安倍晋三が4月23日の参院予算委で、「侵略という定義は国際的にも定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかということに於いて(評価が)違う」と間接的に日本の戦争は侵略戦争ではないと否定したことに対して韓国や中国からの反発だけではなく、アメリカのマスコミや議会から批判が出た。 《安倍晋三だけは首相にしてはいけない、その天皇中心主義に見る頭の程度と質の悪さ - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》
5月1日に米議会調査局が安倍晋三の発言を批判する「日米関係報告書」を公表。《米議会調査局「安倍首相の歴史認識、国益に有害」》(朝鮮日報/2013/05/10 08:34)
「日米関係報告書」「強固な国粋主義者といわれる日本の首相が、帝国主義日本の侵略やアジアの犠牲を否定する歴史修正主義に加勢している。慰安婦と呼ばれる性的奴隷、歴史教科書、靖国神社参拝、韓国との領土対立への安倍首相のアプローチは、米国はもちろん日本の近隣諸国からも注意深く監視されている。
首相は情熱的な国粋主義者を閣僚に任命し、これらの閣僚が靖国神社を参拝した。安倍首相は、従軍慰安婦の強制動員を認めて謝罪した『河野談話』を修正すべきだという持論を持っており、これを実際に断行した場合、韓日関係は悪化するだろう」――
対して菅官房長官が5月9日の記者会見で釈明している。《安倍首相批判は「レッテル貼り」=米議会報告は誤解-菅官房長官》(時事ドットコム/2013/05/09-18:25)
菅官房長官「議会の公式見解ではない。コメントは差し控えるべきだが、誤解に基づくものだろう。(中国や韓国に批判に対して)レッテル貼りではないか。
かつて多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に多大な損害と苦痛を与え(たとの認識は)安倍内閣もこれまでの内閣と同じだ。しっかり理解してもらう(よう)外交の中で説明していく」――
菅官房長官は「日米関係報告書」が安倍晋三を「強固な国粋主義者」と批判していることも含めて誤解に基づく歴史認識だと逆に批判している。
また、中国や韓国の批判は事実を根拠としない、批判だけを目的とした決まりきった言葉の投げつけ――レッテル貼りではないかと一蹴。
果たしてそうだろうか。
すべての批判を誤解だとするための理由として菅官房長官は日本の戦争が多大な損害と苦痛を与えたとする歴史認識を安倍内閣も踏襲しているとする事実を持ち出した。
安倍晋三自身も5月8日午前中の参議院予算員会で同じ発言をしている。
安倍晋三「かつて多くの国々、とりわけアジアの人々に、多大な損害と苦痛を与えたことは過去の内閣と同じ認識だ。その深刻な反省から、戦後の歩みを始め、自由と民主主義、基本的な人権をしっかりと守り、多くの国と共有する普遍的な価値を広げる努力もしてきた」(NHK NEWS WEB)
間接的に日本の戦争の侵略事実を事実でないと否定しているのである。侵略戦争が与えた「多大な損害と苦痛」とそうでない戦争、例えば自存自衛だとする戦争、アジア解放だとする戦争が与えた「多大な損害と苦痛」とでは言葉に込めた意味・感情が異なってくる。
国粋主義者とは断るまでもなく自国を絶対とする思想に染まった人間のことを言い、民族主義者、国家主義者を指す。安倍晋三が「天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた」とする、天皇を日本の歴史の縦糸、中心と見做し、皇室の存在を日本の伝統と文化そのものと見做している日本国天皇中心主義とも言うべき思想そのものが既に国家主義者、国粋主義者であることを証明している。
日本という国を国民主権、民主主義の時代となっても支配者の位置から価値づけているからである。戦後生まれでありながら、戦前の思想を今以て引きずっている。復古主義者と言われる所以である。
戦前の日本は国家主義の国であった。国民の権利・自由よりも国家を優先させた。戦争がそれを破綻させ、占領軍が国家主義の日本を民主主義の国に変えた。
だから、安倍晋三は占領政策、占領時代を忌避し、占領政策がもたらした日本国憲法を変えようとしている。
安倍晋三が思想としている日本国天皇中心主義――天皇を日本の歴史の縦糸、中心と見做し、皇室の存在を日本の伝統と文化そのものと見做している“アベノイデオロギーミクス”とも言うべき思想は事実に立脚しているのだろうか。
2012年9月16日の当ブログに次のようなことを書いた。
天皇とは何者か?
日本の歴史を『日本史広辞典』(山川出版社)を参考にひも解いてみよう。大和 朝廷で重きをなしていた最初の豪族は軍事・警察・刑罰を司る物部氏であった。
それを滅ぼして取って代わったのが蘇我氏である。蘇我稲目は欽明天皇に二人のムスメを后として入れ、後に天皇となる用明・推古・崇峻の子を設けている。
稲目の子である崇仏派の馬子は対立していた廃仏派の穴穂部皇子と物部守屋を攻め滅ぼし、自分の甥に当たる崇峻天皇を東漢駒(やまとのあやのこま)に殺させて、推古天皇を擁立し、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子にしている。このような皇室に対する恣意的な人事権は実質的な権力者が天皇ではなかったことの証明であろう。
親子である「蘇我蝦夷と蘇我入鹿は甘檮岡(あまかしのおか)に家を並べて建て、蝦夷の家を上の宮門(みかど)、入鹿の家を谷の宮門と称し、子を王子(みこ)と呼ばせた」と『日本史広辞典』に書かれているが、自らを天皇に擬すほどに権勢を誇れたのは、その権勢が天皇以上であったからこそであろう。
聖徳太子妃も馬子のムスメで、山背大兄王(やましろのおおえのお)を設けている。だが、聖徳太子没後約20年の643年に蘇我入鹿の軍は斑鳩宮(いかるがのみや)を襲い、一族の血を受け継いでいる山背大兄王を妻子と共に自害に追い込んでいる。
蘇我入鹿は大化の改新で後に天智天皇となる中大兄(なかのおおえ)皇子に誅刹されているが、後の藤原氏台頭の基礎を作った中臣鎌足(なかとみのかまたり)の助勢が可能とした権力奪回であるから、皇子への忠誠心から出た行為ではなく、いつかは天皇家に代って権力を握る深慮遠謀のもと、いわば蘇我氏に続く実質権力者を目指して加担したことは十分に考えられる。
その根拠は鎌足の次男である藤原不比等(ふじわらのふひと)がムスメの一人を天武天皇の夫人とし、後の聖武天皇を設けさせ、もう一人のムスメを明らかに近親結婚となるにも関わらず、外孫である聖武天皇の皇后とし、後の孝謙天皇を設けさせるという、前任権力者の権力掌握の方法の踏襲を指摘するだけで十分であろう。
藤原氏全盛期の道長(平安中期・966~1027)はムスメの一人を一条天皇の中宮(平安中期以降、皇后より後から入内〈じゅだい〉した、天皇の后。身分は皇后と同じ)とし、後一条天皇と後朱雀天皇となる二人の子を産んでいる。別の二人を三条天皇と外孫である後一条天皇の中宮として、「一家三皇后」という偉業(?)を成し遂げ、「この世をば我が世とぞ思ふ」と謳わせる程にも、その権勢を確かなものにしている。
藤原氏の次に歴史の舞台に登場した平清盛は実質的に権力を握ると、同じ手を使って朝廷の自己権力化を謀る。ムスメを高倉天皇に入内(じゅだい)させ、一門で官職を独占する。今で言う、ついこの間失脚したスハルトの同族主義・縁故主義みたいなものである。その権力は79年に後白河天皇を幽閉し、その院政を停止させた程にも天皇家をないがしろにできるほどのものであった。
本格的な武家政権の時代となると、もはや多くの説明はいるまい。それまでの天皇家の血に各時代の豪族の血を限りなく注いで、血族の立場から天皇家を支配する方法は廃れ、距離を置いた支配が主流となる。信長も秀吉も家康も京都所司代を通じて朝廷を監視し、まったくもって権力の埒外に置く。いわば天皇家は名ばかりの存在と化す。
そのように抑圧された天皇家が再び歴史の表舞台に登場するのは、薩長・一部公家といった徳川幕府打倒勢力の政権獲得の大義名分に担ぎ出されたことによってである。明治維新2年前に死去した幕末期の孝明天皇(1832~1866)に関して、「当時公武合体思想を抱いていた孝明天皇を生かしておいたのでは倒幕が実現しないというので、これを毒殺したのは岩倉具視だという説もあるが、これには疑問の余地もあるとしても、数え年十六歳の明治天皇をロボットにして新政権を樹立しようとしたことは争えない」と『大宅壮一全集第二十三巻』(蒼洋社)に書いてある。
天皇家と姻戚関係を結んで権力を確実なものとしていったかつての政治権力者は確実化の過程で不都合な天皇や皇太子を殺したり、幽閉したり、あるいは天皇の座から追い出したりして都合のよい天皇のみを頭に戴いて権力を握るという方法を採用している。そのような歴史を学習していたなら、再び天皇を頭に戴いて権力を握る方法を先祖返りさせた倒幕派が天皇と言えども都合の悪い存在を排除するために「毒殺」という手段を選んだとしても、不思議はない。
明治以降実質的に権力を握ったのは薩長・一部公家の連合勢力であり、明治天皇は大宅壮一が指摘したように彼らの「ロボット」に過ぎなかった。天皇を現人神という絶対的存在に祭り上げることで、自分たちの政治意志・権力意志をさも天皇の意志であるかのように国民に無条件・無批判に同調・服従させる支配構造を作り上げたのである。これは昭和天皇の代になっても引き継がれた。実質的な権力を握ったのは明治政府の流れを汲む軍部で、彼らの意志が天皇の意志を左右したのである。軍服を着せられた天皇の意志によって戦争は開始され、天皇の意志によって国民は戦場に動員され、天皇の意志によって無条件降伏を受入れさせられるという形を取った。
かくこのように日本の権力は常に二重構造を取り、天皇はその一方の名目的な権力者に過ぎなかった。実質的な政治権力は世俗的権力者に握られていた。彼らからしたら、天皇の存在は権力掌握の正統性を証明する便宜的な背景に過ぎなかったはずだ。
当然、「天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた」としている歴史の縦糸にしても権力の二重構造の影響を受けて、世俗権力掌握の正統性を証明する歴史を通した便宜的な「縦糸」に過ぎなかったことになる。
そのような「縦糸」が果たして日本の歴史の実質的な中心を担うことができたのだろうか。日本の伝統と文化の主宰者足り得ただろうか。
日本の歴史の実質的な中心は各時代に於ける物部氏や蘇我氏、藤原氏、それ以降の各世俗権力者であり、彼らが各時代の伝統と文化に影響を与え、ときには民衆発祥の伝統と文化と拮抗し、ときには混交し、また、中国・朝鮮半島に始まって、オランダやポルトガル、そしてヨーロッパやアメリカ等の外国の文化の影響を受けながら引き継がれてきたのである。
いわば日本の伝統と文化は外国を含めた様々な要素が混ざりに混ざり合った総合体だということであって、天皇家の伝統・文化に限定して説明するとしても、それを頑固に守り通こと自体、そもそもは中国や朝鮮半島の伝統と文化から取り入れたその反映を踏襲することになって、天皇を日本の歴史の縦糸、中心と見做すこと自体、あるいは「皇室の存在は日本の伝統と文化のもの」という表現で日本の伝統と文化のすべてが皇室の存在に関係する、あるいは皇室の存在が生み出したとすること自体、歴史の歪曲以外の何ものでもない。
いわば安倍晋三の歴史修正主義は日本の戦前の戦争に関わる歴史認識だけではなく、天皇に関する歴史認識に於いてもその力を発揮している。
国家の中心に天皇を何が何でも据えたい欲求を抱えた国家主義者、国粋主義者だからこその歴史修正主義的な天皇の価値づけなのだろう。
国民の立場よりも国家の立場を上に置き、優先させる国家主義者、国粋主義者は体質的に国家の誤謬に拒否反応を持っている。国家の誤謬は国民の立場よりも国家の立場を上に置き、優先させる思想の否定要因となりかねないからだ。
国家を正しい存在、無誤謬な存在と価値づけることによって国家主義、国粋主義は成り立つ。戦前の日本は神聖にして侵すべからずの絶対的存在とした天皇を国家元首とした大日本帝国を常に正しい国家とし、そのことを以って国民を統治してきた。
そのような正しい国家にとって侵略戦争は認めることのできない否定要素となる。
また、戦前日本を正しい国家としているからこそ、靖国神社参拝も可能となる。「お国のために尊い命を捧げた」と命を捧げた対象としての国家を正当化できる。
安倍晋三の一国のリーダーの参拝義務正当化の発言をみてみる。
小泉内閣時代、自民党幹事長代理だった安倍晋三は2005年5月2日、ワシントンのシンクタンク「ブルッキングス研究所」で講演。
安倍晋三(中国が小泉首相の靖国神社参拝の中止を求めていることについて)「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」
2013年2月7日の衆院予算委員会。
安倍晋三「私の基本的な考え方として、国のために命を捧げた英霊に対して国のリーダーが尊崇の念を表する、これは当然のことだろうと思いますし、各国のリーダーが行っていることだろう、こう思っています。その中で、前回の第一次安倍内閣において参拝できなかったことは、私自身は痛恨の極みだった、このように思っております」――
そして合祀されているA級戦犯に関しては、「国内法的には犯罪人ではない」と免罪して、参拝の障害とはならないとしている。
だが、歴史という長大なタペストリーの縦糸の一部分を継ぎ、日本の伝統と文化の表現者の一人として戦前と戦後の昭和時代を担った昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀が意に召さず、「だから私はあれ(合祀)以来参拝していない。それが私の心だ」とA級戦犯合祀に拒絶反応を示し、それ以来不参拝を貫いた。
現天皇もその意志を受け継いでいる。
要するに昭和天皇は安倍晋三と違ってA級戦犯を戦争を主導した戦争犯罪者と見ているということだろう。当然、その戦争に対して侵略戦争という位置付けを行なっていることになる。
A級戦犯を間違っていない戦争を主導した国家指導者と見ていたなら、強烈な拒否反応を示す理由はなくなる。いわば国家を常に正しい存在と見る国家無誤謬の国家主義、国粋主義の昭和天皇からの解放を意味するはずだ。
昭和天皇は日中戦争から太平洋戦争、そして敗戦に至るまで皇居で日本国家の間違いの数々を見てきた。軍部が昭和天皇に対してウソの戦果の報告をしたことも、少なくとも戦後には知ることとなっていたはずだ。
このような点に戦後生まれでありながら、民主主義と国民主権の戦後の時代に国家主義・国粋主義を思想としている安倍晋三との大きな違いがある。
当然、「日米関係報告書」が安倍晋三を「強固な国粋主義者」と位置づけたことを含めてその歴史認識を批判したことに対して菅官房長官が「誤解だ」としたことは不当な正当化であり、報告を正解としなければならない。
また、安倍晋三がA級戦犯の戦争犯罪を免罪しているばかりか、戦前の日本を現在でも国民の上に置く正しい国家と歴史認識している以上、既に触れたが、「侵略という定義は国際的にも定まっていない」の口実のもと間接的に否定したとおりに日本の戦争を侵略戦争と見ていない歴史認識を抱えていることは確実であって、これらの点から判断すると、安倍晋三が「かつて多くの国々、とりわけアジアの人々に、多大な損害と苦痛を与えたことは過去の内閣と同じ認識だ」としていることは本心ではなく、批判を受けて国会運営が困難を来さないための単なる体裁に過ぎないと解釈せざるを得ないことになる。
このような解釈と結果として安倍晋三の歴史認識に対する各方面からの批判は決して「レッテル貼り」でも何でもなく、正当な批判であり、批判は安倍晋三が戦前の日本国家を正しい国家だったと認識している国家主義者・国粋主義者であることから起こっていると見なければならない。
自国を絶対とするその国家主義・国粋主義は、既に目にすることになっているように自国を絶対とする潜在意識が意図しなくても表に現れて外国との摩擦を招く危険性を裏合わせとしている。民主主義と基本的人権、グローバルな国際社会の時代に決して受け入れてはならない安倍晋三の国家主義・国粋主義としなければならない。