする13,4歳頃までの見習いの少女)として売る。いわば人買いを介さない斡旋・売買の形式であり、女郎屋にしたら、形式は問わなかったはずである。自分の妻子でも質に入れてカネにし、その返済に妻子を奉公(労働)させる〝質奉公〟が慣習として存在していた。直接売らなくても、捨て子を育ててから質奉公の形でカネに変えることはできただろうが、農村で存在していた直接売る人身売買が江戸といった都市の住民間でも存在していたとしても矛盾はないはずである。

 間引きといった嬰児殺しや堕胎、捨て子とのような広い範囲で行われていた慣習や、『大日本史広辞典』が解説しているように捨て子が「近代以降激減し、それと反比例して大正末期以降、親子心中が急増する」時代変遷、あるいは江戸以前の古い時代から戦後昭和の時代まで続いた人身売買等の(現在では日本人同士から対東南アジアの女性に売買の対象を変えている)、そうあるべきとする家族関係を壊す慣習としての制度・矛盾を抱えていたかつての「共同体や家族主義」と比較するだけでも、政府高官の「子捨ての勧めになりかねない」、「美しい」人間安倍晋三の「匿名で子どもを置いていけるものを作るのがいいか、大変抵抗を感じる」、いつも眠そうな目をした塩崎パッとしない官房長官の「法的解釈の前に、親が子を捨てる問題が起きないよう考えるのが大事」、高市女史の「無責任に子どもを捨てることにつながっては元も子もない」が言い表している「共同体や家族主義」観が絶対性・無矛盾を固定観念としたキレイゴトであることを如実に暴露している。

 いわば赤ちゃんポストが少しは言っていることを助長したとしても、設置しなくてもなくならない防ぎようのない矛盾でしかないことを歴史は証明しているはずだが、歴史認識や人間の現実の姿に対する認識を欠いることが結果としてキレイゴトの赤ちゃんポスト忌避論となってしまっている。

 最後に中国新聞のインターネット記事から『熊本の赤ちゃんポスト、許可へ 「国の文書なしでも」熊本市長 』(07/3/8) を引用。

 熊本市の慈恵病院が設置を計画している「赤ちゃんポスト」について、幸山政史熊本市長は八日、「国の(見解を示す)文書がなくても、基本的な考え方は変わるものではない」と、設置許可の方針に変わりがないことを表明した。
 市が厚生労働省に求めた「法令上問題はない」との見解の文書化について、厚労省の辻哲夫事務次官が八日の定例会見で「そういうことは考えづらい」と、文書では回答しない意向を示したのを受けて述べた。
 幸山市長は「文書は国のお墨付きが欲しくて求めたのではない。今後、問題がいろいろなところに波及する可能性があるので、連携して考えていただきたいという確認の意味だった」と説明。
 さらに「文書化が難しいなら(口頭で)再度、確認して判断したい」と、近く市長自身か担当者が上京する意向を明らかにした。
 辻次官はこの日「法律的な見解は変わらない」と強調した上で「子供を捨てることはあってはならず、助長してはならないことも十分認識している」と、法解釈とは別に倫理的な問題があることをあらためて指摘。
 「そういう状況の中であえて文書を出すかどうか」と述べ、文書にした場合、国が全面的にお墨付きを与えたとの誤解が生じることへの懸念を示した。――

 何とま婉曲的、うじうじと煮え切らない国の姿勢だろうか。絶対正義にしても絶対善にしても、絶対公平にしても、絶対と名がつく価値観は存在しない。そういったモノを創るだけの能力を人間が持たないからなのは言うまでもない。当然絶対を前提とすることは間違いということになる。プラスマイナスの比較によって、有効性よりも弊害の方が多いということなら、改めればいい問題ではないか。大体が政治家のカネの問題や官僚の天下りといった改めるべきと確定している問題さえも改めることができないでいながら、絶対を求める。無矛盾を求める。このことにしても、キレイゴトということなのだろうか。

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松岡農水相「適切に公開している」は本人の言っていること

2007-03-15 06:35:14 | Weblog

 07年3月12日の夜7時のNHKニュース(ビデオから)。例の松岡農水相の資金管理団体が多額の光熱水費を計上している問題。

 松岡「今の法律制度で定められた必要な報告を致しております。法律以上のことはどうするということにつきましては、各党・各会派でお決めいただければ、私、そのお決めいただいた基準なり、扱いに従って、そのときは率先してお答えをし、ご説明申し上げたいと(思います。)決して答える気はないとか、そういったことは拒否しているわけではございません」

 民主党小川勝也参議員「松岡大臣を辞めさせるおつもりはないかどうか、答をお伺いしたいと思います」
 
 安倍晋三「今後職責を果たすことによってですね、国民の信頼をうる努力をしてもらいたいと――」
 安倍「領収書の添付をどうするか、どうするということも議論しながら、こういった政治資金規正法改正も視野に入れながらですね、自由民主党に於いては議論していくように、支持を致しておる次第であります」

 (何とまあ事務的且つ紋切り型で、熱意も何もない答弁なのだろうか。)

 夜9時のNHKニュース。

女子アナ「松岡農林水産大臣の資金管理団体が多額の光熱水費計上している問題です。自民党内から、今日の論戦で山場になるという見方も出ていた参議員予算委員会の集中審議が行われました」

 (「山場」にしてたまるか。)

 男性解説「自らの資金管理団体が光熱費などがかからない国会の議員会館に事務所を置きながら、光熱水費として一昨年507万円を計上していたことなどについて野党側から説明を求められています」

 閣議室の様子が映し出され、閣議後の記者会見。

松岡「法で求められている以上の、ものについて、ご説明、報告するということは、これは属人的立場での対応ということになりますので――」

 (「属人的」?俗人・俗物ということで〝俗人的〟と言ったなら、まさにぴったりの形容・ぴったりの自己評価と分かるが、テロップに確かに「属人的」の活字が記されている。「属人的」とは何ぞやと急いで「大辞林」(三省堂)を調べてみた。

【属人】――人を基本にして考えること。
【属人主義】――人がどこにいても、その人の本国法を適用
        すべきだとする立場。

 法律外のことはプライバシーが保障されている個人的立場からの対応となるから、それはお断りと言うことなのだろうか。例え法律外のことであっても、〝道義〟という観点からも関係なしと直結させ得るとは限らない場合もある。)

 野党は衆参両院で証人喚問を求めていくことで一致とのこと。

 鳩山民主党幹事長「松岡農水大臣が自らお辞めにならなかったり、あるいは罷免、えー、されなかったり、えー、して、また疑惑がさらに深まっていくという状況の中では、当然のことながら証人喚問を求めていくという――」

 (ごくごく普通の応対で終わっている。物言いが優し過ぎないか。「もしこれが世間一般の犯罪事件だったなら、任意同行の段階を通り越して、即に逮捕されている段階ではないか。踏み字はできないが、証人喚問して、徹底的な追及で疑惑を晴らすしか、国民も納得しないはずだ」ぐらいは言うべきではないだろうか。
 発言が不適切と言うことなら、松岡農水相が507万円の光熱水費の中に還元水が含まれているとする、その500ミリリットル5000円という値段ついての質問に塩崎官房長官が「値段は価値を見いだす人によって決まってくる。どういう価値を見いだすかという問題だ」と述べたのを真似て、「私自身の価値観・判断からすると、そういった段階に来ていると思いますよ」とかわせばいい。)

 記者会見での塩崎官房長官「何度も国会で本人も申し上げておりますし、私も申し上げておりますけれども適切に公開していると、いうことを私も聞いておるところであります」

 冬芝国土交通相「現行の政治資金規正法に基づいて、エー、きちんとやっておられると、いうことであれば、その説明でもいいんではないかというふうに思います」

 久間「説明責任ちゅうけども、説明したいと思って、1人が説明するとね、これに限らず他のやつでも、みんな、あのー、洗いざらい、報告するつう形になるわけでしょ?」

 (そういう形になったら、そうすべきが国民の負託を受けた者の責任のはず。何を言っているのか。)

 山本金融相「大臣の方も、それは納得を、が、できるような説明を、していくという、それは義務課せられているだろうと――」

 高市沖縄・北方担当相「今のご説明では、あの、私自身も分かんないです。具体的にこういう品目が、で、いくらぐらいかかりましたみたいな、ざっくりとしたことだったら出せるじゃないかなー、と思いますがね」

 (山本金融相にしても高市早苗にしても、松岡農水相と同じ自民党に所属することから生じているはずの党利害に反する発言となっている。説明責任に関わる原理・原則に則っての発言なのか、党利害を超えるそれぞれの自己利害からの、いわばご都合主義的な倫理観からの発言なのかは分からない。山本金融相は当初サラ金業者寄りの案文を予定していながら、参院選対策から悪名高かったグレーゾーン金利を公布後3年半以内(本体施行後2年半以内)廃止とした昨06年12月成立・公布の貸金業法改正に関わっている。それ以前に山本金融相の政治団体は表に現れた金額は15万円と小額ながらサラ金業界にパーティ券を購入して貰っている。業者寄りと見られた政治姿勢とカネの関係という前科を払拭するためのカネに対する潔癖な姿勢の見せかけと言うこともある。)

 片山虎之助「うん、まあ、それはしたほうがいいねえ。説明責任つう意味では。それはあの、適切な中身は私は言われたほうがいいと思います」

 (うまく言い逃れるだろうという安心を踏み台とした参院対策なのか。言い逃れが効かず、政権にダメージとなった場合、参院選に悪影響するだろうから、「適切な中身は私は言われたほうがいい」の実現は逆効果となる。還元水も浄水器をその存在が証明されていない、ウソの現在進行形中なのである。)

 午後1時からの予算委員会の集中審議。

 松岡「今日も答えは、あの、同じは同じでありまして、えー、これは内容につきまして、ええ、今報告を申し上げております。それ以上のことにつきましてではですね、法律の運用・在り方とも関わるもんでございますから、各党・各会派でお決めいただいて、その基準が決まれば、公表の扱いが決まればですね、それに従って、それはしっかりお答えして参りたいと、そういうことでありまして、決して答える気はないとか、そういったことを拒否してるわけじゃございません。以上であります」

 松岡大臣を辞めさせる気はないのかという質問に安倍晋三、上記7時のニュウースの「今後職責を果たすことによって~努力をしてもらいたい」云々を言った後、「光熱費等についてですね、えー、松岡大臣から、えー、委員会の場に於いても、法律に則って適切に報告していると、このように答弁していると思います。松岡大臣はですね、ルールに従って答弁していると、私は了解しています」

 高木民主党国対委員長(記者会見)「見苦しい。ええ、そういう答弁が続いておりまして、ある意味では滑稽、とも言える、状況でございます。松岡大臣を守り続ける安倍総理の任命責任も当然、追及していきたいと――」

 安倍、首相官邸での記者会見。5時半から「大臣はですね、法令に則って報告していると、このように答弁しています。政治と、まあ、おカネの問題。大切な問題ですし、光熱費の問題だけではなくて、事務所費の問題、そして不動産を取得していいのかどうか、そしてそれを自分名義にしていいのかどうか、それはそういう問題があると思いますね。議論を行い、そして、とりまとめを行うように指示しております」――

 先ずは安倍首相の「今後職責を果たすことによってですね、国民の信頼をうる努力をしてもらいたいと――」から。この部分は3月13日(07年)の読売新聞(インターネット記事)によると、「(松岡氏は農業)政策分野について、相当の見識がある。今後とも職責を果たすことで、国民の信頼を得る努力をしてもらいたい」と述べ、罷免や辞任を求める考えがないことを改めて強調した」とある。

 政治家が金銭的な疑惑・政治資金の不正操作疑惑を持たれながら、その疑惑を説明等の方法で直接的に払拭する努力をせずに、また任命責任者の立場にいる政治家も徹底的な疑惑払拭の要求もせずに、「今後職責を果たすことによってですね、国民の信頼をうる努力を」しさえすれば免罪されるということなら、ロッキード事件の田中角栄にしても、「職責を果たすこと」については単なる一大臣に過ぎない松岡などといった小物と違って「相当の見識があ」り、総理大臣というそれ相応の政治力を発揮できる立場だったことを考慮に入れると、その成果を大いに期待できただろうから、「今後職責を果たすことによってですね、国民の信頼をうる努力を」する手続きを踏みさえすれば金権政治家だと非難されることもなく免罪されて然るべきではなかったのではないか。

 ロッキード社から5億円のワイロを受け取った事実と無料であるはずの光熱水費を507万円計上した事実とでは額が桁違いだとする意見があるかもしれないが、些細な疑惑なら事実解明もなしに「職責を果たし」さえしたら許されるとする基準の罷り通りは許されるだろうか。些細であろうと重大であろうと事実解明を経て、解明された事実に沿い厳しく律することによって、秩序は守られる。特に国民の選択と負託を受けた国会議員の倫理観に関わる問題である。松岡農水相の一件が一旦許された場合、別の問題でも〝松岡例〟として利用されない保証はない。あのとき松岡大臣は許されたのだから、今回も許されていいのではないかといった拡大解釈である。

 大体が安倍晋三は口癖のキャッチフレーズとしている「品格」と政策的な「見識」のどちらを上位価値としているのだろうか。安倍首相の対応を見ると、自らのキャッチフレーズを裏切って、「品格」を「見識」の下に置いている印象を受ける。「品格」とは「行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る」(安倍)感性の獲得によって養い得る資質であろう。「品格」を「見識」の下に置くこと自体が、既に「品格」のない行為であるばかりか、安倍晋三なる人間自体が「品格」を基準として行動していないことの証明でもあろう。「美しい国づくり」を目差しているとしているが、美しくない「品格」では成し得ない「美しい国づくり」であろう。最初から分かっていたことではあったが。

 次に塩崎官房長官の「何度も国会で本人も申し上げておりますし、私も申し上げておりますけれども適切に公開していると、いうことを私も聞いておるところであります」と冬芝国土交通相の「現行の政治資金規正法に基づいて、エー、きちんとやっておられると、いうことであれば、その説明でもいいんではないかというふうに思います」。

 塩崎官房長官にしても、水戸黄門や遠山の金さんといった時代劇に出てくるケチな悪代官の役にそのまますんなりと入っていけそうな厭味を感じさせる冬芝国土交通相にしても、同じ与党という立場がそうさせている与党利害発言ではないか。野党の立場にあったなら、別の発言になるだろう。

 民主党の参議員蓮舫氏らが松岡氏の国会議員事務所を訪れ、還元水装置が存在しないことを発見している。いわば松岡小物は明らかにウソを以て言い逃れしようとしたのである。当然「適切に公開」は誰の目にも見える形での具体的な説明、あるいはその他の証明を経て、本人が言っているだけのことを脱して、より正当な承認を得る。その手続きを見ないまま、「本人も申し上げ」、「私も聞いておるところであります」とする本人の言い分のみで、それでよしとする。これを以て原理・原則もないご都合主義からの対応と言われても仕方がないのではないか。自分の置かれた状況によって態度を変える機会主義が言わせたのだろう。

 「本人」が「申し上げてお」ることを鵜呑みとすることが許されるなら、小・中学校の校長がいじめ自殺があってもいじめが原因の自殺とは考えられないとする責任逃れの言い分をすべて正しいとしなければならなくなる。昨年9月北海道の小学校6年生女児が首を吊り、今年1月6日に死亡した事件では学校や友達宛に遺した遺書にいじめを訴える内容があったもに関わらず、市教委までがその事実を隠す責任逃れを犯している。そのことがのちに露見することになったとしても、塩崎や冬芝の正当性理論からすると、市教委「本人」が「申し上げてお」るからと、全面承認といかなければならなくなる。

 参考までに『蓮舫氏アポなし訪問「還元水ない」 (スポニチ/2007年03月10日)

 ――民主党の蓮舫氏、芝博一氏ら参院議員4人が9日、松岡利勝農相の議員会館事務所を予告なしで訪問した。松岡氏の資金管理団体は、光熱費や水道費がかからない衆院議員会館に事務所を置きながら、政治資金収支報告書に多額の経費を計上。05年の光熱水費は約500万円にも及んでいたため、国会で使途について追及されていた。

 松岡氏は5日の参院予算委員会で「水道は“ナントカ還元水”を付けている。暖房なども含まれている」と答弁。これに民主党から「浄水器や電気ストーブが100個もおいてあるのか?」と疑問の声が上がっていた。「ナントカ還元水」は「電解還元水」とみられ、浄水器で水道水を電気分解してつくられる水素を多く含んだ水で、胃腸の改善に役立つとされる。

 4議員は還元水の装置や暖房装置の確認をするため、アポイントをとらずに“急襲”。松岡氏は閣議のため不在で秘書が応対した。“アポなし団”は部屋の中を見渡し「事務所を見れば一目瞭然(りょうぜん)と思って来たが、還元水(装置)は付いてないじゃないですか!」と詰め寄った。これに対して秘書は「きょうはご勘弁ください」と答えた。

松岡氏は閣議後の記者会見で、報道陣から「(ボトル)1本5000円の水を飲んでいて、計上していると聞いているが…」と聞かれると「内容に関することなので差し控えたい」。さらに「今、水道水を飲んでいる人はいないでしょう」とはぐらかした。

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条件付で尖閣列島を中国領土としたらどうか

2007-03-13 01:24:53 | Weblog

 二つの条件を課す。第1の条件は、中国の政治体制の完全民主主義化とする。
 
①個人の価値や人格の尊厳性を重んじて人間の自由な思想・活動を可能な限り保障する市民的自由の擁護・拡大を図る自由主義の導入。当然、この中に報道の自由は含まれなければならない。

 ②複数政党による議会制主義、社会保障制度の充実。

 ③信教・思想・良心・表現・集会・結社・居住・移転の自由等の個人が国家権力の干渉・介入を受けることのない自由権の保障

 ④生存権・教育権・勤労権・勤労者の団結権・団体交渉権・争議権等の社会権の保障。

 ⑤一定の年齢に達した者全員に対する選挙権・被選挙権の付与による参政権の保障と普通選挙制度の導入。

 ⑥国・公共団体に対する賠償請求権などの受益権の保障。――等々すべてに亘った基本的人権の保障等を憲法に謳い、国家権力及び国民は憲法の規定に従う国家体制とする。

 第2の条件は、第1条件が満たされて中国領土と確定させた尖閣列島とその周辺海域の開発は日中両国による共同開発とする。

 もしこれらの条件が実現することとなったら、日本は中国を民主化した国として永遠に世界史に刻まれることになるだろう。また隣国である軍事大国・経済大国中国の民主化による共通の価値観の共有は日本の安全保障にとって危険の減少につながり、互恵のより密接な関係を築く方向に向かうことが期待可能となる。当然日本の対中国、中国の対日本の軍事的警戒量が減少することとなって、相互に消費しなければならなかった軍事経費・警戒エネルギーが削減可能となる。以上を以て日本の利益とする。

 この考えはどうだろうか。

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安倍・腰巾着下村の軽薄政治思想

2007-03-11 11:08:45 | Weblog

 朝日新聞07年3月9日の夕刊の「人・脈・記 安倍政権の空気⑤」に「遺児、母の愛こそ『教育』」という題名の記事が載っている。知性も何も感じることができない持ち上げコラムニスト、太鼓持ちの早野透の記事で、普段は殆ど読まないのだが、「河野談話」の見直し衝動を抱えた偉大な政治家、安倍晋三の腰巾着、当然安倍晋三と同じ穴の国家主義者である下村博文内閣官房副長官の写真が乗っていたから、つい読んでみる気を起こした。

 「戦後生まれの首相安倍晋三と同い年の内閣官房副長官、下村博文(52)は9歳のとき、父を交通事故で亡くしている。
 母はまだ32歳、3人の子を働きながら育てた。下村は交通遺児の奨学生第1期生として高校、早大を出て、東京で学習塾を開いた。政治をめざしたのは『弱い立場の人にこそ光は当たるべきだと言うのが原点なんです』。」

 「弱い立場の人にこそ光は当たるべきだ」と言うなら、格差を受けている国民の側に立つべきを、その逆の格差を与えている側に身を置いている。人間、口にすることと行うこととが常に一致するとは限らない。旧厚生省から大量の天下りを引き受けていた財団法人「ケーエスデー中小企業経営者福祉事業団」(KSD)の古関理事長と親密な個人的関係を結んでKSD側から事務所家賃・秘書給与・党費・集票を肩代わりしてもらっていた見返りに参院本会議でものつくり大学設立促進の代表質問(1996.1)を行い、さらに当時の労働省側にものつくり大学への補助金増額を要請、増額させて総額5,000万円の利益供与を受けたとして受託収賄罪で逮捕された(01.3.1)参院のドンこと労相経験者村上正邦の人物像を朝日記事(『進軍の果て』の上/01.3.2.朝刊と下/01.3.4朝刊)は紹介している。

 「炭鉱労働者だった」「酒好きの父は小学校六年の時に他界し、母は行商をして四人の子を育てた。村上は、昼間は炭鉱で働き(測量係)、定時制高校に通った」苦労多き青春時代を送った。

 「村上は、著書の中で『私の末娘はダウン症』と明かす。地元の病院長は、夜遅くに発熱した三女をおぶって訊ねてきた村上を覚えている。『子どもに心を砕くいい父親に見えた』
 生まれたとき『一週間とは持たないでしょう』と言われたが、病院をかけずり回り、命をとりとめた。村上は著書で書く。
 『生命の尊さ、生かされていることのすばらしさを思ったとき涙がとめどなくあふれてきた。国のいのち、人のいのちを守るという政治家としての志は、この原体験に根ざしている』
 原点は、KSDのカネと票にまみれ、失われた。『ゴール』と思い定めた参院議長は、後一歩で永遠に届かぬ頂上となった」

 「原点」など、如何に当てにならないかの恰好の見本だろう。「原点」云々の多くは、功なり名を遂げた人間が現在の自分を美しく見せるために身に纏わせることとなった、見た目だけ美しいまがい物の宝石と疑った方が無難である。

 KSDからは自民党有力議員に政治資金という名で多額の金が流れていただけではなく、「9年間で延べ約63万人の分の党費、約15億6千万円を負担していた」(『自民党費15億円負担』01.2.26.『朝日』朝刊)というから、両者の金権振りには恐れ入る。「国のいのち、人のいのちを守る」を政治原点としていたからこそできたカネを力とした政治権力だったのだろう。

 「架空党員は、KSD会員の名前で無断使用して仕立てた場合と、実在しない人物を捏造した場合があった」と苦労の跡を窺うことができる。警察が捜査協力費流用に架空の名前や住所を使ったのに似ている。

 最初の記事に戻ると、「昨年10月、あしなが育英会が『格差社会になって遺児の母子家庭は食べるにも事欠き、高校進学もままならず』と安倍に陳情した。そばに下村がいた。」

 「そばにいた」のは自分自身が交通遺児だったという理由だけではなく、安倍晋三の腰巾着として当然のツーショットだったからではないか。しかし問題にしたいのは、そういったことではない。「格差」の存在を最初は小泉前首相と同じく認めず、民主党の追及質問で渋々と認めたが、渋々だから当然深刻には認めたわけではない安倍首相が格差の深刻な状況の「陳情」を受ける奇異で滑稽な矛盾状況に安倍首相だけではなく、「そばにいた」下村自身も何も気づかないまま「陳情」に対する定式的な応対で対応したノー天気がそこで演じられたのではないかという疑いである。少なくとも持ち上げコラムニスト、太鼓持ちの早野透は何も気づかなかったからこそ書けた文章に違いない。

 安倍晋三は「ハイ、ハイ、心して格差問題に取組みます」とでも答えたのだろうか。

 「自民党青年局、幹事長質、そして『日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会』。いつも安部のそばに下村の姿があった」(同記事)(やっぱり。)

 「いじめ、校内暴力、少年犯罪。世の中がすさんできたのは『そもそも教育基本法がよくないから』と改正案作りを試みた議員連盟で、下村は起草委員を務めた。
 『戦後政治は共同体や家族主義を壊してきた。母親が母乳を冷凍して仕事に出かけ、父親が職場を休んでそれを赤ちゃんに飲ませるだなんて。やはり母親の愛情が教育の出発点です』
 教育基本法の改正は昨年12月、成立した。新たに『家庭教育』の条文が盛り込まれ、『教育の第一義的責任は父母ら保護者にある』と歌う。下村は言う。
 『離婚が増えて母子家庭化が進んでいる。家族が一緒に暮らせる、できるだけ3世代で暮らす。保守主義の一つの柱ですね』
 それは古きよき日本の復活か?
 『そうですね』」(同記事)――

 国民全般から見た場合、「古きよき日本」など、どの時代に存在したのだろうか。ごく一般的な国民にとっては、経済成長以前の日本は生活の苦しく貧しかった時代ばかりで、「古きよき」は生活豊かな者でなければ、親が僅かな収入で苦しい生活を送っていたことも気づかずに無邪気に遊びまわっていた子供の頃を思い出したときにのみ現れる世界に過ぎないのではないだろうか。

 東北・北陸・沖縄・九州・四国の寒村地帯の若者たちは中学を卒業すると金の卵とおだてられて特別仕立ての就職列車に乗せられ都会に集団就職して行かざるを得ないほどに貧しかったのである。積雪地帯の父親は冬になると都会に出稼ぎが慣習化していた。日本の経済成長を油まみれ、汗まみれの汚れた姿で縁の下から支えたのは安い賃金の金の卵の存在であった。

 それ以前に遡ると、江戸時代だけではなく、明治、大正、昭和戦前は勿論、戦後も生活苦からの売春婦への身売りは跡を絶たなかった。1951(昭和26年)2月には「人身売買対策要綱」を作成して対策を講じなければならなかった。

 「文部省の調査(昭和27年11月)によれば、全国で約26万人の長欠児童がありその三分の一が家庭外の労働に従事しているといわれているが、この不幸な長欠児童こそ人身売買の大きな給源地帯といわなくてはならない」(『売春』神崎清・現代史出版会)

 『売春』は次のようにも述べている。「さいきん、石炭不況の反映として、炭鉱地帯における人妻を対象とした人身売買の激増が伝えられているのは、この人妻売春時代出現の不吉な前兆とみるべきであろう。『週刊読売』(四月一七日号)の『妻を売る筑豊炭鉱』によれば、『三月初めに福岡署が検挙した二十余名からなる「大規模な人買いグループ」は、福岡市内の特飲街と結んで、ほとんど福岡地区の炭鉱住宅から買い出した女を、それら特飲街に供給していたのだが、彼らの毒手にかかったものは娘よりも人妻の方がずっと多かった』」

 この炭鉱不況は1950年代(昭和30年代)を言う。特に50年代半ばがひどかったらしい。

 『売春』は「人妻売春時代出現の不吉な前兆」と言っているが、江戸時代も人妻売春があり、仕切っている男が客があると小僧にメモを持たせて、何人か抱えている人妻うちの一人の長屋まで行かせて渡させる。指示を受けた人妻はちょこちょこっと化粧して、指定された出会茶屋(現在のラブホテル)に出向き、予定のことを済ませて、小遣い稼ぎする。亭主の稼ぎだけでは生活が苦しいからの方便でもあるのだろう。客となる男の方も商売として構えた店の女よりも安くつくから、利用するに違いない。

 そして江戸の農村では食えない百姓の数の方が遥かに多く占めていた。

 こういった状況を見てくると、「古きよき日本」という前提そのものが崩れて、腰巾着下村博文の言っていることのすべてが怪しくなる。

 例えば「古きよき日本」が広い範囲に亘って娘を売春婦に売って生活を凌ぎ、人妻が夫と納得づく、あるいは内緒で男を取り、その収入を家計の足しとする、あるいは中学を卒業すると集団就職で故郷を離れるといった状況にあり、そういった状況を前提とすると、「家族が一緒に暮らせる、できるだけ3世代で暮らす」ことができていた家の間取りや経済状況に恵まれていた世帯数をどれ程弾き出すことができるというのだろうか。家の間取りは恵まれていたとしても、経済が保障されていなければ、娘を売ったり、男なら故郷を離れて働きに出なければならない。正月や盆の帰省を機会として「3世代」が顔を揃えても、日常普段の生活でそこに存在しない「3世代」なら、下村腰巾着の言っていることは洒落にもならない滑稽な戯言(ざれごと)と化す。少なくともこういった家族は多数存在していたはずである。

 経済成長を見るまでの日本に於ける「母親」は家に従属し、夫に従属し、子供にまで従属した存在として子どもを産み、育てることを社会の中での役目とされ、家族の中での役目とされてきた。だが戦後を出発点とした個人の権利意識の発展と経済成長を受けた女性に対する人手要求が(権利意識を単一条件として働いたその行き過ぎだけが原因となっているわけではない)家族及び夫に従属している存在ではなく、誰に従属しているわけでもない独立した個人・独立した人格として生きるようになったことが、まだまだ多くの矛盾を抱えた現在の日本の女性の状況であって、自民党系や自民支持者が責任逃れに頻繁に使う言葉だが、一党独裁の国ではないのだから、簡単に以前の状況に戻すことができると思っているのだろうか。ポルポトなら、確実にできる。安倍晋三や下村如き政治家にポルポトになるほどの覚悟はあるのだろうか。つまり下村博文は不可能なことを言っているに過ぎない。

 かつて日本の住まいは外国人からウサギ小屋と揶揄され、蔑まれた。確かに経済大国化によって日本の住まいの間取りは一時代前よりも広くなったが、それでも従前どおりにウサギ小屋と言ってもいい狭い建物に押し込まれて生活している生活者も多い。すべての世帯・すべての生活者に「家族が一緒に暮らせる、できるだけ3世代で暮らす」ことが可能な十二分な間取りを持った住まい、それを手に入れても日常的な家計を圧迫しないだけの収入を保障できる政策を自民党は実現させることができるというのだろうか。実現させるどころか、「格差の拡大」が問題となっているお粗末な状況に日本は立ち止まっている始末である。
 
 一戸建て所有者にしても、20年30年のローンが日々生計を圧迫しているだけではなく、日銀の利上による住宅ローンへの影響まで心配しなければならない状況下に現在暮らしている。

 政治家というものは「家族が一緒に暮らせる、できるだけ3世代で暮らす」家族状況を「保守主義の一つの柱」として掲げたなら、それを可能とする住宅政策・経済政策・「母親が母乳を冷凍して仕事に出かけ」なくて済む、いわば、少なくとも子供が小学校に入るまでは専業主婦を可能とする雇用政策、そうなると女性労働者に代わる雇用者確保のための外国人受入れ及び外国人雇用政策も絡んでくるし、そういった諸々の政策を相互に関連付けた全体的な政策を立体的に設計してから口にすべきだが、そうするだけの頭がない単細胞だからこそ、時代のネジを逆にまわさしたとしても実現できないことだと認識すらできないお粗末で程度の低い客観性を曝すことができるのだろう。口先だけのことを振り撒くだけで内閣官房副長官でございますと、それだけの肩書をいただけるらしい。

 まあ、日本の政治家はみなその程度だと言ってしまえば片付く問題ではあるが、その程度の政治家のクスリにもならない話を記事にする。持ち上げただけの始末の悪い記事で終わっているのも当然の結果なのだろう。同じ持ち上げるなら、もう少しましな政治家を取上げて欲しいと思うが、他にいないということなら、別の記事で紙面を埋めるべきである。

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安倍首相が従軍慰安婦を認めたくない理由

2007-03-10 09:56:15 | Weblog

 「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ」

 答はすべてこの言葉の中に収まっている。国家主義者安倍晋三の核心をなす思想であろう。

 簡単に結論を言えば、女性を斡旋する業者という民間人ならまだしも、国家に直接関わる官憲が従軍慰安婦問題に関与していたとするのは、「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民」であることを完全否定することになるからである。

 資料が発見されるまでは、言葉ではなく、事実の存在が問題であるにも関わらず、「従軍慰安婦という言葉は当時は存在していなかった」という狡猾な詭弁まで用いて、一切を否定していた。

 安倍晋三は昨年(06年)9月1日の自民党総裁選立候補表明で「美しい国、日本」と題した政権公約を発表した。そのとき「『美しい』という言葉を使った経緯は」と記者から問われて、「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ。日本の麗しさ、すばらしさを再構築しなければならないという思いで使った」と答えている。

 「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ」とする考え方の根底には、日本人、あるいは日本民族は優れているとする優越性、その言い替えの言葉である、無誤謬性の文脈で日本人、あるいは日本民族を把える意識がセットされている。

 実際には「行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る」資質は個人性に関わる、なかなか実現させにくい長所・美点であって、それを無視して国民全体、民族全体に本来的に備わっている資質と見なすには、余程の独善的な過信・独善的な錯覚なくして成り立たない優越性、あるいは無誤謬性であろう。

 花の姿や自然の姿を「美しいか醜いかを敏感に感じ取る」ことは誰にとってもたやすいが、自身の「行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る」ことは自己利害に動かされ、自己利害にのみ目を向けがちな人間という生きものにとって、そうそう容易な振舞いではない。それを国民性・民族性とすること自体、土台無理な話だが、もしも「敏感に感じ取る国民」であったなら、跡を絶たない醜悪なまでにカネにイヤシイ政治家・官僚は一人として存在しない日本の姿でなければならない。
 
 実際にはゴマンと存在するその矛盾の原因を戦後の民主化による個人の権利の行き過ぎを要因として日本人の生き方が変わったためとし、そのように戦前の姿と断絶することとなって失った日本の優越性・無誤謬性を戦後政治・戦後社会を克服することで戦前と戦後に連続性を持たせることができると見定めている。そのための「戦後レジームからの脱却」の提唱であろう。

 「戦後レジームからの脱却」によってのみ、「日本の麗しさ、すばらしさを再構築」可能としているのである。簡単に言えば、政治・社会を含めた戦後の否定であり、戦前の肯定である。安倍晋三が国家主義者たる所以がここにある。

 いわば戦後は「日本の麗しさ、すばらしさを」失ってしまって、戦前同様に「再構築しなければならない」。手本とすることができるほどに戦前の日本は「麗しさ、すばらしさ」を身を以て体現していた。戦前は戦後の現在と違って、「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ」った。何という優越性・無誤謬性なのだろうか。

 戦前と戦後に連続性を与える認知容易な一般的な道具立てとして、国家・民族を別途表現する、当然同じ優越性・無誤謬性(「麗しさ、すばらしさ」)で彩らせた日本の歴史・伝統・文化が活用されることになる。その最高位に位置する日本の歴史・伝統・文化が日本国天皇が持つ〝万世一系〟性であろう。万世一系と日本の歴史・伝統・文化はコインの表裏をなす。表裏とすることで、日本の歴史・伝統・文化の優越性・無誤謬性が簡単容易に証明可能となる。

 優越性・無誤謬性(「麗しさ、すばらしさ」)に彩られた戦前までの日本の歴史・伝統・文化で戦後の失われた日本を包む。戦前を否定する「歴史の見直し」によって、戦後の日本を払拭しなければならない。そのための次の必要不可欠な道具立てが愛国心教育であろう。当然このような思想から導き出される〝愛国〟の対象内容は優越性・無誤謬性を体現していた戦前の日本国家でなければならない。

 戦前の日本が優越性と無誤謬性を体現していた(「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ」)とするとき、それを無化・否定する因子として、侵略戦争行為、南京虐殺に代表される日本兵の虐待・虐殺といった残虐行為、集団強姦に等しい従軍慰安婦問題、人間性否定の強制連行労働等々は認めがたい事柄の数々となる。日本民族の胎内に悪意を持って侵入し、民族の優越性・無誤謬性を攻撃する異分子・異物として撃退・排出して優越性・無誤謬性に常に瑕疵なき整合性を与え続けなければならない。それが国家主義者たちにとっては止むに止まれぬ気持からという表現となっている「歴史の見直し」衝動となって現れている。

 戦前の大日本帝国軍隊の侵略行為、その他の反道徳行為を事実と認めて、「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民」・民族であるとする論理(優越性・無誤謬性)を破綻させたとき、いわば戦前の日本を無化・否定することは自らの国家主義思想の無化・否定に他ならず、認めがたい方向を取ることになる。

 しかし戦後日本の矛盾・欠陥は戦後民主主義の権利意識に責任を課すことで整合性を保てたとしても、戦前の行為に於いては資料が発見された範囲で認めなければ、日本民族の優越性・無誤謬性(=「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ」)は一転して唯我独尊の偽善思想に過ぎなかったと化けの皮を曝す両刃の剣と化す。このような経緯が確実な資料がない場合は、それを逆手に取った南京虐殺の否定、あるいは虐殺された中国人人数の過少見積り、従軍慰安婦の業者の強制性は認めたとしても、官憲による強制性は認めない姿勢の主たる理由であろう。

 自民族を絶対とするのに、誤謬も矛盾も抱えていない絶対的な権威を必要とする。それが万世一系の天皇であったり、日本の歴史・伝統・文化であったり、それらを意識に据えた愛国心であったりする。一個の人間として立つことができない、内容空疎な人間ほど、権威を必要とする。狐が虎の威を借りるように。一人一人が個人として立つ。それができないから、権威を纏って、これが俺だ、と宣言する。これが日本人だと知らしめなければならない。

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石原都政は江戸っ子向きか

2007-03-09 06:45:41 | Weblog

 一昨日(07.3.6.)午後4時からの都庁での浅野史郎前宮城県知事の都知事選出馬表明会見を昨日のTBS 「みのもんた朝ズバッ!」でやっていた。時間を分けて何度か流しているから、纏めて引用。

 「ハイ、みなさんこんにちは。浅野史郎、59歳です。石原都政の実態を詳しく知るにつれ、私の心の中のコップに水が注がれて、徐々にその量が増し、いつかコップから溢れ出すが如き感じで、何かが変わったのです。東京や都民にとってだけではなく、日本の政治にとっても取り返しのつかないところまで行ってしまう――その危機感をしっかりと受け止めて、私は今、都知事選挙に出ることを決意いたしました」

 女性解説「具体的な出馬理由については――」

 浅野「社会的弱者に対する差別発言、都政の私物化、公私混同、側近政治、恐怖政治のような教育現場など、石原都政がもたらした数々の問題点を指摘しながら、その変革を必死になって願うメールや意見に接するうちに、誰かがこういった都政を変革するために立ち上がらなければならないと思うようになりました。石原さんは1期目はよかったと思うんです。1期目は。で、私も期待をしました。2期目になって、えー、大分変わったと、いうことを感じざるを得ないんですね。もういいでしょう。もう4年やると言うのは、もうやめて下さい――」

 女性解説者「会見から3時間後――。この出場表明を受けて3選を目指す石原慎太郎都知事は――」

 女性インタビュアー「浅野史郎さんが今日正式に出馬を表明されましたが、そのことに対する受け止めを先ずは一口お願いします」

 石原「出たり引っ込んだり、また出たりね。出るかでないか、やっぱり出たってとこかな。まあ、あのね、あの人のマニフェスト読みましたがね、やっぱ分かんないねえ、抽象的で。大体みんな東京やってきたことだな。まあ江戸っ子向き、東京っ子向きじゃないねって感じがしますね」――
* * * * * * * *
 浅野史郎の「マニフェスト」に書いてある政策は「大体みんな東京やってきたこと」で、その過程で「社会的弱者に対する差別発言、都政の私物化、公私混同、側近政治、恐怖政治のような教育現場など、石原都政がもたらした」ということなら、そういった「都政」が「まあ江戸っ子向き、東京っ子向き」ということになる。

 だったら、東京都民はそのような「まあ江戸っ子向き、東京っ子向き」の「都政」は御免蒙りましょうとそれぞれの1票で意思表示する必要があるのではないか。それとも、政策がまあまあの形で実行されさえしたなら、「社会的弱者に対する差別発言、都政の私物化、公私混同」等々があったとしても、「まあ江戸っ子向き、東京っ子向き」であることに変わりはないからと、3期目も石原だと支持するのだろうか。

 財政的にも各種産業活動・商業活動に於いても東京という日本で一番有利な立地・有利な果実が可能にしているに過ぎない活動を、かつての有力自民党国会議員、小なりと言えども派閥の領袖、総裁選立候補者といった色褪せた経歴を巧妙に活用し、ときには恫喝の道具に利用して、それを切り札に謙虚さのかけらもなく大物政治家ふうに振舞い、周囲もそれを許している。そのような振舞いの行く先々で誇示することとなった「社会的弱者に対する差別発言、都政の私物化、公私混同、側近政治、恐怖政治のような教育現場」等々の美しい景観ということではないだろうか。

 既に自作HPやブログに書いたことと重なるが、プチ独裁者石原慎太郎に敬意を表して改めてここにご紹介申し上げると、「社会的弱者に対する差別発言」とは、「少子社会と東京の未来の福祉会議」(2001年10月23日)での「ババア発言」もその一つではないか。

 「これは僕が言っているんじゃなくて、松井孝典(東大教授)が言っているんだけど、文明がもたらした最も悪しき有害なものはババアなんだそうだ。女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です、って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を産む力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって・・・・。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね」

 「生殖能力」の有無のみで男女を価値づける思い上がった視野狭窄。閉経した女性にとっては迷惑な話だろう。閉経して子どもを産む力を失ったとしても、恋愛もできれば、セックスもできる、いたって溌剌な生き方を選択して、充実した後期人生を送れるかどうかは、それぞれの生き方にかかっているのだから、それぞれに任せればいいこと。愚かしい思い上がったお節介に過ぎない。

 「差別発言」ということに関して言うなら、「民族的DNA発言」にしても勲章の一つも与えないわけにはいかない。人間は国籍に関係なしにどのような種類の犯罪も犯すし、それが凶悪犯罪の場合もあれば、そうでない場合もあるが、「何だろうと日本人ならこうした手口の犯行はしない」との絶対前提を設けて犯罪手口が「民族的DNAを表示する」とする文脈で、凶悪犯罪を犯すのはさも特定の国民だけだといった先入観を与える偏見を撒き散らした。オウムのサリン撒布は実害があって処罰されたが、石原慎太郎の「差別発言」は実害が見られないということで情状酌量されたのか、公安から観察処分を受けることもなく、自由の身であることを活用して「都政の私物化、公私混同、側近政治」と次々と金字塔を打ち立てていった。

 政治家は犯罪を問題にしなければならないが、それ以前に自分たち政治家自身のありようをこそ問題にしなければならない。上の為すところ、下これに倣う、からだ。上に位置する政治家がカネにイヤシイから、下もカネのために様々な犯罪を犯す。

 次の「都政の私物化」は、その氷山の一角として海外豪遊視察があるのだろう。改めて紹介すると、06年11月16日(木)の「しんぶん赤旗」は次のように伝えている。『石原東京都知事 税金使った“海外旅行”』

 「ガラパゴス諸島でのクルージングやオートバイレース見物、費用は1回平均2千万円、宿泊費は東京都条例の規定の6・6倍も―。日本共産党都議団が告発した石原慎太郎都知事の豪華海外出張は、内容面では実施する意義がとぼしく、金額面でも他県と比べ、税金の無駄遣いが際立っています。
 就任以来7年半で行った19回の海外出張のほとんどは、知事の個人的な関心で計画され、うち六回が知事の思い入れの深い台湾でした。海外出張の目的も福祉や教育の充実というものはなく、観光的なものが多数です。
 たとえば2001年6月のガラパゴス諸島(エクアドル)への出張(総額14444万円)。38万円で小型クルーザーを借り切ったクルージングを楽しみ、206万円をかけホテル並みの施設を備えた大型クルーザーで、バルコニー付きの最高級の部屋を借り、四日間の諸島見物に興じました。
 今年5―6月には、五輪招致や観光にかんする調査として、ロンドンと、オートバイの公道レースで有名なマン島へ出張し、総額35174万円をかけました。」――

 石原慎太郎はワシントン出張で最高で1泊26万3000円の高級ホテルに泊まってもいる。この豪遊海外出張も、「まあ江戸っ子向き、東京っ子向き」の趣向ということなのだろうか。

 石原慎太郎の豪華海外視察の間、幹部部下たちも豪華視察としゃれ込んでいたのではないのか。東京銀座の高級クラブ視察とか、赤坂高級料亭視察とか。下は上に倣うからだ。鬼の居ぬ間の命の洗濯とばかりに。

 「公私混同」とは主たる事例として都の文化事業に関連して公費で欧州出張を行わせた四男問題を指すに違いない。「都政の私物化」とも関係する事柄だが、石原本人は「何を以て私物化と言うのか」とか、「余人を以て代え難いから使っている」と抜けぬけしたことを言っているが、公人たる者、カネ・人間関係等で足をすくわれないよう常に身辺を清潔に保つべきを、広範囲に亘る公平・公正な手続きを踏まずに四男を使う目のくらんだ身内重用のネポティズム(縁故採用)を犯して平然としている。それともネポティズム(縁故採用)は「まあ江戸っ子、東京っ子」が得意技としている人事だとでも言うのだろうか。

 「現代ネット」(「石原知事 四男作品にも公費」2006年11月24日 掲載)によると、「海外豪遊視察で抗議殺到中の石原都知事、四男の延啓氏までが公費を使って海外出張していたことが発覚したが、公私混同のデタラメがまだあった。石原知事がトップダウンで決めたとされる美術ギャラリー「ワンダーサイト」、そこに飾られているステンドグラスの原画の作者というのが自称画家の四男で、『お買い上げ』費用は300万円。都の補助金が使われていたが、知事は議会にも都民にもこの事実を隠していた。」

 最後に「側近政治」と教育現場だけではない「恐怖政治」を取上げる。これらは石原慎太郎都知事が操り出すことになったマリオネット、副知事だった浜渦武生ワールドのことを言うのだろう。

 浜渦武生ミニジョンイルは石原慎太郎の国会議員時代の私設秘書で、石原と共に青嵐界にも関わり、側近中の側近だそうだ。週に2、3回しか都庁に出勤しない石原に代わって〝知事〟を務める副知事という構図でミニジョンイルの地位を獲得していった。そのミニジョンイルぶりについては、05年5月26日の『朝日』朝刊の『側近に強権 議会が不満』(主題)が詳しく解説している。

 「ミスのたび『詫び状』」(副題)

 「副知事 浜渦武夫様
 ○○にあたり不手際があり申し訳ありませんでした。深く反省します。
二度とこうしたことがないよう肝に銘じます。
               ○○局長

 都庁ではミスが起きるたび、浜渦氏に『詫び状』が届く。局長、部長、課長がセットで出すことさえあった。『パソコンで打ったら、「自筆で書け」と突き返された人もいた』という。
 浜渦氏は石原都知事が国会議員だった時から秘書を務めた側近中の側近。知事就任の99年に特別秘書として都庁に入り、翌年から副知事になった。
 週3日しか登庁しない石原知事の名代を務める浜渦氏に、徐々に権力は集中していった。
 知事に事業内容を説明する際は浜渦氏に『お手紙』と呼ばれる依頼書を出し、事前に了解を取りつける。同氏を通さなければ、都政が進まない。石原都政6年の間に、そんなシステムが築かれた。
苦々しく思う都庁職員も多い。だが、浜渦氏とそりが合わなかった幹部が次々と都庁を去るのを目の当たりにする中で、もの言わぬ幹部が増えていった。」

 そのようなミニジョンイル浜渦武生も年貢の納め時が突然やって来た。上記『朝日』記事の最初の部分で伝えているところを手短に解説すると、05年3月の都議会予算特別委員会で取上げられた東京都社会福祉事業団の事業委託をめぐる補助金問題に関して浜渦武生が不正を示唆する発言をしたことに対して、自民議員が「提案者側が予算の不正を示唆する発言はおかしいと」反発して設置されることになった百条委で、そもそもの不正疑惑追及の質問が「自らの答弁で不正をほのめかし、事業に関わった都幹部を陥れ、次の副知事人事を自分の思うように」するために民主党に依頼して行わせた『ヤラセ質問』ではないかと問われ、それを否定。実際は依頼してさせた質問であったとされて偽証罪で問責決議を受け、ついに石原親分・石原ミニキム・イルソンも泣く泣く浜渦ミニジョンイルのクビを切るに至った。

 「東京都社会福祉事業団の事業委託」とは民主党都議会議員の柿沢未途のHPで調べてみた。

 「都社会福祉事業団の設置する社会福祉総合学院の運営委託が取り上げられ、『建物賃貸料が適正かどうか不明』など抜本的な見直しを求められました。『都有地に補助金19億円で施設 専門学校へ不適切便宜』と新聞でも取り上げられ、石原知事も『けが人が出るかもしれない』と発言するなど、その背後に何らかの不正があったのではないかと疑われていました。
 問題の社会福祉総合学院については、その事業を民間学校法人に委託し、さらに同じ学校法人に施設全体を貸し付けていますが、これについて包括外部監査を行なった公認会計士は『結果として学校法人のために施設を作ってあげた形になってしまっている』と指摘しています。
そのように捉えると、社会福祉総合学院の建設費返済のため都が支出している補助金は、すべてこの学校法人への補助金と見なすこともできます。その建設費は19億円。これだけの補助金が、私たちの知らないうちに学校法人に支出されていることになります」

 上記朝日記事は「都議選へ思惑絡む」と題して「前回の都議選で、就任直後の『小泉ブーム』に乗って完勝した自民党も、今回の頼りは石原知事だ。多くの議員が知事とツーショットのポスターを選挙区に張っている。浜渦氏の問題を追及しながら、『選挙が終わるまでは知事を攻めるわけにはいかない』との本音がある。
 一方、民主党にとって、百条委問題は逆風だ。質問の経緯ついて証言を求められたが応じなかった同会派幹部は『正当な理由なく出頭を拒否した』として同委で告発の方針が議決された。さらに、『浜渦氏の質問依頼は明らか』とする民主党議員数人が、会派執行部を批判する勉強会を立ち上げ、『分派』の動きを見せる。
 自民党は『敵失に乗っているだけ』(幹部)と言うが、民主党は『自民党は百条委を政治ショーにしている』と、いらだちを募らせている」――

 こう見てくると、浜渦ミニキム・ジョンイルは質問依頼という巧妙な手を使ってまで自民党議員が関わっているかもしれない利権を暴き、それを相手の弱点として自己をより優位な位置に立たせてより確かな支配権を手に入れようと企み、自民党側は自分たちの利権が暴かれるのを恐れて、質問依頼を逆利用して疑惑を隠す必要からの浜渦追い落としには成功したが、親分のミニキム・イルソンまで攻めるのは選挙上都合が悪いから、攻め手はそこまでの暗闘が相互に展開されたという図が見えてくる。

 浜渦ミニジョンイルはしぶとく昨年(06年)7月に、「国との交渉役」として都の参与に任命されたということだが、石原慎太郎の裏も表も熟知しているミニジョンイルを簡単には縁の切れた場所に置くことはできないのではないのか。石原ミニキム・イルソン共々浜渦ミニジョンイルを完全追い落としとするには、石原慎太郎3期目にノーを突きつけるしかないが、生まれつきの「まあ江戸っ子、東京っ子」にしても、地方出の「まあ江戸っ子、東京っ子」にしても、突きつけることができるかどうかである。

 いずれにしても投げたコインがウラを見せるかオモテを見せるか、「まあ江戸っ子、東京っ子」次第となる。責任重大であることは「まあ江戸っ子、東京っ子」は十分に自覚しているだろうとは思う。

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「発掘!あるある大事典2」/「狭義の強制性による捏造はなかった」

2007-03-07 07:19:07 | Weblog

 安倍首相「ご本人が(慰安婦と)いう道に進もうと思った方は恐らくおられなかったんだろうと、このように思います。また間に入って業者がですね、事実上強制をしていたという、まあ、ケースもあった、ということでございます。そういう意味に於いて、広義の解釈に於いて、ですね、強制性があったという。官憲がですね、家に押し入って、人攫いのごとくに連れていくという、まあ、そういう(狭義の解釈に於ける)強制性はなかったということではないかと」

 関西テレビ千草社長にしても。次のように言えるのではないか。「下請制作会社が従業員にですね、データーの捏造を事実上強制していたという、まあ、ケースもあった、ということでございます。そういう意味において、広義の解釈に於いて、ですね、データー捏造の強制性があったという。元請の当関西テレビがですね、家に押し入って、人攫いのごとくに連れていくという、まあ、そういう直接暴力に訴えるような(狭義の解釈に於ける)強制性を押しつけたことはなかったということではないかと、とまあ、思うわけです」

 安倍「米国で決議が話題になっているが、事実誤認があるというのが我々の立場だ。決議があったからといって、我々が謝罪するということはない。決議案は客観的事実に基づいておらず、日本政府のこれまでの対応も含まれていない」

 関西テレビ千草社長「総務省は捏造の責任を孫請会社にすべて転嫁しているとしていますがね、狭義・広義の観点から把えた強制性の問題で言えば、事実誤認があるというのが我々の立場だ。総務省、あるいは世論が責任を取って経営者は辞任すべきだと要求したとしても、我々が謝罪するということも辞任するということもない。要求は客観的事実に基づいておらず、関西テレビのこれまでの対応も含まれていない」

 千草社長は今後とも関西テレビの経営者に治まって、めげずくじけず捏造番組の制作に今後とも励んで頂きたい。と、まあ、このように思います。

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安倍従軍慰安婦論/業者の強制は軍の強制

2007-03-06 18:54:27 | Weblog

 昨日3月5日(07年)の参院予算委員会で、従軍慰安婦問題に関して次のようなやりとりをNHKの夜9時の「ニュースウオッチ」が伝えていた。質問者の小川民主党参院幹事長の発言の途中<()部分>を夜7時のNHKニュースから一部補強する。

 小川民主党参院幹事長「アメリカ合衆国の下院に於いて慰安婦をされていた方が、そういう強制があったという証言をしている。だから、下院で決議案が採択されるかどうかってことになってるんじゃないですか。(そうした人権侵害について、きちんとした謝罪なり対応しないと、日本のですね、国際的な信用を損なうことになってるんじゃないかと思います。)強制性はなかったと、いうような発言をされたんじゃないですか」

 安倍首相「ご本人がそういう道に進もうと思った方は恐らくおられなかったんだろうと、このように思います。また間に入って業者がですね、事実上強制をしていたという、まあ、ケースもあった、ということでございます。そういう意味に於いて、広義の解釈に於いて、ですね、強制性があったという。官憲がですね、家に押し入って、人攫いのごとくに連れていくという、まあ、そういう強制性はなかったということではないかと」

 朝日新聞(07.3.5.夕刊)に『首相答弁の要旨』が載っている。参考のために。

 「安倍首相の5日の参院予算委員会での従軍慰安婦問題に関する答弁の要旨は以下の通り。
 河野談話は基本的に継承している。狭義の意味で強制性を裏付ける証言はなかった。いわば官憲が家に押し入って連れて行くという強制性はなかったということだ。そもそもこの問題の発端は朝日新聞だったと思うが、吉田清治という人が慰安婦狩りをしたという証言をしたが、まったくのでっち上げだったことが後(のち)に分かった。慰安婦狩りのようなことがあったことを証明する証言はない。裏付けのある証言はないということだ。
 国会の場でそういう議論を延々とするのが生産的と思わないが当時の経済状況もあり、進んでそういう道に進もうと思った方はおそらくおられなかったと思う。間に入った業者が事実上強制したこともあった。そういう意味で広義の解釈で強制性があったとうことではないか。
 米国で決議が話題になっているが、事実誤認があるというのが我々の立場だ。決議があったからといって、我々が謝罪するということはない。決議案は客観的事実に基づいておらず、日本政府のこれまでの対応も含まれていない。米議会内の一部議員の動きを受けて、引き続き我が国の立場の理解をえるための努力を行っている」――
 
 「ご本人がそういう道に進もうと思った方は恐らくおられなかったんだろうと、このように思います。また間に入って業者がですね、事実上強制をしていたという、まあ、ケースもあった、ということでございます。そういう意味に於いて、広義の解釈に於いて、ですね、強制性があったという。官憲がですね、家に押し入って、人攫いのごとくに連れていくという、まあ、そういう強制性はなかったということではないかと」

 安倍首相の答弁にいつも思うことだが、「と、このように思います」とか、「という、まあ、ケースもあった」とか、「という、まあ、そういう強制性はなかった」云々、何と〝まあ〟、親身のかけらも感じることができない他人事のような物言いとなっている。安倍晋三という人間にある心性は名を残そうとする功名心だけで、真心とか優しさといったもの柔らかい感受性は彼の心の中には住み着いていないらしい。単純さだけは十分に感じ取ることができる。

 当ブログの記事『安倍首相のマヤカシの従軍慰安婦解釈』(07.3.4・日曜日)で、<例えそこが日本軍が設置した抑留所であっても、日常業務で出入りするのではなく、日常業務とは一切関係ない、また彼女たち(オランダ人抑留者)にとっても日常的な生活行為に関係のない慰安行為をさせるために「二台の車」で押しかけたのである。その場所で誇り高い天皇の軍隊に所属する日本兵は日常業務に於ける「強制性」とはまるきり別個の「強制」力を働かせた。オランダ人女性にしたら、抑留所とは言え、自分たちが住まいとしている居住空間に「乗り込ま」れ、有無を言わせず「連れて行」かされた。これを「河野談話」が言う「『政府が法律的な手続きを踏み、暴力的に女性を駆り出した』と書かれた文書」がないからと、「行きたくないが、そういう環境の中にあった」「広義の強制性」だと一般的な慰安婦問題とするマヤカシが許されるだろうか。
 最大の狡猾・巧妙なマヤカシは、「家に乗り込んで連れて行った」ことを「狭義の強制性」とする論理には、「強制性」が働く時点を「乗り込んだ」「家」にのみ置く自己都合を介在させていることであり、それ以外を一切無視していることである。>と書いた。

 安倍首相にしたら「強制性」の存在を慰安所の中ではなく、「官憲がですね、家に押し入って、人攫いのごとくに連れていくという、まあ、そういう強制性はなかった」と「家」に限定することによって、軍の「強制性」を持った関与を否定し、日本国、あるいは日本民族の名誉を守ることができると考えているからだろう。

 だが、負の事実を誤魔化して守る名誉とはどのような名誉を言うのだろうか。そうして守った名誉は本来放つべき輝きを見せることができるのだろうか。業者を通して軍の関与を証拠立てる資料が発見されるまで、慰安婦だったとする数々の証言を無視し、従軍慰安婦の存在そのものを、当時は慰安婦と言う言葉はなかったとか、あれやこれやの逃げの手を打っていたのである。中身ある名誉を持たない人間程、架空の権威を打ち立て、それを振りかざすことを以て名誉と勘違いする。その典型例が、〝万世一系〟だろう。歴史的に天皇は歴代の実質的支配者にとっての架空の権威に過ぎなかった。その程度の〝万世一系〟を名誉とし、誇ったとて、何程のこともないはずだが、滑稽にも日本民族の勲章の一つにしている。

 明治15年の軍人勅諭は言っている。「凡(およそ)軍人には上元帥より下一卒に至るまて其間に官職の階級ありて統属する(統制のもとに属すること)のみならす同列同級とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服従すへきものを下級のものは上官の命を承ること実は直(じか)に朕か命を承る義なりと心得よ」と天皇自らが命じた如くに天皇の兵隊大日本帝国軍隊は絶対命令・絶対服従を旨としていた。「上官の命令を受ける場合は天皇の命令を直接受けることと同じにせよ」と言っているのである。いわば上官は天皇の絶対性を体現していた。その一つがオランダ民間人抑留所に「一杯の日本兵を乗せて二台の車」を送り込み、「17歳から28歳の女性たちの中から10人」を選んで「そこから連れ去」り、慰安所に送り込むよう上官が絶対的命令として伝え、その命令に対して部下が天皇の兵士として絶対的服従の忠実さで実行に移して命令を物の見事に具体化することだった。その成果が将官・兵士共々による、検診の軍医も含めて誘拐してきたオランダ人女性に対する集団強姦なのは言うまでもない。

 (「停年」――「旧日本陸海軍で、同一の官等に服務しなければならない最低年限。この年限が過ぎなければ上級の官等に進級することができない。」『大辞林』三省堂)何という杓子定規。

 そして天皇の軍隊である大日本帝国軍隊の上官の絶対命令と部下の絶対服従は軍体内だけの規律ではなく、大日本帝国軍人と一般民間人の間にも働いていた関係力学であった。大日本帝国軍隊自体が天皇の絶対性を全体として担っていたからである。その軍隊自体の絶対性は勝利者として君臨していた中国大陸や朝鮮半島といった占領地に於いても当然保証されていた。

 その絶対性が裁判もかけずに現地住民をスパイだと決め付けてリンチ同然に処刑したり、日本刀の試し切りだと称して首をはねることをいともたやすく可能にしていた力の源泉であったはずである。その結果として獰猛果敢、鬼と恐れられる勲章を手に入れた。

 勿論そのような天皇の大日本帝国軍隊の内外を問わない絶対命令と絶対服従の関係は部下の兵士が上官の命令を絶対とした関係と併行して軍と業者の関係を強制していただろうことは想像に難くない。

 いわば業者は軍からの指示・依頼を絶対命令として受け止め、絶対服従を守備範囲としてそこから外れることを許されない行動を取らなければならなかった。当然軍の指示・依頼が強制の性質を帯びた場合、絶対服従を可能とするためには業者の他に対する指示・依頼も同じように強制の性質を持たせなければ絶対服従を実現させることはできない。

 業者の「強制性」は軍の「強制性」を受けた行動性だということである。それを証明する新聞記事がある。「日中戦争末期、日本軍の占領下にあった中国・天津市で、公娼の中国人女性を『慰安婦』として派遣するよう日本軍が指示していた実態を示す当時の中国側の公文書が見つかった」というもので、かいつまんで引用する。

 『日本軍と業者一体徴集・慰安婦派遣・中国に公文書』(1993.3.30)

 ○文書は1944年から45年にかけて、日本軍の完全な支配下
  にあった天津特別市政府警察局で作成された報告書が中
  心で約400枚。
 ○日本人や朝鮮人が経営する売春宿の他に中国人が経営す
  る「妓院」は登録されただけでも300軒以上あり、約30
  00人の公娼がいた。
 ○日本軍天津防衛司令部から警察局保安科への命令
  ①河南へ軍人慰労のために「妓女」を150人を出す。期
   限は1カ月。
  ②借金などはすべて取消して、自由の身にする。
  ③速やかに事を進めて、二、三日以内に出発せよ
 ○指示を受けた警察保安科は売春業者団体の「天津特別市
  楽戸連合会」を招集し、勧誘させ、229人が「自発的に
  応募」(とカッコ付きで記事は書いている)。性病検査
  後、12人が塀を乗り越え逃亡。残ったうちから86人が選
  ばれ、防衛司令部の曹長が兵士10人と共に迎えに来る。
 ○その後の6月24日付の保安科長の報告書は86人のうち半
  数の42人の逃亡を伝えているとのこと。
 ○1945年7月31日の警察局長宛て保安科の報告書添付文書
  「軍方待遇説明」には、徴集人数は25人、「身体が健康
  、容貌が秀麗であることをもって合格とする」とし、期
  間は「8月1日から3ヶ月間」
 ○日本軍からの派遣の指示が出たのは7月28日で、準備期
  間は4日しかなかった。(当然、業者はかなりの強制力
  を働かせなければ、途中で逃亡しないような相手を短い
  時間で集めることはできなかったに違いない。)
 ○待遇――本人に1カ月ごとに麦粉2袋。家族に月ごとに
  雑穀30キロ。慰安婦の衣食住・医薬品・化粧品は軍の無
  料配給。
 ○花代――兵士「一回十元」・下士官「二十元」・将校「
  三十元」
 ○「この報告書には、山東地方の日本軍責任者と業者、警
  察局の三者が7月30日に会議を開き『万難を排いのけ一
  致協力して妓女を二十五人と監督二人を選抜することを
  決めた』と記述。また、防衛司令部の副官が『日本軍慰
  労のための派遣は大東亜全面聖戦の成功に協力するもの
  で、一地域にこだわってはいけない。すみやかに進めよ
  』と業者に対して訓示したことも記録されている」――

 『藤原彰一橋大名誉教授(近現代史)の話』と『意思に反した強制示す』と題した解説文を全文引用してみる。

 藤原彰一橋大名誉教授『要求と命令 時期も注目』「日本軍と民間業者の関係を具体的に明らかにした資料として貴重だ。業者が勝手に行っていたわけではなく、『慰安婦』は軍の要求のもとで徴集されていた。1944年という時期にも注目したい。この年の春、日本陸軍最大の作戦が中国大陸で始まっていた。占領地を縦断的に広げようという『大陸打通作戦』で、河南省を新たに占領するために主力部隊を動員していた。河南の前線への『慰安婦』派遣要請は、天津に限らず、ほかの地域でも同時期行われていたとの日本軍関係者の証言資料もある。前線では強制拉致も行われていたが、天津や上海のような後方の大都会では業者を利用して女性を集めていた。同様の資料は上海などにも残っているだろうから、やがて全体像が明らかになっいくだろう。」

 解説「従軍慰安婦問題に関する政府見解の基本にあるのは1993年の官房長談話だ。慰安婦の徴集(募集)における『強制性』が初めて認められた。
 この談話が慰安婦問題を教科書に載せる根拠の一つになったが、記述削除を求める一部の学者や政治家らは『慰安婦は民間業者に伴われた公娼だった』などと主張。さらに、談話を裏付ける公文書がないなどとして、軍や政府の関与責任を実質的に否定してきた。一部の地方議会も、そうした指摘に沿って記述削除を求める意見書などを採択している。
今回見つかった中国側公文書は、こうした議論に対して、まず、軍と業者が徴集段階から 協議を重ね、資金面でも協力していたことを明らかにしている。もう一つのポイントは女性たちの集団逃亡の事実が記録されている点だ。
 『公娼は商行為』として『自由意志』であるかのような主張が繰り返されてきた。しかし半数以上の女性が、性病検査の後や前線に連れられていく途中、監視をかいくぐる危険を冒してまで逃げ出そうとした記述は、そこに本人の意志に反した『強制』があったことをうかがわせる。(中沢 一議)」

 「談話を裏付ける公文書がない」とする否定が通用しなくなって、今度は「強制性」を「広義」と「狭義」に分けて、往生際悪く逃れようとする。
 
 借金などはすべて帳消しして自由の身とする、本人に1カ月ごとに麦粉2袋、家族に月ごとに雑穀30キロ、慰安婦の衣食住・医薬品・化粧品は軍の無料配給。兵士「一回十元」・下士官「二十元」・将校「三十元」の花代はそのときまで勤めていた店の手当てよりも高額のはずだから、いいこと尽くめのこの上ない最高の条件を危険な逃亡という手段で袖にしたのである。「解説」が言うとおりに、「自発的」が強制であったことを窺わせるが、なぜ待遇を危険な逃亡と引き換えたのかという疑問は単に「強制」が理由だけではあるまい。

 考えられることは、好条件が単に女たちを釣るためのエサでしかなく、一旦言いなりになったなら反故にされることを知っていたからか、一見好条件に見える待遇はそれを帳消しして余りある悪条件を代償としなければならないことを知っていたからではないか。

代償的悪条件とは休む暇もなく次から次へと兵士に求められ、身体を壊すのがオチで、身体を壊したら、何を貰っても無意味となる危険をいうのではないか。あるいは日本兵士の限度を知らない飽くなき要求を既に肌で学習していただけではなく、無闇やたらと威張り散らす権威主義的態度を心の中では激しく拒絶していたため、日本兵士だけの中に放り込まれることを忌避したことが「半数以上の女性」の逃亡ということもあり得る。

 いずれにしても天皇の大日本帝国軍隊の「強制性」が業者へと作用して業者の「強制性」を誘発し、業者の「強制性」がそれ以下はない慰安婦に作用したという構造を取ることに変わりはないだろう。いわば業者の強制は軍の強制ということであって、その関係性から言うと、安倍晋三が言うように「間に入って業者がですね、事実上強制をしていた」と、業者だけの「強制」とするだけでは済すわけにはいかない構図であろう。

 また「官憲がですね、家に押し入って、人攫いのごとくに連れていくという、まあ、そういう強制性はなかった」とのんきなことを言っているが、形としてはそうだとしても、軍の「強制性」を業者が代弁して「人攫いのごとくに連れていくという、まあ、そういう強制性」があっただろうことは決して否定できまい。

 現在でも上の強制が下の強制を生む構造は存在する。元請企業が仕事を発注する自らの絶対性に立って、一次下請に部品単価の減額を強制する。一次下請は仕事を失う恐れから元請企業の強制を受容し、その強制を自らの強制として二次下請へと回す。二次下請は三次下請へと・・・・・。

 大日本帝国軍隊の頂点に天皇が位置していたように、トヨタのような元請大企業が現在では天皇の立場に位置し、自らの絶対性を強制力に変えて各下請会社を絶対命令と絶対服従の関係で律している。

 業者の強制は軍の強制であるのと同じ構造を取って、一次下請、二次下請の強制は元請大企業の強制となっているのである。

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安倍首相のマヤカシの従軍慰安婦解釈

2007-03-04 18:47:54 | Weblog

 ――最初にご案内。

 ブログ<薔薇、または陽だまりの猫 「慰安婦」の人権の保護についての公聴会/米下院外交委員会 >に07年「2月15日に行われた米下院公聴会でのオランダ人ヤーン・ルフ・オヘルネさんの陳述の仮訳」が載っています。興味のある未アクセスの人はアクセスしてみてください。大変参考になります。
* * * * * * * *
 安倍首相や山本一太等が従軍慰安婦に関して「強制性」があったかどうかの問題で「狭義の強制性」とか「広義の強制性」という言葉を使っている意味が分からず、インターネットで調べても答えに行き着くことができなかったが、今朝3月4日(07年)の朝日朝刊に詳しく出ていて、やっと納得することができた。

 『「強制性」解釈のズレ波紋』。副題は「慰安婦問題首相の発言 対米韓で危機感も」

 ――従軍慰安婦に対する日本政府の姿勢に改めて関心が集まっている。1日の安倍首相の発言が海外で波紋を広げているほか、米下院では慰安婦問題で首相の公式謝罪を求める動きもある。首相は軍当局の関与と「強制性」を認めた官房長官談話を引継ぐ立場を変えていないが、談話が示す「強制性」の定義をめぐる解釈のズレも、様々なあつれきを生む背景にあるようだ。(藤田直央、ワシントン=小村田義之)
 首相が河野談話継承を表明したのは、中韓両国訪問を控えた昨年10月上旬の衆院予算委員会だ。
 この時、首相は「家に乗り込んで連れて行った」ことを「狭義の強制性」とし、「行きたくないが、そういう環境の中にあった」ことを「広義の強制性」と説明。その上で、「今に至ってもこの狭義の強制性については事実を裏付けるものは出てきていなかったのではないか」と指摘し、「広義の強制性」を認めた河野談話を引継ぐという考え方を強調した。
 河野氏は97年の朝日新聞のインタビューで「『政府が法律的な手続きを踏み、暴力的に女性を駆り出した』と書かれた文書があったかと言えば、そういうことを示す文書はなかった。けれども、本人の意志に反して集められたことを強制性と定義すれば、強制性のケースが数多くあったことは明かだった」と語っている。
 首相が1日、記者団とのやりとりで「当初、定義されていた強制性」について「裏付けるものはなかった」と語ったのも同じ趣旨だ。
         (中略)
 首相の発言概要

 「河野談話」について安倍首相と記者団が行ったやりとりの概要は次の通り。
 ――自民党議連で談話見直しの提言を取りまとめる動きがありますが。
 「当初、定義されていた強制性を裏付けるものはなかった。その証拠はなかったのは事実ではないかと思う」
 ――強制性連行の証拠がないにもかかわらず(強制性を)認めたという指摘もあります。談話見直しの必要性は。
 「(強制性の)定義が(「狭義」から「広義」へ)変わったということを前提に考えなければならないと思う」
 ――(議連の)動きは中韓との関係に水を差す懸念はありませんか。
 「歴史について、いろいろな事実関係について研究することは、それはそれで当然、日本は自由な国だから、私は悪いことではないと思う」――

 安倍首相の立場は「軍の関与」は認めるが、強制的慰安婦問題はなかったとするものだろう。

 だが、安倍首相の論理には美しい国の美しい首相にふさわしいゴマカシがいくつもある。先ず第一番に河野元官房長官は言う。「『政府が法律的な手続きを踏み、暴力的に女性を駆り出した』と書かれた文書があったかと言えば、そういうことを示す文書はなかった。けれども、本人の意志に反して集められたことを強制性と定義すれば、強制性のケースが数多くあったことは明かだった」

 ここでいう「広義」とは、〝一般的〟ということであり、「狭義」とは〝具体的〟な様子を指すのだろう。一般的な慰安婦問題は確かに存在した、しかし「強制性」を具体的に示す「狭義」の意味での慰安婦問題は存在しなかった――。

 誰が知恵をつけたのか、単細胞の安倍晋三が思いつくはずはない。「文書」がないことを逆手に取って「強制性」を「狭義」と「広義」に分け、そこに韜晦の線引きを行う言い逃れをやってのけている。しかし刑事裁判でも、物的証拠がなくても状況証拠を積重ねて有罪とするケースがあることを無視している。

 3月3日土曜日に記載した当ブログの「従軍慰安婦問題2」に引用したNHKテレビの「ソニアの日記」で解説は途中で「日本軍の抑留所部隊が作成した抑留者の死亡診断書です」と表紙に墨書で大きく『抑留者死亡関係書類綴』と漢字で書いてある赤茶けた一冊の書類を写し出して、「日本軍は終戦直前に抑留者に関する書類の焼却をを命じました。この書類は焼却を免れてオランダに残りました。昭和20年以降、死亡者の数は急速に増えていきます。終戦までに6300人を超える人が亡くなりました」と説明している。

 駐屯地を敵側に引き渡して撤退しなければならなくなったとき、関係書類を焼却するのは軍隊の常套手段であるし、政府にしても、純粋な軍事命令以外の国際条約に違反する命令・指示は、例え文書で行ったとしても、伝達され次第焼却を命ずるであろう。現在の企業でも不正を行って官憲に知れたとき証拠書類を焼却処分、もしくは廃棄処分するケースはある。「文書」がないからと言って、直ちに無罪放免とはいかない。無罪放免にさせようと「広義」・「狭義」に分別処理のマヤカシをやらかす。

 「美しい」を盛んに口にするが、美しくない政治家の代表安倍首相の「家に乗り込んで連れて行った」「狭義の強制性については事実を裏付けるものは出てきていなかった」という説明自体にも巧妙なまでのマヤカシを忍ばせている。

 オランダ民間人が抑留されていたアンバラワ抑留所にそこを日常的に管理している日本兵とは別の「日本兵士を乗せて二台の車がやって来」て「18歳から28歳までの女性」(HP「日欄歴史調査研究」のアンバラワ抑留所「強制慰安」(http://niod.nihon.nl/doc_body.php?tekst_par=kampen/ambarawa/14_1.txt)を強制的に連れ出した行為は「家に乗り込んで連れて行った」「狭義の強制性」の「事実を裏付ける」証拠例とはならないだろうか。

 例えそこが日本軍が設置した抑留所であっても、日常業務で出入りするのではなく、日常業務とは一切関係ない、また彼女たちにとっても日常的な生活行為に関係のない慰安行為をさせるために「二台の車」で押しかけたのである。その場所で誇り高い天皇の軍隊に所属する日本兵は日常業務に於ける「強制性」とはまるきり別個の「強制」力を働かせた。オランダ人女性にしたら、抑留所とは言え、自分たちが住まいとしている居住空間に「乗り込ま」れ、有無を言わせず「連れて行」かされた。これを「河野談話」が言う「『政府が法律的な手続きを踏み、暴力的に女性を駆り出した』と書かれた文書」がないからと、「行きたくないが、そういう環境の中にあった」「広義の強制性」だと一般的な慰安婦問題とするマヤカシが許されるだろうか。

 最大の狡猾・巧妙なマヤカシは、「家に乗り込んで連れて行った」ことを「狭義の強制性」とする論理には、「強制性」が働く時点を「乗り込んだ」「家」にのみ置く自己都合を介在させていることであり、それ以外を一切無視していることである。

 軍に依頼された慰安婦募集業者が兵士相手に酌をするだけでカネになると甘言で釣り、とにかく軍に渡してカネさえ手に入れればこっちの勝ちだとあとはよろしくと早々に退散する。軍の方で女を慰安所に連れて行き、兵士に渡す。そんなはずはないと抵抗しても男の力には適わず、衣服剥され、強姦され、やっと解放されたと思ったら、次の兵士が待ち構えていて再び強姦同様に慰み者となる。いわば「強制性」は「家に乗り込んで連れて行った」形では働かなかったが、慰安所の特定の部屋の中で初めて顔を見せたのである。

 このような例を以て「行きたくないが、そういう環境の中にあった」「広義の強制性」(=一般的な慰安婦問題)だとすることができるのだろうか。

 もしそうすることができるとしたら、日本国内から暴力的に拉致された被害者と違って、松木薫さん、石岡亨さん、有本恵子さんらがそれぞれの海外の留学先から暴力的な拉致行為によってではなく、面白い仕事がある、北朝鮮で働いてみないかといった甘言に釣られて北朝鮮工作員と共に平和裡に北朝鮮に入国したとしたら、あとで「強制性」が働いたとしても、慰安婦が軍隊に渡されるまで「強制性」が働かなかったと例と同じように入国の時点では「強制性」は働かなかったのだから、「広義」の拉致であって、「狭義」の拉致ではないとすることができるだろうか。北朝鮮側が北朝鮮「『政府が法律的な手続きを踏み、暴力的に』『駆り出した』と書かれた文書」は存在しないと、文書の存在の有無のみで拉致を否定することもできることになる。被害者がのちに北朝鮮で生きていることが確認されたとしても、拉致を証明する唯一の方法は「文書」の存在のみで、どのような状況証拠も証明には無力としなければならなくなる。矛盾していないだろうか。

 「美しい国」安倍「美しい」首相の慰安婦に関わるマヤカシは北朝鮮・金正日将軍様の拉致問題に関わるマヤカシと同列・同根、軌を一にするマヤカシと言わざるを得ない。

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