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高市早苗の夫婦別姓をパスポートの旧氏併記要件大幅緩和等通称使用機会確保で解決可とするお花畑なノー天気

2025-04-09 05:02:11 | 政治

 自己同一性(アイデンティティ)とは、自分は自分であるという個性面・人格面での独自性、生き方の独自性を指す。

 物心つくと、生まれたときからの名字と名前に基づいて自分は自分であるということを意識ながら行動し、生きていくことになるから、ほかの誰でもない、自分は自分であるという独自性を意識したり、確認したりする際には名字と名前を拠り所とすることになり、名字と名前が自分は自分であることとイコールを成すことになる。

 結果、自分は自分であるという個性面・人格面での独自性、生き方の独自性を示す自己同一性(アイデンティティ)は名字と名前と一体となって付いて回ることになり、それ程にも名字と名前と自己同一性(アイデンティティ)は密接な関係を持つことになる。

 自分の生き方を大切にして自らの個性面・人格面での独自性を培いつつ自らの足跡を築いてきた女性、もしくは男性それぞれの自己同一性はその人の生き方の核心的な本質部分を占めることになるが、名字と名前によって切っても切れない一体性を取っているにも関わらず、結婚後にその主たる一部である名字を手放し、別の名字を名乗ることはそれまでの名字と名前を背景として築いてきた自己同一性との一体性を断絶させることを意味し、この断絶は従来の名字と名前に紐付けて培ってきた生き方の独自性としての自己同一性であるがゆえに新しい名字で紐付け直すことは生き方の歴史を塗り替えるに等しく極めて困難で、それ程にも存在の本質部分に食い込んでいる一体性と見なければならない。

 当然、結婚後、名字を変えたとしても、旧姓を通称使用することで何ら心理的な抵抗もなく夫婦別姓の代替策としうると考え、夫婦別姓に強硬に反対する集団は生まれたときからの名字と名前を維持することでしか守ることができないことの、その一体性としてある本質的な存在性、本人独自の自己同一性(アイデンティティ)を理解する頭を持っていないことになる。

 その集団の代表格が自由民主党高市早苗で、2025年4月号「月刊正論」に寄稿の『夫婦別姓不要論 通称使用でなぜいけない』から、その無理解の程度を見てみる。

 先ず、〈自民党は、戸籍のファミリー・ネームは守った上で、婚姻により戸籍氏が変更になった場合にも社会生活において不便を感じないよう、旧氏を通称使用できる機会を拡大するため、長年にわたって努力を続けてきました。〉と主張、夫婦同姓の統一された名字のみを「ファミリー・ネーム」と決めつけ、夫婦別姓の異なる名字を「ファミリー・ネーム」から除外している。

 例え名字を異にしても、夫婦別姓の当事者からしたら、それぞれの名字が「ファミリー・ネーム」であり、「ファミリー・ネーム」とすることになる事実に理解が追いついていない。

 さらに2015年の最高裁判決の趣旨に基づいて夫婦同氏制度を定める民法750条の規定を「合憲」と判断した2021年6月23日の最高裁判断を持ち出して同姓制度の正当性を、いわば別姓制度の不当性を主張しているが、高市早苗は自身のサイトの「Column」で、〈夫婦同氏制度は、旧民法の施行された明治31年に我が国の法制度として採用され、我が国の社会に定着してきたもの――〉、いわばその歴史的伝統とそれを背景とした社会への定着に価値観を置き、家族の呼称としての一つの氏に意義を与えているが、その意義は戦後民主化された日本国憲法第24条の、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」の規定を背景とした戦後民法750条「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」とした同姓制度とは全く違い、明治31年(1898)旧民法第750条の規定、「家族カ婚姻又ハ養子縁組ヲ為スニハ戸主ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス」とした封建的家父長制に基づいた746条「戸主及ヒ家族ハ其家ノ氏ヲ称ス」の規定、同姓制度であって、同じ同姓制度であっても、個人の人権とは無縁の封建色で成り立たせた後者を歴史的伝統と社会への定着を要件とした同姓制度として絶対視し、別姓制度を排除しようとするのは戦後の男女を問わない時代的な基本的人権の保障や女性の権利向上の一般化を一切歯牙に掛けない論法であって、高市早苗の同姓制度論とそれに対応させた通称使用機会拡大策は時代錯誤に過ぎないことを露わにすることになる。

 最高裁の民法750条の規定に対する合憲判断は基本的には現憲法の第24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立する」とした規定と、現民法の750条「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」とした規定を規定通りに忠実に解釈すると、合憲となると言うことであって、昨今の女性の個の独自性を求める生き方の少なくない多数者の存在を考慮した場合、日本国憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される」対象とされるべき権利を有している関係からして、夫婦別姓の合憲化は時代の趨勢と見なければならないだろう。

 だが、高市早苗は個人の権利よりも封建的な家父長制を骨格とした明治以来の伝統に拘り、氏の統一の死守に執念を燃やす復古主義に陥っていることに気づかない。復古主義を満足させる主たる方法の一つが通称使用の法的認可の広範囲化なのは周知の事実となっている。

 要するに高市早苗は時代の趨勢から取り残された存在だが、保守主義の政治的権力によってのさばりを辛うじて得ている。

 以下、高市早苗の「夫婦別姓不要論…」から通称使用機会の拡大策を見てみる。

 〈2019年11月5日には、「住民基本台帳法施行令」の改正(政令改正)の施行により、「住民票」と「マイナンバーカード」に戸籍氏と旧氏が併記できるようになりました。〉――

 〈その後、「旧氏記載が可能であることが明示されていない法令等」のうち「総務省が単独で措置きるもの」については、全てを旧氏の単記(331件)か併記(811件)で対応できるようにしました。2020年6月までに「新たに旧氏記載可能とする」旨を通知・周知したものは、合計1142件でした。〉――

 〈仮に全府省庁が総務省と同じ取組みを実施して下さったなら、少なくとも国の法令等に基づく氏名記載については、全て旧氏記載が可能になるはずです。〉――

 以上、総務省の所管か、関わりがある関係から、高市早苗自身の通称使用機会拡大の執念からの職権を利用した、と言って悪ければ、活用した、夫婦別姓の阻止を狙いとした旧氏記載の自由選択に向けた画策の様々となっている。

 そのほかに、〈2021年4月から、外務省が「旅券(パスポート)」の旧氏併記要件の大幅緩和を行うとともに、旧氏を渡航先当局に対してわかりやすく示すため、旧氏に「Former surname」(旧姓)との説明書きを追記しました。〉、〈既に、本人証明や各種手続に必要な「住民票」「マイナンバーカード」「パスポート」「運転免許証」「印鑑登録証明書」では、旧氏併記が可能になっています。〉、あるいは、〈2024年5月31日時点で、320の「国家資格免許等」の全てで旧氏使用が可能となっています。「資格取得時から旧氏使用ができるもの」が317件、「資格取得後に改氏した場合は、旧氏使用ができるもの」が3件ですから、旧氏が使用できないものはゼロ件です。〉等々、旧氏使用の縛りの少なさを盛んに主張しているが、名字と名前と一体とさせて本人それぞれに確立することになったそれぞれに独自な自己同一性がそれぞれの本質的な存在性と結びつくことになっていることに目を向けることができないままの、単なる便宜性の提供で終わっていることにすら気づかない高市早苗の旧姓使用の執着となっている。

 高市早苗が思想的に自らも封建的体質を抱えているのは目に見えていて、戦前の封建時代の日本の家族制度を伝統とすることから抜けきれずにその伝統を戦後の民主化され、基本的人権が普遍的な価値とされるに至った社会に持ち込もうとしている、その時代錯誤は救い難い。

 多分、高市早苗の頭の中は明治から敗戦までの一世紀弱の間に伝統とするに至った、封建主義に色づいた様々な制度が彩りも鮮やかなお花畑となって咲き誇っているのかもしれない。

 選択的夫婦別姓反対派が最大の反対理由としている「子の氏の安定性」を高市早苗も勿論、取り上げている。

 〈私が選択的であったとしても「夫婦別氏制度」の導入に慎重な姿勢を続けてきた最大の理由は、「子の氏の安定性」が損なわれる可能性があると思うからです。〉――

 「慎重な姿勢」とは白々しい。

 出生直後の子の氏を争うとか、争った結果、〈「戸籍法」が規定する「出生の届出は十四日以内」には間に合わない可能性〉をあげつらい、〈長期にわたって「無戸籍児」になる〉可能性を指摘したり、〈「夫婦の氏が違うことによる子への影響」に関して、69%の方が悪影響を懸念しておられることも内閣府の世論調査から読み取れます。〉等々、夫婦別姓の最悪面を並べ立てている。

 夫婦別姓反対派が騒ぎ立てる程に子の氏の一方の親との違いは家庭の秩序を乱す要素を孕む問題点としなければならないのだろうか。当方は父親と母親が子に対して父親の姓を継がせるのか、母親の姓を継がせるのかは些かも重要な事柄だとは捉えていない。

 なぜなら、子は父親の姓を継ごうが、母親の姓を継ごうが、与えられた姓と名前を自分自身の姓と名前として当初は意識しないままに自我を形成していき、自己同一性(アイデンティティ)の確立に向かうのだから、子どもにとって基本的にはどちらの名字であっても構わないからである。

 もし物心ついてから、「お父さんとお母さんはなぜ名字が違うの。僕の(あるいは私の)名字はお父さんと一緒だけど、お母さんと違うのはなぜ?」、あるいは、「お母さんと一緒だけど、お父さんと違うのはなぜ?」と聞いてきたら、「お父さんとお母さんは生まれたときから付いていた名字をそのまま使う結婚生活を選んだの。その場合は生まれた子どもはお父さんの名字かお母さんの名字か、どちらかの名字にしなければならないから、お父さんの名字に(あるいはお母さんの名字に)した。あなたにはタケシという名前をつけたから、お父さんの名字と(あるいはお母さんの名字と)タケシという名前があなた自身ということになるの。

 名前をタケシと付けたけど、ヒロシと付けたとしても、お父さんかお母さんのどちらかの名字とヒロシという名前があなた自身をということになるのだから、どのような名字と名前が付けられとしても、付けられた名字と名前があなた自身となることに変わりはない。お母さんと(あるいはお父さんと)名字が違っても、あなたはあなたの名字と名前で自分として生活していくことになると言うことが一番大切なことなの」

 即座に全てを理解できないことは分かっているが、自分から問いかけた"なぜ"であるなら、その"なぜ"は解けなければ解けないままに母親の(あるいは父親の)言葉としてぼんやりとではあっても、頭に記憶の形で残ることになり、世の中のことを学んでいくうちにその"なぜ"を解いていくことになるだろうし、自らに与えられた名字と名前を持った自分という人間の生き方が大切なことは学ばなければならないだろうし、特に学校の先生が教えて、子どもたちに身に付けさせなければならない知識としなければならないだろう。

 学び、知識とするより良い方法は、例えば山田太郎が本人の名字と名前であるなら、「あなたは山田太郎という一人の人間なの」とか、「あなたは山田太郎という名字と名前を持った一人の人間として生活し、生きているの」等々、何々という名字と名前をつけた一人の人間であることを幼い頃から自覚するよう仕向けることだろう。

 このような自覚への仕向けが与えられた自分の名字と名前を一体とさせた一人の人間として、あるいは一個の存在、一個の人格として行動するよう促され、このことが自律心(あるいは自立心)を育むキッカケとなるばかりか、自分は自分であるという自らの自己同一性(アイデンティティ)を確立していく基礎となるはずである。

 要するに誰の名字を与えられたとしても、与えられた名字と名前が自分は自分であることのベースとなり、与えられた名字と名前をベースとした自分は自分であるという思い・意識が自我確立のエネルギーとなって、自己同一性(アイデンティティ)の確立を促す力となる。

 生きていく過程で誰かの名字と自分の名前が自分自身に付いて回るのではなく、与えられた自分の名字と名前がついて回るのだから、元は母親の名字であっても、父親の名字であっても構わないわけで、誰の名字であっても、それを如何に自分の名字とし、自分の名前と一体化させて、
自分は自分であることのベースとしうるかを肝心なこととしなければならない。

 以上の考えからすると、高市早苗が言う、出生直後の子の氏を争うだ、14日以内に出生届ができなければ、長期に亘って無戸籍になる等々、無意味そのものとなる。

 高市早苗は「いろいろな考え方がありますが」と断りながら、〈平成8年の法制審議会の答申では、結婚の際に、あらかじめ子どもが名乗るべき氏を決めておくという考え方が採用されており、子どもが複数いるときは、子どもは全員同じ氏を名乗ることとされています。〉と述べているが、あくまでも答申であって、法制化されたわけではない。

 複数の子どもに対しては父親の名字、母親の名字、それぞれに選択は自由とすれば、別姓夫婦で第一子は男親の姓を、あるいは女親の姓にすると決めておいて、第二子を設けた場合は最初が男親の姓なら、第2子は女親の姓、最初が女親の姓なら、第2子は男親の姓と平等を旨に決めておけば、名字の継続を平等にしたい思いから第2子まで出産する事例が出てくることは否定できず、少子化の僅かな解消に役立つ可能性に向かう。

 高市早苗はまた、平成8年の法制審議会の答申では別姓夫婦の未成年の子どもが与えられたどちらかの親の名字を変えたくなった場合は、「特別の事情の存在と家庭裁判所の許可が必要とされる」として、子の姓の付け方には難しい点があることを、殊更なのか、書き連ねているが、与えられた名字と名前で如何に自分が自分であろうとすることができるかが本質的な問題であって、このことは同姓夫婦の子どもであっても変わらない問題であり、高市早苗の"通称使用論"は最初から最後まで本質的な問題点から大きくズレた、それゆえに些末な主張で成り立たせた、通称使用で代替させることを狙った「夫婦別姓不要論」に過ぎない。

 女性の地位の向上を言うなら、全ての人間が生まれながらに持っている、人間らしく生きるために必要な権利の保障を言うなら、選択夫婦別姓制度は法制化される時代に入っていなければならない。高市早苗はカビ臭い旧時代の空気を吸って息をしている人間に過ぎない。

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