「生活の党と山本太郎となかまた ち」
《7月15日(水)小沢一郎代表のテレビ出演ご案内》
こんにちは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
小沢一郎代表がBSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』に出演します。
是非ご覧ください!
◆番組名:BSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』
◆日 時:平成27年7月15日(水)午後11:00~11:55
◆内 容:「夏だ!小沢一郎登場1時間SP」衆議院議員・生活の党代表の小沢一郎に日本の「景気動
向」、「選挙システム」を問う。
※番組の詳細
7月5日(2015年)の日本テレビ「そこまで言って委員会NP 沖縄は悲劇の島なのか?」で、琉球時代の沖縄についての発言。
惠隆之介、三昔前か四昔前の時代劇俳優の芸名みたいな名のこの男、1954年沖縄県コザ市(現在の沖縄市)生まれ、61歳か。元海上自衛官。最終階級2等海尉。1982年退官。シンクタンク「沖縄と尖閣を守る会」代表、作家、評論家、ジャーナリスト。
なかなかの活躍ぶりだが、シンクタンクの代表であり、作家、評論家、ジャーナリストと言うことなら、幅広い知識と合理的な判断能力を有しているからこその現在の活躍ということなのだろう。
惠隆之介「ちょっとね、琉球王国良かったと言うでしょ。琉球王国支えたショウケン(?)。ショウケンに対して沖縄県民、どうして尊敬しないんでしょうか。
大体、ショウケンが明治32年に亡くなったとき、沖縄県知事は喪に服するように沖縄県民に指示したけれども、沖縄本島のキンタ(?金武町〈キンチョウ〉のことか)辺りではね、王様が死んだって、お祝いの引き(綱引き大会のことか)したの。
それを突きつめていくと、原始共産主義体制で、全く自由がない。冊封体制に入って、中国から伝わってきた地割り制ですね、集団農場体制だったんですわ。沖縄県民が普通の土地の所有を認められたのは1903年、日本政府によってですよ。
学問の自由もない。そういった歴史を多角的に見ないと、『ああ、琉球はきらびやかでいいな』って言ったって、一般民衆は牛馬のような生活をしていたんです」(以上)
「琉球王国支えたショウケン(?)」と言っているから、重臣を指しているのかと思ったら、「王様が死んだ」と言っているから、琉球王国最後の国王、1879年に退位した尚泰王を指すのだろう。
だが、尚泰王が没したのは明治32年ではなく、「Wikipedia」によると、明治34年(1901年)となっている。
琉球の民衆は学問の自由もなく、牛馬のような生活をしていた、普通の土地所有は日本政府によってもたらされたということは、琉球の地獄に対して日本本土の天国を形容していることになる。
と言うことは、「歴史を多角的に見」ると、琉球の一般民衆の歴史と比較した日本の一般民衆の歴史(人間社会が時間の経過と共に移り変わってきた過程とその中での出来事)は素晴らしいものがあったと褒め称えていることになる。
だが、江戸時代はガチガチの封建制度社会であったのであり、明治時代となっても、封建制度を色濃く残していた。特に江戸時代そのもののが士農工商の階級社会であったように農村に於いても名主・庄屋、本百姓、小百姓、水呑み等々の階級社会を形成し、この階級社会は経済的格差社会と対応していた。
明治時代を変わらぬ人口比だそうだが、江戸時代全人口の8割を占めていたという農民は支配階級を成す人口1割の武士を食わせ、各藩を維持していくという理不尽を孕んだ四公六民、あるいは五公五民の過酷な重税が農村の格差社会の主たる原因となっていたはずだ。
この理不尽は決してハッピーとは言えない。この理不尽を隠蔽するためのゴマカシとして武士の次に農民を置く身分制度を設けたが、多くの農民は富農・豪農以外は2番目の身分とされる程の経済的利益は受けることはなかった。
『日本の農地改革』(大和田啓氣著/日本経済新聞社刊)によると、明治9年から始まった地租改正事務で検出された当時の小作地は3割弱と推定している。江戸時代はもっと多くの割合であったかもしれないが、さして変わらないと推定してみる。
そしてすべての土地の所有権は藩主にあり、土地持ちの農民はその土地の利用権のみを認められていたと書いてある。従って年貢は租税と利用している土地の地代の両者が含まれていたという。
但し時代が下るに連れて、〈農業の生産力が発展し、次第に農民が経済力を貯え、且つ木綿、菜種、藍など農産物の商品化が進むにしたがって、農民は領主との関係で次第に独立し、土地に対しても利用権にとどまらず、その土地を全面的に支配する所有権的な意識が芽生えてきた。〉――
だとしても、農民の土地に対する認識は「所有権的な意識」を性格としていて、所有権そのものが農民に与えられたわけではないことになる。
武士にとどまらず、商工者、農民が自身の土地の所有を法律で認められるようになったのは士農工商の身分制度が廃止されてからの明治6年(1873年)から始まった地租改正によってであり、この改革により日本に初めて土地に対する私的所有権が確立した。
惠隆之介が「沖縄県民が普通の土地の所有を認められたのは1903年(明治36年)で、日本政府によってですよ」とさも日本政府の恩恵によるかのように言っていることは、沖縄県に対する地租改正作業が遅れたというだけのことであって、当時の琉球に対応する日本本土の国民が既に土地所有が認められていたわけではないことは琉球と同じ状況にあったのであり、言っていることは合理的判断を全く欠いていて、「歴史を多角的に見」ているとは言えないことになる。
『近世農民生活史』(児玉幸太著・吉川弘文館)には江戸時代の農村に於ける格差等の理不尽についての多くの記述がある。
田畑など農地の所有者である地主から農地を借りて耕作し、小作料を支払って農業を行う農民を「小作人」と言うが、『近世農民生活史』には幕府が小規模な土地持ち農民の零落防止を目的に1604年(寛永20年)に田畑永代売買禁止令を出したことが記されているが、このことは土地持ちでも、それを手放さざるを得ない自作農が無視できない数で存在していたことを示している。
だが、土地の売買を禁止しても、田畑を質に入れることを禁止しなかったために質に入れて質流れにしてカネを工面する百姓が続出し、結果的に間接売買の形を取ることになり、田畑永代売買禁止令は機能しなかったという。
富農・豪農が質屋の役目を引受けて、食べていくことができなかった土地を質として引き取り、自分の土地としていったのだろう。質として流した農民はその土地を手放すのではなく、小作人となってその土地を耕し、小作料を払うことになる。
だが、自作農で食えずに土地を質に入れて流した農民が同じ土地で小作農をして食べていくことができるかというと、多くの藩が自身の田畑を捨て江戸や大阪等の都市に逃げて浮浪人となる走り百姓(=逃げ百姓)を禁ずる「走り百姓御法度」等の禁止令を出し、禁を破った場合の重罪を定めていることは食べていくことのできな農民が多く存在していたことの証明であろう。
四公六民、あるいは五公五民の過酷な年貢のために満足に食べる物も食べずに牛馬のように働き、それでも食えずに都市に逃げていく。花と言われる大都会江戸では土地を捨てて無宿者となった走り百姓、その他が溢れ、寛政期(1789~1801)に治安の悪化を防ぐために人足寄場を拵えて、そこに収容したり、あるいは強制的に故郷に押し返すために「旧里帰農令」、天保の改革で「人返しの法」と続けて制定せざるを得ない状況にまでなっていた。
惠隆之介が形容するように琉球王国に於ける一般庶民の生活は牛馬のような生活を強いられた恰も地獄で、江戸や明治の日本の一般庶民がハッピーということでは決してなかったはずである。
惠隆之介は琉球の一般庶民は「学問の自由もない」と言って、さも対応する江戸時代や明治時代の日本には学問の自由が存在したかのように言っているが、存在していたとする学問の自由がどんなものか、《学費でみる江戸時代の教育事情》(コープ共済)から見てみる。
〈江戸の寺子屋の学費の例
束脩
(そくしゅう・入学金)
扇子、扇子に金銭を添える、品物などさまざま。
謝儀(授業料)
年5回払う。1回分は家格に応じて次の通り。
最上…金1分(約3万円)
上…金2朱(約1万5000円)
中…金1朱(約7500円)
下…銭200~300文(6000円~9000円)
月並銭
月末に24文~48文(約720円~1440円)
畳料
畳を新調する費用として6月に200~300文(6000円~9000円)
炭料
手を温めるための炭の費用として10月に200~300文
その他
書初の礼、席書の礼、盆暮の礼、寺子屋の増改築など、資力に応じて払った。盆暮の礼は砂糖、そうめん、餅などの現物が多い。
この表を見てわかるとおり、寺子屋の場合、家庭の格や資力によって授業料の額に差を付ける場合があった。つまり、払える余裕がある家庭は多く払うし、余裕のない家庭は少なくて構わないということ。また寺子屋の場合、授業料といっても地域によって払い方も異なり、江戸では現金払いが主流だったが、地方では現物払い(酒、赤飯、そば、うどん、餅、するめ、季節の野菜や果物など)が多かった。無償ではないといっても、教育の経済的な負担はあまり重くなかったといえるだろう。
寺子屋の場合、授業料を滞納してしまうことがあっても、寺子屋の師匠は強く請求したり、そのことで破門にしたりということはなかったようだ。それは、彼らが金儲けのためではなく、師として未来ある子どもを教え導くという信念のもとに寺子屋を経営していたからだったと思われる。
藩校は、経営母体が藩であることから、授業料が無料か、あったとしても、寺子屋のように家格によって授業料の額に差を付けている場合が多かった。また、郷校も無料であることが多かった。郷校では、経営が有力な人物の寄付に支えられているケースもあった。〉(以上)
今の時代でも所得の低い家庭ではなかなか払うことのできない寺小屋の金額となっている。このことを補うために、〈払える余裕がある家庭は多く払うし、余裕のない家庭は少なくて構わないということ。〉と書いてあるが、では、寺小屋の最低限の掛かり(最低限の必要経費)にまで回すカネの余裕のない家庭はどうしたのだろう。耕作して生活の糧としなければならない田畑を棄てて都会に逃げなければならない農民が無視できない数で存在した格差社会なのだから、子どもに学問の機会を与えることのできない家庭は多く存在したはずである。
寺小屋に通うのも自由、通わないのも自由。その自由を決めるのは親の稼ぎ――カネである。カネに決定権のある教育であった。
江戸時代、明治時代が格差社会であったことからすると、1900年(明治33年)の小学校令によって日本で義務教育制度が確立するまで、一般庶民全てに学問の自由が存在したわけではないことになる。
義務教育が確立しても、昭和の30年代に入ってもなお親が「職人の子に学問は必要じゃない」とか、「百姓に学問は要らない」と言って、子どもを中学生卒止まり・義務教育止まりとするような強制が一般的に蔓延っていた状況は日本の社会に学問の自由が真に思想として根付いていなかったことの証左でもあるはずだ。
琉球を悪く言うことで日本の社会をよく見せる根拠がどこにあるのだろうか。
そして全ての農民が土地を所有するのは戦後の1947年(昭和22年)のGHQ指揮下の農地解放を待たなければならなかった。
惠隆之介が形容している程に琉球の一般庶民の生活が地獄であったことに対して琉球の歴史に対応させている江戸時代や明治の時代の日本本土の一般庶民の生活が天国というわけではなく、琉球の社会に蔓延していただろう理不尽と同様の理不尽が江戸時代に於いても明治時代に於いても一般民衆に対しては支配的ではなかったとすることが「歴史を多角的に見」るということではないだろうか。